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第43話 リリアナ研究会の誕生
教育係のスパルタを終えて、私は死にかけていた。王妃陛下の教育係アナスタシアによる地獄のスパルタ訓練を終えた私は、まるで魂が体から抜け出してしまったかのように、馬車に揺られていた。
窓の外の景色が流れていくのが見えるのに、私の心はどこかに取り残されたままだ。
(死ぬ本当に死ぬ)
三週間。たった三週間の教育期間と予定されており、それは地獄のように長く感じられる。
フォークの角度が1度違うだけで、アナスタシアの鋭い眼光が私を貫く。
「リリアナ様、角度を直してください」
言い方は実に穏やかだが、背後には絶対的な厳しさがある。紅茶の茶葉が1粒こぼれただけでやり直し。歩幅が一定でないと注意される。椅子に座る時の背筋の角度。スプーンを置く音の大きさ。呼吸の仕方まで指摘された。
本当に、呼吸の仕方だった。
「リリアナ様、その呼吸音は王妃のものではありません。もっと静かに」
私は何度も心の中で叫んだ。呼吸に王妃も何もあるか。人間は呼吸をするために生まれているのではないか。王妃陛下の教育係の前では、そのような反論は許されない。
予定では三週間ある、私は完璧なレディへと鍛え上げられているのか。同時に、精神的には完全に消耗していた。
(まだまだ、日にちはある。地獄になりそう)
疲弊して家に着くなり、私は玄関で崩れ落ちた。精神的にやられた。
「お嬢様? お疲れですか?」
執事のセバスティアンが駆け寄ってくる。彼の心配そうな声さえも、今は遠く聞こえた。
「リリアナ様ぁぁぁ 教育係はどんな地獄を?」
家庭教師のマグヌスが大声で叫ぶ。彼のいつもの元気さえも、今は虚しく響いた。
「地獄だったわよ」
それだけを言って、私は自分の部屋へ向かった。
父に相談すると、家族会議が始まった。夕食の席で、私は震えながら父に告白した。
「父様王妃陛下の教育係がとても厳しくて」
父アルベルトは、新聞から目を上げて眉をひそめた。家父長らしい厳格な表情が、さらに厳しくなる。
「どれほど厳しいのだ?」
その一言が、家族全員の注目を集めた。
「フォークの角度が1度違うと怒られます」
「1度?」
食卓に沈黙が降りる。家族は皆、私を見つめた。
「あらあら」
母エレノアは扇子をゆっくり閉じた。仕草は、いつもの優しさを保ちながらも、内心の驚きを表していた。
「まあそれは厳しすぎますわね。女性らしさとは、そこまで細部にこだわるものではなく、もっとしなやかなものであるべきだと思いますが」
兄ルシアンは、フォークを置いてクスクスと笑っている。
「リリアナ、軍隊にでも入ったの?それとも修行僧?」
兄の余裕ある笑顔に、私は思わず文句を言いたくもなる。笑い事ではないのだ。
妹ソフィアは既に涙目だった。
「お姉さま、かわいそう。そんなに厳しいんですか? 私も今から不安になってきました」
ソフィアは来年、同じ教育係から教育を受ける予定だった。その事実が彼女の顔を蒼白にさせていた。
そしてマグヌスは、机を勢いよく叩いて立ち上がった。
「許せません。リリアナ様にそんな無茶な教育をするなど。私だって、厳しい訓練を積んできましたが、あそこまでは。私の教育の方が、よっぽど正しい!」
(あなたも十分厳しいわよ)
私は心の中で呟いた。マグヌスの訓練だって、決して優しくはない。ただし、マグヌスの厳しさは令嬢として必要な力を身につけるためのものだ。アナスタシアのそれは、完璧なレディとして立ち振る舞うためのものであり、その基準の厳密さが全く異なっていた。
セバスティアンだけが、静かに言った。
「お嬢様。王妃陛下の意図は理解できます。王妃という立場には、相応の厳密な作法が必要でしょう。しかし」
彼は一呼吸置いた。
「教育係の負担が大きすぎます。調整が必要でしょう。もしよろしければ、私が王妃陛下に直々に掛け合う準備がございます」
(セバス頼もしすぎる)
セバスティアンの冷静な提案に、私は心が温かくなった。こうして、夕食はリリアナの教育方針についての家族会議へと変貌したのだ。議論は食後まで続き、父と母は顔を合わせて、王妃陛下への手紙を書くことを決めた。
(私はただ休みたいだけ!)
