4.孵化
その事実をラウル達が知らされたのは、ほんの半刻ほど前のことだった。
ズン……、と地響きが機関車ディーノをわずかに弾ませる。
窓の外、過ぎ去った景色のどこかからゆっくりと狼煙が上がった。
無法者が挨拶代わりに銃を抜くこの世界ではそう珍しくもない戦いの合図。だが、今夜のそれはいつもと少しだけ様相を異にしていた。
「てめぇ……、いま、何つった……!?」
ディーノはすでに新サドレアターミナルを離れ、カディーナに向かって走り始めていた。
やめなさい、とキディを制止したのはシルヴィーナ。わざわざミレニア運送の社長が自ら赴いてきたわけは、そこにFANTOM局長、ガルニア・フォン・ティフェルヴァルトがいることと無関係ではなさそうだ。
ディーノとエルモだけでは手に負えない事件に発展している。
ティフェルヴァルトという男はそれを伝えに訪れ、シルヴィーナは彼の『干渉』が『命令』に取って代わることを危惧して同行してきた、ということだ。
「そう怖い顔をするな。私はほんの数時間先に訪れることの顛末を話しただけだよ。……あの出来損ないのドラゴンライダーの能力よりもよっぽど理にかなった方法でね」
シルヴィーナが制止していなければキディの拳はガルニアの前歯を残らず折ってしまっていたところだ。
キディは息を荒らげ、もう一度冷静にガルニアの話を反芻した。
第十七分隊がその計画を変更した、という話だ。
彼らの標的はもはやただ一人。
メル・カントリー――裏切り者の始末もまた、『存在しない』第十七分隊の仕事の一つだ。
「冷静に考えれば分かったはずだよ。組織が正常でいるための『プログラムされた死』は、誰にも気付かれぬうちに遂行される。そして次に彼らの刃が向くのはあの花嫁だろうね。裏切り者と接触した者を組織が放っておくはずがない。騒動に紛れて彼らは確実に彼女を狙う」
「そのくらいあたしにだって分かる。……だが奴は守り通すさ。軍隊でも持ち出さない限り、聖騎士部隊ごときが束になったところで奴は殺せない。だが――」
そこまではキディにだって予想はできた。
それを見越して、メルが『約束の場所』の番犬を買って出たのだということも。
そしてメルは正真正銘のドラゴノイドだ。しかもキディと同じく契約を交し、最大限に能力を使える覚醒者でもある。
正規軍ならともかく、聖騎士部隊の一分隊ごときに負けるとは思えなかった。
「――てめぇが言ったことが本当なら話は別だ」
「本当さ。どうしてサドレアにあれだけの検問が敷かれていたと思う? 今夜この地で開かれる極秘サミットのためさ。各地の有力者が一堂に会する、この機会を彼は待っていたのさ。そして入念に準備を重ねてきた。――聖騎士部隊第十七分隊隊長、ユーリ・ケルクハート。いや、この場合はユーリ・シャーロットと言った方がいいのかな。彼がこの舞台の本当の黒幕さ」
「黒幕はてめぇだろ、ティフェルヴァルト……! 全部お前が仕組んだことだろうが!」
「脚本を書いたのは彼だ。私はその結末に少しアレンジを加えてみただけさ」
ぎり、と歯軋りし、キディは。昂ぶった感情を押し殺し。
「……楽しかったかい、ミスター・ティフェルヴァルト。あんたの演出した舞台の上であたしたちがのたうち回っているところを見るのは」
「君たちのことだ。きっと私の期待通りの働きをしてくれると思っていたよ」
「そいつァ良かった。悪いがカーテンコールは辞退させて貰う。あたしゃシャイなんでね」
「――まだだよ」と、ガルニア。ぎろりと睨む緋色の瞳もお構いなしに。
「閉幕の時間にはまだ、少しだけ早い。舞台から降りるかどうかは、……君次第だ」
そう言ってガルニアが視線を送ったのは目を覚ましたばかりのラウルだった。
「だが、悠長に考えている暇もない。こうしている間にもドラゴ・ベリルは力を使い、そして『孵化』が近づく。早くしないと、サミットに参加している貴族達だけじゃない、何人かの無関係な命が奪われてしまうぞ。君がそう望むだけで、助かるかもしれない命が」
