魔法学院
何度も黒霧の森の中層へ通ううちに、ギルドへ預けた金は千ダカットを超えていた。
最初に森トロールを倒したとき、九十九ダカットもの報酬を得た。
あの金額を聞いたときは、魔術学院へ入るための資金が一気に貯まったように感じた。
だが、実際に必要な金は学費だけではない。
領都まで戻る旅費。
入学試験の受験料。
学院で暮らすための宿代と食費。
教本や筆記具。
魔術の実習で使う触媒や秘薬。
何年学ぶことになるかも分からない以上、できるだけ多く貯めておく必要があった。
だから俺は、鉄級へ昇進したあとも狩りを続けた。
一度中層へ入れば、数日から長いときには十日ほど森に滞在した。
浅層の野営地で一泊し、翌日に中層へ入る。
中層では、オーガやトロールを探しながら移動し、日が暮れる前に安全な場所を選んで野営する。
帰りも二日かかる。
街へ戻れば、素材を売り、装備を手入れし、数日休む。
それから再び森へ向かう。
そんな生活を、冬の間ずっと続けた。
中層で狩ることの多かった魔物は、やはりオーガだった。
オーガは単独か、二、三匹で行動している。
力は強いが、動きは直線的で、攻撃も読みやすい。
今の俺なら、数が増えても大きな違いはなかった。
最初の一匹の足を念動力で払う。
倒れた身体を、後ろにいる仲間へぶつける。
重なったところで首を切断する。
あるいは、一匹を木へ押しつけて動きを封じ、その間に残りを倒す。
中層へ通い始めた頃は、一度の遠征でオーガを二、三匹倒せれば十分な成果だった。
そのうち、五匹。
八匹。
多いときには十匹近くの魔石を持ち帰るようになった。
トロールとの戦闘にも慣れた。
最初に戦った森トロールでは、再生能力を目の当たりにして少し焦った。
だが、再生の仕組みが分かれば、戦い方は単純だった。
小さな傷では意味がない。
腱を切っても、すぐに繋がる。
肉を浅く裂いても、数秒で塞がる。
ならば最初から、再生できないほど大きな部位を狙えばいい。
手首。
肘。
膝。
首。
特に首を完全に切り落とせば、ほとんどのトロールは動かなくなる。
森トロールだけではなく、岩トロールとも戦った。
岩トロールは全身を灰色の硬い皮膚で覆われていた。
皮膚というより、本物の岩に近い。
普通に剣を振っただけでは刃が弾かれた。
最初の一撃で剣の表面に小さな傷がつき、俺は思わず顔をしかめた。
『主、今の顔は魔物を見た顔やなくて、剣の傷を見た顔ですな』
「高いんだよ、この剣」
『命より大事ですか』
「命の次くらいには大事」
『わいより上ですか』
「それは答えないでおくよ」
岩トロールには、関節の隙間を狙った。
硬い皮膚も、肘や膝の内側までは完全に覆っていない。
念動力で腕を引き、関節を伸ばさせる。
そこへ剣を差し込む。
片腕を落とし、体勢を崩したところで目から刃を入れた。
頭部の内部まで剣を押し込み、念動力で脳を潰す。
首を断つより、そちらの方が早かった。
泥トロールはさらに厄介だった。
沼や湿地へ身体を沈め、近づいてきた獲物を突然引きずり込む。
アークが匂いで気づかなければ、足元から掴まれていたかもしれない。
『あそこ、腐った泥の下に何かおりますで』
「どの辺?」
『主の右前です。大きいですな』
俺は、何もいないように見える沼へ念動力を広げた。
泥の下に、硬い塊がある。
引き上げる。
大量の泥と一緒に、泥トロールが宙へ持ち上がった。
「グォォッ!?」
泥トロールは何が起きたのか理解できないまま、空中でもがいた。
そのまま地面へ叩きつけ、首を落とした。
『あれは卑怯ではありませんか』
「待ち伏せしてた方に言ってよ」
『向こうも同じことを思っとりますで』
「殺し合いに公平も何もないよ」
中層には、オーガやトロール以外にも多くの魔物がいた。
毒を持つ大蛇。
人間の腕ほどもある大ムカデ。
木の上から飛びかかる大型の猫科魔獣。
人の声を真似て獲物を誘う鳥。
