中層
それからの生活は、魔物狩りを中心に回るようになった。
朝、日が昇る前に宿を出る。
狩人ギルドでその日の注意事項を確認し、黒霧の森へ向かう。
森の中で魔物を狩り、魔石や価値のある部位を回収する。
夕方までにはダリスティへ戻り、狩人ギルドで素材を売却する。
宿で夕食を取り、剣や解体道具の手入れを済ませたあと、眠る。
翌朝になれば、また森へ向かう。
そんな日々が続いた。
黒霧の森の浅層で遭遇する魔物は、ゴブリン、コボルト、オーク、そしてダークボアが中心だった。
ゴブリンやコボルトは、何匹かで群れを作っていることが多い。
ゴブリンは粗末な石斧や骨の短剣を持ち、木々や茂みに身を隠して不意打ちを仕掛けてくる。
コボルトはゴブリンより鼻や耳がよく、こちらの存在へ早く気づく。
十匹以上の群れで囲もうとすることもあった。
もっとも、今の俺にとって、その程度の魔物は大きな脅威ではない。
木陰に隠れているゴブリンは、念動力で枝や茂みを押し退ければ簡単に見つけられる。
飛んでくる石や矢は、空中で軌道を変える。
剣を持って迫ってくる相手は、足首を横へ引いて転倒させればいい。
群れで襲われた場合も、一匹ずつ相手にする必要はなかった。
念動力で先頭の魔物を後ろへ吹き飛ばせば、後続の魔物もまとめて倒れる。
そこへ剣を振るえば、数分とかからず戦闘は終わった。
『今日も早う終わりましたな』
倒れたコボルトの間を歩きながら、アークが言う。
「十二匹もいたんだけどね」
『主にとっては、十二匹も二匹も変わらんのでしょう』
「さすがに数が多ければ面倒だよ」
『危なそうには見えませんでしたで』
「危険かどうかと、面倒かどうかは別だからね」
オークはゴブリンやコボルトよりも大きく、力も強い。
それでも、最初の頃ほど苦戦することはなくなった。
肩や腕の動きを見れば、棍棒や石斧がどこへ振られるか分かる。
攻撃を止める必要もない。
肘や手首を念動力で少し押し、軌道を外すだけで十分だった。
体勢を崩したところへ踏み込み、首や心臓を斬る。
戦い方が定まってからは、オークを相手に剣を何度も打ち合わせることすらなくなった。
一方で、ダークボアだけは積極的に狩らなかった。
ダークボアは黒い剛毛に覆われた、巨大な猪の魔物だ。
大きな個体になると、鼻先から尻まで三メートル近くある。
背中や肩を覆う皮膚は硬く、突進には小さな木をへし折るほどの力があった。
討伐そのものは難しくない。
正面から突進してきたところで身体を横へ押すか、脚を払えばよい。
転倒したところで首を斬れば倒せるだろう。
だが、問題はそのあとだった。
ダークボアは魔石や牙だけでなく、肉にも高い価値がある。
脂が多く、臭みも少ないため、ダリスティの料理店では人気の食材らしい。
しかし、その価値を十分に得るには、大きな死体を街まで運ばなければならない。
通常は三人以上の狩人で討伐し、専用の台車へ載せて運ぶ。
解体した肉だけを持ち帰る方法もあるが、森の中で数百キロもの肉を処理するには時間がかかりすぎる。
血の臭いが広がれば、ほかの魔物も寄ってくる。
念動力を使えば、俺一人でも死体を運べるかもしれない。
けれど、巨大なダークボアを宙に浮かせたまま森から街まで運べば、嫌でも目立つ。
何時間も力を使い続けた場合、どの程度疲労するのかも分からなかった。
そのため、ダークボアを見つけても、向こうから襲ってこない限りは放置することにした。
『ええ肉が歩いておりますで』
茂みの向こうを歩くダークボアを眺めながら、アークが名残惜しそうに言う。
「狩っても運べないでしょ」
『必要な部分だけ食べて帰ればええんやないですか』
「森の中で?」
『焼けば問題ありません』
「何時間かけて食べるつもりなの?」
『残りは明日の朝食に』
「森で一泊する気はないよ」
『もったいないですなあ』
ダークボアが木々の奥へ消えるまで、アークはその後ろ姿を見つめ続けていた。
俺たちは、主にゴブリン、コボルト、オークを狩った。
魔物を倒す回数が増えるにつれて、戦闘だけでなく、念動力の使い方も上達していった。
最初は、大きな物を押すか引くことしかできなかった。
