第4話:筆頭聖女の冷笑と、深まる影
魔導院の正面玄関に鳴り響いた豪奢な馬車の蹄音は、静謐を尊ぶ研究施設を一瞬にして騒然とさせた。
馬車の扉に輝くのは、白百合と黄金の天秤を模した意匠――王国筆頭公爵家にして、代々強大な神聖術師を輩出してきた「ロシュフォール公爵家」の家紋だ。
護衛の神殿騎士たちにかしずかれ、馬車から降り立ったのは、まるで陽光そのものを紡いだかのような輝く金髪と、澄んだサファイアの双眸を持つ令嬢だった。
「エレナ様だ……!」
「当代最高の神聖魔力を持ち、次代の神託を担う筆頭聖女様……」
「なんてお美しいんだ……」
行き交う魔導士たちが次々と立ち止まり、感嘆の息を漏らしながら恭しく頭を下げる。
豪奢な白銀の刺繍が施された聖女礼装を優雅に揺らし、エレナ・ド・ロシュフォール公爵令嬢は、誰にでも愛される完璧な慈愛の微笑みをたたえて歩みを進めていた。
その頃、私はジュリアン閣下の指示で、本塔三階の調合室へ向かうため廊下を小走りで進んでいた。
手には、古代の呪詛文献が収められた重厚な木箱をしっかりと抱えている。
「あら?」
鈴を転がすような、けれどどこか冷ややかな響きを含んだ声が、廊下に響いた。
顔を上げると、神殿騎士たちを引き連れたエレナ様が、ちょうど私の前方で足を止めていた。
周囲の魔導士たちが、サーッと潮が引くように道をあける。
その中心に一人取り残された私は、黒鉄兜の隙間から息を呑み、慌てて会釈をして脇へ寄ろうとした。
「お待ちになって」
エレナ様の手袋をはめた細い指が、扇子を広げて口元を隠す。
サファイアの瞳が、頭の先から爪先まで私を値踏みするように撫で下ろし、やがてその瞳の奥に、隠しきれない侮蔑と嗜虐の色が灯った。
「噂には聞いておりましたけれど……本当に魔導院に紛れ込んでいるのね。鉄屑を頭から被った、薄気味悪い化け物が」
護衛の騎士たちが小さく忍び笑いを漏らす。
通りがかった准魔導士たちも、遠巻きに冷笑を浮かべて立ち止まった。
「……公爵令嬢様。私はジュリアン師長閣下の助手として、職務中退でございます。道を空けていただけますでしょうか」
私が努めて礼儀正しく頭を下げると、エレナ様はふふっと喉を鳴らして笑った。
「ジュリアン様の助手? 笑わせてくださるわ。あの方の完璧な執務室に、あなたのような無能で無骨な醜物が侍っているなど、王国の恥さらしでしてよ」
エレナ様は優雅な足取りで私との距離を詰めると、周囲には聞こえないような微かな囁き声で、けれど毒の滴るような声音で耳元に落とした。
「身の程をお知りなさい、平民の蛆虫。ジュリアン様はね、次期宰相の座と公爵家の未来のために、私と結ばれることが運命づけられたお方よ。あなたのような悪趣味な実験台が、そばに侍っていい殿方ではないの」
「実験台、などでは……」
「あら、違うとでも? 呪具に寄生された無能な娘なんて、あの冷徹な氷の処刑人にとって格好の研究材料でしかなくてよ。少し優しくされたからといって、女として扱われているとでも錯覚してしまったのかしら?」
心臓を氷の刃で刺されたような痛みが走った。
否定したい。ジュリアン閣下はそんな冷酷な理由で私を助けてくれたのではないと叫びたい。
けれど、かつて「無能」「面汚し」と罵られて捨てられた記憶が、私の舌を呪いのように縛り付ける。
エレナ様は勝ち誇ったように微笑むと、手にした扇子を私の抱える木箱の角へ、わざとらしく引っ掛けた。
「おっと……手が滑ってしまいましたわ」
「あっ……!」
ガシャンッ――!