地面の色へ擬態する肉食植物。
戦闘そのものは難しくなくても、能力を知らなければ危険な魔物は多かった。
その中でも、最も危険な目に遭ったのはジャイアントスパイダーだった。
最初に異変へ気づいたのは、森の様子だった。
鳥の声が聞こえない。
虫の音もない。
木々の間に、白い糸が何本も張られている。
最初は細い蔓かと思った。
だが、近づいて見ると違った。
表面に粘り気があり、光を受けると白く鈍く反射する。
『蜘蛛の糸ですな』
アークが鼻先を近づけることなく言った。
「かなり大きい蜘蛛みたいだね」
『糸も太いです。わいの足に絡んだら、面倒なことになりますで』
俺は周囲へ念動力を広げた。
木々の間。
枝の上。
茂みの奥。
見える範囲には何もいない。
だが、糸は新しい。
表面に水滴がついておらず、落ち葉も付着していない。
近くにいるはずだった。
「戻ろうか」
『珍しいですな。主が戦う前に戻るなんて』
「相手が見えないからね」
不用意に進む理由はない。
そう考え、引き返そうとした瞬間だった。
頭上から、何かが落ちてきた。
アークが吠える。
『上です!』
俺は自分の身体を念動力で前へ押した。
直後、背後へ巨大な影が落下する。
地面が震えた。
振り返る。
そこにいたのは、人間の胴体ほどもある黒い蜘蛛だった。
脚を広げれば、全長は五メートル近い。
八本の脚には無数の棘が生え、腹部には赤い斑点が並んでいる。
ジャイアントスパイダー。
名前だけはギルドの資料で見ていた。
糸と毒を使う、中層でも危険な魔物だ。
蜘蛛が前脚を上げた。
腹部が大きく収縮する。
次の瞬間、白い糸がこちらへ噴き出した。
俺は念動力で糸を横へ払う。
だが、完全には逸らせなかった。
糸の先端が左腕へ絡みつく。
強い粘着力。
腕を引いても外れない。
蜘蛛が糸を引いた。
身体が前へ持っていかれる。
「重いな」
俺は糸そのものを念動力で引き千切ろうとした。
しかし、細く見えるのに異常なほど強い。
力を集中させ、ようやく数本を断つ。
その間に、蜘蛛が距離を詰めてきた。
黒い牙が開く。
先端から透明な液体が垂れていた。
毒。
俺は剣を抜き、蜘蛛の顔へ振り下ろした。
蜘蛛が横へ跳ぶ。
見た目に反して速い。
刃は前脚の一本へ当たり、硬い外殻を裂いた。
緑がかった液体が飛び散る。
蜘蛛は甲高い音を立て、再び飛びかかってきた。
念動力で身体を横へ押す。
牙を避けた。
そのつもりだった。
右脚の先端が俺の肩を掠めた。
服が裂ける。
皮膚へ浅い傷が走る。
痛みはほとんどなかった。
だが、その直後。
傷口が熱を持った。
最初は、軽く火傷したような感覚だった。
次第に熱が肩から胸へ広がっていく。
指先が痺れた。
呼吸が浅くなる。
「毒……?」
牙ではない。
脚の棘にも毒があるらしい。
『主!』
アークの声が頭の中へ響く。
蜘蛛がもう一度飛びかかる。
俺は左手を上げた。
念動力を蜘蛛の身体全体へ叩きつける。
巨大な蜘蛛が横へ吹き飛び、木の幹へ激突した。
幹が折れ、枝が降り注ぐ。
それでも蜘蛛はすぐに立ち上がった。
俺の視界が揺れる。
身体が重い。
足へ力が入らない。
ただ掠っただけだ。
それなのに、毒が広がる速度が異常に速い。
『毒消しを!』
「袋の中……」
背負い袋を開こうとする。
指が思うように動かなかった。
留め具を外すだけなのに、何度も指が滑る。
蜘蛛が体勢を整える。
逃げる余裕はない。
毒消しを飲む前に、まず倒すしかなかった。
俺は蜘蛛の脚へ意識を集中させた。
八本すべて。
関節を反対方向へ折る。
蜘蛛が抵抗する。
一本ずつなら簡単に曲げられる。
だが、八本を同時に動かすには集中が必要だった。
毒の影響で、意識が散る。
頭の奥がぼんやりする。
「……動くな」
力を強めた。
一本目の脚が折れる。
続いて二本目。
三本目。
蜘蛛の身体が傾いた。
それでも残った脚で地面を蹴ろうとする。