不敵な笑みを口元に浮かべ、ガルニアは一歩、ラウルに近づく。
と、ほぼ同時に二丁の銃がガルニアに向けられる。
やや遅れて最後に銃を抜いたシルヴィーナが、低い声で唸った。
「だめよ、ミスター。そこから先は、あなたの踏み込んでいい場所じゃない」
「おかしなことを言うものだ、ミス。私は手を差し伸べているだけさ。その怯えきった足を踏み出すのは彼自身だ」
肩をすくめて両手を挙げ、おざなりの服従のポーズでガルニアは言った。
滅多に抜かない銃を、それでも寸分違わずガルニアの左目に照準を合わせているのはレオーネ。
「そんな陳腐な口説き文句でうちの可愛いクルーをたぶらかすたァ、ええ度胸じゃのォ。じゃが……たとえFANTOMのお偉いさんの頼みといえど、そいつだきゃァならん。……ならんよ、ガルニア」
「ははっ。まるで腫れ物にでも触れたみたいだ。……君もそうなのかな、ガーネット」
最初に銃を抜いたキディは、だが真一文字に口を閉ざし一言も発することなく、それでもなお右手に握る銃口は彼女の猛る心情を雄弁に語っていた。
「やれやれ、困ったな。皆が君を止めるようだ。だがどうする? 君の心は。魂は。……君に何と言っている?」
ゆっくりとガルニアはラウルに歩み寄る。
そして妖しい笑みをラウルの眼前に近付け、
「――ヘヴン・ジャンキーの血が騒ぐだろう、ラウル・ラッセル」
「ガルニアァ!」
「よせ、キディ」
ラウルは落ち着いた声でキディを制止した。
碧い瞳はほんの一寸も揺らぐことなくガルニアを見据えたまま。
「『一度引き受けた荷物は最後まで運び通す』――それが社訓だろ?」
「……勘弁してくれ、ラウル。ここから先はあたしたちの出る幕じゃない」
「だけどこのままじゃ後味が悪い。……違うか?」
「よせよ、ラウル。このお話は始まったその瞬間から悲劇なんだ。物語が終わった後には舞台の上に誰も立っちゃいない、そういう話だ。救いようがねぇのさ。あたしたちにできるのは悲劇の観客になることくらいで。お前が言ってるのは、その悲劇に首を突っ込もうって話だ。それがどれくらい馬鹿なことか、――今のお前には分からないんだ」
ラウルは、真意を問うように碧い瞳をキディに向ける。
その瞳に浮かぶ狂気を、今度こそはっきりとキディは見咎めた。
「あたしが気付かないとでも思ったのかい、ラウル。お前のソレはスカイ・ハイの徴候だ。これ以上飛んだら――」
息が詰まって、言葉を失った。
そして、それ以上何も言えなくなった。
ラウルは笑っていた。
困ったようにただ笑って、たったそれだけのことでキディの言葉を根こそぎ奪ってしまった。
まったく何て、――何て卑怯な笑顔だろう。
「――助けたいんだ。彼女を。彼女は、俺みたいにならなかった、俺なんだ。……だから、俺は――」
「…………………どっちだ?」
半ば諦めたように、キディは静かに問う。
「お前の言う『彼女』はどっちだ?」
二人のハイランダー。
二人の犠牲者。
どちらも、紛れもないこの世界の被害者だ。
「超弩級の奇跡が起こったとして、それでも助けられるのはどちらか一人だ。お前が望むのは、どっちだ?」
「――そんなの。………はは、俺が知りたいよ」
また、ため息。キディは自分の負けを悟った。
「――狂ってるよ、お前」
「はは。違いない」
キディはガルニアに向けていた銃をそっと下ろすと、静かにフォームチェンジした。
そのサドルをそっと撫で、誰にも聞こえないようにつぶやいた。
「……ああ、狂ってるのさ、俺は」
ラウルはフォームチェンジしたキディに跨がり、走る『ディーノ』の扉から飛び出した。
上空は高濃度のセイラー・ミセルが不穏に渦を巻き、時折波のようにラウルを襲い、肺を蝕んだ。
