報酬
「今度は、剣で倒す」
そう口にした直後、オーガが地面を蹴った。
三メートルを超える巨体が、信じられない勢いでこちらへ迫ってくる。
一歩ごとに地面が沈み、枯れ葉と黒い霧が跳ね上がった。
武器は持っていない。
だが、必要もないのだろう。
丸太ほどもある腕。
岩のような拳。
あれをまともに受ければ、人間の身体など簡単に砕ける。
以前の俺なら、その突進を見ただけで身体が竦んでいたかもしれない。
この世界へ来たばかりの頃。
言葉も分からず、魔物の知識もなく、剣すら持っていなかった。
オーガがどれほど危険な相手なのかさえ知らなかった。
ただ、目の前の怪物に殺されると思い、必死に念動力を放った。
首へ力を集中させ、捻り、引きちぎるように吹き飛ばした。
あのときは、それだけで全身の力を使い果たした。
息もできないほど疲れ、しばらく立ち上がることさえできなかった。
けれど、今は違う。
目の前のオーガの動きが、驚くほどよく見える。
右足で踏み込む。
腰を捻る。
肩が前へ出る。
右拳を振り上げる。
次に何をするのか、手に取るように分かった。
「アーク、離れてて」
『言われんでも、そのつもりですわ』
アークは倒れたオークの死体を飛び越え、太い木の陰へ下がった。
オーガは俺だけを見ている。
赤い瞳。
剥き出しの牙。
口の端から粘ついた唾液を垂らしながら、巨大な拳を振り下ろしてきた。
速い。
オークとは比べものにならない。
だが、避けられないほどではなかった。
俺は横へ飛ばず、その場に立ったまま左手を上げた。
狙うのは拳そのものではない。
あれほど重く、速いものを正面から止めれば、余計な力を消耗する。
必要なのは、ほんの少し軌道をずらすことだけだ。
見えない力を、オーガの右肘へ横からぶつける。
拳の軌道が外側へ流れた。
俺の肩を砕くはずだった一撃が、そのすぐ横を通り過ぎる。
風圧が頬を叩いた。
次の瞬間、オーガの拳が地面へ突き刺さる。
轟音。
土が弾け、浅い穴が生まれた。
オーガの腕が地面へ沈み、上半身が大きく前へ傾く。
俺は一歩踏み込んだ。
首が目の前にある。
以前なら、ここで必死に念動力を集中させていただろう。
だが、今の俺には剣がある。
両手で柄を握る。
腰を捻り、刃を横へ走らせた。
同時に、剣が進む方向へ念動力を加える。
無理やり押し込むのではない。
自分の斬撃を、後ろから軽く押すような感覚。
刃が加速する。
鉄の剣が、オーガの分厚い首へ食い込んだ。
皮膚。
筋肉。
血管。
硬い骨。
一瞬だけ重い抵抗があった。
しかし、そこで止まらない。
念動力が剣をさらに前へ運ぶ。
刃は首の骨を断ち、そのまま反対側へ抜けた。
巨大な頭が宙へ浮かぶ。
赤い瞳が見開かれたまま、ゆっくりと回転した。
次に、地面へ落ちる。
どさり、と重い音がした。
首を失った身体は、拳を地面へ突き立てた姿勢のまま、一瞬だけ止まっていた。
やがて力が抜ける。
巨大な胴体が横へ倒れ、地面が揺れた。
それだけだった。
オーガとの戦いは、始まってから数秒で終わった。
森へ、再び静寂が戻る。
俺は剣を振り、刃についた血を落とした。
息は乱れていない。
腕も重くない。
頭痛もない。
以前のように、念動力を使い果たした感覚もなかった。
「……弱い」
思わず、そんな言葉が口から出た。
もちろん、オーガが弱いわけではない。
五匹のオークを傷だらけにし、森の生き物すべてを黙らせるほどの魔物だ。
普通の人間にとっては、間違いなく強敵なのだろう。
銅級の狩人なら、見つけた瞬間に逃げるべき相手だ。
それでも、俺には弱く感じた。
初めて会ったときとは、何もかもが違いすぎる。
『弱いんやなくて、主が強うなったんですで』
木の陰から出てきたアークが、倒れたオーガを遠巻きに見ながら言った。
「そうなのかな」
『そうに決まっとります。あないな大きいもんの首を、野菜でも切るみたいに飛ばしといて、何を言うとるんですか』
「野菜は言いすぎじゃない?」
『では、太い骨付き肉ですな』
「余計に生々しくなったよ」