俺は蜘蛛の腹部を地面へ押しつけた。
同時に、剣を空中へ浮かせる。
手で持つ力さえ惜しかった。
剣先を蜘蛛の頭部へ向ける。
一気に飛ばす。
剣が空気を切り裂き、蜘蛛の頭部へ突き刺さった。
外殻を貫通する。
それでも動きは止まらない。
剣を内部で回転させる。
硬いものを砕く感触。
蜘蛛の脚が激しく痙攣した。
やがて、一本ずつ力を失って地面へ落ちる。
倒した。
そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
地面へ手をつく。
呼吸が苦しい。
心臓が異常に速く脈打っている。
『主、毒消しです!』
アークが背負い袋へ鼻を押し込む。
口で布袋を引っ張り出し、中身を地面へ撒き散らした。
水筒。
包帯。
干し肉。
小瓶。
アークは小瓶の一つを咥え、俺の前へ置く。
『これですか!?』
瓶の印を確認する。
毒消し。
手が震えて蓋を開けられない。
念動力で蓋を回す。
瓶が宙へ浮かび、口元へ傾く。
苦い液体が喉へ流れ込んだ。
半分ほど零れた。
それでも、飲めた。
「もう一本……」
『どれです?』
「同じ印……」
アークが鼻で瓶を探す。
二本目を見つける。
飲む。
毒消しは即効性ではない。
しばらく身体を動かさず、薬が効くのを待つ必要があった。
俺は木の根元へ背中を預けた。
視界の端が暗い。
呼吸をするたび、胸が締めつけられる。
『眠ったらあきませんで』
「分かってる」
『目を閉じとります』
「眩しいだけ」
『森の中は暗いです』
「そうだったね」
アークが俺の頬を舐める。
『話をしてください』
「何を?」
『何でもええです』
「肉の話でも?」
『それが一番ですな』
「街へ帰ったら、好きな肉を買ってあげるよ」
『何本です?』
「十本」
『本当ですか?』
「たぶん」
『たぶんはなしです』
「じゃあ、十本」
『約束しましたで』
アークは何度も念を押した。
俺が意識を失わないようにしていたのだろう。
どのくらい時間が経ったのか分からない。
三十分か。
一時間か。
毒消しが効き始めると、胸の圧迫感が少しずつ弱くなった。
指先の感覚も戻ってくる。
立ち上がるには、さらに時間が必要だった。
結局、その日はその場をほとんど動けなかった。
倒した蜘蛛の死体と、周囲に張られた糸を念動力で集め、簡単な壁を作る。
血の臭いを消すため、蜘蛛の死体は少し離れた場所へ投げた。
火を起こす余裕もない。
アークが周囲を警戒し、俺は木の根元で朝を待った。
翌日。
体調は完全には戻っていなかった。
頭が重い。
傷口の周囲は紫色に腫れている。
それでも歩くことはできた。
俺たちは狩りを続けず、そのまま街へ戻った。
『肉は?』
「覚えてるよ」
『十本ですで』
「毒で倒れかけた主人に、最初に言うことがそれ?」
『無事やと分かったから言うとるんです』
「心配してた?」
『当たり前ですやん』
アークは少し怒ったように答えた。
『主が死んだら、わいが一人になります』
「そうだね」
『一人でこの世界を歩くんは嫌です』
俺はアークの頭を撫でた。
「気をつけるよ」
『前にも聞きましたで』
「今度は本当に」
『毒消しをすぐ出せる場所へ入れといてください』
その日から、毒消しは背負い袋の奥ではなく、腰の小袋へ入れることにした。
しかも一種類ではない。
蛇毒用。
虫毒用。
植物毒用。
即効性のある高価なものも買った。
毒を防ぐ革製の上着も用意した。
戦闘で負けるとは限らない。
相手を倒したあとに死ぬこともある。
そのことを、ジャイアントスパイダーに教えられた。
ほかにも、さまざまなことが起きた。
夜の野営中にオーガの群れへ囲まれた。
崖の上から岩トロールに岩を落とされた。
魔物が仕掛けた罠にかかり、地面へ開いた穴へ落ちた。
濃い黒霧の中で道を見失い、二日間予定より長く森へ滞在した。
アークが食料袋を破り、保存用の肉を半分食べたこともある。
