第6話:夜の静寂と、深まる絆
ガルスを退けた翌日、救護院には昨日以上の静けさと穏やかな時間が戻っていた。
汐里が記録したデータを元に、経口補水液での加療と東地区の特定の井戸の使用制限を行った結果、新たな重症者の発生はピタリと止まり、多くの患者が順調に快方へと向かっていたのだ。
「汐里様、本当になんとお礼を言えばいいか……!」
「あのお方のおかげで、息子が死なずに済みました!」
すれ違う患者や家族から次々と頭を下げられ、汐里は気恥ずかしさに頬を染めながらも、深く一礼を返した。自分の差し出した知識が、確かにこの異世界で誰かの命を繋いでいる。その確信は、見知らぬ世界へ投げ出された彼女の不安をゆっくりと溶かしていった。
「すっかり王都の『小さな聖女様』だな」
救護院からの帰り道。沈みかけた夕日によって橙色に染まる馬車の中で、隣に座るセドリックがくすりと微笑んだ。
「もう……聖女なんて大げさなものじゃないわ。私はただ、データを取って当たり前の手当をしただけなんだから」
「ふっ……その謙虚なところも、昔と変わらないな」
セドリックは愛おしさを隠そうともせず、汐里の手を包み込むように握りしめた。分厚い指先が、汐里の小さな指の間に滑り込み、深く固く絡み合う。
「だが、ガルスやその背後にいる黒幕が、このまま黙っているとは思えない。君が導き出した『東地区の井戸』と『毒』の繋がり……あれは奴らの喉元に突きつけられた刃そのものだ」
セドリックの黄金色の瞳が、騎士としての冷徹な光を宿す。
「騎士団の密偵に、ガルスと繋がる王都の商人、そして東地区の利権を握る貴族の動きを監視させている。……俺がついていながら、奴らに後れをとるような真似は絶対にさせない」
「セドリック……無理はしないでね」
「君という宝物があるんだ。油断などするものか」
セドリックは引き寄せた汐里の手の甲に、すっと深々と熱い唇を押し当てた。吐息が肌を滑り、汐里の背筋に甘い痺れが駆け抜ける。
「君を守り抜くことこそが、俺の全存在をかけた使命だ」
その夜。
セドリックの屋敷の私室で、汐里は与えられた執務机に向かい、今日集めた患者たちの経過観察記録を整理していた。
(経口補水液で症状が劇的に改善したということは、やっぱり『重金属中毒』による急性の脱水と消化器症状で間違いない……。
でも問題は、水に混ざっていた毒が何なのか……そして、ガルスが配っていた『魔力回復薬』の正体ね)
日本から持ってきた愛用の臨床用メモ帳に、症状のパターンをペンで書き込んでいく。
集中するあまり時間を忘れていた汐里の肩に、ふわりと温かい毛布が掛けられた。
「……まだ起きていたのか。根を詰めすぎるなと言っただろう」
いつの間に寄ってきたのか、セドリックが後ろから汐里を包み込むように覗き込んでいた。
重い甲冑を脱ぎ、部屋着の黒い服姿になった彼は、普段の威厳ある騎士団長というよりも、どこか生々しい男の体温と、あの甘い香木の香りを強く漂わせている。
「あ……セドリック。ごめんなさい、もう少しでまとめ終わるから……」
「ダメだ。夜はもう遅い」
セドリックの大きな手が、汐里の手から羽ペンをそっと取り上げ、卓上に置いた。
そのまま拒む隙も与えず、彼は汐里の細い身体を軽々と抱え上げると、部屋の中央にある大きなベッドへと運んでいく。
「きゃっ……! セ、セドリック……!?」
突然の浮遊感に驚き、汐里は咄嗟に彼の首元へしがみついた。
大人の男の厚い胸板、衣服越しに伝わる情熱的な心臓の鼓動。近すぎる顔立ちに、汐里の顔が一瞬で爆発したように赤くなる。
「自分で歩けるわ……っ!」
「大人しく捕まってろ。今日は君を一日中、他の者の視線から守るために気が気じゃなかったんだ。少しは俺に甘えさせろ」
低く甘い声で囁きながら、セドリックは汐里をふんわりとした羽毛のベッドの上にそっと横たえた。
逃げ出そうとした汐里の左右に両手を突き、セドリックが上から覆いかぶさるような体勢をとる。
「あ……」
黄金色の瞳が、夜の暗がりの中で怪しく、けれどどこまでも深く汐里を見つめていた。逃げ場のない甘い密室。彼の吐息が、汐里の唇にかすかに触れるほどの至近距離で落ちる。
「14年前……君を一人あの部屋に残して、俺だけがこの世界へ引き戻されたあの日から……俺の夜は止まったままだった」
セドリックの分厚い指先が、汐里の頬を撫で、乱れた髪を優しく耳へと掛け直す。
「君を置いて去ってしまった悔しさと、二度と逢えないかもしれないという絶望。暗闇の中で目をつむるたび、君の笑顔と、触れた温もりだけを何度も思い出していた」
「セドリック……」
「だが今、こうして君が俺の腕の中にいる。君の息遣いが聞こえ、温もりに触れることができる……。汐里、俺のこの14年間を、君の愛で満たしてくれないか」
一歩も引かない、濃厚で一途な情念。
大人の男としての色香と、少年時代から変わらない自分へのひたむきな愛が混ざり合い、汐里の胸を激しく揺さぶる。
(この人は……私を一人にしてしまったことをずっと悔やんで、私だけに逢うために14年間を生きてきてくれたんだ……)
異世界への戸惑いも、未知の事件への恐怖も、彼の腕の中にいると不思議と消えていく。
汐里は溢れ出る愛おしさに耐えかね、そっと自分の小さな手を伸ばすと、セドリックの頬へ触れた。
「セドリック……私、ここにいるわ。もう一人じゃないし、どこにも行かない……」
「……汐里……っ」
汐里の言葉に、セドリックの瞳が一瞬目を見開かれ、次の瞬間、感極まったように細められた。
彼は我慢がきかなくなったように顔を寄せ、汐里の額、頬、そして熟した果実のような唇へと、慈しむように甘く、深いキスを降らせていった——。