アークはオーガの頭へ近づき、鼻先を寄せた。
直後、顔をしかめて一歩下がる。
『臭いですな』
「魔物だからね」
『オークより、ずっと臭います』
「近づかなきゃいいでしょ」
『素材の確認ですで』
「さっきまで俺に任せる気だったよね?」
『主が詳しく見て、わてが最終確認をする。完璧な役割分担ですな』
「便利な役割だなあ」
そう答えながら、俺は剣の状態を確認した。
戦いに勝った安心より、まず刃が無事かどうかの方が気になった。
オーガの首の骨を断ったのだ。
念動力で補助したとはいえ、刃へかなりの負担がかかったはずだった。
布を取り出し、血を拭う。
刃先を光へかざす。
大きな刃こぼれはない。
目を凝らせば、小さな傷はあるかもしれない。
だが、すぐに使えなくなるような損傷ではなかった。
「よかった」
『オーガを倒したことより、剣が無事な方が嬉しそうですな』
「この剣、高いんだよ」
『オーガの素材を売れば、もっと高い剣が買えるんやないですか』
「だからって、今ある剣を壊していいことにはならないでしょ」
『主は物持ちがええですな』
「鉄が安くないだけだよ」
鞘へ戻す前に、もう一度刃を拭う。
血が残れば錆の原因になる。
城へ戻ったら、油を塗ってしっかり手入れした方がいいだろう。
剣を鞘へ収めたあと、俺は倒れた魔物たちを見回した。
オークが五匹。
オーガが一匹。
狩りの成果としては、初日に持ち帰る量ではない気がする。
問題は、これをどう運ぶかだった。
「全部は無理だな」
『念動力で浮かせればええやないですか』
「森の中ならともかく、街の近くで見られたくないんだよ」
『荷車を借りに戻るとか』
「戻ってる間に、ほかの魔物に食べられるかもしれない」
『では、食べられる前に食べますか』
「アーク一匹でオーガを?」
『一週間あれば』
「森の中で一週間も待てないよ」
まずは、素材として価値の高い部位だけを回収するべきだろう。
ギルドで読んだ冊子の内容を思い出す。
オークは眼球、牙、心臓、肝臓。
オーガは牙、腱、皮、魔石、睾丸。
最後の部位だけは、忘れようとしてもアークのせいで強く記憶へ残っている。
俺は背負い袋から革手袋と解体用の短刀を取り出した。
買ったばかりの短刀。
いきなりオーガの解体に使うことになるとは思わなかった。
『ついに出番ですな』
「まずはオークから練習するよ」
『先にオーガの睾丸を――』
「腐らないから後でいいよ」
『そうなんですか?』
「知らないけど」
『高級素材を適当に扱うたらあきませんで』
「じゃあ、アークが取る?」
『わては口しか使えませんので』
「なら黙ってて」
『承知しました』
言葉とは裏腹に、アークは楽しそうだった。
俺は最も傷の少ないオークの前へしゃがんだ。
まずは魔石だ。
冊子によれば、心臓の近くにあることが多い。
個体によって位置が少し異なるため、胸を大きく開き、手で探すのが基本らしい。
地球にいた頃なら、魔物とはいえ死体を解体することに強い抵抗があっただろう。
今も、平気になったわけではない。
血の臭い。
まだ温かい身体。
皮膚へ刃を入れたときの感触。
気持ちのいいものではなかった。
だが、この世界で生きていくには必要なことだ。
魔物を倒して、素材を売る。
それが狩人の仕事なのだから。
短刀を胸へ当てる。
刃を入れる。
思ったより皮膚が厚い。
腕へ力を込めても、刃がなかなか進まない。
「硬いな」
『さっきは首を簡単に飛ばしとりましたのに』
「剣と短刀じゃ違うよ」
『念動力を使えばええんやないですか』
その言葉で、俺は手を止めた。
確かにその通りだ。
戦闘以外でも、念動力を使えばいい。
短刀の背を見えない力で押す。
刃が滑らかに皮膚へ入った。
力を調整しながら、胸から腹へ切り開く。
勢いをつけすぎれば、内臓や魔石を傷つける。
剣を振るうときより、細かな制御が必要だった。
「これは、いい練習になるかも」
胸を開くと、強い臭いが広がった。
アークがすぐに数歩後ろへ下がる。
「最終確認は?」
『遠くからでもできますで』
「都合がいいなあ」
