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第14話 番外編 ミレイユ
ミレイユは、今日も慌てていた。
課題の論文が必要で、図書室から本を数冊抱えながら階段を駆け上がっていた。先生への提出期限が今日の午後で、あと数時間しかなかったのだ。
学園の奨学生であるミレイユにとって、成績は人生を左右する。気を抜くことなんてできない。だから、毎日が必死だった。
「あ、すみません」
他の生徒とぶつからないよう、ギリギリのバランスで階段を上っていく。
あと、もう少し。先生の執務室まで、あと数段。その時、足が滑った。
不規則な靴の鼻緒で、石造りの階段は滑りやすかった。ミレイユは何度も経験している。でも、今日ほど幸運なことはなかった。
「きゃっ!」
視界がぐるりと回り、手から抱えていた教科書が宙に舞う。
落ちる。
痛みが走るだろう。階段は硬い。体が傷つくだろう。
そう思った瞬間。
ふわりと、誰かの腕がミレイユを包んだ。
衝撃はあったが、痛みはなかった。むしろ、温かさが身体を包んでいた。
「だ、大丈夫ですの?」
聞き慣れない、でも美しい声。
顔を上げると、金髪の令嬢が、ミレイユを抱きとめていた。
紫の瞳。整った顔立ち。高貴な雰囲気。
意外な人物であり、リリアナ・フォン・エルヴェルムだった。
王宮で最も恐れられている人物。
「えええええええええ?」
ミレイユの心臓は跳ねた。
氷の公爵令嬢と呼ばれる、冷酷で有名なリリアナが。
ミレイユを助けてたことは意外だった。
◆
やがてミレイユが我に返ると、彼女は慌てて謝った。
「す、すみませんっ! 私、足を滑らせて!」
リリアナ様は、少し困ったように微笑んだ。笑顔は、噂で聞く冷酷な令嬢とはまるで違っていた。
「怪我がなくてよかったわ」
その言葉の中には、本当に安堵があった。優しいと感じる。
ミレイユの胸が熱くなった。
学園では、リリアナは避けるべき人物として認識されていた。話しかけてはいけない。視線を合わせてはいけない。そんな暗黙の了解があった。
ミレイユの目の前にいるリリアナは、そのような冷酷さを持っていない。むしろ、ミレイユのことを心配してくれているように見える。
「リリアナ様が助けてくださったんですか?」
ミレイユは思わず手を握りしめた。
「え、ええまあ」
リリアナは少し視線をそらした。照れているように見えた。
その仕草は、ミレイユにとって余計に可愛らしく見えた。こんなに優しい人だったなんて。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」
涙が出そうだった。
だって、誰も助けてくれないと思っていたから。
ミレイユは奨学生だ。貴族の中では浮いた存在。親も一般家庭で、魔法の才能があったからこそ、学園に入学を許可されたのだ。
だから、常に周囲の目を意識していた。貴族の子息たちからは無視され、時には陰口を叩かれた。使用人からもやや低く見られている。
困っていても、誰も手を差し伸べてくれなかった。
ミレイユは一人で、全てを乗り越えてきた。
でもリリアナは助けてくれた。
それだけで、ミレイユの心はいっぱいになった。
◆
リリアナは小さく呟いた。
「わたくしはその巻き込まれたくなかっただけでして」
ミレイユはそれを聞いて、ある解釈に達した。巻き込まれたくなかったから、ミレイユを抱きとめてくださったんだと。
つまり、リリアナは自分の身を守るためにミレイユを助けたのだ。だが、その過程で、ミレイユのことも守ってくださった。
なんて優しいのだろう。
そういう気遣い、そういう思慮深さを、ミレイユは誰にも見たことがなかった。
(すごい! こんな気遣いができる方だったなんて!)
ミレイユは完全に誤解していた。
リリアナは冷酷なんかじゃない。本当は、とても優しい人なんだ。
その思い込みが、ミレイユの心を完全に捕らえてしまった。
◆
周囲の生徒たちが騒ぎ始めるのを横目に、ミレイユはリリアナから目が離せなかった。
その瞳の澄んだ紫色。その表情の優しさと、たたずまいの上品さ。
全てが、ミレイユを引き付けた。
「リリアナ様!」
気づいたら、そんな言葉が口から出ていた。
リリアナは、少し驚いたように目を瞬いた。
「えっ?」
「私、もっとあなたとお話したいです!」
必死だった。心が躍動していた。
こんなに素敵な人と、もっとお話したい。もっと知りたい。
「勉強のことも、学園のことも色々教えていただけませんか?」
リリアナは、一瞬考えるような表情を浮かべた。
その表情を見つめるミレイユは、何か大事な決定を待っているかのような緊張を感じた。
「ええ。わたくしでよければ、いつでも」
その返答を聞いた時、ミレイユの胸は高鳴った。
「ありがとうございます!!」
嬉しくて、涙がこぼれそうになった。
◆
その日から、ミレイユはリリアナを追いかけるようになった。いや、追いかけるというより、観察する、という方が正しいかもしれない。
使用人に優しく声をかける姿。ガルド騎士団長に丁寧に接する姿。セレス魔導士に真摯に向き合う姿。
どれもが、噂の氷の公爵令嬢とは違っていた。
「リリアナ様は眩しい」
ミレイユはそう思った。
努力家で。優しくて。誠実で。自分の信念を持っている。
ミレイユが憧れてやまない、そういう人物になった。
学園の図書室で、リリアナが本を読んでいるのを見かけた。可愛げな瞳で、ページをめくる姿。
廊下で、ガルド団長とリリアナが何かを話しているのを見かけた。上品な所作で、丁寧に返答する姿。
どれもが、ミレイユにとっては完璧に見えた。
「もっと知りたいもっと近くで見ていたい」
気づけば、ミレイユの心は完全にリリアナに向いていた。
◆
ある夜、ミレイユは自分の部屋で、静かに考えていた。
リリアナとのこれからの関係について。
リリアナ様のために、ミレイユ、あなたの力になりたいと思う。
奨学生のミレイユにできることは少ない。貴族のように、政治的な力を持つわけでもない。経済的に豊かなわけでもない。
ミレイユは自分の心を持っている。そして心から生まれる想いは、誰にも負けないくらい強いものを持っていると信じていた。
あなたが困っていたら、絶対に助けたいと強く誓う。
リリアナは、本当は優しい人だ。だからこそ、周囲の期待を背負い、誰もが期待する優しさを振る舞っているのだろう。
もちろんミレイユの勝手な勘違いてはあるが、そう想像していた。
実際には、リリアナは単に破滅を避けたいという本能で動いているだけなのだが、ミレイユはそれを知らない。
リリアナ様、あなたは、ミレイユの憧れですとまで妄想しだす。
ミレイユはそっと胸に手を当てた。
その想いは、まだ恋ではない。でも、確かに特別な感情だった。
友情と尊敬が混ざり合った、複雑で純粋な感情。
ミレイユ自身、真実を知らない。
ただ、確かなのはリリアナを信じ、支えたいという気持ちが、ミレイユの心の中で、確実に根を張っているということ。
リリアナ2何かあったその時も、ミレイユは動じることなく、リリアナ様の側に立つだろう。
なぜなら、彼女はミレイユの憧れであり、ミレイユが心から尊敬する人だからだ。




