第5話:雪の夜の誘いと、冷たい噂
廊下での一件から、魔導院の中の空気は目に見えて険悪なものへと変わっていた。
ロシュフォール公爵令嬢であるエレナ様を公然と拒絶し、あまつさえ「私の助手を侮辱することは私自身への侮辱だ」と言い切ったジュリアン閣下。その噂は瞬く間に宮廷の隅々まで行き渡り、若手魔導士たちや事務官たちの視線には、明らかな戦々恐々とした色と、私に対するいっそう濃い嫌悪が混ざり合うようになっていた。
「おい、見たかよ。公爵令嬢様に恥をかかせてまで、あんな鉄兜の化け物を囲うなんて……」
「ジュリアン師長閣下も、研究のしすぎで正気を失われたんじゃないか?」
「エレナ様が黙っているはずがない。今にあの小娘もろとも、足元をすくわれるぞ」
すれ違うたびに投げかけられる嘲笑と舌打ち。
以前の私なら、ただ俯いて縮こまることしかできなかっただろう。けれど今は、執務室に戻ればあの人がいる。机に向かって難しい数式を解きながら、私が淹れたお茶を「美味い」と静かに受け取ってくれるジュリアン閣下がいる。それだけで、どんな冷たい視線も耐え忍ぶことができた。
けれど――平穏を揺るがす波音は、確実に高さを増していた。
本格的な真冬の寒波が王都を覆い、連日細かい雪が窓枠を白く染めていたある日の夜。
いつもならとっくに退庁しているはずの刻限になっても、ジュリアン閣下は執務机のランプを灯したまま、一枚の金箔押しの招待状を見つめていた。
「……閣下、そろそろお茶を替えましょうか」
私が声をかけると、閣下は紫紺の瞳を上げ、静かに手招きをした。
「アディリア、少し隣に来なさい」
「はい……?」
不思議に思いながらデスクの脇へ歩み寄ると、閣下は手元の豪奢な招待状を、私にも見えるように少し傾けた。王室の紋章が封蝋された、年に一度の盛儀――建国記念大夜会の招待状だった。
「来週の満月の夜、王宮の大広間で建国記念大夜会が開かれる。国中の貴族と高位魔導士、そして周辺国の賓客が一堂に会する場だ」
「……ええ、存じております。毎年、国を挙げてのお祭り騒ぎになると伺っております」
私のような追放された平民には、遠い星の世界のお話だ。
そう思って頷いた私に、ジュリアン閣下は信じられない言葉を、あまりにも平然と口にした。
「君に、私と共に出席してもらいたい」
「……はい?」
兜のスリットの奥で、私の思考が完全に停止した。
「わ、私……ですか? 大夜会に?」
「そうだ。私はこれまでパートナーを伴わずに参加してきたが、今年は同伴者を連れていく必要がある。君に出てほしい」
「ご、ご冗談を!」
私は思わず両手を振って後ずさった。
「閣下、私は貴族籍を剥奪された身の上ですし、何より……この姿をご覧ください! 頭に黒鉄の兜を被り、外すことすらできない不気味な女です! そのような晴れがましい社交の頂点に私が現れれば、王族の方々への不敬になりますし、何より閣下の名誉が泥に塗れてしまいます!」
必死に訴える私の声を、閣下は遮らなかった。
ただ、椅子から立ち上がると、一歩、また一歩と私との距離を詰めてくる。
逃げ場を失った背中が書棚に触れた時、閣下の長い手が伸びて、私の肩口のすぐ横の木枠にトン、と置かれた。
至近距離で見つめ合う、紫紺の双眸。
冷徹な「氷の処刑人」の瞳の奥に、揺るぎない、熱を帯びた光が灯っていた。
「私の名誉など、他人のくだらない物差しで測られるものではない」
閣下の低く澄んだ声が、耳朶を震わせる。
「不敬だと騒ぐ者がいれば、私が全て黙らせる。私が隣に立ってほしいと願っているのは、王宮を着飾って練り歩く人形のような令嬢たちではない。……アディリア、君だ」
「閣下……」
「君のその真摯な瞳と、冷たい手で愚直に積み重ねてきた努力を、私は誰よりも知っている。その君が、なぜ顔を隠しているというだけで日陰にいなければならない? ……堂々と私の隣を歩けばいい」
閣下の右手袋が外され、温かい指先が、私の冷たい鉄兜の縁をそっと撫でた。
鉄の冷徹さを溶かしてしまうような、慈しみに満ちた温もり。
心臓が壊れた鐘のように激しく打ち鳴らされる。
(どうして……どうしてこの方は、私のような女に、これほどまでの光を注いでくださるの……?)
涙がこぼれそうになるのを必死で堪えながら、私は震える声で絞り出した。
「……私、ドレスも、舞踏会の作法も……何も持ち合わせておりません」
「ドレスも装飾品も、全て私が手配する。作法など、私の手を取って歩くだけでいい」
ジュリアン閣下はふっと、悪戯っぽく口元を緩めた。
「それとも、私と踊るのは嫌か?」
「そ、そんなこと、あるはずがありません……!」
反射的に否定した私を見て、閣下は満足そうに目を細めた。
「ならば決まりだ。来週の夜会、君の身柄は私が預かる」
それは、あまりにも甘美で、夢のような約束だった。
――だが。
その夢の甘さは、翌日から魔導院を駆け巡り始めた冷酷な現実によって、無惨に踏みにじられることになる。
「聞いたか? 大夜会の夜、国王陛下の御前で、ジュリアン閣下とエレナ様の婚約が正式に勅許されるらしいぞ」
「やっぱりそうか! 公爵家とグランヴェル家の結びつきだ、王家の誰も反対できるはずがない」
「先日の廊下の騒ぎは、エレナ様が可愛らしく嫉妬なさっただけだったのね。本命があの鉄兜の女なわけがないもの」
昼下がり、資料の返却のために立ち寄った大書架の陰で、魔導士たちの囁き声が私の耳を鋭く切り裂いた。
足元から血の気が引いていく。
『国王陛下の勅許による婚約』――。
それは、どれほどジュリアン閣下が拒もうと、臣下である以上は決して覆すことのできない、王命の鎖だ。
エレナ様が去り際に残した言葉が、冷たい毒となって脳裏に蘇る。
『身の程をお知りなさい……あの冷徹な氷の処刑人にとって、格好の研究材料でしかなくてよ』
(あの方は……王命による婚約を前にして、私への同情と、エレナ様への反発から、意地になってあんなお誘いをしてくださったのかしら……?)
私の存在が、ジュリアン閣下の立場を危うくしている。
もし私が大夜会にあの鉄兜のまま現れれば、ロシュフォール公爵家を公然と侮辱したとして、閣下は王宮での居場所を失い、反逆の汚名すら着せられかねない。
夜、自室の狭いベッドで、私は冷たい鉄兜を両手で抱え込み、音もなく涙を流した。
「お母様……私、どうすればいいの……?」
母の形見の兜は、何も答えてはくれない。
ただ冷たく、重く、私の頭を締め付けるだけだった。
大夜会まで、あと三日。
陰謀の牙は、すでに私の足元まで音もなく忍び寄っていた。
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