内臓を傷つけないように避け、心臓の周辺へ手を入れる。
手袋越しに、硬いものへ触れた。
肉とは違う。
石のような感触。
周囲の組織を慎重に切り、取り出す。
出てきたのは、暗い赤色をした小さな石だった。
大きさは親指の先ほど。
表面は滑らかで、わずかに透明感がある。
内部で赤い光が揺れているようにも見えた。
「これが魔石か」
これまで倒した魔物からも取れたはずだ。
そう考えると、やはり少し惜しい。
俺は魔石を布で拭き、専用の小箱へ入れた。
硬そうに見えるが、傷がつけば価値が落ちる。
乱雑に袋へ入れるのは避けた方がいい。
そのあとは、心臓と肝臓を取り出す。
眼球は思っていたより難しかった。
力を入れすぎれば潰れる。
刃を深く入れれば傷つける。
片方は無事に取れたが、もう片方は途中で傷をつけてしまった。
「これは売れないかな」
『食べられませんか』
「何でも食べようとしないでよ」
『目玉は珍味やと聞いたことがありますで』
「どこで?」
『魚の目玉は食べますやろ』
「魚とオークを一緒にしないで」
傷ついた眼球は持ち帰らず、無事な方だけを油紙へ包んだ。
牙も根元から切り取る。
一本ずつはそれほど重くない。
五匹分なら、十分に持ち帰れそうだった。
最初の一匹を解体するだけで、かなり時間がかかった。
冊子を読んだだけで、すぐに上手くできるはずもない。
二匹目では、魔石の位置を探す時間が少し短くなった。
三匹目では、胸を開く切り口を小さくできた。
四匹目では、両方の眼球を傷つけずに取り出せた。
五匹目を終える頃には、最初よりかなり手際がよくなっていた。
それでも、服や手袋には血がつき、周囲には強烈な臭いが漂っていた。
「狩人がみんな汚れてた理由が分かったよ」
『格好よく魔物を倒して終わりやありませんからな』
「解体の方が時間がかかるね」
『金になるのは、こっちですで』
アークは素材を包んだ袋の前に座り、満足そうに尻尾を振っている。
自分では何もしていない。
だが、成果を喜ぶ権利だけは当然のように持っているらしい。
オーク五匹から回収できたのは、魔石が五つ。
状態のいい眼球が七つ。
心臓が五つ。
肝臓が四つ。
牙が八本。
一匹の肝臓は、最初から大きく傷ついていたため諦めた。
素材だけでも、背負い袋がかなり重くなった。
そして、まだオーガが残っている。
俺は巨大な死体を見上げた。
近くで見ると、本当に大きい。
腕一本だけでも、オーク一匹に近い重さがありそうだった。
皮は厚く、全身を持ち帰ることなど到底できない。
「どこまで取るべきかな」
『まず魔石ですな』
「それは絶対だね」
『次に睾丸』
「優先順位が高すぎない?」
『高く売れるんでしょう?』
「冊子にはそう書いてあったけど」
『なら、迷う理由がありませんやん』
確かに、金を稼ぐために来たのだ。
恥ずかしがるようなことでもない。
薬の素材になるなら、立派な商品だ。
「先に魔石から」
『逃げましたな』
「順番の問題だよ」
オーガの胸へ短刀を当てる。
念動力で押しても、オークより明らかに硬い。
皮膚だけで指の厚みほどある。
筋肉も分厚く、胸を開くのに時間がかかった。
途中から短刀だけでは難しいと判断し、剣も使った。
高価な剣を解体に使うのは気が進まなかったが、オーガの身体へ刃を通すには仕方がない。
剣で浅く切り口を作り、短刀で広げる。
それを繰り返す。
やがて、心臓の近くから硬い感触を見つけた。
周囲の肉を取り除き、慎重に引き出す。
現れた魔石を見て、俺は思わず声を漏らした。
「大きい」
鶏卵ほどある。
オークの魔石とは比べものにならない。
色は濃い赤。
内部には、炎のような光が揺れていた。
手のひらに載せると、わずかに温かい。
これ一つだけで、十ダカットを超える可能性がある。
ギルドの掲示板に書かれていた値段を思い出し、自然と口元が緩んだ。
『えらい価値がある顔をしとりますな』
「これ一つで、今日買った道具代が全部戻るかもしれない」
『では、もっとオーガを探しましょう』
「森に果物みたいに生えてるわけじゃないよ」