『あれは袋が弱かったんです』
「犬が噛めば破れるよ」
『鼻先が触れただけで開きました』
「牙の跡があったけど」
『偶然ですな』
危険なこともあった。
面倒なことも多かった。
それでも、俺たちは何度も中層へ通った。
魔物を倒すたび、念動力の扱いは上達した。
以前は一つの対象へ集中しなければならなかった。
今では、自分の身体を浮かせながら敵の腕を止め、同時に剣を加速させられる。
複数の武器を宙へ浮かせ、それぞれ別の軌道で動かすこともできた。
解体では、オーガ数匹を同時に処理できる。
胸を開く。
魔石を抜く。
牙を外す。
腱を切り取る。
すべての作業を、離れた場所から行えるようになった。
稼ぎも増えた。
オーガ。
トロール。
ジャイアントスパイダー。
大型魔獣。
中層の魔物は、浅層の魔物よりも魔石が大きく、素材の価値も高い。
一度の遠征で百ダカット以上を稼ぐことも珍しくなくなった。
冬が終わりに近づく頃。
ギルドへ預けた金は、千ダカットを超えていた。
受付で残高を聞いたとき、俺は思わず聞き返した。
「千を超えたんですか?」
「はい。現在の預金額は、千八十四ダカットと二十七ラリです」
受付の女性が帳簿を確認しながら答える。
一年前の俺なら、一生かかっても手にできないと思った金額だ。
『肉が何本買えます?』
「その計算はしなくていいよ」
『千本以上ですな』
「全部使わないからね」
『学院へ行ったら、肉が食べられんかもしれませんで』
「領都にも肉屋はあるよ」
『森で稼いだ金を、森の肉に還元するべきです』
「そんな決まりはない」
金は十分に貯まった。
春になれば、魔術学院の入学試験が行われる。
これ以上森へ通い続ければ、試験へ間に合わなくなる可能性がある。
俺は春を待ち、狩りを終えることにした。
最後の遠征を終えた日。
長く泊まっていた宿の部屋を片づける。
剣。
衣服。
解体道具。
毒消し。
黒霧の森の地図。
魔物について書かれた資料。
荷物は、ダリスティへ来たときより遥かに増えていた。
「ずいぶん長くいたね」
『肉のうまい街でしたな』
「感想はそれだけ?」
『主も強うなりました』
「ついでみたいに言うね」
『学院が終わったら、また戻ってきますか』
「分からない。でも、森にはまだ行っていない場所があるからね」
深層。
ギルドの地図に詳しく描かれていない場所。
そこに何がいるのか、興味はあった。
けれど、今は学院が先だ。
自分の念動力が何なのか。
魔術と同じものなのか。
地球へ帰る方法へ繋がるのか。
それを調べるため、俺たちはダリスティを離れた。
領都までの道は、以前通ったときより短く感じた。
道を知っている。
装備も整っている。
野盗や魔物が出ても、恐れる必要はない。
途中、一度だけ街道沿いでゴブリンの群れに襲われた。
俺は剣を抜くこともなく、全員を道の脇へ放り投げた。
『昔なら戦ってましたな』
「今は急いでるからね」
『強うなると、魔物を殺さんようになるんですか』
「価値がなければね」
『怖い考え方ですな』
「アークが言う?」
『わいは食べるために狩ります』
春の初め。
俺たちは領都へ戻った。
以前来たときと同じ高い城壁。
多くの人。
石造りの建物。
だが、俺の立場は大きく変わっていた。
あの頃は金も知識もなく、どこへ行けばいいのかも分からなかった。
今は千ダカット以上の資金がある。
鉄級狩人としての実績もある。
念動力も、以前とは比べものにならないほど強くなった。
魔術学院は、領都の北側にあった。
高い石壁に囲まれた広大な敷地。
中央には、白い石で建てられた塔が何本も立っている。
門の上には、円の中へ複雑な文字を刻んだ紋章が掲げられていた。
入学試験の日。
門の前には、多くの受験者が集まっていた。
年齢はさまざまだ。
十歳ほどの子供。
俺と同じくらいの若者。
三十を超えていそうな者もいる。
貴族らしい豪華な服を着た者。
