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第30話 王妃との謁見・後日談
王妃陛下との謁見を終え、廊下に出た瞬間、私は足がふらふらになるのを感じた。
何とか立っていたものの、その場にへたり込みそうになった。壁に手をつかないと、本当に崩れ落ちてしまいそうだったのだ。
(疲れた本当に疲れた。緊張で寿命が縮んだ気がする。十年は老けた気分だ)
心臓はまだドクンドクンと大きく鼓動していて、呼吸さえもまともにできていない。王妃という圧倒的な存在感を前に、私は息をすることすら忘れていたのだろう。
家族はそれぞれ声をかけてくれた。
「リリアナ、お疲れ様」
「頑張ったわね」
と父と母が声をかける。
「よく緊張しなかったな」
「お姉さま、すごい!」
と妹も。
彼らの声も、私の耳には遠く聞こえた。私の心はまだ震えていて、玉座の間での出来事が何度も何度も脳裏に浮かんでいたのだ。あのときの王妃の視線。あのときの緊張感。
そんなときに私の前に現れた人が。
「リリアナ」
聞き慣れた声が、廊下の奥から響いた。
深みのある、落ち着いた声。
(この声は間違いない)
それは王太子アレクシスの声だった。
(えっ)
振り向くと、白を基調とした高級な服装の王太子アレクシスが、廊下をゆっくりと歩いてきていた。王妃の子であり、この国の次期王。
存在感は、廊下の空気を一瞬で変えるほどだった。まるで陽が昇るように、周囲が明るくなったような気さえしたのだ。衛兵たちは敬礼し、廊下にいた侍女たちは一歩身を引いた。
アレクシスは私の前で立ち止まり、まずは家族へと視線を向けた。視線には、王族としての威厳が満ちていた。
「エルヴェルム公爵、公爵夫人。本日は母との謁見にお越しいただき、感謝いたします」
アレクシスの声は落ち着いていて、王太子としての深い威厳があった。どんな場面でも揺るがない、磨かれた立場の重さが感じられるのだ。
父アルベルトは静かに頷いた。表情は平静そのものだが、背筋は伸びていて、このような格式高い場面に慣れているのだと分かる。
「殿下。お心遣い、痛み入ります。本日このような栄誉にあずかり、感謝の念に堪えません」
父の言葉は完璧で、王族への敬意がこめられていた。
母エレノアは優雅に微笑む。笑顔は、女性としての魅力を引き出す完璧な表情だった。
「殿下にお会いできて光栄ですわ。王妃陛下も、本当にお優しい方でいらっしゃいますね」
(お母様、声がワントーン高いこれは危険信号?)
兄ルシアンは軽く頭を下げる。
「殿下。お忙しい中、わざわざ足をお運びくださり、ありがとうございます。妹がお世話になっております」
(兄様、お世話って何ですか? 何か隠れた意味があるんですか?)
妹ソフィアは緊張で完全に固まっていた。目は泳ぎ、手は握りしめられている。王太子という圧倒的な存在に、ただ圧倒されているだけだったのだ。
「お、おうたいしさま」
声も裏返っている。
アレクシスは優しく微笑んだ。笑顔には、王族としての威厳を損なわない温かさがあった。
「ソフィア嬢、緊張しなくていい。君の姉は、とても素晴らしい人だ。君の姉が我が国の一員として尽力してくれることを、私は楽しみにしている」
(やめてぇぇぇ! 家族の前でそんなこと言わないで。どんどん誤解が深まるじゃないか!)
アレクシスは、ソフィアを安心させたらしい。彼女は少し肩の力を抜いた。
そして、アレクシスは私に向き直った。瞳は深く、何かを測るようなまなざしだった。
「リリアナ。母との謁見、無事に終わったようだね」
「は、はい」
私の声は震えていた。緊張がまた蘇ったのだ。
(無事? いや、違う。王妃陛下は私を素晴らしいと評価してくださったけれど、それは誤解から生まれた評価なんだ。本当のところは、私はただ震えていただけで)
アレクシスは少しだけ表情を緩めた。柔らかさは、彼が王太子ではなく、単なる青年であることを思い出させた。
「母は君を高く評価していた。誠実で、落ち着きがあり、王宮にふさわしい器量を持つと。母がそこまで言うのは珍しいんだ。母は厳しい人だからね」
(そんなこと言ってた?
待って、待ってください。私、ただ震えてただけですよね。器量? どこに?)