剣を持っていなかった頃、オーガの首を捻り切ったときも、ただ力任せに念動力を集中させただけだった。
だが、狩りを続けるうちに、力の範囲や向きを細かく調整できるようになった。
手首だけを押す。
足の指を浮かせる。
剣の刃先だけを加速させる。
飛んできた矢の側面へ、ごく弱い力を加えて軌道を逸らす。
以前なら対象全体へ力をかけていたが、今は必要な部分に、必要な分だけ力を加えられる。
その方が疲労も少なく、長時間使い続けることができた。
特に上達したのは、魔物の解体だった。
死体は、生きている魔物よりも遥かに念動力を使いやすい。
生きている相手は、こちらの力へ抵抗する。
腕を引けば踏ん張り、身体を押せば姿勢を戻そうとする。
筋肉は常に動き、呼吸によって内臓の位置も変わる。
それに対して、死体は動かない。
こちらの力へ逆らうこともない。
最初の頃は、短刀を手で持ち、念動力で刃を押していた。
それが次第に、短刀そのものを空中に浮かせて操作できるようになった。
さらに慣れると、刃物すら使わず、念動力だけで解体できるようになった。
倒したオークを仰向けにする。
まず、胸の中央へ意識を集中させる。
皮膚の表面に細い力を走らせ、喉元から腹の上まで、真っすぐに切れ込みを入れる。
力を細く絞れば、念動力そのものを刃のように扱うことができた。
皮膚と筋肉を切り開いたあと、胸骨の中央へ圧力をかける。
一気に割ろうとすれば、骨の破片が内側へ飛び、心臓や魔石を傷つける恐れがある。
そのため、最初は骨の表面へ細い亀裂を作る。
次に、その亀裂を少しずつ深くする。
最後に左右へ力を加えると、胸骨は音を立てて中央から割れた。
そこから左右の肋骨を掴むように念動力をかけ、外側へゆっくりと押し広げる。
胸腔が開き、赤黒い心臓が露出する。
心臓の位置を確認したら、その表面へ小さな切れ込みを入れる。
内部を探り、肉とは異なる硬い感触を見つける。
魔石だ。
周囲の組織を切り離し、傷をつけないように空中へ引き出す。
取り出した魔石は、血を振り払ってから布の上へ置く。
この一連の作業を、俺は死体へ一度も触れることなく行えるようになった。
目の前のオークの胸が開き、心臓から赤い魔石が浮かび上がる。
それを見ていたアークが、感心したように尻尾を振った。
『だいぶ慣れてきましたな』
「そうだね。魔物の体液で汚れることがなくなってよかったよ。なかなか臭いが消えなくて嫌だったんだよね」
初めてオークを解体した日は、服にも腕にも血がついた。
宿へ戻って何度洗っても、生臭い匂いが残った。
アークには数日間、面白がって匂いを嗅がれ続けた。
『あの頃は、主から常にオークの臭いがしとりましたな』
「思い出さなくていいよ」
『宿の風呂へ入ったあとも残っとりました』
「アークの鼻がよすぎるんだよ」
『今は血の臭いがほとんどつきませんな』
「これなら服を毎日洗わなくて済む」
念動力を使った解体は、汚れないだけではない。
手作業よりも速く、正確だった。
刃物を使うと、手元が滑って素材を傷つけることがある。
念動力なら、離れた位置から全体を見ながら作業できる。
骨の裏側や、肉の中に埋まった魔石の位置も、力を触れさせることである程度把握できた。
ゴブリンやコボルトなら、一体につき数分もかからない。
オークでも、慣れてからは十分以内に必要な素材を回収できるようになった。
倒した魔物が多い日は、複数の死体を同時に処理することも試した。
一体の胸を開きながら、もう一体の牙を抜く。
魔石を布へ移動させながら、別の死体から眼球を取り出す。
最初は集中が乱れ、肋骨を折る力が強すぎたり、取り出した魔石を地面へ落としたりした。
だが、繰り返すうちに、二つ、三つの対象へ同時に力をかけられるようになった。
戦闘で複数の魔物を相手にするときにも、その経験は役立った。
右から来るゴブリンの足を払いながら、左から飛んでくる矢を逸らす。
目の前のオークへ剣を振りながら、背後へ回ろうとするコボルトを木へ押しつける。
念動力は単に強い力ではない。
使い方と精度によって、できることが大きく変わる。
狩りと解体を繰り返すことは、そのまま念動力の訓練になっていた。
