第7話:兜の破砕と、真の聖女の覚醒
――パリンッッッ!!
大気中の水分が一瞬にして凍結し、硝子が砕け散るような凄絶な轟音が広間に炸裂した。
振り下ろされようとしていた近衛騎士の大剣が、刃先から柄に至るまで真っ白な氷の結晶に覆われ、粉々に砕け散る。
騎士は手首を押さえて悲鳴を上げ、後方へと吹き飛ばされた。
「ひっ……?!」
「な、何が起きたのだ?!」
ざわめく貴族たちの前を、青白い冷気の霧が切り裂くように滑り抜けた。
床を踏みしめる乾いた靴音。
現れたのは――夜空を切り取ったような深い群青のローブを翻し、紫紺の双眸に猛吹雪のような怒りを宿した、ジュリアン閣下だった。
「ジュ、ジュリアン様……? 何をなさいますの?!」
エレナ様が青ざめ、扇を取り落としそうになりながら叫ぶ。
「その者は魔導院を脅かす魔女ですのよ! あまつさえ今宵、神聖なる夜会を穢そうとした罪人です! あなたが庇う理由など――」
「黙れ、口汚い嘴を開くな」
氷刃よりも鋭く冷たい一言が、エレナ様の言葉を断ち切った。
ジュリアン閣下はエレナ様にも、玉座の国王陛下やロシュフォール公爵にすら一瞥もくれず、鎖に繋がれた私の前へと歩み寄った。
「閣下……いけません、私に関わっては……!」
床に倒れ伏したまま、私は必死に首を振った。
「私は平気です……! どうか、私のためにご自身の立場を捨てないでください……!」
「私の立場だと?」
ジュリアン閣下は自嘲するように口元を歪めた。
そして、大理石の冷たい床に自ら両膝をつくと、私の身体に巻き付けられていた魔導の鎖に素手を伸ばした。
バチバチと紫色の拘束魔力が閣下の白い指を焼く。けれど閣下は眉一つ動かさず、凄まじい氷の魔力を叩き込んでその鎖を一瞬で凍らせ、手折るように粉砕した。
「アディリア。君のいない名誉など、私にとってはただの燃えるゴミだ」
「閣下……」
「君が書き残していった手紙を読んだ。……私のために身を引くだと? ふざけるな」
閣下の長い指が、私の頭の黒鉄の兜を両側から優しく包み込んだ。
「君がどれほど理不尽に虐げられ、傷つけられてきたか。その痛みを知りながら、何が『筆頭魔導師長』だ。君一人を守れぬ力など、初めから何の価値もない」
周囲の貴族たちから息を呑む音が漏れる。
エレナ様が屈辱と焦燥に顔を歪ませ、絶叫した。
「正気をお失いになりましたの、ジュリアン様?! そのような呪われた鉄兜の醜物を庇うなど……! お父様、衛兵を! その化け物ごと、ジュリアン様を取り押さえなさい!」
「衛兵、動くな」
国王の制止すら掻き消すように、エレナ様の合図で私兵たちが剣を抜いて殺到した。
「死になさい、忌々しい兜女ッ!」
切っ先が迫る。
私を庇うように、ジュリアン閣下が背中を向け、覆い被さるように私を抱きしめた。
その腕の力強さと、伝わってくる確かな体温。
この人は、私を守るために本当にその身を盾にするつもりなのだ。かつて私を愛してくれた母がそうしてくれたように。
――嫌だ。
私のせいで、この気高く優しい人を傷つけさせたくない。
私のために、この人の未来を終わらせたくない。
胸の奥底で、十年間冷え固まっていた何かが、音を立てて爆発した。
「やめてえぇぇッッッ!!!!」
私はジュリアン閣下の腕の中から身を乗り出し、殺到する騎士たちと、高みで見下ろすエレナ様を睨みつけて叫んだ。
「私は魔女なんかじゃない! 呪われてなどいない!!」
広間に響き渡る私の絶叫。
その瞬間、私の頭を締め付けていた黒鉄の兜が、カッと熱い光を帯びた。
「な、なんだ……?! 兜が……光っている……?!」
周囲の騎士たちが足を止め、目を覆う。
十年もの間、どんな槌も刃も受け付けず、外そうとすれば激痛をもたらした鉄の塊が、今、温かな脈動を始めていた。
『――愛しい我が子よ。この子が真に愛する人の手を取るその日まで』
幼い日に耳元で囁かれた、母の最期の祈り。
呪いではなかった。
母は知っていたのだ。いつか私が、誰かを心から愛し、その人のために命をも投げ出そうとする日が来ることを。その真実の愛を捧げる相手に出会うまで、邪悪な欲望や悪意から、私という存在を丸ごと隠し守るための、慈愛の檻だったのだ。
「ジュリアン様……!」
私は目の前の男の胸元を強く掴んだ。
「私は……私は、あなたをお慕いしています! 世界中の誰もがあなたを恐れ、氷の処刑人と呼ぼうとも……私に光をくれたあなたを、魂の底から愛しています!!」
――ピキッ。
澄んだ、ガラスの割れるような微細な音が鳴った。
次の瞬間。
ドォォォォォォンッ!!!!
