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第40話 貴族派の引き抜き騒動
昼休み。学園の中庭は、初夏の陽光に照らされていた。新緑の木々が心地よい日差しを遮り、ベンチに座った私の顔に斑紋の影を落としていく。そこは、この広大な学園の中でも最も静けさに恵まれた場所だ。
私は、ゆっくりとパンを噛み締めていた。バターの香りが鼻をかすめ、小麦の温かさが口腔全体に広がる。こうした単純で、何の変哲もない食事の時間が、私は何よりも好きだった。何の期待も、責任もプレッシャーも存在しない。ただ、食べるという行為だけが存在する瞬間が。
(今日は平和だ。誰にも気づかれず、このままひっそりと一日が終わってほしい)
そう願った瞬間だった。
「リリアナ様、少しお時間をよろしいでしょうか?」
一人目の声。青紫色の家紋をあしらった上級生のローブが視界に入る。
「リリアナ様、ぜひお話を!」
二人目。三人目。
(周囲がやたらと、騒がしくなってきたが)
「我々貴族派は、心からあなたを歓迎いたします!」
気づけば、私は全方向から上級貴族の生徒たちに取り囲まれていた。彼らの顔は笑みに満ちているが、瞳の奥には何らかの企図が隠されている。それは、私が長く学園にいれば誰もが感じ取ることができる、権力の匂いだ。
(ああああ、せっかくの美味しいパンは、もはや口に入らないな)
「リリアナ様!」
貴族派の代表らしき男が、優雅に一歩前に出た。彼の名前は、確かミカエル・ヴァレンシュタイン公爵令息だったはずだ。
「王太子派に染まる前に、ぜひ我々の派閥へ!」
(王太子派?)
聞き慣れない言葉が引っかかった。
「あなたほどの器量を、王太子殿下だけに独占させるのは、実に惜しい!」
別の生徒が叫ぶ。
「あなたのような聡慧で、清廉で、何よりも政治的に中立な立場の者が必要なのです。我々の新しい貴族社会を築く上で!」
新しい貴族社会という言葉の意味するところが、薄ぼんやりながら浮かび上がってくる。学園内の派閥争い。王太子を筆頭とする改革派と、既得権益を守ろうとする保守派――貴族派の対立。そしてその中で、私という存在が、何らかの政治的資産として見なされているということ。
(いやいやいやいやいやいや!! 派閥なんて怖すぎる。私はただ、ただ静かに生きたいだけなのに!!)
体が硬直した。手に握られたパンが、ポロポロと地面に落ちていく。
「あ、あのわたくしは派閥などには関心がなく」
声が震えている。自分でも気づくほどに。すると、周囲の生徒たちが一斉に息を呑んだ。
「謙虚な!」
「やはり聖女!」
「そこですよ! その中立の精神が!」
(違う!! ただ怖いだけ!! 謙虚でも聖女でも中立でもない単なる臆病者だ!!)
私の内面の叫びなど、彼らの耳には届かない。彼らは、自分たちの都合よく私を解釈している。それが、権力者というものの常套手段なのだろう。
「リリアナ」
低く、静けさを断ち割る声。その瞬間、中庭の空気が一変した。先ほどまでの湿度が消え、冷たく引き締まった酸素だけが残る。
振り向くと、王太子アレクシスが立っていた。私たちを取り巻く円の外側から、静かにこちらを見ていた。表情に、笑みはない。だが、怒りもない。ただ静かに、氷のような冷淡さがそこにはある。瞳の奥底には、何か感情的な火が燃えているように見えた。
「何をしている?」
貴族派の生徒たちは一気に青ざめた。
「い、いえ! ただリリアナ様にご挨拶を!」
ミカエルが必死に言い訳をする。
「何ら問題のない」
「派閥勧誘だと聞こえたが?」
アレクシスの声は、一層低くなった。それは、嵐の前の静けさに似ていた。
「リリアナは、政治的圧力をかけられるべき立場にはない」
アレクシスは、取り囲む貴族派の生徒たちに視線を移した。視線の冷たさに、何人かの生徒は思わず後ずさる。
「彼女を利用しようとする者は、私が許さない。それが誰であろうとも」
(いや、かけられてるし、勧誘されてるし。だけど、この状況は余計にまずい!!誤解が!誤解が加速する!!)