商人の子供。
狩人。
傭兵。
杖を持つ者もいれば、何も持っていない者もいた。
アークを連れている俺は、かなり目立っていた。
「犬は中へ入れません」
門番の男が言う。
『犬ではなく相棒です』
「従魔です」
俺はすぐに言い換えた。
正式な契約はしていない。
だが、ただの犬と言うよりは通りやすいと思った。
門番がアークを見る。
「契約印は?」
「ありません」
「では従魔ではない」
『融通が利きませんな』
「試験中だけ待ってて」
『一人でですか』
「すぐ戻るよ」
『何か食べるものを』
「さっき食べたでしょ」
『試験は長いかもしれませんで』
結局、門の横にある従魔預かり所へアークを預けた。
金を払えば、餌と水も用意してくれるらしい。
『肉を多めに頼みます』
「普通でいいです」
『主!』
アークの念話を背中で聞きながら、学院へ入った。
試験はいくつかの項目に分かれていた。
読み書き。
基礎計算。
そして、魔力測定。
読み書きは、ダリスティで勉強していたおかげで問題なかった。
難しい問題もあったが、合格に必要な点は取れたと思う。
魔力測定は、円形の部屋で行われた。
中央に、人の頭ほどある透明な球が置かれている。
受験者は一人ずつ球へ手を置き、体内の魔力を流し込む。
魔力量に応じて、球の内部へ光が満ちる仕組みらしい。
俺の番が来た。
試験官に言われた通り、右手を球へ載せる。
だが、何も起こらない。
「魔力を流してください」
「流す?」
「体内の魔力を手へ集め、測定球へ移してください」
簡単に言われても、やり方が分からなかった。
俺は念動力を使うとき、何かを体内から取り出している感覚はない。
意識を向ければ、力が発生する。
魔力を感じたこともなかった。
「魔力を感じられません」
試験官が眉を寄せる。
「これまで魔術を使ったことは?」
「ありません」
「では、補助薬を使います」
小さな杯へ、透明な液体が注がれた。
飲むと、舌がわずかに痺れる。
しばらくすると、胸の奥に温かいものを感じた。
血液とは違う。
呼吸とも違う。
身体の中心に、薄い霧のようなものが広がっている。
これが魔力なのだろう。
俺はその感覚を右腕へ動かそうとした。
うまくいかない。
胸の奥で揺れるだけだ。
何度か試し、ようやくほんの一部が肩から腕へ移動した。
指先。
測定球。
弱い光が球の内部へ灯る。
試験官が数値を読む。
「もう少し流してください」
さらに集中する。
光が少しずつ強くなる。
最終的に、球の半分ほどが白く光った。
試験官が記録用紙へ数字を書く。
「魔力量は中位。合格基準を満たしています」
「中位ですか」
「珍しいほど多くはありませんが、魔術を学ぶには十分です」
念動力の強さから、もっと多いかもしれないと思っていた。
だが、魔力量そのものは平均より少し上という程度らしい。
念動力が魔力と関係していないのか。
あるいは、少ない魔力を効率よく使っているのか。
その場では分からなかった。
入学試験には合格した。
学院の仕組みは、俺が想像していた学校とは少し違った。
学年はない。
全員が同じ授業を受けるわけでもない。
授業は選択制で、自分が興味のある科目を自由に取る。
基礎魔術。
魔法語。
薬学。
錬金術。
魔術具製作。
治癒術。
召喚術。
結界術。
魔物学。
戦闘魔術。
天体観測。
古代語。
数えきれないほどの講義があった。
在籍期間にも決まりはない。
必要な技術を学び終えれば一年で出ていく者もいる。
研究を続け、十年、二十年と残る者もいる。
金が続く限り何年いてもよいらしい。
「千ダカットあれば、かなり長く学べますね」
入学手続きを担当した職員が言った。
「何年くらいです?」
「取る授業や生活によります。質素に暮らし、基礎講義を中心に受けるなら、十年近くは可能でしょう」
十年。
それだけあれば、自分の力について何か分かるだろう。
俺が最初に選んだのは、魔法基礎文法の授業だった。
