第84話 載らないものの、欄
通界に戻って、俺は突堤へ行った。
全員がいた。
呼んでいない。ノクスが先に伝えていたらしい。この男は、俺が何かを決めた日を、俺より先に知る。
「決まったんですか」
アクアが聞いた。
「決まった」
俺は、木箱の上に、七枚の書きつけを並べ直した。どれも、下から二つ目の欄が同じだ。
通界の判断を仰ぐ。
「返事は、こうする」
俺はそこを指した。
「通界は、判定しない」
フレイの眉が動いた。
「断るのか」
「断らない」
「どっちだ」
「両方じゃない方だ」
言ってから、自分でも下手だと思った。仕方がないので、紙を一枚裏返して、そこに書いた。
欄を、足す
俺が書いたのは一行だけだ。
判定不能
その下に、もう一行。
この欄に入った者は、そのまま通す。
全員が、しばらく黙って紙を見ていた。
「……欄を、増やすんですか」
アクアが先に口を開いた。
「増やす」
「判定しない、と返事をするのではなく」
「しない、を欄にする」
俺は頷いた。
「役所は、空欄を扱えない。決まってないと止まる。だから、“決まっていません”という決まった場所を作る」
リディアが書きつけを手に取った。彼女は、この中でいちばん長く、役所の側にいた人だ。
「……止まりません」
しばらくして、彼女はそう言った。
「これなら、止まりません。書ける欄があれば、書けます」
「うちは、何をする」
「何も」
俺は答えた。
「判定しない。名簿にも載せない。ただ、来たら通す」
「来たら、通す」
リディアは、その言い方を繰り返した。
「……ずるいですね」
「ずるいか」
「ずるいです」
彼女は少しだけ笑った。
「責任を取らずに、道だけ開けています」
「取れないんだ、責任は」
俺は正直に言った。
「あの子が何なのか、俺は知らない。知らないやつが判を押すのが、いちばん危ない」
帳簿
「一つ、問題があります」
アクアが帳簿を開いた。
「その欄に入った人は、うちの帳簿にも載りません」
「載せなくていい」
「載せないと、費用が出せません」
(……そうか)
食う。寝る。着る。
通すだけでも金はかかる。
「うちの帳簿は、載っているものにしか金を払えません。それが、この街の信用の作り方でしたので」
アクアは、そこで一度、指を止めた。
彼女は、しばらく帳簿の白いところを見ていた。
それから、こう言った。
「……欄を、増やします」
「増やせるのか」
「増やせます。私の帳簿ですから」
彼女は、頁の端に、新しい線を引いた。
細い線だった。
いつもの罫線より、少し内側に。
「名前は」
俺が聞くと、彼女は少しだけ考えた。
「“載らないもの”に、します」
俺は、その言い方に聞き覚えがあった。
突堤で、日が傾いて、水面が金色になった日。
あの人は帳簿を閉じたまま、「載らないものも、ありますよ」と言った。
たとえば、と聞いたら、少し間を置いてから、こう答えた。
……今日みたいな日の、良さとか。
「あの時の欄か」
「あの時は、欄ではありませんでした」
アクアは帳簿を閉じた。
「今日から、欄です」
三つ、まとめて片づく
フレイが、腕を組んだまま言った。
「線は、引くのか、引かないのか」
「引く」
俺は答えた。
「ただし、内と外じゃない」
紙の上を、指でなぞる。
「決まっている側と、決まっていない側だ」
フレイは、しばらく考えて、それから短く息を吐いた。
「……なるほど」
「文句は」
「無い」
彼女はそれだけ言った。
この人が「無い」と言うときは、本当に無い。
「ノクス」
「はい」
「偽の判定書は、これでどうなる」
情報官は、七枚の紙を眺めて、少しだけ笑った。
「売れなくなります」
「なんで」
「銀貨五枚を払う理由が、“判定してもらうため”だからです」
彼は指を一本立てた。
「判定しない場所ができたら、判定書そのものが要らなくなります」
「そんな簡単か」
「簡単ではないです。ただ」
ノクスは、判子の跡を親指で撫でた。
「空いているところに入るのが商売なので。空きが埋まれば、別の空きを探しに行きます」
――それは、良くなったのか、どうなのか。
たぶん、良くはなっていない。
ただ、この街の名前で人が金を取ることは、これで一つ減る。
突堤の下で、水が柱に当たっていた。
俺は、書きつけを揃えて、リディアに渡した。
「写しを、全部に送ってくれ」
「返事として、ですか」
「返事じゃない」
俺は言い直した。
「様式として、送る」
第66話でアクアが「載らないものもある」と言いました。
帳簿に欄ができたのは、今日です。




