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第25話 番外編 アレクシス視点
王宮の執務室。壁には王家の紋章が掲げられ、床から天井までの大きな窓からは、王都の景色が一望できる。豪華な机の上には、書類の山が積み重ねられていた。
アレクシスは机に向かっていたが、書類の文字はまったく頭に入っていなかった。
まただ、最近、こういうことが増えた。集中力を欠く。思考が散漫になる。王太子としてあるまじき状態だ。
原因は分かっている。
いや、分かっているはずなのに、
自分では認めたくない。
リリアナ。
リリアナの名を思い浮かべるだけで、胸の奥がざわつく。あの金髪、あの瞳、声。全てが妙に心に残る。
学園で宣言した日にした言葉は何だったのか。
「リリアナは信頼できる人物だ」
あれは衝動ではない。むしろ、ずっと胸の内にあった確信だった。リリアナの変化を見ていたから。使用人への優しさ。ミレイユへの献身。ガルドを助けた勇敢さ。
全てがリリアナの誠実さを物語っていた。
「だがなぜ、みんなの前で言った?」
アレクシス自身にも分からなかった。王太子として、政治的な配慮があってもいい場面だ。むしろ、曖昧な態度を示すべき状況だったかもしれない。彼は躊躇なく宣言していた。
それはなぜか。
答えを求めて、アレクシスは再び書類へ目を落とした。やはり文字は頭に入らない。
リリアナの変化が気になって仕方ないのだった。
リリアナは変わった。
それは誰の目にも明らかだった。貴族の娘としての気高さは保ちながらも、どこか優しさが増していた。
使用人への態度は丁寧になり、学園での振る舞いは慎ましくなり、ミレイユへの接し方は母のようにあたたかくなった。そしてガルドを助けた行動は命を懸けるほどの勇気を示していた。
「以前のリリアナとはまるで別人だ」
アレクシスは演技とは思わなかった。
貴族の娘が、計算高く振る舞うことはいくらでもできる。リリアナの瞳は澄んでいて、言葉は真っ直ぐで、どこか必死である。
誠実だ、そう感じてしまった。
それが、胸のざわつきの正体だと、アレクシスはまだ気づいていない。彼女の変化が自分の心を揺さぶっているという事実を。
王太子として、他の貴族の娘のような身近な存在に対して、特別な感情を抱くことなど許されない。政略結婚の対象となるような家柄の女性に対してさえ、感情的になることは避けるべきだ。
それが王家の教えだった。教えは、アレクシスの胸に火を灯すリリアナの存在の前では、薄れ始めていた。
宣言の瞬間に芽生えたものとは。
学園の講堂で、リリアナが周囲に囲まれていたとき、アレクシスは自分でも驚くほど自然に動いていた。
周囲の視線は感じていた。王太子が動くことの意味を、皆が理解していた。その瞬間のアレクシスには、そんなことは二次的な問題に過ぎなかった。
守らなければならないという感情は、王太子としての義務ではない。政治的な配慮でもない。
もっと個人的で、もっと強い衝動だった。
リリアナが傷つくことを見ていられない。彼女が不当に扱われるのを黙認できない。彼女の誠実さが、汚れるのを許せない。
だからこそ、あの宣言は口をついて出た。
「リリアナは信頼できる人物だ」
言った瞬間、講堂がざわついたのは分かっていた。貴族たちの顔が色を変えた。セレスは微笑みを浮かべた。ガルドは安堵の表情を浮かべた。
後悔はしなかった。
「なぜだ?」
アレクシスは自問する。
なぜ私は、あそこまで彼女を庇ったのか。なぜ、あれほど強く断言したのかの答えは出ない。思い出すだけで胸が高鳴る。彼女が自分の言葉に驚いた顔。ほっとしたような、だが戸惑ったような表情。
その顔が、妙に心に残っていた。
ガルドへの対抗心もあっただろう。
最近、ガルドがリリアナを守る姿を見ると、胸の奥がざわつく。
なぜ、あいつはあんなに懐いているのか。