我が身の危機を感じ、私は立ち上がった。
「え、えっとわたくし、次の授業がありますので!」
嘘である。放課後までまだ一時間がある。もうこの場に居続けることはできない。アレクシスの視線が、今やミカエルたちから私へと移ろうとしているのが感じられた。
スカートの裾をつまんで、私は駆けだした。
「リリアナ、待て」
アレクシスが呼びかける。
「リリアナ様、危険です!」
貴族派の何人かが追おうとする。もう聞こえない。私の脚は、自分の意志とは独立して、ただひたすら前へ進む。中庭の外へ。回廊へ。階段へ。
「リリアナ様ぁぁぁ!!」
悲鳴のような呼び声が、背後で消えていく。何のための学園生活なのか、もはや分からない。私は、ただ逃げているだけだ。問題や責任から派閥から。そして、アレクシスの複雑な視線から。
◆
いったん逃げるのに成功する。貴族派の生徒の存在には困った。このまま終わりそうにないが。学園の噂は一つの方向に収束していた。
「リリアナ様は、どの派閥にも属さないのだ」
「つまり、彼女は中立の象徴!」
「派閥争いを超越した存在!」
「聖女としての中立性が、学園に調和をもたらすはずだ!」
机に突っ伏しながら、私は内心で絶叫していた。
(違う!!違う違う違う!!ただ逃げただけ!!何の哲学もない!何の信念もない!!単なる臆病者の行動が、なぜこんなに都合よく解釈されるの!!)
私は、誰かの期待を背負う存在ではない。ただの平凡な少女だ。平和に、静かに、誰にも注目されることなく、生きていきたかっただけなのに。
しかし、世界は私の願いに耳を傾けてはくれない。
放課後、いつもの図書館の片隅で本を読んでいた私の前に、アレクシスが現れた。
「リリアナ」
彼は、私の対面の椅子に静かに腰を下ろした。
「先ほどの件すまなかった」
(え? 謝罪? それも、王太子から?)
「い、いえ別に」
「貴族派が君を狙っている。今後は私が対処する」
対処?それは何を意味するのか。護衛?それとも、さらなる政治的な圧力のことか。
(対処って何?何をされるの?余計に派閥争いに巻き込まれるんじゃ)
アレクシスは続ける。声は、静かで柔らかくさえあった。
「君は中立でいい。その立場を守るのは、私の役目だ」
(いや、私はただ逃げただけで中立じゃなくて)
私の言葉は、喉から出ない。アレクシスの瞳が、何か本気の色を帯びているのが感じられたからだ。
アレクシスは、ゆっくりと身を乗り出した。
「君を守りたい」
静けさに満ちた図書館に落ちる。
(やめてぇぇぇ!!誤解が!誤解が加速する!!)
(王太子がリリアナを庇護するとか、そういう変な噂になったら、貴族派との対立がさらに深まるんじゃ!!)
私は目の前が真っ暗になった。
◆
アレクシスと別れて学園の至るところで、この物語は完成していた。
「リリアナ様は派閥に染まらない」
「真の中立の象徴だ」
「学園の調停者として、派閥争いを超越している」
「王太子は、聖女としての中立性を護ろうとしている」
「つまり、彼女こそが、新しい学園秩序の鍵なのだ」
(違う!!違う違う違う違う違う!!!)
私は、図書館の隅の席で、泣きそうになりながら天井を見上げた。
自分がいつどこで、こんな存在になったのか。どこで間違えたのか。全てが曖昧で、不可解で、そして取り返しのつかないものに思えた。
外の廊下では、誰かが私の名前を呼んでいる。リリアナ様を見かけませんかと。
(どうしてこうなるのよ。破滅シナリオから、どうやったらこうなるのか説明して欲しい)
私の呟きは、もはや祈りに近かった。