夜会場の全シャンデリアの光すら霞むほどの、圧倒的な黄金の光が私の頭部から噴れ上がった。
黒鉄の兜が、無数の光の破片となって弾け飛ぶ。
王宮の天蓋を突き破らんばかりに立ち上ったのは、かつて建国神話に語られた初代聖女すら凌駕する、純白と黄金の神聖魔力の奔流だった。
「ひ、ひぃぃぃっ?!」
「な、なんだこの魔力は……?! 息が……神気が満ちていく……?!」
光の嵐が吹き荒れ、立ち塞がっていた私兵たちの邪悪な拘束具や毒の刃が、触れた端から浄化されて消滅していく。
エレナ様のまとう「聖女の衣」が、本物の神聖力に当てられてボロボロと輝きを失い、煤のように色褪せていった。
やがて、まばゆい光がゆっくりと収束していき――。
静寂が戻った大広間の中心に、息を呑む全員の視線が集まっていた。
肩から背中へとこぼれ落ちる、夜露に濡れた烏羽のような艶やかな漆黒の髪。
陶器よりも白く透き通る、傷一つない奇跡のような素肌。
そして、涙をたたえて潤む、夜空の星を宿したような黒真珠の双眸――。
鉄兜の檻から現れたのは、息を呑むほどに気高く、息が止まるほどに美しい、一人の少女の姿だった。
「あ……ああ……」
オルコット伯爵が腰を抜かし、床を這う。
「ア、アディリア……? お前が……アディリアなのか……?!」
「嘘……嘘よ……!」
カメリアが顔を掻きむしって後ずさる。
「あの醜い兜女が……こんな……私より美しいなんて、あり得ないわ……!」
広間中の貴族たちが、言葉を失って立ち尽くしていた。
無能の醜物と嘲笑されていた娘が、王国随一の美貌と、国を揺るがすほどの真の聖魔力を宿した「奇跡の聖女」だったのだ。
だが、私にとって周囲の視線など、どうでもよかった。
恐る恐る手を伸ばし、自分の素肌に触れる。
冷たい鉄の感触は、もうどこにもない。
そして目の前には――私の顔を見つめたまま、紫紺の瞳を限界まで見開き、言葉を失って固まっているジュリアン閣下の姿があった。
「……閣下」
震える声でその名を呼ぶと、閣下の大きな手が、おずおずと私の頬に触れた。
直接触れ合う、肌の温もり。
冷徹無比と恐れられた筆頭魔導師長の瞳に、ポロポロと涙が溢れ出していた。
「……アディリア」
閣下の掠れた声が、私の名を呼ぶ。
「ああ……君だったのか。私の心を奪い、私の世界に光を灯してくれたのは……こんなにも、美しく気高い人だったのか……」
力強く引き寄せられ、私はジュリアン閣下の温かな胸の中へと閉じ込められた。
背後では、偽りの聖女エレナと、欲に眩んだオルコット伯爵家の者たちに、国王の冷酷な断罪の号令が下されようとしていた。




