第4話:未知の壁と、差し伸べられた手
セドリックが用意してくれた重厚な黒い馬車に揺られ、二人は王都の一角にある救護院へと向かっていた。
車内には、セドリックが羽織らせてくれた騎士用クロークから立ち上る、甘く深い香木の香りが充満している。
向かい合わせではなく、当然のように隣に座ったセドリックは、移動中もずっと汐里の手を包み込むように握りしめていた。分厚く熱い彼の掌から伝わる体温が、汐里の緊張をかすかに和らげてくれる。
「無理はするな。何があっても、俺が君の盾となる」
「ええ……ありがとう、セドリック」
力強い言葉に頷きながらも、汐里の胸の奥には一筋の不安が渦巻いていた。
いくら日本で製薬会社の中央研究所に勤め、臨床データを扱っていたとはいえ、ここは文化も物理法則も異なる異世界だ。自分の知識がどこまで通用するのか、現場を見るまでは分からない。
馬車が停止し、セドリックに腰を支えられながら降り立つと、そこは石造りの巨大な館——王立救護院の前に到着していた。
重々しい扉を開けて一歩足を踏み入れた瞬間、汐里は鼻をつく独特の匂いと重苦しい雰囲気に気圧された。
「う……うぐっ……苦しい……っ」
「痛む……全身の関節が壊れるように痛むんだ……っ!」
石造りの広い大広間に無数の簡易ベッドが並べられ、そこには苦痛に顔を歪め、身をよじる人々が横たわっていた。うめき声と喘ぎ声が反響し、空気全体がどんよりと重く沈んでいる。
「団長! お越しくださったのですね!」
出迎えたのは、先ほど館へ知らせに走った副団長のライナーだった。彼は依然としてセドリックの傍らに立つ汐里に不審と驚きの眼差しを向けつつも、事態の切迫さからすぐに現場の状況を報告し始める。
「病状は深刻です。本日搬入された患者たちも、急速に『魔力』が低下し、衰弱が進んでおります。宮廷薬師のガルス様が特別に調合された高価な『魔力回復薬』を投与し続けておりますが……一向に効果が現れません」
「ガルスがか……」
セドリックの表情が冷たく陰る。
汐里はセドリックの手をそっと離すと、患者たちのもとへ駆け寄った。
白衣のポケットからいつもの臨床用メモ帳とペンを取り出し、ベッドの傍らにかがみ込む。
(落ち着いて、汐里。研究者として、観察するの……!)
まずは問診と視診。汐里は横たわる青年の手首を取り、脈を測り始めた。
(脈拍はやや速いけれど、規則的。皮膚の乾燥が見られる……。熱は……ないわね)
感染症特有の高熱がない。そして、患者の顔色や目の落ちくぼみ方、唇の乾きを見る限り、重度の脱水症状を起こしているのは明らかだった。
しかし——重金属中毒の仮説を確認しようと、彼の腹部や腕の触診を試みた瞬間、汐里は「異質」な感覚に襲われた。
(……えっ……!? なに……これ……?)
患者の肌に触れた手のひらに、かすかなピリピリとした不快な振動が伝わってきたのだ。
現代の人間には存在しない、まるで細胞の奥底から何かが急速に漏れ出し、空っぽになっていくような感覚。
「うあ……っ、身体の……『魔力』が……抜けていく……っ」
青年が苦しげに喘ぐ。
(これが……『魔力』の枯渇……!?)
汐里の指先がピタリと止まった。
頭の中で、これまで学んできた有機化学、生化学、薬理学の知識が目まぐるしく駆け巡る。けれど、いくら思考を巡らせても、現代の医学書や論文のどこにも「魔力が抜ける」という現象の機序など書かれているはずもなかった。
(分からない……! 手足の痺れや激しい腹痛は、重金属中毒の症状とすごくよく似ているのに……この『魔力が失われていく現象』が何なのか、私の持っている知識じゃまったく捉えきれない……!)
自分には、この世界の人々が使うような鑑定スキルも、便利な治癒魔法もない。
異世界に召喚されたからといって、一瞬で万能の特効薬を作り出せるわけでもない。ただの現代の製薬研究員でしかない自分の無力さに、汐里の胸がぎゅっと痛むほど締め付けられた。
(一目で原因を見抜いて助けられるなんて……甘かった。私の知識だけじゃ、これがただの毒なのか、本当に未知の病気なのか……判断すらつかないじゃない……!)
