第73話 何も出さない子
シアは、手のかからない子どもだった。
起きる。
食べる。
座る。
それだけを、一日中やっている。
部屋は、宿の一階を借りた。窓が大きくて、川が見える。
本人が、選んだわけではない。俺が勝手に決めた。この街でいちばん静かな部屋がそこだった。
三日経って、分かったことがある。
この子は何も出さない。
火も、風も、水も。
それどころか、声もあまり出さない。
聞けば答える。
答えは短い。
「腹は」
「へってない」
「寒い?」
「べつに」
会話が終わる速さで言えば、フレイに次ぐ。
割れる
困ったのは、周りの方だった。
二日目に、宿の主人が持っていた計量器が壊れた。
三日目に、市場の秤が、二つ狂った。
どちらもシアが、近くを通っただけだ。
触っていない。
俺が見ていた。
「……これ、どうします」
宿の主人は、壊れた計量器を持って、困り果てていた。
怒ってはいない。
この街の人間は、壊れたものより先に、次の手を考える癖がついている。
「弁償する」
俺が言うと、主人は首を横に振った。困っているのは金の話ではないらしい。
「そういう話じゃないんです」
彼は声を落とした。
「あの子が来てから壊れた、って、みんな言うんですよ」
みんな。
また、主語が、大きくなった。
「言ってるのは、何人」
「……三人くらいですかね」
(そんなもんだ)
三人が言うと、街の噂は成立する。
街ができた頃から、それは変わっていない。
数字が出ない
「怖がられているのは、あの子ではありませんよ」
ルミナは、いつの間にか隣に立っていた。
この人の歩き方は、光と同じで、来たことに気づかせない。
「じゃあ何が」
「数字が出ないことです」
彼女は、川の方を見ていた。
「人は、悪い数字にはすぐ慣れます。ゼロでも慣れます」
(……身に覚えがある)
「慣れないのは、欄が空いていることです」
俺は、書きつけの、あの空白を思い出した。
数字が、入っていない欄。
その代わりに、一行だけ書かれていた文。
「空いていると、人は自分で埋めます」
ルミナは、静かに続けた。
「悪い方に、埋めます」
石を、並べる
その日の午後。
俺が宿へ戻ると、部屋の前の地面に、リーネがしゃがみ込んでいた。
隣に、シアがいた。
二人とも無言だった。
地面に、石が並んでいる。
大きい順でも、色の順でもない。
俺には、何の順か分からなかった。
「……何してるんだ」
「並べてる」
リーネが短く答えた。
「順は?」
「本人が決めてる」
彼女は、それ以上説明しなかった。
シアが、小石を一つ動かした。
少しだけ、左へ。
リーネがうなずいた。
「そう」
それだけの会話だった。
俺は、しばらく黙って見ていた。
この人は、地面の話しかしない。
でも、この街で最初に土地を測ったのは、この人だ。何もない荒れ地に、線を引いた。
線を引く仕事の人間が、順番を子どもに任せている。
(……上手いな)
初めての質問
夕方。
石が長い列になった頃、シアが顔を上げた。
俺の方を見て、口を開いた。
「ねえ」
初めて、向こうから声を出した。
「ん」
「こわさないの」
俺は、意味を掴み損ねた。
「何を」
「わたしを」
子どもは、そう言った。
言い方は平坦だった。
怯えてもいないし、試してもいない。前にそう扱われたことがある、という顔だった。
――ああ。
船の上で見た、あの何も無い方を見ている顔。
どこで見たか、やっと分かった。
鏡だ。
水晶が二度沈黙した日の夜、寮の天井を見ていた自分が、たぶん同じ顔をしていた。
「壊さない」
俺はそう答えた。
「なんで」
「壊し方が分からない」
これは嘘ではない。
シアは、少しだけ考えて、また石に戻った。
その日、石の列は、宿の壁まで届いた。
何も出さない子と、出しすぎる子。
似ていないようで、扱われ方だけがよく似ています。