そうした生活を続けているうちに、一月が過ぎた。
毎日森へ入ったわけではない。
雨が激しい日は、森へ向かわず、宿で剣の手入れや文字の勉強をした。
森へ入った日には、最低でも数匹、多い日には二十匹近い魔物を討伐した。
ゴブリンの耳やコボルトの皮。
オークの魔石、眼球、心臓、牙。
価値のある素材はすべてギルドへ持ち込んだ。
大きな怪我は一度もない。
依頼を受けた日は必ず達成し、依頼を受けていない日も素材と討伐証明を持ち帰った。
その日も、いつものように狩人ギルドの窓口へ向かった。
前日に狩ったオーク三匹分の素材を売り、口座へ報酬を預けようとしたときだった。
受付の女性が帳簿を確認したあと、机の下から小さな箱を取り出した。
見覚えのない箱だった。
「モーリさん」
「はい」
「少々、お待ちください」
女性は俺の銅札を受け取ると、奥の職員へ渡した。
職員は札を確認し、専用の器具へ差し込む。
しばらくして戻ってきた札は、これまでと色が違っていた。
銅色ではない。
鈍い灰色。
磨かれた鉄の色をしている。
女性は古い銅札と、新しい札を机の上へ並べた。
「モーリさん。これまでの討伐実績、素材の納入量を鑑み、本日付で鉄級へ昇進となります」
「鉄級?」
「はい。こちらが新しい狩人札です」
女性が鉄色の札を差し出す。
銅札よりもわずかに厚く、縁には細い模様が刻まれていた。
表面には狩人ギルドの紋章。
裏面には俺の名前と、新しい階級を示す印がある。
「鉄級狩人は、黒霧の森の中層まで立ち入ることが許可されます。また、鉄級以上を対象とした討伐依頼や護衛依頼も受注できます」
周囲にいた職員の一人が、書類へ印を押す。
女性はそれを確認し、丁寧に頭を下げた。
「今後もご活躍を祈念いたします」
「どうも」
鉄札を受け取る。
思っていたより早い昇進だった。
一月前、狩人登録をしたばかりの頃は、銅級から鉄級へ上がるまで何年かかるのかも知らなかった。
「一月で上がるのは、早い方ですか?」
女性は一瞬、答えに迷ったようだった。
「非常に早いです」
「普通はどのくらいです?」
「個人差はありますが、早い方でも半年ほどです。数年間、銅級のまま活動される方もいます」
「そんなに」
「浅層の魔物は単価が低いため、十分な実績を積むには数を討伐する必要があります。また、負傷や装備の損耗を避けるため、毎日のように森へ入る方は多くありません」
俺はほとんど毎日森へ入っていた。
魔物との戦いで負傷することもなく、剣を折ることもなかった。
解体も念動力で短時間に終わる。
一般の狩人より、遥かに効率よく実績を積んでいたのだろう。
『これで中層へ行けますな』
足元にいたアークが、鉄札を見上げながら言う。
「そうだね」
『オーガもたくさんおりますか?』
「冊子には出るって書いてあったよ」
『大きい魔物なら、魔石も大きいでしょうな』
「危険も大きいけどね」
『主にとっては、オーガも大したことありませんやん』
「オーガだけならね」
中層に生息するのは、オーガだけではない。
ジャイアントスパイダー。
トロール。
浅層ではほとんど見られない毒性の魔物や、群れを作る大型魔獣。
ギルドの資料には、銅級が単独で中層へ入った場合、帰還できる可能性は低いと記されていた。
受付の女性も、俺が鉄札を首へ下げるのを見ながら念を押した。
「昇進したばかりの狩人が、中層で命を落とす例は少なくありません」
「気をつけます」
「浅層で苦戦しなかった方ほど、急に奥へ入りたがります。ですが、中層は魔物の種類も、地形も異なります」
「中層までは、どのくらいかかりますか?」
「森の入口から徒歩で二日ほどです。一般的には浅層の野営地で一泊し、翌日の昼前に境界へ到着します」
「森の中で泊まるんですね」
「鉄級以上の狩人が利用する野営地があります。防護柵と見張り台がありますが、絶対に安全というわけではありません」
必要な食料や道具についても説明を受けた。
二日分以上の水と保存食。
毛布。
火を起こす道具。
虫除け。
毒消し。
予備の革紐。
そして、中層の簡易地図。
浅層へ日帰りするときとは、背負う荷物の量が違う。
俺はその日のうちに必要なものを買い足した。