魔術を学ぶ者が、最初に受ける授業。
魔法語の読み書き。
魔力の感知。
魔力を体外へ出す方法。
空中へ魔法語を描き、術を発動させる方法。
すべての魔術の基礎になるらしい。
授業の初日。
教師が黒板へ奇妙な文字を書いた。
曲線。
点。
円。
枝分かれした線。
地球の文字にも、現地のギリヤ語にも似ていない。
「これが魔法語の基本文字です」
教師が言う。
魔法語は、この世界で日常的に使われるギリヤ語とはまったく異なる言語だった。
文字の形が違うだけではない。
文法そのものが違う。
ギリヤ語は、誰が、何を、どうするかを順番に並べる。
魔法語では、最初に結果を書く。
次に対象。
範囲。
強さ。
持続時間。
発動条件。
最後に術者との関係を書く。
一つの単語が、位置や向きによって意味を変える。
線を右へ伸ばせば放出。
左へ伸ばせば吸収。
上へ曲げれば拡大。
下へ曲げれば収縮。
点を一つ加えるだけで、火を生む術が、熱を奪う術へ変わることさえある。
「難しいな」
宿へ戻り、教本を開きながら呟く。
『人間の文字は面倒ですな』
アークが隣から教本を覗き込む。
「ギリヤ語よりずっと難しいよ」
『この丸は何です?』
「魔力を集めるって意味」
『こっちの線は?』
「集めた魔力を外へ出す」
『なら、こう繋げたらええんですか』
アークが前足で床を引っかく。
偶然だろうが、教本に書かれた形と近い。
「そんな感じ」
最初の数週間は、文字を覚えるだけで精一杯だった。
授業では、毎回何十個もの記号が出てくる。
似た形が多い。
一画の長さが違うだけで別の意味になる。
線の角度が少しずれるだけで、術が不安定になる。
教師は何度も言った。
「魔法語は言葉であると同時に、術式そのものです。汚い文字は、意味の曖昧な命令と同じです」
紙へ書くなら、まだ時間をかけられる。
だが、実際の魔術では、魔力を使って空中へ文字を描かなければならない。
その前に、まず魔力を感知し、体外へ出せるようになる必要があった。
生徒には、魔力感知を補助する秘薬が配られた。
試験で飲んだものより濃く、苦味も強い。
飲むと、体内の魔力が熱や圧力として感じられるようになる。
胸の奥。
腹。
腕。
脚。
人によって感じる場所は違うらしい。
俺の場合、魔力は胸の中央から全身へ薄く広がっていた。
感知すること自体は、数日でできた。
問題は、その魔力を空中へ出すことだった。
「手のひらの前へ魔力を集めてください」
教師が言う。
周囲の生徒たちが目を閉じる。
手の前へ、淡い光が現れる。
赤。
青。
白。
色は人によって違った。
俺も胸の魔力を腕へ流す。
肩。
肘。
手首。
指先。
そこまではできる。
しかし、指先から外へ出そうとすると、魔力が散ってしまう。
空気へ溶けるように消える。
あるいは、手の中へ戻ってしまう。
一週間。
二週間。
一月。
何度試しても、うまくいかなかった。
念動力なら、何の準備もなく使える。
目に見えない力を、好きな場所へ発生させられる。
なのに魔力は、手のひらから数センチ外へ出すことすら難しい。
「向いてないのかな」
『主でも苦手なことがありますな』
「嬉しそうだね」
『いつも主ばかり簡単にやりますから』
「アークはできるの?」
『何をです?』
「体内の魔力を感じること」
『感じますで』
俺は顔を上げた。
「いつから?」
『前からです』
「前って?」
『森におった頃からですな』
「どうして言わなかったの?」
『聞かれませんでしたから』
アークに手を向ける。
念動力ではなく、魔力を探るように意識する。
よく分からない。
他人の魔力を感じる技術は、まだ習っていなかった。
「魔力を動かせる?」
『こうですか』
アークの身体から、淡い青色の光が浮かび上がった。
毛の表面。
背中。
前足。
魔力が集まり、空中へ滲み出る。
俺はしばらく言葉を失った。
「……できてる」