だらしなく歪む口元を、ラウルは何度も右手の手袋で拭い、奥歯を噛みしめてこらえる。少しでも気を抜けば、まどろみの中に落ちるように、スカイ・ハイによる恍惚の底へ引きずり込まれてしまう。
だが、ビークルの速度はミセルの濃度に比例する。
一介のハイランダーならば数秒と保たず失神してしまうほどの上空を飛ぶ以外に間に合う術はなかった。だからこそキディも、そんなラウルに気づきながらも苦言を吐くことはなかった。
サドレアの共同墓地に二人がたどり着いたのは、ユーリ・ケルクハート率いる聖騎士部隊がちょうど侵攻しようかというタイミングだった。
気流の関係で丘の上空を飛ぶことはできないが、海側を迂回することはできる。
無駄な接触を避け、丘の頂上を左手に見ながらウルフ・ドッグを旋回させていた、まさにその時。
それは悪い冗談だった。
崖の端から、ぱらぱらと岩屑がこぼれ落ちるのが目に留まる。
妙な胸騒ぎに目を凝らし、その中の一つが岩屑なんかではないことに気が付いた瞬間、ラウルは弾き飛ばされたみたいに飛び出した。
「『白兎』……!?」
彼女を撃ったのはユーリ率いる聖騎士部隊だ。
崖から足を滑らせ、彼女は真っ逆さまに海面へと落下していた。わけも分からぬまま赤いマシンの進入角度を更に深くし、ラウルはその影に迫る。
すんでの所でその身体を抱きとめ、………だけど、本当に悪い冗談なのはこの後だった。
《おかしい、ラウル! 力が………、出ない!》
緋色のマシンが悲鳴を上げる。
動転した頭をフル回転させ、その原因を突き止めた。
「気流のせいだ……! セイラー・ミセルの濃度が不安定になってる!」
《そんなことはどうでもいい! さっさと立て直せ、ラウル。このままじゃ――》
――海面に衝突する!
百も承知だ。
焦る気持ちを抑え、ラウルは冷静にレバーとペダルを交互に操作する。だけどバルクレイターはうんともすんとも応えない。
焦りはマシンにも伝わり、キディは叫んだ。
《急げ、ラウル!》
「分かってる!」
「――――こっちよ」
と。
ハンドルを握るラウルの手の甲に、小さな手のひらが覆い被さった。
さっき抱きとめた『白兎』のものだ。ひんやりと冷たい細い指が絡みつき、勝手にレバーを引く。
「な、何を!?」
「いいから、……伏せて!」
言うや否や彼女は、もう一方の手に握った銃を切り立った崖の壁に向けた。
一発のマグナム弾がマシンの軌道を変える。反動にこらえきれなかったか、彼女は二発目でそのマグナム銃を落とした。
だが、それで十分だった。
マシンもまた反動で回転しながら外へ弾き飛ばされる。わずかだが、ミセルの濃い場所へずれ、バルクレイターが息を吹き返す。
が、まだ足りない。
「あそこ、海面近くにミセルの吹きだまりがある」
「………見えるのか?」
彼女は顔色一つ変えることなくうなずいた。
海面に落ちる直前の一瞬を狙って立て直せという意味だろう。一か八かの賭けだが、選り好みをしている暇はなかった。
「あとはあなたの腕次第」
「いい度胸してるぜ……。死んでも恨むなよ!」
「大丈夫」
カッ、と銀色の光が瞬く。
光は粉になり、粉は集まって円陣を作る。その円陣は、ラウルにも見覚えがあった。
「……あなたは墜ちないわ」
《ラウル! 今だ!!》
セカンダリレバーを押し込み、フットペダルでバランスを取る。
赤いマシンが暗い海に飲み込まれる一瞬前、一対の翼が青く強く輝く。
スロットル全開。爆発でも起こったみたいに水しぶきが舞い上がった。
水煙を切り裂くように、赤いマシンは姿を現す。
ほっと胸をなで下ろし振り返ると、彼女はぐったりとラウルにもたれかかり、浅い呼吸を繰り返していた。
苦しそうだ。ラウルは機体を立て直し、丘の麓へとマシンを飛ばした。
「……お前はここにいろ、ラウル」
着陸するや否や赤いマシンは人の姿に戻り、錆び付いた鉄の門の方へと駆けだした。聖騎士部隊の姿がもう無いことから察するに、すでに頂上のシェリルの元へ向かったのだろう。
