第80話 次の遠くの、話
丘は、まだ何も整っていなかった。
草と、風と、遠くの輪郭だけがある。
街がどれだけ膨らんでも、ここだけは手を入れなかった。誰かが決めたわけではない。全員が、なんとなく、そうしている。
俺は、久しぶりに上まで歩いた。
道はもう、道になっている。前は草を踏み分けて登った斜面に、荷車が通れるだけの幅ができていた。誰かが石を敷き、誰かが端を削り、誰にも頼まれないまま、少しずつ均されたのだと分かる。この街の道は、大抵そうやってできる。
「――やっぱり、ここにいた」
声がした。
振り返るまでもない。この登場の仕方をする人間は、一人しかいない。
「探した?」
「探してないです」
一拍。
「……少しだけ、探しました」
(同じ流れだな)
セレナは、隣に来て、同じ景色を見た。
風が、彼女の髪を一度だけさらっていく。
言われたこと
「調子は」
「よくない」
「素直」
「隠す理由が無い」
セレナは少し笑った。
それから、いつもの調子で、あっさり言った。
「リクスさんって、自分がどう見えてるか、一生わからないでしょ」
「……藪から棒だな」
「藪じゃないです。ずっと思ってました」
彼女は、草を一本抜いて、指で回した。
「あなたが困ってるの、たぶん、みんな安心してますよ」
「安心?」
「はい」
風が少し弱くなった。
「あなたが即決してた頃、私、たまに怖かったです」
これは意外だった。
「怖い?」
「だって、全部当たるんですよ」
セレナは草を放した。
「当たる人が決めると、みんな考えなくなります。私も考えなくなってました」
(……理論家が言うと重いな)
「だから、今の“分からない”は、悪くないです」
「褒めてるのか」
「褒めてます。半分だけ」
「残りは」
「残りは、早く決めてほしいです」
(正直だ)
方角
しばらく、二人とも黙っていた。
丘の下では街が動いている。
荷が動く音と、水の音と、誰かの怒鳴り声。詰まっているところは、今日も無い。
「前に」
俺は丘の先を指した。
「あっちは、って聞いたよな」
「聞きました」
「まだ、名前が無い」
「無いですね」
セレナは目を細めた。
「行きます?」
軽い言い方だった。
行こうと思えば、たぶん行ける。この街は、俺がいなくても回る。十日に一度、誰も決めない日を作れるくらいには、もう回る。
でも。
「今は、行かない」
俺はそう言った。
「あら」
「近い方に、まだ用がある」
「用」
「石を並べてるやつがいる」
セレナはそこで笑った。
いつもの、面白がる笑い方ではなかった。
「“次の遠く”って」
彼女は丘の下を見た。
「別に、遠くじゃなくてもいいんですね」
「らしいな」
「ずるい言い方です」
「そうか?」
「そうです」
彼女は、少しだけ間を置いた。
風が、また一度だけ吹いた。
「――でも、いいです」
その言い方に、少しだけ、いつもと違う音が混ざっていた。
俺は、それに気づいたが、気づいたことを言わなかった。
言うと、たぶん、今日ではなくなる。
約束ではない。
告白でもない。
(たぶん、まだ)
でも、風の向きは今日も決まった。
決めていないこと
「セレナ」
「はい」
「一個、聞いていいか」
「どうぞ」
「あの子の扱い、どうするのが正しいと思う」
彼女は即答しなかった。
しばらく考えて、それから、理論家らしい答え方をした。
「“扱い”って言葉を使ってるうちは、たぶん、どれも間違いです」
俺は、その言葉を持って、丘を下りた。
その日の夜、学園から手紙が来た。
第64話の丘に、もう一度上がりました。
今度は、まだ名前のない方角には行きません。




