第82話 最初の一枚
学園の門は、また変わっていなかった。
白い石壁。
整えられた並木道。
魔力検知用の結界。
変わったのは、出迎えの人数だった。
前は、学園長と数名の教官が正装で並んでいた。
今日は学園長が、一人で立っていた。
「お待ちしていました」
彼は頭を下げた。
角度は、前と同じだった。この人の礼は、相手が誰でも同じ深さになる。たぶん、そういう習慣をどこかで身につけたのだと思う。
俺は、後ろを振り返った。
シアが、並木の陰から出てこない。
「連れです」
俺が言うと、学園長は視線を落とし、それから少し驚いた顔をした。
驚いた理由は、聞かなくても分かった。
この人は、あの日の水晶を憶えている。
「……ようこそ」
彼は子どもにも、同じ角度で頭を下げた。
「ここでは、何も測りません」
言われて、シアは、少しだけ前に出た。
俺が三日かけて言えなかったことを、この人は最初の一言で言った。
(……かなわないな)
地下
案内されたのは校舎の裏だった。
石段が下へ続いている。
灯りは、間隔が広い。あまり人が通らない場所の灯りは、こういう置き方になる。
「昔は、私も入れませんでした」
学園長は、先を歩きながら言った。
「規定で、記録係以外は立ち入り禁止でしたので」
「今は」
「規定を作った人間も、記録係も、もういません」
石段が終わると、扉があった。
古い。
鍵は、かかっていなかった。
中は、思ったより狭かった。
棚が三つ。
机が一つ。
椅子が一脚。
そして、台の上に、水晶が一つ。
もう光っていない。表面に、細かい傷が無数に入っている。
「これが、観測室です」
学園長はそう言った。
「あなたが入学した年の夏に、記録は途切れています」
俺は椅子を見た。
座面が、少しへこんでいる。
毎晩、同じ人間が、同じ姿勢で座っていた跡だ。
その人が、俺のことを書いていた。
一葉
「これです」
学園長は、棚から浅い箱を出した。
中に、紙が積まれている。
いちばん上ではなく、いちばん下の一枚を、彼は丁寧に引き抜いた。
「最初の一枚です」
俺は受け取った。
紙は薄かった。
角が、少し丸くなっている。人の手が何度も触ったものの丸さだ。
上の方に、様式の文字。
その下に、三行。
反応:微量
変動:循環安定
原因:未特定(観測対象付近)
俺は、その三行を、しばらく見ていた。
意味は分かる。
あの夜、俺は寮の天井を見ていた。天井を見ていただけで、何かが動いたらしい。
微量。
安定。
未特定。
誰も困っていない、というだけの記録だ。
事件も、発見も、何も無い。
欄外
紙を傾けたとき、右の余白に、別の字が見えた。
本文の字より、少し崩れている。
書くつもりの無かった字だ。
ゼロだからこそ、入ったのか?
俺は、そこで手が止まった。
問いだった。
仕事の記録ではない。誰に見せるものでもない。
その日の終わりに、書かずにいられなかったから書いた、という形をしていた。
「……これ」
声が少しかすれた。
「はい」
「読めなかったんですか」
「読めました」
学園長は静かに答えた。
「文字は読めます。意味が分かりませんでした」
「意味」
「“ゼロだからこそ、入った”という言い方が、我々の言葉の中に無かったのです」
彼は、水晶の傷を見ていた。
「量が無い者には、何も入らない。そう習い、そう教えてきました。この一行は、その前提を疑っています」
「疑ったら、どうなる」
「測定の意味が、無くなります」
学園長は、そこで初めて、少しだけ笑った。
自嘲の笑い方だった。
「我々は、それを保管しました。読まなかったのではありません。読んで、棚に戻したのです」
――ああ。
この人は、何も観測できなかったと言った。
正確には、観測結果が一枚あって、それを棚に戻した、という話だった。
「記録係は」
俺は聞いた。
「どこに」
「分かりません」
学園長は首を横に振った。
「その年の夏に辞めています。名前は、記録に残っていません。職名だけです」
俺は、紙を持ったまま、少しの間、動けなかった。
その人は、俺を最初に見た人間だ。
最初に見て、最初に分からないと書いて、そのまま、いなくなった。
礼を言う相手が、この世のどこにもいない。
――シアが、俺の隣に来ていた。
紙を、覗き込んでいる。
字が読めるのかどうかは、まだ分からない。
彼女は、欄外の一行を指さして、こう聞いた。
「これ、こたえは?」
第1話の夜、地下で書かれた三行と、その欄外の問いです。
六十話以上、誰も答えていません。