ラウルは黙ってうなずき、キディの後ろ姿を見送った。
ラウルがそれを追わなかったのは、一つはどうせ行ったところで足手まといにしかならないから。そしてもう一つは、これが彼女とゆっくり話せる最後のチャンスだと思ったからだ。
苦しそうに胸を上下させ、彼女は薄くまぶたを開けた。
「――『ルクス』」
銀髪の少女は、ラウルを見るや否や唐突な自己紹介から始めた。
おかしな話だ、あれだけ楽しそうに会話を弾ませていたというのに、二人はまだお互いの名前さえ知らなかった。
「あなたの名前は?」
「ラウル。『ラウル・ラッセル・デ・ラ・シエロ』」
やや当惑しながら、ラウルは答えた。
ルクスは横たわって瓦礫に背をもたれかけさせたまま、力なくくすりと笑った。
「空――。空のラッセル。……はは、おかしい」
人の名を聞いておいて笑うとは、失礼な女だ。
「……あなた、生粋のジャンキーね」
「地上よりはマシだ」
「空も同じよ。どこにも、愛なんてありはしない。愛なんて――」
けほ、と咳き込んだ彼女の口元が鮮血で濡れた。
これが、作られたドラゴンライダーの代償だというのなら、その力を使って彼女は何を得たのだろう。ラウルは彼女の、軽すぎる身体をゆっくりと抱き起こした。
「――私を、助けるつもり?」
ぴしゃり、と。
強がる子供のように、彼女は言った。……いや、そう演じているだけか。
「それで、私を助けたつもり?」
否定されるのが怖くて、ラウルは何も答えずただルクスを抱きかかえた。
その身体はラウルの細腕でも持ち上がるほどに軽く、脆い。ルクスは不意に腕を伸ばすとラウルの首に巻き付け、抱きついた。
からかうような甘い声が耳元で囁く。
「ふふ、優しいのね。嬉しいわ、とっても。この身体が満足に動くなら、あなたを骨の髄まで愛してあげるのに。その愛をあなたの心臓に刻みつけてから、……殺してあげるのに」
その一言が、ラウルを絶望の底に叩き落とした。
やはり彼女は、心の底から壊れていて、それを元に戻すのはラウルなんかの力では到底届かないのかも知れない。
「だけどだめなの。私の身体はね、もう『がらくた』だから。男でも女でも、ハイランダーでもグラウンダーでもない。ただのがらくた――」
「――ルクス」
急に名前を呼ばれたせいだろう。ルクスはハッとまなこを開いた。
「知ってるよ。君をそんな身体にしたのはFANTOMだ」
ラウルはゆっくりと獣道を歩き出す。
門をくぐり、草場を踏みしめ、頂上へと向かう。ことの結末を、自分の目で確かめたかったからだ。
「……君と同じ、俺はドラゴンライダーだ。飛ぶしか能のない天国中毒者だ。地上に足をつけてる間の俺は陰気で、憂鬱で、厭になるほど役立たずで。だけど、一度空を飛ぶと我を忘れて粋がって、全て隠してしまうんだ。本当の、臆病な自分を。今じゃどっちが本当の自分なのかも分からなくなって……、でも、君は知ってるはずだ。『それ』は君を守ってるんじゃない。君を、隠しているだけなんだ」
何かに怯えたようにびくりと手をほどくと、突然取り乱してラウルの身体を弾き飛ばした。
そして逃げるように駆け出す。
だがそれをラウルは許さなかった。逃れようとするルクスの両肩を掴むと、きっと彼女の力ならそれを拒めただろうに彼女はそうはしなかった。
ラウルを見上げた困惑の瞳にみるみるうちに涙がたまる。それは、彼女の中の『人間』がまだ生きている証拠だ。
ラウルは確信した。
彼女は、まだがらくたなんかではない。
「生きていたって、もう地上に私たちに居場所なんてない」
「そうかもね。俺たちはやっぱりどこか違っていて、たいていの奴はそれを恐れ、嫌い、疎外する。でもね、それでもいいんだ」
それはラウルの、偽らざる本心だった。
ルクスが誰よりもラウルによく似ていたからこそ漏れた本音で、ラウルがずっと誰かに伝えたくて仕方なかったことでもあった。