『一匹おったなら、ほかにもおるかもしれませんで』
「今日はもう十分」
魔石を柔らかい布で包み、小箱へ入れる。
オークの魔石とは別にした方がいい。
ぶつかって傷がつくのは避けたい。
続いて牙を二本。
脚の太い腱。
皮は一部だけ切り取った。
全身の皮を剥ぐには時間がかかりすぎる。
日没まで、まだ余裕はある。
だが、森で長く同じ場所へ留まるのは危険だった。
血の臭いに引かれて、別の魔物が来るかもしれない。
最後に、俺はオーガの腰から下へ目を向けた。
『ついに来ましたな』
「実況しないで」
『大事な瞬間ですで』
「黙ってて」
『はい』
アークは素直に返事をした。
だが、視線はこちらへ向けたままだった。
俺はため息をつき、冊子で見た位置を思い出しながら短刀を入れた。
難しい作業ではない。
眼球よりずっと簡単だった。
左右を傷つけないように取り出し、油紙で包む。
大きさも、人間のものとは比べものにならない。
薬の材料になると言われれば、確かに大量に作れそうだった。
『立派ですな』
「感想はいらないよ」
『これで高う売れるんやったら、ええことです』
「そうだけどさ」
素材袋へ入れる。
これで、回収するべきものはほとんど取った。
オーガの肉や骨にも価値があるかもしれない。
だが、これ以上は運べない。
俺は背負い袋を持ち上げようとして、その重さに眉を寄せた。
オーク五匹分の内臓と牙。
オーガの素材。
魔石。
道具。
水。
かなり重い。
背負えないほどではないが、長い距離を歩けば疲れる。
「少し減らした方がいいかな」
『高く売れるものを捨てるんですか?』
「捨てるとは言ってないよ」
俺は周囲を見回した。
森の中に、ほかの狩人の気配はない。
ここから入口まで、歩いて一時間ほど。
念動力を使って荷物を軽くすればいい。
完全に浮かせる必要はない。
重さの半分ほどを支えれば、普通の背負い袋と変わらず運べる。
人が近づいてきたら、そのときだけ力を止めればいい。
「念動力で重さを支える」
『最初からそうすればよかったんですで』
「人に見つからない範囲でね」
『念動力は便利ですな』
「便利だけど、何でも人前で使うわけにはいかないよ」
『魔術師やと言えばええやないですか』
「魔術師じゃないのに?」
『違いが分かる人なんて、そんなにおらんでしょう』
それはそうかもしれない。
けれど、魔術学院へ入る前から妙な噂が立つのは避けたい。
俺の念動力が、この世界の魔術と同じものなのかも分からない。
注目されるより、隠しておいた方が安全だ。
素材をすべて背負い袋へ収める。
入りきらないものは革紐で外側へ固定した。
オーガの牙が二本、袋の横から突き出している。
見るからに大物を倒した狩人の荷物だった。
『これなら、街で注目されるんやないですか』
「そこは仕方ないよ」
『念動力は隠すのに、オーガを一人で倒したことは隠さんのですか』
「倒したことまで隠したら、素材を売れないでしょ」
『確かに』
俺は立ち上がり、周囲へ念動力を広げた。
倒れたオーク。
オーガの巨体。
血の臭い。
遠くから、何かがこちらを窺っているような気配がある。
はっきりとは分からない。
だが、長居しない方がいい。
「戻ろう」
『肉は持って帰らんのですか』
「何の肉?」
『オーガです』
「食べる気なの?」
『食えるかもしれませんで』
「絶対に嫌だよ」
『オークは?』
「それも嫌」
『グレイボアを探してから帰りますか』
「もう荷物がいっぱいだって」
『残念ですな』
アークは名残惜しそうに死体を振り返った。
俺たちは来た道へ戻り始めた。
木の幹につけられた赤い印を確認し、街の方角へ進む。
森へ入ったときより、背負い袋は何倍も重い。
けれど、念動力で下から支えているため、肩へかかる重さはほとんど変わらない。
力の消費も小さかった。
オーガの攻撃を逸らしたときと同じで、すべてを浮かせる必要はない。
少しだけ補助する。
その方が、長く使い続けられる。
歩きながら、俺は今日の戦いを振り返った。
オーク五匹は、ほとんど相手にならなかった。