念動力で荷物の重さを支えられるため、多少増えても問題はない。
それでも、食料を詰めるアークを見張る必要はあった。
『もう少し干し肉を入れましょう』
「それで十分だよ」
『二日かかるんでしょう?』
「二日分より多めに入れてある」
『森で何が起きるか分かりませんで』
「全部アークが食べたら、何か起きたときに困るでしょ」
『非常食を今食べるほど、わては愚かやありません』
「昨日、保存用の干し肉を一枚食べたよね」
『味見です』
「味見は一枚も必要ないよ」
翌朝。
俺たちは日の出とともにダリスティを出た。
西門で鉄札を見せると、門番は一度札を確認し、次に俺の顔を見た。
「昇進したのか」
「昨日です」
「早かったな」
「そうみたいです」
「中層へ行くつもりか?」
「はい」
門番は地図と荷物を確認した。
「野営地までは赤と白の二重印を辿れ。途中で印が消えていても、道を外れるな」
「分かりました」
「中層の境界には赤い石柱が並んでいる。そこから先は、浅層と同じつもりで歩くな」
「何が違うんですか?」
「魔物が人間を恐れない」
門番は短く答えた。
「浅層のゴブリンやコボルトは、勝てないと思えば逃げる。中層の魔物は、強い相手ほど狙ってくることがある」
「どうして?」
「餌として価値があるからだ」
冗談を言っている顔ではなかった。
「それから、血を流したまま歩くな。中層では一匹倒したあとが一番危険だ」
俺は頷き、門を抜けた。
黒霧の森へ入り、これまで何度も使った道を進む。
浅層の景色は、すでに見慣れている。
黒い霧。
苔に覆われた木の根。
獣の鳴き声。
遠くで動く小さな影。
途中、ゴブリンの群れと遭遇した。
八匹。
以前なら狩って素材を回収していたが、今回は先を急いでいる。
こちらへ近づく前に念動力で武器を奪い、まとめて道の脇へ投げ飛ばした。
ゴブリンたちは悲鳴を上げ、森の奥へ逃げていった。
『殺さんのですか』
「耳しか売れないからね。今日は中層が目的だよ」
『殺す価値がないと判断される方が、魔物としては屈辱かもしれませんな』
「そんなこと考える知能があるかな」
夕方前、浅層の野営地へ到着した。
太い丸太で囲まれた広場。
入口には二重の柵があり、周囲には先端を尖らせた杭が並んでいる。
中央には共同の焚き火。
見張り台には弓を持った狩人が立っていた。
すでに三組ほどの狩人が休んでいる。
誰もが鉄札か、それ以上の階級札を持っていた。
俺たちは空いている場所へ毛布を敷き、簡単な食事を取った。
夜になると、柵の外から何度も魔物の鳴き声が聞こえた。
浅層で聞く声よりも低く、大きい。
一度、柵の向こうで何かが枝を踏み折った。
見張りの狩人たちが武器を構えたが、その気配はしばらくして遠ざかっていった。
『眠れそうですか』
アークが俺の足元へ丸まりながら尋ねる。
「眠るよ。アークがいるからね」
『わてが見張るんですか』
「交代で」
『わては昼間も歩きましたで』
「俺も歩いたよ」
『犬の方が地面に近い分、余計に疲れるんです』
「初めて聞いた理屈だなあ」
結局、前半は俺が起き、後半はアークに周囲を警戒してもらった。
翌朝、再び森を進む。
昼前。
木々の間に、赤く塗られた石柱が見えてきた。
左右へ連なる、腰ほどの高さの石柱。
その向こう側は、一見すると浅層と変わらない。
だが、境界を越えた瞬間、空気が変わった。
黒い霧が濃い。
頭上の枝葉がさらに厚く、昼間でも夕方のように暗かった。
木々の幹も太い。
浅層では見上げるほどだった木が、中層では周囲の木より細く見える。
植物の葉は大きく、見たことのない色をしていた。
地面には、人間の頭ほどある獣の足跡が残っている。
遠くから聞こえる鳴き声も、どれも腹へ響くほど低かった。
『ここから中層ですな』
「そうみたいだね」
俺は剣の柄へ手を置く。
不思議と恐怖はなかった。
緊張はしている。
けれど、それ以上に、自分の力がどこまで通用するのか確かめたいという気持ちが強かった。
中層へ入ったその日。
最初に遭遇した魔物は、二匹のオーガだった。
太い木の根元に座り、何かの肉を食べている。