その願いは、翌日、完全に打ち砕かれることになる。
◆
翌朝、学園に到着するなり、なぜか生徒たちがざわざわしていた。廊下で、教室で、図書室で――どこもかしこも騒がしい。
(何かあったかな?)
「クラウディア様が何かしたらしい」
「新しい会を作ったらしい」
「その名も」
(嫌な予感しかしない!)
その時、クラウディア・ノワール令嬢が、いつもの傲慢な笑顔を浮かべながら現れた。彼女は私の前に立ちふさがると、言い放った。
「リリアナ・フォン・エルヴェルム あなたの魅力を分析するための会を作ったわ」
(は? 意味がわかりませんが)
私は言葉が出ない。クラウディアは、学園内でも有数のライバルだ。いや、ライバルと言うのは私の一方的な感情かもしれない。彼女は私を完全に敵対して見下していて、常に張り合ってきた。
クラウディアが、私のために研究会を作ったというのか。
「その名もリリアナ研究会」
クラウディアが胸を張って宣言する。
(なんで? なんで敵対してたあなたが研究会を?)
周囲の生徒たちが歓声を上げた。
「クラウディア様、すごい」
「リリアナ様の研究興味ある」
「学園の新名物だ」
(名物にするな!)
クラウディアは、私の混乱した表情を見て、さらに声を大きくした。
「あなたの行動は謎が多いのよ。王妃陛下に気に入られ、王太子殿下に信頼され、騎士団長に守られ、宮廷魔導士に観察され、秘密を暴くのよ」
「暴かないでいいよ。全部偶然よ」
クラウディアが説明している時、一人の青年がコーヒーカップを片手に現れた。
「ふむ、リリアナ研究会か」
宮廷魔導士セレスは、コーヒーを啜りながら現れた。
(なんでコーヒー持ってるのよ学園で)
セレスは、スマートながらも底知れない不気味さを持つ青年だ。彼はいつも、私のことを興味深い対象として観察していると言う。それが何を意味するのか、私には全く不明だ。
「クラウディア嬢。君がリリアナ嬢を分析するのかい?」
セレスの声は静かだが、明らかな競争意識が含まれていた。
「ええ。あなたよりも正確にね」
クラウディアは負けずに言い返す。
「ほう僕の分析より上だと?」
セレスの唇が薄く笑う。笑顔は、明らかに挑戦を受け入れたものだった。二人の間に、見えない火花が散った。セレスの登場で火花が散る予感する。
(なんで争ってるのか。私の研究で)
周囲の生徒たちは、二人の緊迫した雰囲気に息を呑んでいた。
「あのセレス様とクラウディア様が」
「まさかリリアナ様のことで?」
そして、クラウディアがとんでもないことを口にした。
「セレス。あなたもしかして、リリアナ嬢のことが好きなの?」
「――っ」
セレスの手が止まった。彼のコーヒーカップが、かすかに音を立てる。周囲の生徒たちが息を呑む。
(やめてぇぇぇ。誤解が増える!!)
セレスは珍しく動揺していた。彼の完璧な仮面に、初めてひびが入ったのだ。
「ぼ、僕はその興味深い対象として観察しているだけで」
(観察って言わないで。余計に誤解される!)
「じゃあ好きなのね?」
クラウディアの追い打ちに、セレスの顔が徐々に赤くなっていく。
「ち、違い、いや、その」
セレスは初めて、言葉に詰まった。完璧な宮廷魔導士が、言葉に詰まったのだ。
(セレスが返事に困ってるの、初めて見た)
その光景は、学園史上最大の事件として、すぐに全校に広がるであろう。クラウディアは勝ち誇ったように笑う。
「図星ね」
「黙ってくれ」
セレスは耳まで赤くなって、俯いた。
(なんでこんなことになってるのよ)
(もう嫌ぁぁぁ。教育係も、研究会も、恋愛疑惑も、全部やめてぇぇぇ!)
この場から逃げ出すことが、唯一の選択肢だった。
「リリアナ様、待って!」
(追ってこないでぇぇぇ!!)
私は、学園の廊下を全速力で駆けていった。私にとって最悪の一日の始まりになった。




