第3話:冷徹師長専属の「兜の助手」
ジュリアン閣下と地下書庫で出会ったあの日から、私の生活は一変した。
翌朝、普段通りボロ布を手に書庫へ向かった私を待ち受けていたのは、事務官からの青天の霹靂たる辞令だった。
「アディリア、お前……一体ジュリアン師長閣下に何をしたんだ? 本日付で廃棄区画の雑用を免じ、師長直属の『特別管理助手』に任命するとの通達が、閣下直々の署名入りで下りてきたぞ」
目を丸くして震える事務官から渡された羊皮紙には、確かに流麗な文字で私の名と、最上階の執務室への出頭命令が記されていた。
(特別管理助手……? 私のような、身分も定かでない兜被りの娘が……?)
半信半疑のまま、私は案内された中央本塔の最上階へと向かった。
厳重な警備の騎士たちを通り抜け、重厚なマホガニーの扉をノックする。
「入れ」
澄んだ低い声に応えて部屋に入ると、そこは壁一面が天井まで届く本棚で埋め尽くされた、壮麗な執務室だった。
大きな執務机の向こうで羊皮紙に羽ペンを走らせていたジュリアン閣下が、顔を上げて私を見据えた。
その紫紺の双眸は、相変わらず感情の起伏を一切見せない、研ぎ澄まされた刃のようだ。
「来たか、アディリア」
「は、はい。筆頭魔導師長閣下、先ほどの辞令について伺いに参りました。私のような者が、閣下の専属助手など務まるはずがありません。何か手違いでは……」
恐縮して深く頭を下げる私に、ジュリアン閣下はペンを置き、静かに立ち上がった。
「手違いではない。昨日、君が整理した廃棄書庫の目録を検分した」
閣下は手元の一冊の台帳を指先で叩いた。私が隙間時間に、散乱していた古文書のタイトルと損傷度合い、属性分類を走り書きでまとめたメモだった。
「古代文字の綴り分け、年代の判別、さらには魔素の変質危険度に至るまで、的確極まりない分類だった。並みの准魔導士でもこれだけの作業には数日を要する。……あれを誰に教わった?」
「……亡き母が、本を好む人でしたので。幼い頃、母の手ほどきで様々な書物を読みました」
父や義母からは「金にもならぬ無駄な知識」「気味の悪い本の虫」と罵られ、捨てられた思い出。
けれどジュリアン閣下は、ふっと薄い唇の端をわずかに緩めた。
「立派な教育を受けられた証だな。私の執務室には、王国中から集まる解読不能な古文書や、呪詛の込められた危険な文献が集積している。愚かな功名心でこれらに触れ、魔力中毒で倒れる助手が後を絶たなかった。だが――」
閣下は私の前まで歩み寄ると、私の頭を覆う黒鉄の兜を、まじまじと見下ろした。
至近距離で漂う、清冽な白檀と冷たい魔力の香り。心臓が跳ね上がる。
「君のその兜は、外的な魔力干渉を一切遮断している。昨日の廃棄書庫の残留毒気すら無効化していたようだが……呪具か?」
「……分かりません。幼い頃、母が祈りと共に私に遺したもので、決して脱ぐことができないのです。外そうとすると、頭が割れるような痛みが走って……」
「なるほど。力づくの解呪を拒む強力な防護障壁、あるいは誓約型の封印か」
閣下は顎に手を当てて静かに呟いた後、紫紺の瞳を真っ直ぐに私のスリットの奥へと合わせた。
「素性は問わぬ。君の魔力耐性と知識、そして何より昨日の真摯な働きぶりを買い、私の助手として採用したい。受けてくれるか?」
「わ、私で本当にお役に立てるのなら……喜んでお仕えいたします!」
深く一礼した私に、閣下は「うむ」と短く頷いた。
こうして始まった専属助手としての仕事は、多忙を極めた。
難解な古魔導書の分類、夜遅くまでの資料探索、そして閣下が没頭する実験の補助。
魔導院の貴族魔導士たちは、相変わらず私の姿を見ては陰口を叩いた。
「おい、見たか。師長閣下が『鉄兜の化け物』を侍らせているぞ」
「気まぐれな毒薬の実験台にでもする気だろう。氷の処刑人に拾われた哀れな生贄だな」
そんな嘲笑が耳に入るたび、胸がチクチクと痛んだが、ジュリアン閣下は一切意に介さなかった。
それどころか、閣下の無骨な気遣いは、日を追うごとに私の頑なな心を溶かしていった。
ある日の昼下がり、分厚い魔導書を抱えて執務室に戻ると、机の上に湯気を立てる陶器のカップと、焼きたての甘いベリータルトが置かれていた。
「……あの、閣下? これは……」
「昼食を取るのを忘れていただろう。脳の疲労には糖分が必要だ」
「で、ですが、私のような下働きが閣下の執務室で間食など……」
「命令だ、食べろ。助手が倒れられては私の研究が滞る」
冷徹な口調で言いながら、閣下は自らの紅茶に視線を戻してしまった。
私は恐る恐る兜のスリットからタルトを口に運んだ。甘酸っぱい果実の味が、口いっぱいに広がる。こんなに温かくて美味しいものを食べたのは、母が亡くなって以来だった。
またある時は、閣下が徹夜で論文を書き上げ、机に突っ伏して仮眠を取っていた時のこと。
風邪を引いては大変だと、私がそっと肩に毛布をかけようとした瞬間、閣下の長い指が私の手首を掴んだ。
「……っ」
咄嗟の防衛本能だったのだろう。けれど、相手が私だと分かると、閣下の紫紺の瞳から鋭さがふっと消え、どこか眠たげで柔らかい光が灯った。
「……アディリアか」
「も、申し訳ありません、起こしてしまって……!」
慌てて手を引こうとしたが、閣下は私の手首を離さなかった。
手袋越しではない、閣下の素肌の温もりが、私の冷えた手首にじわりと伝わってくる。
「……君は、いつも冷たい手をしているな。夜の執務室は冷える。もっと厚着をしなさい」
「閣下……」
「君がこの部屋に来てから、妙に雑音が消えて落ち着く。……悪くない」
掠れた寝起きの声でそう呟くと、閣下は私の手首をそっと解放し、照れ隠しのように顔を背けて書類を整え始めた。
誰からも恐れられる「氷の処刑人」。
けれどその奥にあるのは、不器用で、けれど誰よりも純粋な温もりだった。
鉄兜の奥で、私の頬がカッと熱くなる。
身の程知らずだと分かっていても、この人のそばにいられる日々に、私は少しずつ、けれど抗えない恋情を抱き始めていた。
しかし、平穏な時間は長くは続かなかった。
数週間後、魔導院の静寂を切り裂くように、豪奢な馬車が正面玄関に乗り付けてきたのだ。
馬車の扉に刻まれていたのは、王国の筆頭公爵家――そして、この国で最も美しく高貴とされる「筆頭聖女」の家紋だった。