オーガも、一撃だった。
黒霧の森へ入る前は、ここで自分の力を試すつもりだった。
だが、浅層にいる魔物では、今の俺の限界は分からないかもしれない。
魔物を倒し、金を稼ぐ。
剣を学び、念動力を鍛える。
魔術学院へ入るための資金を貯める。
今は、それを一つずつ続ければいい。
『主』
前を歩いていたアークが振り返った。
「何?」
『今日の稼ぎで、何を食べます?』
「まだ売れてもいないよ」
『オーガの魔石がありますやん。きっと大金ですで』
「全部使う気?」
『祝い事には、ご馳走が必要です』
「何の祝い?」
『主が正式な狩人になって、初日にオーガを倒した祝いですな』
「理由は後からいくらでも作れるんだね」
『肉と酒があれば、理由など何でもええんです』
「アークは酒を飲めないでしょ」
『肉だけで我慢します』
「我慢になってないよ」
そんな話をしながら、森の入口へ近づいていく。
途中、二組の狩人とすれ違った。
どちらも四人以上の集団だった。
彼らは俺の背負い袋から突き出したオーガの牙を見ると、足を止めた。
一人が信じられないものを見るような目で、俺の首に下がった銅札を見た。
「おい、それ……オーガの牙か?」
「たぶん、そうです」
「たぶんって、お前が倒したんじゃないのか?」
「倒しました」
男は俺を見た。
次にアークを見る。
周囲に仲間がいないことを確認する。
「一人で?」
「はい」
嘘をつく必要はない。
アークは戦っていないので、実際に一人で倒したようなものだ。
狩人たちは顔を見合わせた。
「銅級だよな?」
「今日登録したばかりです」
「今日?」
男はさらに目を見開いた。
仲間の一人が、疑わしそうに牙へ近づく。
「拾ったんじゃねえのか」
「死体は、ここから西へ少し行った場所にあります。オーク五匹の死体も一緒です」
「オーク五匹?」
「オーガに襲われて、傷を負っていたみたいです」
狩人たちの顔から疑いが消えた。
代わりに、警戒するような色が浮かぶ。
俺に対してではない。
森の奥へ向けたものだった。
「オーガが浅層まで出たのか」
「赤い境界石は見ていません。まだ浅層だと思います」
「巣から追い出されたか、餌を追ってきたか……」
男は仲間へ目を向けた。
「今日は予定を変える。西側には入らねえ。見張り所へ報告するぞ」
「俺も報告した方がいいですか?」
「ああ。オーガの死体を確認してもらえ。討伐記録にもなる」
男はそう言ったあと、改めて俺を見た。
「本当に一人で倒したなら、大したもんだ」
「ありがとうございます」
「だが、新入りなら無茶はするな。今回は勝てても、次も同じとは限らねえ」
「気をつけます」
注意されるほど無理をした覚えはなかった。
だが、素直に頷いておく。
オーガが一般の狩人にとって、どれほど危険な魔物なのかは知っておいた方がいい。
俺にとって簡単だったからといって、判断を誤れば周囲まで危険に巻き込む可能性がある。
森の入口にある監視小屋へ戻る。
兵士は俺の荷物を見ると、すぐに表情を変えた。
「その牙はどこで手に入れた」
「西側の浅層です。オーガが一匹いました」
「何だと?」
周囲にいた兵士たちが一斉にこちらを向く。
俺はオーク五匹が逃げてきたこと。
そのあとを追うように、オーガが現れたこと。
赤い境界石を越えていないことを説明した。
「死体は残っているか?」
「はい。価値のありそうな素材だけ取りました」
「場所は分かるか?」
「赤い印の道から、少し北へ外れた場所です」
兵士はすぐに二人の部下を呼んだ。
地図を広げ、俺が覚えている範囲で場所を示す。
「確認隊を出す。巣が近くにあるなら、ほかにもいる可能性がある」
「一匹だけじゃないんですか?」
「オーガは単独で動くこともある。だが、浅層へ出る理由が分からん。中層で何かが起きて、押し出された可能性もある」
兵士の言葉に、ギルドの地図を思い出す。
中層。
トロールやジャイアントスパイダーがいる場所。
さらに奥には、帰還者すら少ない深層がある。
オーガを浅層へ追い出す何か。