一匹が骨を噛み砕き、もう一匹が内臓を両手で引き裂いていた。
俺たちの気配に気づくと、二匹は食事を捨てて立ち上がった。
どちらも三メートルを超えている。
一匹は額に一本の角。
もう一匹には角がなく、代わりに下顎から長い牙が伸びていた。
武器は持っていない。
爪と牙、それに怪力が武器なのだろう。
「グォォォッ!」
二匹が同時に走ってくる。
俺は剣を抜いた。
右側のオーガの足首を念動力で内側へ引く。
巨体が傾き、隣を走っていたオーガへ衝突した。
二匹が折り重なるように転倒する。
一匹が起き上がる前に首を斬る。
もう一匹は俺へ腕を伸ばしたが、肘を逆方向へ曲げて地面へ押さえつけ、そのまま首を落とした。
戦闘は一分もかからなかった。
『浅層に出たオーガと変わりませんな』
「そうだね」
少し強い個体かもしれないと警戒していた。
しかし、動きも力も、以前倒したオーガと大差はなかった。
二匹分の魔石と牙、腱、睾丸を回収する。
念動力による解体にも慣れているため、大型のオーガであっても時間はかからない。
中層での最初の狩りは、思った以上に順調だった。
翌日。
さらに奥へ進んだところで、また二匹のオーガと遭遇した。
今度は別々の方向から襲ってきたが、結果は同じだった。
一匹の足を地面へ固定し、もう一匹を先に倒す。
残った一匹の拳を逸らし、脇を抜けると同時に首を斬る。
二日間で、合計四匹のオーガ。
大きな魔石も四つ手に入った。
このままオーガだけを狩って帰っても、かなりの金になる。
しかし、俺が中層へ来た目的は金だけではなかった。
自分より強い魔物。
今までの戦い方では簡単に倒せない相手。
そうした魔物と戦うことで、さらに念動力と剣を鍛えたかった。
そして中層へ入って三日目。
俺たちは、ついにトロールと遭遇した。
最初に気づいたのは、アークだった。
森の中を進んでいる途中、突然立ち止まり、鼻先を左へ向ける。
『主。ひどい臭いがします』
「魔物?」
『腐った肉と、泥と、湿った苔を混ぜたような臭いですな』
その直後、森の奥から重い足音が聞こえた。
ずしん。
ずしん。
枝が折れ、木々が揺れる。
現れたのは、オーガよりもさらに大きな魔物だった。
身長は四メートル近い。
長い腕は膝の下まで伸び、猫背の背中には苔や小さな植物が生えている。
肌は暗い緑色。
ところどころに樹皮のような硬い部分があった。
口は大きく、黄色く濁った牙が不規則に並んでいる。
右手には、根元から引き抜いた若木をそのまま削ったような棍棒を握っていた。
森トロール。
トロールには、いくつもの種類がいる。
森林に住み、植物に似た皮膚を持つ森トロール。
岩場へ住みつき、全身が石のように硬い岩トロール。
沼地に生息し、泥へ潜んで獲物を待つ泥トロール。
目の前にいるのは、中層で最も一般的に見られる森トロールだった。
一般的とはいえ、危険度はオーガより遥かに高い。
巨大な身体と怪力。
そして、トロール最大の特徴である再生能力。
多少の傷なら、戦っている最中に塞がる。
腕や脚を切断されても、時間をかければ再生する個体さえいるらしい。
倒すためには、頭部を破壊するか、首を切断する必要がある。
「グルォォォォォッ!」
森トロールがこちらへ気づき、棍棒を地面へ引きずりながら近づいてきた。
アークが後方へ下がる。
『オーガより、かなり大きいですな』
「動きは遅そうだけどね」
『油断したらあきませんで』
「分かってる」
俺は剣を抜き、トロールへ向かって走った。
相手の正面へ立つ必要はない。
念動力を自分の身体へかけ、横から押す。
足で走るだけでは不可能な速度で、身体が木々の間を滑るように移動した。
トロールが棍棒を振り上げるより早く、その背後へ回り込む。
まず機動力を奪う。
右脚の踵。
太い腱が通っている位置へ剣を振り下ろした。
鉄の刃が硬い皮膚を裂き、肉へ深く食い込む。
念動力を重ね、腱を完全に切断する。
ぶつり、と太い縄が切れたような感触があった。
トロールの右足から力が抜ける。
巨体が傾き、片膝を地面へついた。
だが、すぐに異変が起きた。
切り開いた傷口から、真緑の血が流れる。
その奥で、断ち切ったはずの筋肉が動き始めた。
