第66話 番外編 休むのが、いちばん難しい
本編の時間軸から、ひとつまみ。
川港の拡張が片付いて、王都から手紙が来るより少し前――
通界に、決めることが何ひとつ無い一日があった話です。
朝。
執務室の机の上に、書類が無かった。
(……え)
俺はもう一度見た。
やっぱり、無い。
昨日まで山だった場所が、平らだ。
「おはようございます」
アクアが、いつも通りの時間に入ってくる。
抱えているのは帳簿が一冊だけ。
「今日の、その」
俺は、机を指した。
「決裁は?」
「ゼロ件です」
即答だった。
「……ゼロ?」
「ゼロです」
(久しぶりに聞いたな、その単語)
決めることが、無い
「昨日、川港の精算が終わりました」
アクアは指を折る。
「交易契約は三件とも先方の返答待ち。税率は据え置きで確定済み。ギルドからの問い合わせは、受付主任が現場で処理しました」
「……勝手に?」
「規定の範囲内です。報告書は上がっています」
彼女は帳簿を閉じた。
「つまり、リクスさんが今日やることは、ありません」
沈黙。
「……一件くらい、無い? 小さいの」
「ありません」
「探して?」
「探しません」
(塩対応だ)
扉のところで、ノクスが肩を震わせていた。
「いやあ、いい光景ですね」
情報官は、笑いを堪えるのが下手だ。
「“俺がいなくても回るようにしよう”って言い出した人が、いざ回ったら不安がってる」
「不安がってない」
「顔に出てますよ」
(この男の前で嘘をつくのは効率が悪い)
暇だと、手が勝手に動く
やることが無いので、街に出た。
朝市は、もう賑わっている。
荷車が行き交い、呼び声が飛び、どこかで金物を打つ音がする。
……荷車の車輪が、少し重い。
(あー)
俺は通りすがりに、ほんの少しだけ“通した”。
押したんじゃない。
軋みが引っかかっていた向きを、流れる方へ寄せただけだ。
「……お?」
荷車を引いていた親父が、目を丸くする。
「軽いぞ、これ」
(よし)
次の角。
水路の水が、一箇所で渦を巻いていた。
(気持ち悪いな)
通す。
渦が、ほどける。
その隣で、パン屋の窯の煙が風に押し返されて逆流していた。
(はいはい)
通す。
煙が、真っ直ぐ立った。
――このあたりで、俺は自分がまずいことをしている自覚が無かった。
通報された
昼過ぎ。
俺は執務室に呼び戻されていた。
円卓の向かい側で、アクアが帳簿を開いている。
「午前中に、報告が七件」
読み上げが始まる。
「市場の荷車が急に軽くなった。水路の渦が消えた。パン屋の煙が真っ直ぐ立った。あと、井戸の水位が三本ぶん揃いました」
(最後のは覚えが無い)
「……いいことでは?」
「いいことです」
アクアが顔を上げた。
「ただし、理由が分からないまま良くなると、人は“次も勝手に良くなる”と思います」
(正論だ)
フレイが、腕を組んだまま短く言った。
「勝手に直る街は、壊れたときに誰も直せない」
「……返す言葉が無い」
「休め」
「命令?」
「頼みだ」
(軍務官に頼まれると、命令より重い)
休み方が、分からない
というわけで、俺は川港の突堤に座らされた。
目の前は、水。
やることは、無い。
……無い。
(何、これ)
三分で限界が来た。
「リクスさん」
隣に、ルミナが座っていた。
いつのまに。
「今、何か直そうとしましたね」
「してない」
「水面の波を、揃えようとしてました」
(見えてるのか)
ルミナは、静かに笑った。
「休むのは、技術ですから」
「技術」
「最初は誰でも下手です」
「上手い人、いる?」
「セレナさんは、天才です」
言われた方を見ると。
セレナが突堤の先で、仰向けに寝転がっていた。
両手を広げて、風を全部受けている。
「気持ちいー!」
(次元が違う)
何もしない、を全員でやる
夕方までに、なぜか全員が突堤に集まっていた。
リーネは、足元の石を無言で並べ替えている。
「……リーネ、それ」
「……好きなので」
(休みだった)
ノクスは日陰で寝ていた。仕事だと思っていたが、違ったらしい。
フレイは剣の手入れをしている。手が止まらないタイプの同志だ。
アクアだけが、帳簿を持ってきていた。
「アクア」
「はい」
「それ、仕事だよね」
「……見ているだけです」
「開いてるよね」
「……見ているだけです」
二回言った。
フレイが、ぽつり。
「同類だな」
「「違う!」」
二人同時に言ったので、余計に悪かった。
セレナが起き上がって、心底楽しそうに笑う。
「今日いちばんの成果、それだね」
帳簿に、載らないもの
日が傾いて、水面が金色になった。
「リクスさん」
アクアが、帳簿を閉じたまま言った。
「今日を、制度にします」
「制度?」
「十日に一度、判断を止める日を作ります。誰も決めない。決めなくても回ることを、全員で確かめる日です」
(休みを、仕組みにするのか)
「それ、休みって呼ばないんじゃない?」
「呼びます」
アクアは表紙を軽く叩いた。
「帳簿に“休養日”と書けば、休養日です」
(強い)
俺は、思わず笑った。
「……その帳簿、便利すぎない?」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「載らないものも、ありますよ」
「たとえば?」
一拍。
「……今日みたいな日の、良さとか」
風が、水面をひとなでして通り過ぎた。
誰も、通していない。
ただの風だ。
(悪くないな)
俺は、そのまま何もしなかった。
――たぶん、この一日で一番難しい仕事だった。
お読みいただきありがとうございました。
「決めることが何も無い日」を書きたくて、通界を一日だけ休みにしました。
本編のどこか、十日に一度の日の話です。
よろしければブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