「地上に居場所なんてなくたっていい。魚が海を泳ぐのと一緒さ。俺たちはただ、空を泳いでいるだけなんだ。――空を飛んだことのない奴には、分かりっこないのさ」
ぺたん、とルクスは濡れた地面に座り込んだ。
降りしきる雨が目に入ってしまうだろうに、その目は必死にラウルの唇を見上げていた。
「俺たちは元に戻る方法を捜しているんだ。血の契約を解除して、お互いが自由になる方法を。そのためにFANTOMにも協力しているし、ずっと空も飛び続けている。そのおかげで君に出会えた。君が協力してくれるなら、きっと俺たちはその方法に近づける。……その時は、君も一緒だ。だから……、俺は――」
そっと、手を差し伸べる。お願いだからその手を掴んでくれと祈りながら。
「俺はね、君を助けに来たんだ、ルクス」
「……う、………えぐっ」
彼女を覆っていた全てが音を立てて崩れ落ちる音がした。
今までずっと押し殺されていたのだろう涙がぼろぼろとこぼれ落ち、ラウルを見上げる整った顔立ちがみるみる汚れていく。
消え入りそうな声で、ルクスは。
「助けて――」
それは堅い壁の向こうでずっと囁かれていた心の声。
ラウルもまた、心が共鳴する音が聞こえた。
こうして何もかも崩れ去ってしまえばいい、とラウルは思った。何もかも壊れて、ほんの少しだけ残った残りカスを掻き集めて、もう一度やり直すのだ。
そうすれば自分も救われるような気がして――。
だけど世界は、やっぱりそれを許してはくれなかった。
一発の銃声が、彼女を正気に――あるいは狂気に――戻した。
ルクスの瞳が、遠く彼方に何かを見つけた。その瞳はすでに引き返せないほどの狂気に染まっている。
ルクスは駆け出した。
片足を引きずりながら駆ける彼女の頭上浮かぶ円陣には、跪くメルの姿がはっきりと映っていた。そばには横たわるユーリと、気を失ったシェリル、そしてまさにメルを手にかけんとするキディ。
ルクスは驚くほどの速度で駆け、そして、――それはラウルにとっては絶望的なことに――彼女は間に合った。
キディの燃えさかる爪がメルの身体を貫く刹那、間にルクスの細い身体が割り込む。
殺意を乗せた一撃を、キディにはもはや止めることができなくて、キディは鬼のような形相で右腕を振り抜いた。
一瞬の静寂。
ごぼっ、と血の塊を吐いたのはメルだった。
キディの爪は、もう間違いなく貫くだろうと思われたルクスの身体をかすめて、メルの右胸に突き刺さっていた。
信じられないような表情で見下ろすキディの瞳に、自分の右腕の軌道を逸らした風の塊が映る。逆巻く風の塊を操った左手をだらんと垂らし、メルは力なく笑った。
かすめただけとは言えルクスの傷も深く、だが致命傷には至っていない。メルがかばったおかげだろう。メルに抱きつくような格好ですがる彼女の胸で、核が輝く。
まばゆい銀色。
ルクスの、色。
「ははっ! はははっ! ははははははっ!! 使ったな、能力を!」
かすれる喉で高笑いを始めたのは、ユーリ・シャーロット。
「とうとうだ。とうとう、孵化が始まる。ずっと待っていた。このときを。この瞬間を!」
孵化――それは、世界の終わりを告げる合図だった。
「壊せ、化け物。……この世界の全てを飲み込んでしまえ!」
ユーリは咳き込み、傷口が大量の血を噴く。
冷たくなった手足はもう感覚をなくし、血液を失いすぎて顔面は真っ青に蒼白している。息をするのも苦しそうで、まぶたも満足に開けられていない。
それでもなお、彼は『何か』を手に入れたみたいに嬉しそうに微笑んだ。
「シェリル………。いま、そっちに行くよ――」
大事そうに『それ』を抱え、そして、ユーリはゆっくりと目を閉じた。
「――ルクス!」
駆け寄ったラウルはやりきれなくて叫んだ。
「どうして、こんな……!」
「可笑しい。何を必死になってるの? 私はね、いまとても幸せなの」
「違う! 本当の君は――!」
「ふふっ。『本当の私』ですって?」