左右へ分かれた腱が、互いを探すように伸びる。
細い繊維が何本も繋がり、切断面が見る間に塞がっていく。
「本当に再生するのか」
数秒もしないうちに、傷口が縮まり始めた。
トロールは地面へついた膝を持ち上げようとしている。
完全に元通りではない。
それでも、足を奪ったとは言えなかった。
「今まで通りにはいかないな」
トロールが振り返る。
黄色く濁った目が俺を捉えた。
傷をつけられたことへ怒っているのか、大きく口を開いて咆哮する。
「グガァァァァッ!」
腐った息が風となって吹きつけた。
次の瞬間、トロールが棍棒を両手で振り上げた。
右脚はまだ完全に再生していない。
だが、上半身の力だけで巨大な棍棒を頭上まで持ち上げている。
俺へ向かって、一気に振り下ろした。
まともに受ければ、剣ごと潰される。
俺は自分の身体へ念動力をかけた。
地面を蹴ると同時に、真横へ強く押す。
身体が一瞬で数メートル移動した。
棍棒が、直前まで俺のいた場所へ叩きつけられる。
地面が爆発したように弾けた。
土と石が舞い上がり、近くの木の根が露出する。
棍棒は地面へ深く食い込み、トロールの両腕が伸びきっていた。
俺はその隙を逃さない。
地面を蹴り、トロールの右側へ踏み込む。
狙うのは、棍棒を握った右手首。
太さは俺の胴体ほどある。
普通に剣を振っただけでは、骨まで断つのは難しいだろう。
剣を両手で握る。
刃の進む方向へ、念動力を集中させる。
腕を振る速度と、念動力による加速を重ねる。
刀身が風を切った。
刃はトロールの手首へ入り、分厚い皮膚と筋肉を一気に断つ。
巨大な骨へ触れた瞬間、強い抵抗が腕へ返ってきた。
そこで念動力をさらに強める。
剣が骨を押し切った。
トロールの右手が、棍棒を握ったまま宙を舞う。
緑の血が噴き出した。
「グギャァァァァァッ!」
トロールが絶叫する。
森中の木々が震えるほどの声だった。
切断された手首から血を撒き散らし、巨体をのけぞらせる。
足の腱とは違い、腕一本をすぐに再生することはできないらしい。
切断面では肉が蠢いている。
だが、新しい手が生える気配はなかった。
トロールの目に、痛みと怒りが浮かぶ。
残った左手で俺を掴もうとする。
巨大な指が広がり、上から覆いかぶさってきた。
俺は後方へ跳び、指先を避ける。
トロールはさらに腕を伸ばした。
爪が服の端を掠める。
捕まれば、握り潰されるだろう。
俺はトロールの左手を念動力で横へ押し、自分の身体を反対方向へ引いた。
指が空を掴む。
そのままトロールの膝へ意識を集中させた。
片方の膝関節を前へ。
もう片方を内側へ。
本来曲がる方向とは違う力を、同時に加える。
巨体を支えていた両脚の均衡が崩れた。
トロールが踏ん張ろうとする。
だが、切断された右手から血を流し、右脚も完全には再生していない。
片膝が地面へ落ちる。
さらに念動力を上半身へかけ、背中を横から押した。
トロールの身体が大きく傾く。
「グォォッ!」
残った左手を地面へつき、倒れるのを防ごうとする。
俺はその肘も外側へ払った。
支えを失った巨体が、地響きを立てて横倒しになった。
土煙が舞う。
近くの低木が身体の下敷きになり、へし折れた。
それでも、トロールはまだ動いている。
左手で地面を掴み、身体を起こそうとしていた。
首の傷なら再生される。
浅く斬るだけでは駄目だ。
一度で完全に切断する。
俺は倒れたトロールの背中を駆け上がった。
肩へ足をかける。
太い首が目の前にある。
剣を振り上げる。
トロールが頭を動かし、牙を剥いた。
噛みつこうとしている。
念動力で後頭部を地面へ押しつけた。
巨体が抵抗し、首の筋肉が盛り上がる。
それでも、起き上がるまでの一瞬を止めれば十分だった。
剣へ力を集中させる。
振り下ろす。
刃が首の後ろへ食い込んだ。
硬い皮膚。
分厚い筋肉。
オーガよりも太い頸椎。
一撃では抜けない。
俺は剣を引き抜かず、そのまま念動力で刃を下へ押す。
骨が砕ける音がする。
剣が首を抜けた。
巨大な頭部が身体から離れ、地面を転がる。
トロールの左手が、何かを掴むように一度だけ動いた。
やがて力を失い、地面へ落ちる。
首の切断面では、まだ肉が蠢いていた。