『簡単ですな』
「俺は一月やってもできてないんだけど」
『力を外へ出すだけでしょう』
「それが難しいんだよ」
『念動力より簡単やと思いますが』
「俺には逆だよ」
翌日の授業。
俺は教師へ相談した。
犬が魔力を感知し、体外へ出せる。
最初は信じてもらえなかった。
学院の庭で実際に見せると、教師はすぐに別の教師を呼んだ。
二人。
三人。
最終的には、魔物学と従魔術の教師まで集まった。
アークは囲まれながら、面倒そうに座っていた。
『見世物やありませんで』
「我慢して」
教師の一人が測定器を持ってくる。
入学試験で使ったものより大きな魔力測定具。
中央の板へアークの前足を載せる。
「魔力を流させてください」
「アーク。さっきみたいに」
『肉が出るなら』
「あとで買うよ」
『何本?』
「五本」
『十本』
「七本」
『承知』
交渉が成立すると、アークは前足へ魔力を集めた。
測定具が青白く光る。
光はすぐに板全体へ広がった。
さらに外枠まで届く。
教師たちの表情が変わった。
一人が測定値を確認する。
もう一人が別の器具を接続する。
測り直す。
結果は同じだった。
「人間の基準値を超えています」
教師が呟く。
「どのくらいですか」
「一般的な成人魔術師の上限に対して、およそ二倍」
「二倍?」
「人間として測定した場合の限界値です。魔獣や竜種には、これ以上の個体もいますが」
俺はアークを見る。
アークは何が起きているか分かっていない顔で、尻尾を振っている。
『七本、忘れんといてください』
「分かってるよ」
魔力量だけではなかった。
アークは、魔法語を空中へ描くこともできた。
俺が教本を開き、最も簡単な魔法語を見せる。
魔力を集める。
形を保つ。
外へ放出する。
三つの記号を組み合わせた基礎式。
俺はまだ、最初の記号すら空中へ安定して描けない。
だが、アークは教本を一度見ただけで、鼻先の前へ青い光を集めた。
光が細い線になる。
曲がる。
円を描く。
点を置く。
教本とほとんど同じ形が、空中へ浮かび上がった。
「なんでできるの?」
『見た通りに書いただけです』
「前足も手も使ってないよね」
『頭で動かしました』
「俺が苦労してることを簡単に言わないでよ」
しかも、形は俺が紙へ書いたものより綺麗だった。
線の太さが均一。
角度も正確。
魔力が散らず、文字が空中へ安定して浮かんでいる。
教師は驚きを通り越し、しばらく黙っていた。
「この犬は、従魔契約を結んでいますか」
「いいえ」
「魔獣ですか」
「普通の犬だと思います」
『普通より賢い犬ですな』
「本人はそう言ってます」
「本人?」
「いえ、何でもありません」
アークの念話については、まだ詳しく話さないことにした。
魔力が多く、魔法語を書けるだけでも十分に目立っている。
念話まで使えると知られれば、さらに多くの研究者が集まってくるだろう。
ただ、アーク自身は念話を魔術だとは思っていなかった。
こちらの世界へ来た直後から使えている。
魔法語も必要ない。
俺の念動力と同じく、一般的な魔術とは仕組みが違う可能性がある。
それから二月。
俺はようやく、魔力を手のひらの外へ集められるようになった。
ほんの小さな光。
豆粒ほど。
風が吹けば消えそうな、不安定な塊。
それでも、初めて自分の魔力を空中へ留められた。
「できた」
『遅かったですな』
「二月かかったんだよ」
『わいは最初からできました』
「知ってるよ」
『褒めてもええんですで』
「すごいね」
『心がこもっとりませんな』
魔力を空中へ出せるようになってからも、魔法語として形にするのはさらに難しかった。
魔力は液体にも煙にも似ている。
少しでも集中が乱れると、線が膨らむ。
細くしすぎれば切れる。
曲線を描けば外側へ散る。
一文字目を書いている間に、最初の線が消えることもあった。
毎日練習した。
朝の授業。
昼の自主練習。
