第3話:密やかな温度と、甘やかな束縛
「君の夢を奪った俺を、許さなくていい。……だが、君を二度と手放すつもりもない」
彼の低く掠れた声が、耳腔を甘く痺れさせる。
息がかかるほどの至近距離。汐里の頬を撫でるセドリックの大きな手からは、男特有の熱い体温が容赦なく伝わってきていた。
14年間という途方もない時間を、ただ自分に再び逢うためだけの執念と愛で生き抜いてきた男。
大人の包容力と、決して逃がさないという強い独占欲。その狭間で、汐里の心臓はドクドクと跳ね上がっていた。
「……責めるなんて、できないわ。……私だって、あなたを忘れたことなんてなかったもの」
「汐里……っ」
戸惑いながらもまっすぐ紡がれた言葉に、セドリックの黄金色の瞳が感極まったように揺れた。
彼は強引に押し切るような真似はせず、けれど愛おしくて堪らないといったように、汐里の額へそっと自分の額を押し当てた。
重ね合わされた吐息。甘い香木の香りが、汐里の理性をゆっくりと溶かしていく。
「……もう君のいない世界で生きるなんて、俺には無理なんだ。この14年、君を抱きしめることだけを夢見て生きてきた……。汐里、俺のすべてを使って君を守る。だから……俺のそばにいてほしい」
一歩も引かない真摯で濃厚な愛。理不尽に閉じ込めるわけではないのに、彼の手の温もりと黄金色の眼差しから逃れられない。
汐里の体温がじわじわと上がっていく。
(14年間……私を求めることだけを支えにして生きてきた人に、これ以上何を言えばいいの……?)
真っ赤になって俯こうとした瞬間——汐里のお腹が、くぅと小さく可愛らしい音を立てた。
「あ……」
途端に顔を真っ赤にする汐里を見て、セドリックの黄金色の瞳が一瞬丸くなり、それから心底愛おしそうに目元を和らげた。
「ふっ……そうか。腹が減っているな。可愛らしい合図だ」
「恥ずかしいから、笑わないで……っ」
顔を覆おうとする汐里の手を、セドリックは優しく捕らえ、その甲に深々と愛おしさを込めたキスの音を落とした。唇から伝わる熱さに、汐里の喉から引きつったような息が漏れる。
「笑ってなどいない。愛おしくて、胸が苦しいだけだ」
そのままセドリックは立ち上がると、壁の呼び鈴を鳴らした。
しばらくして、屋敷の使用人が恭しく運んできたトレーには、湯気を立てる焼きたてのパンと新鮮な果物、そして——
「これ……コンソメスープ……?」
「……あの時、君が作ってくれた味を再現させようと、屋敷の料理人に何度も作り直させたんだ」
セドリックは匙をすくうと、汐里の口元へと運んだ。
大人の大きな男が、壊れ物を扱うように丁寧な手つきで汐里にスープを食べさせようとしている。
「あ、自分で食べられますっ……! 私、子供じゃないんだから……!」
真っ赤になって慌てて匙を受け取ろうとする汐里。だがセドリックは、甘く微笑んだまま匙を引こうとしない。
「いいから。俺に食べさせてくれ。君の手当てを受けていたあの頃の恩返しだ……それとも、俺からは嫌か?」
黄金色の瞳で甘くねだるように見つめられ、男らしい腕筋に囲まれるように距離を詰められては逃げ場がない。あまりの甘い強引さに抗いきれず、汐里は恥ずかしさに顔を真っ赤に染めながら、小さく口を開けた。
「ん……っ」
口内に広がるのは、出汁の取り方や塩加減に工夫が凝らされた、どこか懐かしい温かい味わい。汐里が14歳の夏に彼へ作ったあのスープの優しさを、必死に再現しようとした形跡がはっきりと伝わってきた。
「……美味しい。すごく……温かいわ」
「そうか……良かった」
汐里の言葉に、セドリックは心底ほっとしたように胸を撫で下ろし、汐里の唇についたスープの雫を自分の親指で優しく拭った。そして、その指を躊躇なく自分の唇へと運んで舐めとる。
(な、何を……っ!?)
指先についたスープを舐めとるセドリックの妖艶な仕草に、汐里の顔が爆発しそうになった、まさにその時だった。
ドンドンッ!
