第2話:鉄兜の雑用係と、氷の筆頭魔導師長
オルコット伯爵邸を追い出された私は、冬の冷たい風が吹き荒れる王都の石畳をひたすら歩いていた。
手元にあるのは、着替えを詰めた小さな鞄と、端金の銀貨が数枚だけ。
雨風を凌ぐ宿を借りようにも、宿屋の主人たちからは扉を開けた瞬間に塩を撒かれた。
「おいおい、なんだその気味の悪い鉄兜は! うちは怪しい賞金首や魔女を泊める宿屋じゃないんだ、とっとと消えな!」
「ひっ……! 顔も見せない不気味な女ね、衛兵を呼ばれる前に立ち去りなさい!」
宿だけではない。日銭を稼ごうと酒場の皿洗い、織物工房の雑用、青果市場の荷運びと片っ端から掛け合ったが、返ってくるのは冷笑と罵倒ばかりだった。
「その頭じゃ客が気味悪がって逃げちまうよ」
「力仕事なら屈強な男を雇うさ。鉄の塊を被った細腕の小娘なんぞお断りだね」
どれだけ頼み込んでも、誰も私の手を取ってはくれない。
頭の黒鉄兜は、叩いても引いてもびくともせず、外そうとすれば脳を抉られるような激痛が走る。
母の残した言葉が「守り」なのだとしたら、なぜ世界はこれほどまでに冷たく私を拒絶するのだろう。
三日目の夕暮れ。
冷たい小雪がちらつき始めた頃、寒さと空腹で感覚の麻痺しかけた足を引きずりながら、私は王都の北端にそびえ立つ巨大な尖塔群――「王立魔導院」の裏門へと辿り着いていた。
門の脇の掲示板に、雨風に晒されて端の破れた一枚の羊皮紙が貼られていたのだ。
『急募:魔導書庫および廃棄区画の清掃・資材運搬係。経験不問、体力のある者。危険手当・住み込み食事付き』
「ここなら……」
魔導院の廃棄区画といえば、実験で暴走した残留魔力や劇薬の煙が漂う危険な場所として知られ、普通の市民や侍女は決して近寄らないと聞いたことがある。
背に腹は代えられない。私は躊躇うことなく、受付の小さな鉄扉を叩いた。
対応に出てきた初老の事務官は、私の異様な姿を見るなりあからさまに眉をひそめた。
「……おいおい、娘さん。頭のそれは何かの悪ふざけか? ここは魔導士たちの研究施設だぞ」
「ふざけてなどいません。家を追われ、仕事を探しているのです。どんな危険な汚れ仕事でも、力仕事でもいたします。どうか雇っていただけないでしょうか」
頭を下げて必死に懇願する私を、事務官は値踏みするように眺めた後、鼻で笑った。
「まあいい、あそこの廃棄書庫は埃と魔力焼けが酷くて、昨日も新入りが逃げ出したばかりだ。一週間持てば奇跡だがな。……ついてこい」
案内されたのは、地下深くにある薄暗い巨大書庫だった。
空気中にはピリピリとした刺激臭が漂い、床には割れたガラス管の破片や、黴びた羊皮紙がうずたかく積もっている。常人であれば数分で喉を痛め、咳き込んでしまうような悪環境だ。
だが、私にとってこの場所は、まさに天の恵みだった。
頑丈極まりない黒鉄兜のおかげで、頭上から分厚い古文書が落ちてきても痛くも痒くもない。兜のスリットから吸い込む空気は、なぜか魔力の毒気が濾過されているようで、息苦しさすら感じなかったのだ。
「よし……! 今日からここが私の居場所よ」
私は腕まくりをし、箒と雑巾を手に取って一心不乱に掃除を始めた。
散乱した魔導書を年代順と属性別に分類し、棚の埃を払い、床の劇薬の染みを薬草液で丹念に磨き上げる。
伯爵邸にいた頃、義母たちから押し付けられてきた数々の言いつけに比べれば、誰の悪意にも晒されずにただ目の前の作業に打ち込める時間は、むしろ心休まるものだった。
――そうして、がむしゃらに働き始めて三日目の午後。
「おい、新入りの兜女!」
突如、地下書庫の扉が乱暴に開け放たれた。
現れたのは、青いローブを着た若手の准魔導士たち数名だった。彼らは手にした大量の書類の束を、私の足元へ放り投げた。