ルクスはくすぐったそうに笑う。優しく、甘く問いかける。
「――どっち? 狂っている方の私? それとも、もっと狂ってる方の私?」
そう言うとルクスはラウルにそっと口付けた。
軽口でも飛ばすみたいに、何気なく。
「好きよ、あなた。――大好き」
前にも聞いたことのある言葉を同じ口で紡ぎ、笑顔のまま、ルクスは眼を閉じた。
胸の核だけが彼女の生気を奪い取るように強く、強く輝く。
こうなってしまえば、もう手の打ちようがない。
間もなくサドレアターミナル鉄道事故と同レベルの爆発が起き、キディやラウルはおろかサドレア湾一帯が消し飛ぶ。
サミットに集結した首脳陣は巻き込まれ、ユーリの思惑通りこの国は崩壊するだろう。
その壮大な無理心中を、ラウルたちはとうとう止められなかったのだ。
どんなに策を巡らせても爆発を止める方法なんて見つからなくて、ラウルはがっくりとうなだれた。
もう用なしになった炎を消し去り、キディもまたメルのもとへ歩み寄る。
「……どうしてあんたたちが殺し合う? 悪いのは全部、後ろで手を引いてる貴族連中の手先どもだろう?」
聖騎士部隊にFANTOM。
彼らを動かしている人間はみな互いに決して手を汚さず、必死に戦った者から順に死んでゆく。
「……君らしくないな」
とメルは笑った。
かちんと来たキディは、苛立ちをぶつけるように吠える。
「てめぇにあたしの何が分かるって――」
「分かるさ。……僕は戦うことしか知らない。それ以外に生き方を知らないんだ。たとえそのせいで大事な人を失うことになろうと。君だって――同じだろう?」
「あたしは殺し屋じゃない。……ポストマン――運び屋だ」
「――そうか。それが君の隠れ蓑なんだな。君はそうやって狂気を隠していたんだ」
自分でも知らない心の奥を覗かれたような気がして、キディは思わず息を飲んだ。
目眩がする。何一つ、反論が思い浮かばない。
キディは辛そうに顔を歪め、答えた。
「………そうだ。……そうだよ。あたしもあんたと一緒さ。だから――、ああ、残念だよ。あんたを殺すのは、あたしだと思ってたのに」
「死ぬわけじゃない。空に還るだけさ」
「二度と会わないんだ。……死んだのと同じさ」
「それなら、……そうだな。僕は君と出会うよりずっと前から死んでいたのかもしれない」
自ら嘲るように、メルは笑った。
その身体が、ほんのりと光を帯び始める。
「どちらにしても、もう終わりだ。結局僕らは人を傷つけることしか知らない。誰かを守るなんて到底できる話じゃなかったのさ。ルクスも、ステラだって――」
「お前と一緒にするな」
メルは悲しそうに首を横に振った。
「無駄だよ。君もきっと、こうなる」
「絶対にさせない。あたしたちは、絶対に元に戻る方法を見つけ出してやる」
「いいや、元に戻る方法ならある。君は、それを実行に移せないだけさ」
そう、たったひとつだけ、方法がある。
それはとても簡単な話だ。
つまり、そう。
さっきまでメルに向けていた爪を、自分に向ければそれで良い。
キディが死ねば『孵化』が起こることもなく、ラウルはただのハイランダーに戻ることができる。
「だめだよ」と。
横から口を出したのはラウルだった。
メルは不思議そうに首をかしげる。
「君は、彼女を恨んでいないのか?」
「恨む、だって? ……はは。俺が、キディを? そりゃあ、恨んでるさ。――死ぬほど恨んでる」
同じドラゴンライダーのルクスとは、まるで正反対の答え。
キディは感情の変化を悟られないように、険しい表情を更に深く刻み込んで背を向けた。
メルは力なく笑う。
「死ぬほど、か。なるほど、『死にたがり』の君らしい」
「違うね。俺は死にたいわけじゃない。………殺したいだけさ」
「…………おかしな話だ。バディと心中したいのか?」
「こんな広い空に一人取り残されるよりはいくらかマシさ。………でもね、今はまだその時じゃない」