夜も宿の部屋で、指先の前へ魔力を集める。
アークは隣で、簡単そうに何文字も並べていた。
『ここ、曲がり方が違いますで』
「分かってる」
『線が太いです』
「分かってるよ」
『点の位置もずれとります』
「先生みたいに言わないで」
『わいの方が上手ですからな』
悔しいが、その通りだった。
アークは文字を覚える速度も速い。
ギリヤ語を読めないため、意味の説明は必要だった。
だが、形さえ見せれば正確に再現できる。
俺が一つの文字を安定させる間に、アークは十個の文字を覚えていた。
魔力語を綺麗な形として空中へ書けるようになるまで、半年かかった。
最初に魔力を空中へ集めるまで二月。
そこから文字として安定させるまで半年。
合計八月。
簡単な基礎式を一つ書くために、それだけの時間が必要だった。
初めて完成した魔法語は、光を生む術だった。
三つの記号。
魔力を集める。
光へ変換する。
一定時間維持する。
空中へ白い文字が浮かぶ。
最後の線を書き終えた瞬間、文字の中心に小さな光球が生まれた。
蝋燭より少し明るい程度。
部屋全体を照らすには弱い。
それでも、間違いなく魔術だった。
「できた」
俺は光球を見つめた。
念動力とは違う。
念じるだけではない。
言葉。
構造。
魔力。
すべてを正確に組み合わせ、初めて現象が発生する。
『ようやくですな』
アークが隣で、同じ魔法語を空中へ書く。
青い文字。
中心へ生まれた光球は、俺のものより何倍も大きかった。
部屋全体が昼間のように明るくなる。
「大きすぎない?」
『魔力を多めに入れました』
「壁が熱くなってるよ」
『光るだけの魔法やないんですか』
「光が強ければ熱も出るんだよ。消して」
アークが文字を崩す。
光球が消えた。
壁には、わずかに焦げた跡が残っていた。
「宿の人に怒られる」
『主の魔法ということにしましょう』
「なんで?」
『主の方が大人ですから』
「責任を押しつける理由になってないよ」
アークの魔力は、人間の限界の二倍。
しかも、魔力の感知も、制御も、魔法語を書く技術も、俺より遥かに上だった。
なぜ犬であるアークが、これほどの魔力を持っているのか。
なぜ念話を使えるのか。
俺と同じく、地球からこの世界へ来たことと関係があるのか。
まだ何も分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
「これからの冒険で役立つね」
俺が言うと、アークは誇らしげに胸を張った。
『今までも役立っとりましたで』
「鼻と耳はね」
『見張りもしました』
「食料も食べたけどね」
『毒消しも見つけました』
「それは本当に助かったよ」
『これからは魔法も使えます』
アークの前へ、再び青い魔法語が浮かぶ。
今度は光ではない。
小さな風を生み出す基礎式。
文字が完成すると、部屋の中に弱い風が吹いた。
机の上の紙が舞い上がる。
教本が床へ落ちる。
干していた布が壁へ飛ぶ。
「止めて、止めて!」
『少し強すぎましたな』
「魔力を入れすぎなんだよ」
『加減が難しいです』
「俺がずっと苦労してたことを、今さら言う?」
アークが魔法語を消す。
風が止んだ。
床に散らばった紙を、俺は念動力で拾い集める。
その横で、アークは何事もなかったように座っている。
俺の念動力。
アークの膨大な魔力。
俺よりも優れた魔法語の制御。
二人で使えば、できることはさらに増えるだろう。
黒霧の森の深層。
まだ見ぬ魔物。
地球へ帰る方法。
これから先、どんな場所へ向かうことになっても、アークの力は間違いなく役に立つ。
もっとも。
『主。魔法を使ったら腹が減りました』
「結局そこなんだ」
『魔力を使うには栄養が必要ですで』
「さっき夕食を食べたよ」
『魔法の分は別です』
「そんな決まりはないよ」
『これから作ればええんです』
魔術を覚えても、アークがアークであることだけは変わらないらしい。