だが、頭部と胴体の距離が離れているため、繋がることはない。
しばらく警戒していたが、トロールが再び動き出すことはなかった。
俺は肩から地面へ下りる。
息を吐く。
オーガを倒したときより、明らかに疲れていた。
念動力を何度も使った。
自分の身体を高速で動かし、トロールの関節を曲げ、巨体を倒し、最後には太い首を剣ごと押し切った。
それでも、力を使い果たしたほどではない。
「倒せた」
『見とりましたで』
離れた場所へ避難していたアークが、倒れたトロールへ近づいてくる。
切断された頭の匂いを嗅ぎ、すぐ顔を背けた。
『これは、オーガより臭いですな』
「そこが最初の感想?」
『戦いについては、見れば分かります。お見事でした』
「最初に足を切ったときは、焦ったけどね」
『あれだけ早う再生されたら、切っても意味がありませんな』
「腕はすぐには戻らなかった。大きな部位ほど時間がかかるみたいだね」
『首を落とせば終わりですか』
「そうみたい」
戦い方は分かった。
小さな傷や腱の切断では、短時間で回復される。
再生が追いつかないほど大きく切断する。
あるいは、頭部を破壊するか、首を完全に落とす。
今後トロールと戦うときは、最初から首を狙った方が早いかもしれない。
俺は剣についた黒い血を拭った。
トロールの血は粘り気が強く、布へまとわりつく。
そのままにすれば刃が傷みそうだった。
念動力で水筒の水を少量浮かせ、刀身を洗う。
汚れた水を地面へ落とし、乾いた布で拭った。
それから死体へ向き直る。
「魔石を取ろう」
『どのくらい大きいですかな』
トロールの胸へ念動力を集中させる。
皮膚を切り開く。
オーガよりもさらに厚い。
胸骨には樹木のような筋が走り、通常の骨より硬かった。
一度に割ろうとせず、中央へ何本もの亀裂を入れる。
左右へ押し広げる。
胸郭が開くと、巨大な心臓が現れた。
人間の頭部ほどの大きさがある。
その中へ力を伸ばし、硬い物体を探す。
すぐに見つかった。
周囲の組織を切り離し、ゆっくりと引き出す。
現れた魔石は、これまで回収したどの魔石よりも大きかった。
小さな林檎ほどある。
色は深い緑。
内部には、葉脈のような光の筋が何本も走っている。
手を触れず、空中へ浮かせたまま眺める。
「これがトロールの魔石か」
『ええ値がつきそうですな』
「オーガの魔石より大きいからね」
魔石を布で何重にも包み、専用の箱へ入れた。
トロールの牙や皮、再生薬の材料になる肉にも価値はある。
しかし、巨大な死体をすべて解体するには時間がかかる。
中層に長く留まれば、血の臭いへ引かれて別の魔物が来る。
すでにオーガ四匹分の素材も持っている。
欲張る必要はなかった。
牙を二本。
切断された右手から、比較的状態のよい皮と腱。
持ち運べる範囲で価値の高い部位だけを回収した。
「これで町へ帰ろう」
『もう帰るんですか』
「トロールも倒したし、荷物も多いからね」
『まだ食べられる魔物を狩っておりませんで』
「中層まで来て、食事のことしか考えてないの?」
『旅の楽しみは食事ですからな』
「干し肉があるでしょ」
『あれは旅を耐えるためのものです。楽しむための肉とは違います』
「肉にも役割があるんだね」
『当然です』
来た道を引き返す。
中層の境界を越え、野営地で一泊する。
翌日、浅層を抜けて黒霧の森の入口へ戻った。
見張り所で鉄札を提示し、トロールを討伐したことを報告する。
兵士は最初、俺の言葉を聞き間違えたような顔をした。
「トロール?」
「森トロールです」
「どこで?」
「中層へ入ってから、北西へ半日ほど進んだ場所です」
「仲間は?」
「アークだけです」
兵士がアークを見る。
アークは何も知らない普通の犬のような顔で座っていた。
その横で、別の兵士が俺の背負い袋から突き出した牙を見ていた。
森トロールの牙は、オーガのものよりも長い。
見間違えることはないのだろう。
「本当に一人で倒したのか」
「はい」
「鉄級になったばかりだろう」
「三日前です」
兵士は何か言おうと口を開き、結局何も言わずに閉じた。
ダリスティへ戻り、そのまま狩人ギルドへ向かう。