重々しい扉が不躾に叩かれ、緊緊迫した声が響く。
「団長! 緊急の報告がございます!」
「入れ」
セドリックの返答と同時に駆け込んできたのは、黒い甲冑を身に纏った若き騎士——黒狼騎士団の副団長ライナーだった。
ライナーは部屋に入るなり、団長のベッドのすぐ隣に見知らぬ美しい女性が座っているのを目にして、「えっ……!?」と一瞬劇的に目を見開いて固まった。
めったに女性を近づけない「氷の団長」の私室にいる汐里の存在に激しく動揺しつつも、セドリックの冷徹な視線に射抜かれ、慌てて表情を引き締め報告する。
「し、失礼いたしました! 救護院にて、また新たな『魔力枯渇症』の重症者が発生いたしました! すでに数名が意識不明の重体……宮廷薬師のガルス様もお手上げ状態とのことです!」
「……またか」
セドリックの顔から甘さが消え、一瞬にして冷徹で圧倒的な「黒狼騎士団長」の顔へと変わった。
「魔力枯渇症……?」
つぶやいた汐里の言葉に、副団長が説明を足す。
「はい。体内の魔力が急速に失われ、全身の激痛と臓器の機能低下を引き起こす原因不明の奇病です。ここ数ヶ月、王都の住民や騎士の間で急増しており……」
その説明を聞いた瞬間、汐里の頭の中で製薬研究員としての分析力が回転し始めた。
(体内の魔力が失われる……? 全身の激痛と臓器障害……?)
魔力という異世界の概念自体は分からない。だが、複数の人間が同時期に発症し、急激な全身の痛みと臓器不全を起こすという特徴は、彼女の専門知識に強く引っかかった。
(……それって、本当に『魔力の枯渇』という病気なの……? 感染症の熱がないなら……まるで何らかの有害物質、特に『重金属中毒』の初期症状にそっくり……)
まだ確証はない。異世界へ召喚されたばかりの自分が、突然「重金属毒だ」と口にして現場を乱すわけにはいかないという戸惑いもあった。
けれど、汐里の瞳に宿った研究者としての真摯で鋭い光を、セドリックは見逃さなかった。
「……ライナー、下がってもいい」
「はっ……!」
副団長を退出させると、セドリックはふたたび汐里の方へ向き直った。冷徹な騎士の顔から、汐里だけに向けられる温かく甘い表情へと戻る。
彼は汐里の小さな手を両手で優しく包み込み、その熱を伝えるように指先を握りしめた。
「汐里。何か……気になることがあるのか?」
「……ええ。セドリック、不躾かもしれないけれど……副団長さんのおっしゃっていた症状、単なる病気や魔力の問題ではない気がするの。私のいた世界で、水銀などの有害な重金属を体内に取り込んでしまった時の症状と……すごくよく似ているわ」
汐里はセドリックの黄金色の瞳をまっすぐ見つめた。
「もちろん、こちらの世界にきたばかりの私が口を挟むことじゃないかもしれない。でも……もし毒素によるものなら、魔法や気休めの薬では絶対に治らないの。苦しんでいる人を助けるために、私が力になれることがあるなら……」
セドリックの表情が、愛おしさと感銘で緩んだ。
彼は包み込んだ汐里の手を己の頬へすり寄せ、愛おしそうに目を細める。
「……14年前、傷ついた俺を介抱してくれた時と同じ、優しくまっすぐな瞳だな。君のそうした温かい志を、俺は一番に尊重したい」
大人の包容力で包み込みながら、セドリックはそっと立ち上がり、自らの黒い騎士用クロークを汐里の肩へと優しく羽織らせた。セドリックの体温と、あの甘い香木の香りが汐里を包み込む。
彼の手が自然な動作で汐里の腰に回され、ぐっと引き寄せられた。大人の男の厚い胸板が背中に触れ、耳元で甘く低い吐息が落ちる。
「君のその聡明な瞳も、誰にも見せたくないくらいだが……俺の全責任において、君を護る。一緒に救護院へ行こう、汐里」
「セドリック……」
束縛したいほどの独占欲を抱えながらも、汐里の意思と専門性を信じて引き立ててくれるセドリック。その大人の甘さと力強さに胸を突かれながら、汐里は力強く頷いたのだった。