ガルドがリリアナを命の恩人として慕うのは理解できる。彼女が己の命を賭けて、ガルドを守ったのだから。その感謝の気持ちは自然だ。
近すぎる、そう思ってしまう自分がいる。
ガルドがリリアナの隣に立つたび、アレクシスは無意識に視線を向ける。リリアナがガルドに優しく微笑むたび、胸がざわつく。
リリアナの笑顔は、自分にも向けられたことがあるか。
そんなことを考えている自分に、アレクシスは呆れる。気づかないふりはできない。
ガルドがリリアナの隣に立つたび、アレクシスは無意識に歩幅を早めていた。リリアナの側に寄ろうとしていた。
いや、正確にはガルドとの間に割って入ろうとしていたのかもしれない。
私は、何をしているかと自分でも分からない。
ただ、リリアナの隣に立つのは自分であり、聞こえるのは自分の声であり、向けられるのは自分への笑顔であってほしい。
そんな感情が、胸を締めつける。
王太子として、あるまじき感情だ。感情は日に日に強くなっていた。
◆
セレスの言葉が刺さる。
執務室にセレスが訪れた日のこと。王妃の侍従である彼は、優雅な動作でアレクシスの前に立った。
「殿下。リリアナ嬢のこと、随分と気にかけておられるようですね」
アレクシスは書類から目を上げた瞬間、顔に熱が上った。
「別に、そういうわけではない」
「そうですか、僕には特別扱いに見えましたが」
「特別扱いなどしていない」
その言葉は、嘘だった。アレクシス自身が知っていた。
「では、あの宣言は?」
と、セレスは続けた。
「あれは、必要なことだ」
「必要、ね」
セレスは意味深に微笑んだ。微笑みは、アレクシスの心をさらに動揺させた。
「殿下は、自分の感情に鈍いところがありますから」
「どういう意味だ?」
「いえ。いずれ分かりますよ」
セレスはそう言うと、優雅に一礼して立ち去った。
アレクシスの胸に妙に引っかかっていた。自分の感情に鈍いという言葉の意味を、アレクシスは半ば理解していたのかもしれない。
それを認めることは、自分が王太子としてあるまじき感情に支配されていることを認めることだった。
◆
夜、ひとりになったアレクシスは窓の外を見つめながら考えていた。王都の夜景は美しかった。美しささえも、リリアナと比べれば色褪せて見える。
「リリアナ、君は、なぜ私の心を乱す?」
リリアナの笑顔を思い出す。困ったように眉を下げる顔。ミレイユと話すときの柔らかい表情。ガルドに感謝を述べるときの、気品高い微笑み。
どれもが美しい。そして、どれもが心に残る。
可愛い、と思ったのか。考えが浮かんだ瞬間、アレクシスは自分で驚いた。王太子が、公式な場での付き合いを超えて、一人の女性を可愛いと思う。それは越えてはならない線だ。
いや違う。違うはずだと否定する。胸の奥は熱い。熱さは、火の勢いを増しているようだった。
リリアナの声を思い出す。リリアナが自分の名を呼ぶときの音色。そのわずかな違いが、アレクシスの心を揺り動かす。
私はリリアナをどう思っているかの答えはまだ出ない。確かに何かが芽生え始めていた。
芽生えが、何であるかを、アレクシスはまだ認める準備ができていなかった。
アレクシスはまだ気づかない。
自分がリリアナを守りたいと思う理由も、リリアナの笑顔に胸が熱くなる理由も、ガルドに対抗心を抱く理由も。王太子としての分別が感情を認めることを許さなかった。
これは恋の始まりだ。
王太子アレクシスの胸の奥で、静かに、確かに、そして止めることのできない力強さで、恋心が芽生え始めていた。
それは政治的な配慮ではなく、理性的な判断ではなく、もっともっと個人的で、もっともっと純粋な感情だった。
一人の女性への向き合い方が変わっていく変化は、やがてアレクシスの人生さえも変えるだろう。
その時はまだ来ていない。
今は、ただ、恋心という名の炎が、静かに燃え始めているだけなのだった。