もし本当にそんなものがいるなら、黒霧の森は思っている以上に危険な場所なのかもしれない。
「お前が倒したのか?」
兵士が聞く。
「はい」
「一人で?」
「アークもいましたけど、戦ったのは俺です」
兵士は俺の首にある銅札を見た。
しばらく無言になる。
「登録したばかりだろう」
「今日です」
「今日……」
東門や西門で見た兵士と同じ反応だった。
やがて、兵士は大きく息を吐いた。
「素材を持ってギルドへ行け。こちらからも報告書を送る。死体を確認できれば、オーガ討伐として正式に記録される」
「分かりました」
「それと、今日はもう森へ戻るな」
「戻るつもりはありません」
黒霧の森を離れ、ダリスティへ続く道を歩く。
空はまだ明るい。
日没までは時間がある。
初めての狩りは、予定よりずっと早く終わった。
獲物も、予定より遥かに多い。
西門へ近づくにつれ、街へ戻る狩人が増えていった。
俺の荷物を見る者。
オーガの牙に気づき、二度見する者。
銅色の狩人札を見て、仲間へ何か囁く者。
目立っている。
かなり目立っている。
念動力を隠しても、これでは結局注目される気がした。
『有名になる第一歩ですな』
「有名になりたいとは言ってないよ」
『わいの名前も広まりますか?』
「オーガを倒した犬として?」
『相棒としてです』
「アークは木の陰に隠れてただけでしょ」
『周囲を警戒しとりました』
「そうだったね」
『わいがおらんかったら、別の魔物に後ろから襲われとったかもしれませんで』
「分かった。アークも活躍したことにしておくよ」
『しておく、ではなく、活躍しました』
「はいはい」
西門で狩人札を見せる。
門番は、俺の背負い袋を見て目を丸くした。
「朝、出ていった新入りだよな?」
「はい」
「その牙は?」
「オーガです」
「……何があった」
今日だけで何度目か分からない説明を繰り返す。
門番は話を聞き終えると、しばらく無言で俺を見つめた。
「怪我はないのか」
「ありません」
「仲間は?」
「いません」
「オーガを一人で倒して、怪我もなし?」
「そうなります」
門番は隣の兵士と顔を見合わせた。
何か言いたそうだったが、最終的には門を通してくれた。
「ギルドへ行け。査定が終わるまで、素材を誰にも売るなよ」
「どうしてですか?」
「街には、新人から安く買い叩こうとする連中がいる。オーガの素材なら、特に狙われる」
「分かりました」
門を抜け、ダリスティへ入る。
昼前に通ったときとは、街の景色が少し違って見えた。
あのときは、武装した狩人たちが強そうに見えた。
血に濡れた荷車に圧倒された。
今は、自分の背中にも魔物の血と素材がある。
俺も、森から戻ってきた狩人の一人なのだ。
狩人ギルドへ着くと、建物の中は朝以上に混雑していた。
狩りを終えた者たちが、一斉に素材を持ち込んでいるらしい。
カウンターには魔石や角が並び、裏手の解体所からは何かを切る音が響いている。
俺が中へ入ると、近くにいた者たちの視線が集まった。
理由は分かっている。
袋から突き出した二本の牙だ。
「オーガじゃねえか」
「誰が倒した?」
「後ろに仲間がいるのか?」
小声が聞こえる。
俺は案内カウンターへ向かった。
そこには、朝の受付を担当した女性がいた。
彼女も俺に気づき、最初は普通に微笑んだ。
だが、荷物を見ると表情が止まった。
「お戻りになったのですね」
「はい。素材を買い取ってほしいのですが」
「その牙は……」
「オーガです」
女性は俺の後ろを見た。
入口。
周囲。
仲間を探しているのだろう。
「討伐隊の方々は、どちらに?」
「俺一人です」
「一人?」
「正確には、アークもいました」
『わいを忘れたらあきませんで』
女性はアークを見た。
次に、俺を見た。
どうやら冗談ではないと判断したらしい。
「少々、お待ちください」
彼女は席を立ち、奥へ消えた。
すぐに、がっしりした体格の中年男性を連れて戻ってくる。
男は片耳が欠けており、顔には古い傷が何本も走っていた。
制服を着ているが、元狩人なのだろう。
歩き方と視線が、受付職員とは違う。
「オーガを持ち込んだ新人は、お前か」