中層から帰還した狩人は少ないのか、受付へ並んでいた者たちが俺の荷物へ視線を向けた。
査定窓口で鉄札を出し、回収した素材を机の上へ並べる。
オーガ四匹分の魔石。
牙。
腱。
そして、森トロールの大きな緑色の魔石。
受付を担当していた女性は、魔石を見た瞬間に手を止めた。
「こちらは……トロールの魔石ですか?」
「森トロールです」
「討伐隊へ参加されたのですか?」
「いいえ。中層で一匹と遭遇しました」
「仲間の方は?」
「いません」
女性はしばらく黙った。
俺の後ろに誰かいるのではないかと考えたのか、窓口の外へ視線を向ける。
そこにいるのは、床へ座って欠伸をしているアークだけだ。
女性は再び俺へ向き直った。
「トロールを、単独で討伐されたのですか?」
「はい」
「鉄級へ昇進されて、まだ三日ですよね」
「そうですね」
女性は魔石へ目を落とす。
次に、俺の鉄札を確認する。
何度見ても記録が変わるわけではない。
「少々お待ちください」
女性は席を立ち、慌ただしく奥へ向かった。
『また偉い人を呼びに行きましたな』
アークが足元で言う。
「たぶんね」
『今度は何級になります?』
「三日で次へは上がらないでしょ」
『主なら分かりませんで』
「階級を上げるために狩ってるわけじゃないよ」
『金と強さのためでしたな』
「そういうこと」
窓口の奥では、職員たちが緑色の魔石を囲んで何かを話していた。
やがて、以前オーガの査定を担当した片耳の男がこちらへ歩いてくる。
男は机の上の魔石を手に取った。
重さを確認する。
光へかざす。
専用の器具へ載せると、半透明の板が強い緑色に光った。
魔石の大きさと魔力を測り、牙や腱も一つずつ確認する。
「首を落としたのか?」
「はい。右手首も切断しました」
「再生は?」
「足の腱は数秒で繋がり始めました。手首はすぐには戻りませんでした」
男は小さく頷いた。
「初めて戦ったにしては、よく見ている」
「何度も戦いたくはないですからね」
「その魔石なら、かなりの値がつく」
「どのくらいです?」
男はもう一度、秤の数字を確認した。
「魔石だけで五十二ダカット」
「五十二?」
「森トロールの魔石としても大きい。損傷もなく、魔力の流出も少ない。再生薬を作る錬金術師と、土属性の魔術具工房の両方が欲しがる」
牙や腱、皮。
それにオーガ四匹分の素材も加えられる。
男は帳簿へ数字を書き込み、計算を終えた。
「合計、九十九ダカットと十三ラリ」
一度の遠征で得た金額としては、これまでで最も多い。
魔術学院へ入るための資金が、また大きく増えた。
だが、俺が考えていたのは金のことだけではなかった。
トロールには勝てた。
しかし、オーガのように一撃とはいかなかった。
再生能力を知らなければ、足を斬り続けて無駄に力を使っていたかもしれない。
相手の能力を知らずに戦えば、今の俺でも危険になる。
中層には、トロール以外の魔物もいる。
ジャイアントスパイダー。
毒を持つ魔獣。
罠を作る魔物。
力だけでは対処できない相手。
俺が求めていたのは、まさにそういう場所だった。
より強い魔物と戦う。
念動力を鍛える。
剣を磨く。
そして、そこで得た金を魔術学院へ入るための資金にする。
俺は査定台の上に置かれた鉄札を手に取った。
鉄級になって、まだ三日。
それでも、中層で戦えることは分かった。
次は、トロール以外の魔物とも戦ってみたい。
『主』
アークが俺を見上げる。
「何?」
『九十九ダカットも稼いだんですから、今日は肉を九十九本食べられますな』
「どういう計算?」
『一ダカットにつき一本です』
「一本が高すぎるでしょ」
『では、百五十六本』
「なんで増えたの?」
『安い肉を選びました』
「二本だよ」
『九十九ダカット稼いで、二本?』
「夕食も別にあるから」
『せめて五本』
「三本」
『四本』
「三本」
『分かりました。三本と、わいの夕食に肉を追加で』
「結局増えてるよ」
狩人ギルドの中に、アークの不満そうな念話が響く。
もちろん、ほかの者には聞こえていない。
俺は苦笑しながら、報酬の大部分を口座へ預けた。
魔術学院まで、あと少し。
目標へ近づいていることは確かだった。