苦しむ患者を前にして無力感に苛まれ、汐里は唇をギュッと噛みしめた。落ち込む顔を隠すように俯いた、その時——。
肩に、ぽんと温かく大きな手が置かれた。
「汐里。焦る必要はない」
低く、深く、耳元に届く優しい声。
セドリックが寄り添い、大きな体躯で周囲の視線から守るように背中を支えてくれた。彼の手から伝わる灼熱のような体温と、あの甘い香木の香りが包み込み、強張っていた汐里の身体からすっと力が抜けていく。
「でも、私……自分の知識があれば何か分かるかもしれないなんて、思い上がっていたわ。魔法も魔力も分からない私が口を出しても、足を引っ張るだけなんじゃ……」
「馬鹿なことを言うな」
セドリックは愛おしそうに眉をひそめると、自らの大きな手で汐里の冷たくなった頬を優しく包み込んだ。分厚い親指で、すっと頬を撫でる。
「見知らぬ世界に召喚されたばかりだというのに、これほどまでに目の前の人間を助けようと必死になれる者を、誰が笑うものか。君が分からないなら、俺が君の目となり足となろう。……俺にできることを言え。何でも命じるといい」
「セドリック……」
「騎士団の者を総動員して、患者たちの『食べ物』や『飲んでいる水』の共通点を調べさせようか? それとも、王都中の試薬や文献をすべてここに運ばせるか?」
自分が未知の壁にぶつかり、落ち込んでいることを一切責めず、丸ごと受け入れた上で「全面協力する」と背中を押してくれる大人の包容力。
セドリックのどこまでも力強く、甘く澄んだ黄金色の瞳に見つめられ、汐里の胸の奥がじんわりと熱くなった。
(……そうよね。一発で原因が分からないなら、泥臭くデータを集めて試行錯誤すればいいんだわ。分からないからこそ観察して、データを分析する……それが、私が研究室でずっとやってきたことなんだから!)
深く息を吐き出し、汐里は自らの顔を両手で叩いて気合を入れた。そして、しっかりとした力強い眼差しでセドリックを見つめ返す。
「……ありがとう、セドリック。私にできることからやるわ。お願いがあるの」
「ああ、何だ?」
「原因を特定するまでの間、患者さんたちの体力を保つために『対症療法』をしたいの。まずは、激しい下痢と汗で失われた水分を補うために、きれいなお湯と塩、それから砂糖を用意してもらえる? それと、患者さん一人ひとりの毎日の症状の変化を記録する紙とインクもほしいの」
「分かった。すぐに用意させよう」
セドリックが即座にライナーへ鋭い指示を飛ばすと、副団長は驚きつつも一礼し、騎士たちを率いて動き出した。
それから汐里は、セドリックの全面的なサポートを受けながら、救護院での地道な看護と手探りの調査を開始した。
準備された塩と砂糖、清浄なぬるま湯を正確な比率で配合し、即席の「経口補水液」を作成する。
「おじさん、これをゆっくり、少しずつ飲んでみてください」
「お、お嬢ちゃん……これは……?」
「身体から失われたお水と塩分を補うお薬です。苦しいでしょうけれど、一口ずつ……」
激しい腹痛に苦しんでいた老人に少しずつ飲ませると、数時間後、浅かった彼の呼吸が徐々に落ち着き始めた。
「お嬢ちゃん……不思議だ……。お腹の痛みが……少し和らいで、身体が軽くなってきたよ……」
「よかった……! 無理をせず、横になっていてくださいね」
一発で病気を治す魔法の薬ではない。けれど、適切な水分補給と、痛みが和らぐ体位の工夫、衛生環境の改善という地道な対症療法によって、苦しんでいた患者たちの表情にほんのわずかだが生気が戻り始めた。
夕刻になり、救護院に静けさが戻り始めた頃。
汗を拭いながら患者たちの記録をメモ帳に書き込んでいた汐里の手元に、すっと大きな影が落ちた。
「がんばり屋の俺の研究員さんだな。……少しは肩の力が抜けたか?」
セドリックが汐里を壁際の物影へとそっと誘うと、清潔な布で彼女の額に浮かんだ汗を優しく拭い取ってくれた。
「ええ……セドリックが手伝ってくれたおかげよ。一人だったら、きっと自分の無力さに潰れて諦めてたわ」
「俺を頼ってくれて嬉しいよ。……君がこの世界で挫けそうになった時は、いつだって俺が支える」
低く甘い声で囁きながら、セドリックは汐里の手をとると、その指先に深々と愛おしさを込めたキスを落とした。唇から伝わる熱い温度と感触に、汐里の心臓がトクトクと跳ね上がる。
見知らぬ異世界で未知の病という壁にぶつかりながらも、試行錯誤の末に芽生え始めた確かな手応え。
そして、一歩一歩壁を乗り越えるたびに深まっていく、二人だけの絶対的な絆。
汐里が地道に集め始めた「患者たちの食事と生活環境の記録」という臨床データこそが、やがて王都を揺るがす「魔力枯渇症」の裏に隠された**重大な矛盾と陰謀**を浮き彫りにすることになるのだった。