「資材課の連中から聞いたぞ、薄気味悪い鉄兜の娘が紛れ込んでいるってな。お前のような平民の無能が、神聖な魔導院の敷地に足を踏み入れるだけでも不愉快なんだよ」
「……申し訳ありません。ですが、私は事務官様から正式に雇われております」
「口答えするな! これだけの書類を本塔の最上階まで一人で運べ。落としたり汚したりしたら即刻首だからな!」
不条理な言いがかりだと分かっていても、職を失うわけにはいかない。
私が無言で書類を拾い集めようとした、その時――。
「――騒々しいぞ。地下区画で何を喚いている」
背後から響いたのは、凛と張り詰めた冬の氷を思わせる、静かで底冷えのするような声だった。
准魔導士たちが息を呑み、血の気を引かせて振り返る。
階段を音もなく降りてきたのは、夜空を溶かしたような深い群青のローブを纏った青年だった。
流れるようなプラチナブロンドの髪に、彫刻のように研ぎ澄まされた冷涼な美貌。
そして何より、見る者を射竦めるような鋭い紫紺の双眸――。
「ひっ……ジュ、ジュリアン魔導師長閣下……!」
若手魔導士たちが直立不動になり、震え上がっている。
ジュリアン・グランヴェル。
建国以来最強と謳われ、感情を一切交えずに王宮の難事件を処理することから「氷の処刑人」と恐れられている、王立魔導院の筆頭魔導師長その人だった。
ジュリアン閣下は冷徹な眼差しで准魔導士たちを一瞥し、足元に散らばる書類に視線を落とした。
「初級の記録整理すら雑用に押し付け、大声を上げて職務を放棄するか。……貴様らの怠慢は、次回の昇格査定に反映させておく」
「そ、そんな……! 閣下、この女が兜を被った怪しい者でして――」
「立ち去れ。二度言わせるな」
氷刃のような一言に、男たちは悲鳴を呑み込みながら蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
静まり返った地下書庫に、私と、筆頭魔導師長閣下の二人だけが取り残される。
あまりの威圧感に、私は鉄兜の中で小さく息を潜めた。
(この方も、私のこの兜を見て『不気味な化け物』と追い出すのかしら……)
覚悟を決めて身構えた私の前で、ジュリアン閣下はゆっくりと屈み込み、床に落ちていた書類を自ら拾い上げると、私の手元へと差し出した。
「怪我はないか」
「え……?」
予想もしなかった静かで穏やかな問いかけに、私は兜のスリット越しに目を丸くした。
「……あ、あの、ご迷惑をおかけしました。私はただの雑用係で、頭にこのような兜を被っておりますが、決して怪しい者では……」
恐る恐る弁明する私を、ジュリアン閣下は紫紺の瞳で見つめた。
その視線には、周囲の人間が向けてくる嫌悪も、嘲笑も、蔑みも欠片ほど含まれていなかった。ただ純粋に、私の瞳そのものを射抜くような深い眼差しだった。
「気にするな。神聖な研究の場において問われるのは、身なりや装飾ではなく、その者が果たすべき役割の誠実さだ」
閣下は書庫を見渡し、完璧に整頓された棚と磨き上げられた床に、わずかに満足げな色の光を宿した。
「……見事な手際だ。この区画がこれほど整然としたのは数年ぶりに見る」
「閣下……」
「君がこの書庫の管理者だな。名前は?」
「アディリア、と申します」
私が名乗ると、ジュリアン閣下は氷を溶かしたように、ほんの微かに口元を緩めた。
「よくやってくれた、アディリア。……今後、何者かが君の職務を不当に妨害するようなことがあれば、直接私の執務室へ報告に来るといい」
そう言い残すと、閣下は優雅にローブを翻し、足音もなく階段を上っていった。
胸の奥が、トクンと跳ねる。
生まれて初めて、この黒鉄の兜ではなく、私の「行い」を真っ直ぐに見て認めてくれた人。
冷たい地下書庫の空気が、ほんの少しだけ温かく感じられた。