「素材だけです。死体は森に残してあります」
「狩人札を見せろ」
銅札を渡す。
男は登録日と名前を確認し、眉を寄せた。
「今日登録したばかりだな」
「はい」
「どこで倒した」
「西側の浅層です。見張り所には報告しました」
「確認隊は出たか?」
「出ると言っていました」
男は受付の女性へ指示を出した。
「見張り所からの連絡を確認しろ。それまで素材を仮査定する」
「承知しました」
俺は裏手にある査定用の部屋へ案内された。
石造りの床。
大きな机。
秤。
水桶。
素材を広げるための金属板。
部屋には強い薬品の臭いが漂っていた。
血や腐敗臭を抑えるためのものだろう。
男は俺へ荷物を下ろすように言った。
念動力の補助を止め、背負い袋を床へ置く。
重い音が響く。
「全部出せ」
まずオークの素材を並べる。
魔石が五つ。
眼球。
心臓。
肝臓。
牙。
男は一つずつ状態を確認していく。
「初めて解体したのか」
「はい」
「その割には悪くない」
「最初の方は、かなり失敗しました」
「目玉が三つ足りねえな」
「傷つけました」
「持ってこなかったのは正解だ。潰れた眼球は腐りやすい。ほかの素材まで駄目にする」
男は魔石を光へかざした。
ひび割れの有無を確認する。
次に、小さな金属器具へ載せた。
器具の中央には、半透明の板が埋め込まれている。
魔石を置くと、板が淡く赤く光った。
「魔力残量も問題なし。五つとも中等品質だ」
「いくらくらいになりますか?」
「全部で十三ラリ」
思っていたより高い。
オークだけで、登録料と解体道具の代金の大部分が戻る。
眼球や内臓も加えれば、さらに増える。
「オーク素材の合計は、十一ラリと六ギニューだ」
「そんなに?」
「五匹分だからな。心臓と眼球の状態がいい。肝臓は一つ、切り口が悪いから半額だ」
男は淡々と記録していく。
次に、オーガの素材を出した。
牙。
腱。
皮。
魔石。
そして、油紙に包んだ睾丸。
大きな魔石が机へ置かれた瞬間、男の表情が変わった。
手に取り、光へかざす。
器具へ載せる。
半透明の板が、オークのときより強く赤く光った。
「傷がない」
「慎重に取りました」
「鶏卵大。赤色。魔力の濁りも少ない。上等品だ」
「いくらになります?」
男はすぐには答えなかった。
別の秤へ魔石を載せ、重さを量る。
小さな金属棒で表面を軽く叩く。
音を聞き、帳簿を開く。
「魔石だけで、十八ダカット」
俺は一瞬、聞き間違えたかと思った。
「十八?」
「ああ。討伐されたばかりで魔力の流出が少ない。割れも欠けもない。魔術具工房へ回せる品質だ」
十八ダカット。
今日使った金どころか、旅費も含めて大きく上回る。
『肉が何本買えます?』
アークの声が弾んでいる。
「今は黙ってて」
「何か言ったか?」
「いえ、何でもありません」
男はほかの素材も査定する。
牙は二本とも状態がいい。
腱も切断位置に問題はない。
皮は面積が小さいため、価格もそれなりだった。
最後に、油紙を開く。
男は中身を見ても、特に表情を変えなかった。
慣れているのだろう。
重さを量り、傷を確認する。
「左右とも損傷なし。大きさも十分だ」
「高く売れますか?」
「二つで一ダカット」
『やりましたな!』
アークが勢いよく尻尾を振る。
「魔石よりは安いんですね」
「それでも十分高い。強壮薬は貴族や富裕商人が高値で買う。だが、使用量は魔石ほど多くない」
なるほど。
珍しいからといって、必ずしも魔石より高いわけではないらしい。
それでも一ダカット。
嫌々ながら回収した価値はあった。
「オーガ素材は、全部で六ダカットと六ラリになる」
「オークと合わせると?」
男が帳簿へ数字を書き込む。
「二十七ダカットと六ラリ六ギニュー」
俺はしばらく何も言えなかった。
一日の狩り。
それも、森にいたのは数時間だけだ。
もちろん、毎回オーガと出会えるわけではない。
魔石も、必ず今回と同じ品質とは限らない。
それでも、魔物を狩れば金になることは分かった。
この調子で稼げれば、魔術学院へ入るための資金も、思っていたより早く貯まるかもしれない。