派手な音を立てて木箱が床に落ち、蓋が外れて貴重な羊皮紙の束が廊下に散乱した。
水銀を含んだインク壺が割れ、黒い染みが床と、私のスカートの裾へと無残に広がっていく。
「まあ、不手際なこと。貴重な魔導書を傷つけるなんて、助手の資格すらございませんわね」
エレナ様はスカートの裾をわずかに持ち上げ、汚れた床を避けるようにして一歩退いた。
「拾いなさいな。素手で劇薬のインクを拭き取れば、少しはあなたの役に立たない頭も冴えるかもしれませんことよ?」
周囲の騎士たちから、クスクスと品性のない笑い声が上がる。
誰も助けてはくれない。侮辱と惨めさで、鉄兜の奥で視界が滲む。
私は歯を食いしばり、割れた陶器の破片を拾おうと、震える指を伸ばした――その時。
カツン、と鋭い靴音が一つ、廊下に木霊した。
それだけで、空間の温度が十度も下がったかのような凄まじいプレッシャーが周囲を支配する。
「――私の助手に、随分と寛大なお指導をしてくださっているようだな、エレナ令嬢」
凍てつくような低音。
現れたのは、群青のローブを翻し、紫紺の双眸に猛吹雪のような冷気を宿したジュリアン閣下だった。
「ジュ、ジュリアン様……!」
エレナ様の表情が一瞬で可憐な淑女のものへと塗り替えられる。
彼女は愛らしく眉を寄せ、胸元に手を当ててみせた。
「まあ、ジュリアン様。ちょうどあなたのもとへ向かう途中でしたの。ですが、こちらの助手の方が足元もおぼつかない様子で粗相をなさいましたので、少し注意を差し上げていただけですわ」
周囲の取り巻きたちも調子を合わせて頷く。
完璧な嘘と、力関係を利用した隠蔽。
平民の雑用係である私が何を言ったところで、公爵令嬢の言葉が正義になるのがこの王宮の理不尽な現実だった。
(閣下……私のせいで、また閣下のお立場を悪くしてしまう……)
私が俯き、割れた破片を抱え込もうとした、その瞬間――。
サッと目の前に影が落ちた。
ジュリアン閣下が、周囲の視線も、床に広がる毒インクの汚れも一切気に留めず、私の前に片膝をついたのだ。
「閣下……?!」
「手を出すな、アディリア。破片で指を切る」
閣下は手袋を外すと、私に触れようとしたエレナ様の視線を遮るように、私の汚れた両手を自らの大きな両手で包み込んだ。
手袋越しではない、閣下の肌の熱がダイレクトに伝わり、私の震えがピタリと止まる。
閣下はそのまま顔を上げ、冷酷無比な氷刃の眼差しをエレナ様へと突き上げた。
「私の執務室の人間を辱めることは、私自身への侮辱と同義だ。……ロシュフォール公爵令嬢、何か申し開きはあるか?」
「なっ……ジュリアン様?! たかが、たかがこんな平民の兜女を庇うために、私にそのような口を利かれるのですか?!」
エレナ様の美しい顔が、信じられないものを見たかのように歪む。
けれどジュリアン閣下は、一切の躊躇なく、残酷なほど平然と言い放った。
「彼女は私の専属助手であり、私が認めた研究の伴侶だ。貴様のような無礼な部外者に、指一本触れさせる気はない」
廊下が、水を打ったように静まり返った。
エレナ様は屈辱に顔を真っ赤に染め、扇子を握りつぶしそうなほど力を込めてジュリアン閣下を、そして私の鉄兜を睨みつけた。
「……後悔なさいますわ、ジュリアン様。来月の建国記念大夜会……そこで誰が真にあなたの隣に立つべき女か、思い知らせて差し上げますこと!」
エレナ様は激しい足音を立てて去っていった。
静まり返った廊下で、ジュリアン閣下は静かに立ち上がり、私の兜のスリットを覗き込んだ。
「怪我はないか、アディリア」
「は、はい……ですが、私のせいでエレナ様と……公爵家とのご関係に罅が……」
申し訳なさで消え入りそうな私の声を、閣下は優しく遮った。
その手袋をはめた指先が、私の黒鉄兜の冷たい側面に、そっと触れる。
「気にするなと言ったはずだ。……君がどれほど理不尽に虐げられようと、私が全て退けてみせる」
至近距離で囁かれたその声音は、甘く、深くて、私の胸の奥を激しく締め付けた。
けれど――去り際のエレナ様の憎悪に満ちた瞳が、不吉な影を落として離れなかった。
大夜会まで、あと一ヶ月。
私たちは、巨大な陰謀の渦へと巻き込まれようとしていた。