アレクシスは話を続けた。
「君なら、きっと大丈夫だ。母からの信頼を得たことは、君にとって大きな財産になるだろう。私からも、君に信頼を寄せている。これからも、その信頼に応えてくれることを願っている」
妙に胸に響いた。王太子からの信頼の言葉。それは、この国で生きる上で、どれほど大きな意味を持つのか。
(やめてよ、そんな優しい声で言わないで。そんな真摯な眼差しで見ないで。誤解が増える。すべてが誤解から始まったのに。なぜこんなことになっているのだ)
父アルベルトが一歩前に出た。計算された距離で、王族との間合いを完璧に保っていた。
「殿下。娘をお褒めいただき、ありがたく存じます。これもひとえに王妃陛下のお導きがあればこそと、感謝の限りです」
アレクシスは真っ直ぐに父を見た。相手を完全に評価するものだった。
「公爵、私は事実を述べただけです。リリアナは信頼に値する人物です。素質は、既に明らかになっている。母も、そして私もリリアナの今後に期待している」
(やめてぇぇぇ! また言った。家族の前で言わないで。父が何か政治的な期待をしている顔をしている!)
父の目が細くなった。
(大事な取引が成立したときの顔?)
「殿下の信頼に応えられるよう、我らも努めましょう。リリアナのことは、公爵家の誉れとなるべく、全力で支えます」
(お父様、なんか政治の空気になってる。私を公爵家の誉れとか言わないで。そういうプレッシャーが怖いんです。私はただ、静かに生きたかったのに)
母エレノアも一歩前に出た。優雅に前に。
「殿下。リリアナのことを、そのように評価してくださり、母として嬉しく思いますわ。我が娘の将来も、このように見守ってくださるというのであれば、なお一層、我らも責任を感じます」
「彼女は素晴らしい令嬢です。知性、立ち振る舞い、そして何より、誠実さ。これらは国の将来にとって、非常に重要な要素です。私はそう確信しています」
(確信しないで。お願いだから。確信されるのが怖い。期待に応えられない自分が怖い。実は私、すごく平凡で、何もできない人間なんですよ。なのに、なぜこんなに持ち上げられるのだ)
母はさらに微笑んだ。その笑顔は、しめたという顔だった。何か大きな獲物を手に入れたときの、狩人の笑顔だった。
アレクシスは私の方へ向き直り、ゆっくりと近づいてきた。
私の心臓は、また激しく鼓動を始めた。
彼は、私の手を取るつもりなのかと思ったが、ギリギリのところで止めた。
(今、手を取ろうとした? やめて、やめてください。家族の前ですよ。家族の視線を感じます。お母様が何か企んでいるような顔をしています。お父様も何かを計算しているような顔です)
アレクシスの青い瞳が、私の瞳をまっすぐに見つめた。
「リリアナ。これからも、君を信じている。努力を、姿勢を全てを。何かあれば、いつでも相談しなさい。王太子として、そして一人の人間として、君の力になりたいと思っている」
(やめてぇぇぇぇぇ! 破滅フラグが、また増えたぁぁぁ。どんどん誤解が深まっていく。この誤解の泥沼から、どうやって抜け出すのだ。全部、真実を話すべきなのか。いや、それはもっと大変なことになる)
私の心の叫びとは裏腹に、家族は満足げに頷いていた。
「では、私はこれで失礼する。また学園で会おう、リリアナ。その時は、また話をしたいと思う」
アレクシスは優雅に一礼し、廊下の奥へと去っていった。衛兵たちが彼に付き従う。
背中を見送りながら、私はそっと頭を抱えた。
(どうしてこうなるのよ。私、ただ静かに生きたいだけなのに。なぜこんなことに巻き込まれているのだ。最初は単なる処刑されるはずなのに。今は王妃からも王太子からも期待されている。公爵家からも期待されている。もう、後戻りはできないのか)
しかし、家族の反応は。
「リリアナ、殿下に手を取られるかと思ったわ。本当に信頼されているのね」
「素晴らしいことですわ。我が娘が王太子に信頼されるとは。公爵家の栄誉ですな」
「いやぁ、面白くなってきた。ねえ、何か秘密があるんじゃないのか?」
「お姉さま、すごい! 殿下が言ってた。お姉さまは素晴らしいって。本当だ!」
(違うのよ。全部誤解なのよ。これ以上、期待しないでください。これ以上、期待されたら、私は本当に壊れてしまう)
私は心の中で、また泣いた。王宮という華麗な舞台の上で、期待という名の鎖に絡みつかれながら。
すべてが誤解から始まった、いったいどこへ向かうのだろうか。
答えを知るまでに、どれだけの時間が必要なのだろうか。
私は廊下の先を見つめるしかなかった。