シェリルを抱き上げるラウルの表情には諦めの文字などどこにもなくて、メルは少し驚いたように声を上げた。
「ここから……、逃げ延びられるとでも?」
「運ぶと約束した。ドレスも、シェリルも、請け負った荷物は必ず送り届ける」
「…………大した運び屋だ」
ふっと鼻で笑い、メルは最後にこう告げた。
「それじゃあひとつ、君たちを見込んで仕事を頼みたい。届け先は、旧サドレアターミナル、サンドラゴ教会だ」
そして、身体から何かを剥ぎ取るようにしてラウルにぽいと投げる。
それはマキナかオートビークルの部品のひとつのようだった。
「報酬はこれだ。僕とルクスの契約に関するデータが詰まっている。FANTOMにいた頃に埋め込まれた。解析班にフィードバックするためのものだ」
「どうしてこんなもの……」
「元に戻る方法とやらを探しているんだろう? もしかしたら役に立つかも知れない」
その部品を握りしめ、ラウルは顔を上げた。
「……受けてくれるかい?」
「もちろんだ」
メルの顔に、安堵に似た笑みが浮かんだ。
それは彼が初めて見せた、正真正銘の笑顔だったのかも知れない。
「依頼品は――――」
メルを覆っていた光は次第にルクスの身体まで覆い始め、ルクスの胸の核が輝きを増し、そしてそれは本来の主のもとへ還る。
引き寄せられるようにメルの身体へ取り込まれ、更に光り輝く。
依頼品の名を確認し、ラウルはうなずいた。
「――了解だ」
光は、質量を持った風を纏い、ほんの一瞬のホワイトアウトの後、衝撃波が走った。
***
うなされるように、シェリルは眼を覚ました。
「ここは……!?」
なんだか見慣れないコクピットに、固くて座り心地の悪いサドル。
いつか空に放り出された時と同じように、背中にはラウルの胸が当たっていた。
慌てて背筋をピンと伸ばし、コクピットの外の景色を眺め――、
と同時に言葉を失った。
地響きのような轟音と、吹きすさぶ爆風。
どちらも少しずつ大きくなり、背後から徐々にマシンを飲み込んでゆく。
《だめだ、追いつかれる!》
その声はキディのものだ。
どうやらこのマシンはキディのビークル・フォームで、それをラウルが操って逃げているようだった。
――だけど、いったい何から?
余りの速度に風が体温を奪い、露出した耳や指先が痛い。
それなのに嫌というほど背中に感じる熱気に振り返る。
光と風の渦が、目の前に迫っていた。
中心はさっきまでシェリルのいた場所だ。
全速力でラウルは逃げる。だが――。
「あと少しだ!」
《だめだ……! もう、すぐそこに――》
キディとラウルの会話を遠くで聞きながら、シェリルの目には、耳には、全く別のものが感じられていた。
『――結婚しよう』
それは、荒れ狂うセイラー・ミセルの聞かせる幻聴なのか。
『迎えに行くよ。きっと、必ず……!』
それともまた懲りずに昔の夢を見ているのか。
『きっと守る』
「………………うそつき」
その時、渦の中心で、見慣れた影が動いた。
――ドラゴンだ。
ノーマンズ・ランドの住人。
世界を創ったマキナの創造主。
稲光の中、そのドラゴンは悠々と泳ぎ、空へと向かって、
――いや。違う。
目をこする。
一瞬だけ見えたそれは幻視なのか、それとも、さっきまで見えていたものが偽物の世界なのか。
わからない。けれど確かに今、シェリルの瞳はその姿を捉えていた。
「メル……!?」
シェリルは手を伸ばす。
届かないと知って身を乗り出し、さらに手を差し伸べる。
気付いたラウルが慌てて声を荒らげた。
「よ、よせ、シェリル!」
「待って! メル……!」
シェリルがサドルを蹴るのが先だった。
身体が、宙に舞う。
彼女を追って伸ばしたラウルの手はその指先でわずかにシェリルに触れ、空を切った。
シェリルの姿が爆発の渦の中に消えてゆく。
「くそっ――」
《よせ、ラウル――!》
そしてラウルとキディもまた、光の渦に巻き込まれて姿を消した。




