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第20話 公爵家の家族が動き出す
エルヴェルム公爵家の執務室は、王宮の権力構造を象徴する空間だった。
重厚な木製の机。机の上に積み重ねられた領地管理の書類。そして、大きな窓から見える領地の遠景。
当主アルベルト・フォン・エルヴェルムは、書類に目を通しながらも、娘である私の変化を静かに観察していた。
父親は情報を集めるのが得意だ。領地管理のために、常に部下から報告を受けている。だから、王宮での娘の動きも、当然のように耳に入ってくる。
最近の娘リリアナについての報告は。
「お嬢様が使用人に優しく接しているとのことです」
「社交界でのお嬢様の振る舞いが落ち着いたようです」
「王太子殿下からのお嬢様への評価が上がっているようです」
「近衛騎士団長がお嬢様を護衛している模様です」
それら全てが、私が変わったという事実を指し示していた。
変わったなとつぶやき、アルベルトは表情を変えない。公爵として、感情は顔に出さない。それが父の美学だ。
内心では確実に興味が湧いていた。
あの頑固で気位の高い娘がここまで変わるとはと疑う。以前の私は、自分の地位を笠に着て、周囲を見下していた。それはアルベルト自身の教えの結果でもあった。貴族は常に上品で、常に完璧で、常に他者を見下すべしという、硬直した思想。
それが今は違う。
私は完璧さを保ちながらも、柔らかさを備えている。それは本当の意味での完璧なのかもしれない。
「面白い」
アルベルトは表情を変えず、ぽつりと呟いた。
公爵家の当主がめったに見せない好意的な興味だった。
◆
母エレノアはサロンで紅茶を飲んでいた。
公爵夫人専用のサロン。白を基調とした優雅な空間。周囲には貴族の妻たちが集まり、社交界の情報交換をしている。
「まあリリアナの評判が上がっているのね」
侍女が報告すると、エレノアは優雅に紅茶を一口飲んだ。
「当然ですわ。あの子は本来、完璧に振る舞える素質を持っているのですもの」
エレノアの声は甘く、やさしく聞こえた。奥には完璧さへの執着があった。
彼女は完璧な公爵夫人として知られている。每日、社交界で最高の振る舞いを見せ、周囲から尊敬される存在だ。そして、彼女はその完璧さを娘にも要求していた。
しかし最近のリリアナどこか自然体で、柔らかいと思えた。
その変化は、エレノアにとっても新しい発見だった。
完璧さを保ちながらも、人間らしい温かさが感じられるようになった。社交界で最も求められる本物の上品さなのかもしれない。
社交界での評判が上がるのは良いこと。このまま、リリアナには理想の令嬢として輝いてほしい。
母は母で、娘の変化を歓迎していた。ただし、完璧さの再確立という文脈での歓迎だが。
◆
エルヴェルム家の庭園で、兄ルシアンは私とすれ違った。
彼は無一文の浪費家で、家族の中で最も自由奔放な立場にいる人物だ。そのため、家族の変化に最も敏感でもある。
「やあ、リリアナ。最近、ずいぶんと楽しそうだね」
ルシアンはにやりと笑った。
「えっそうかしら?」
私は困惑した。自分がそんなに表に出ているのか。
「うん。前よりずっと表情が柔らかい。まるで別人みたいで見ていて飽きないよ」
(飽きないって何?)
兄の言い方は一貫して娯楽的だ。
「王太子殿下に気に入られ、騎士団長に守られ、ミレイユに懐かれ、今いちばん面白い立場にいるよね?」
「面白いって言わないで」
私は呆れた表情を浮かべた。
「だってさ、複数の男性から好感を持たれながら、本人は楽しそう。そこが最高に面白いんだ」
「ルシアン、何を言っているのか分かりませんわ」
「僕は好きだよ。今の君の方が、ずっと魅力的だ」
兄は兄で、妹の私の変化を娯楽として楽しんでいた。
◆
そして家族の中で最も分かりやすい反応を見せたのは、末妹ソフィアだった。
「お姉さまっ!!」
私が帰宅すると、六歳のソフィアが勢いよく抱きついてきた。
彼女はまだ幼く、社交界の計算や権力関係を理解していない。あるのは、ただ単純な感情だけだ。
「わっソフィア?」
「最近のお姉さま、すっごく優しいんだもん! 大好き!!」
ソフィアは天使のような笑顔で言った。笑顔には、一切の計算がない。
「前のお姉さまはちょっと怖かったけど今のお姉さまは、ぎゅーってしたくなるの!」
「そ、そう?」
私の心が、妹の言葉で柔らかく溶けていく。
「うんっ!! 今日も一緒にお茶したい。お姉さまの隣がいいの!」
ソフィアは私の手を握り、離れようとしない。小さな手は、温かく、そして無意識に信頼を表現していた。
私は苦笑しながらも、手を優しく握り返した。
(かわいい)
妹の無垢な愛情は、転生してから初めて感じた本物の家族の温かさだった。
◆
夜になって、エルヴェルム家の食卓には珍しく全員が揃っていた。
父アルベルト。母エレノア。兄ルシアン。妹ソフィア。そして私。
五人が顔を合わせることは滅多にない。公爵家は忙しいのだ。
しかし、今夜は違った。何かの空気が全員を食卓へ集めたのだ。全員が同じことを思っていた。
私が変わったと。誰もそれを唐突に口にしない。公爵家の作法では、そういう直接的な言い方は避けるべきとなっている。
代わりに、アルベルトが静かに言った。
「リリアナ。最近の振る舞い、悪くない」
「えっ?」
父の言葉に、私は目を丸くする。アルベルトから褒められることは、滅多にない。
母エレノアも微笑んだ。
「社交界での評判も上がっていますわ。この調子で頑張りなさい」
母からの励ましは、確かな肯定だった。
ルシアンは楽しそうに言う。
「僕は今の君、好きだよ。見ていて飽きないしね」
言い方は相変わらず不真面目だが、確かに好意が込められている。
ソフィアは満面の笑みで叫ぶ。
「お姉さま大好き!!」
無垢な愛情は、全てを超越している。
リリアナは、家族の温かさに胸がじんわりと熱くなった。
(こんな家族だったんだ)
前のリリアナは、家族の愛情に気づけなかったのだろう。プライドが高く、完璧さを求めるあまり、周囲の愛情を受け取ることができていなかった。
その愛情が、素直に嬉しかった。
食事の後、アルベルトは静かに決意した。
「この変化、見届けてみるか」
彼は娘の未来を見守ることにしたらしい。
エレノアは社交界での立ち回りを考え始める。
「リリアナを完璧な令嬢として育てる好機ですわ」
母は娘の成長を、社交界での成功として支援することに決めた。
ルシアンは面白がりながら観察を続ける。
この妹、どこまで変わるのか楽しみだとし、娯楽として、妹の人生を追い続けるみたい。
ソフィアは全力で懐き続ける。
「お姉さま、ずっと一緒にいてね!」
彼女は、ただ無垢に、姉を愛し続けるのだ。
こうして、エルヴェルム公爵家は、私の変化に合わせて動き始めた。
原作には存在しなかった家族ルートの始まりだった。
(こんなシナリオなかったよね)