『主』
「何?」
『今夜は肉ですな』
「まだ確定してないよ」
『二十七ダカットもあるんですで』
「全部食費に使ったら、一日で破産するでしょ」
『一ダカット分だけでも』
「どれだけ食べる気なの?」
男が俺とアークを交互に見た。
また独り言を言っていると思われたらしい。
そのとき、扉が開いた。
受付の女性が入ってくる。
「西側見張り所から報告が届きました。オーガ一体とオーク五体の死体を確認したそうです。傷の状態も、申告内容と一致します」
男は頷いた。
「討伐者は?」
「現場の足跡と血痕から、モーリさんが戦闘した可能性が高いとのことです。ほかの狩人が関与した痕跡は確認されていません」
「なら、正式に記録しろ」
受付の女性は紙に何かを記載した。
「オーガ一体。オーク五体。今日の討伐実績として記録した」
「ありがとうございます」
「ただし」
男の声が低くなる。
「今回の結果だけで、自分を過信するな」
朝から何度も言われた言葉だった。
けれど、男の目はほかの者より真剣だった。
「オーガは確かに強い。だが、森にはそれ以上の魔物がいる。力だけで押し切れない相手もいる。毒。呪い。群れ。罠を使う魔物もいる」
「分かっています」
「本当に分かっている人間は、簡単にそう答えん」
男は俺を睨むように見た。
「死んだ狩人の多くは、自分だけは大丈夫だと思っていた。昨日まで勝てていたから、今日も勝てるとな」
その言葉には、重みがあった。
おそらく、この男は実際に何人もの死を見てきたのだろう。
「気をつけます」
今度は、先ほどより意識して答えた。
男はしばらく俺を見たあと、わずかに頷いた。
「金はどうする。硬貨で受け取るか、ギルドへ預けるか」
「預けられるんですか?」
「狩人用の口座がある。大金を持って宿へ戻れば、盗賊に狙われる。必要な分だけ持ち帰る者が多い」
確かに、二十八ダカットをすべて持ち歩くのは危険だ。
この世界の金貨は小さいが、盗まれれば終わりである。
「五ダカットだけ硬貨でください。残りは預けます」
「分かった」
女性が書類を用意する。
口座を作るため、署名をする。
手数料は少しかかるが、安全を考えれば安い。
硬貨は革袋へ入れられて渡された。
ダカット金貨が五枚。
ラリ銀貨が数十枚。
手の中へ渡された袋は、ずっしりと重かった。
狩人として得た、初めての報酬。
「これが、今日の稼ぎか」
『ご馳走ですな』
「学院の資金だよ」
『ご馳走を食べた残りを学院の資金に』
「順番が逆」
ギルドを出る頃には、空が赤く染まり始めていた。
広場を行き交う人の数は、まだ多い。
宿を探す者。
酒場へ向かう狩人。
今日の成果を自慢する者。
仲間を失い、無言で歩く者。
それぞれの一日が終わろうとしている。
俺は硬貨の入った袋を服の内側へしまった。
「宿を探そうか」
『その前に肉ですな』
「宿が先」
『肉が先です』
「荷物を置いてから」
『店が閉まりますで』
「まだ閉まらないよ」
広場の端では、昼に食べた串焼きの店がまだ営業していた。
炭火の上で、肉が音を立てている。
アークの視線は、すでにそこへ釘付けだった。
今日、狩人になった。
黒霧の森へ入った。
オークを五匹倒した。
かつて強敵だったオーガも、一撃で倒した。
初めて素材を解体し、初めて狩人として金を稼いだ。
祝い事としては、十分すぎる一日かもしれない。
「一本だけだよ」
『三本』
「二本」
『四本』
「なんで増えるの?」
『交渉ですな』
「二本。それ以上はなし」
『では、二本で手を打ちましょう』
最初から二本を狙っていたような口ぶりだった。
俺たちは串焼きの店へ向かう。
日が沈み始めた城塞都市に、夕食の匂いと酒場の笑い声が広がっていた。
黒霧の森での最初の一日は、こうして終わった。
危険な森。
強力な魔物。
そして、大きな報酬。
狩人という仕事は、俺が思っていた以上に稼げる。
同時に、少しの油断で命を失う仕事でもある。
今日のオーガは簡単に倒せた。
けれど、あれがこの森で最も強い魔物ではない。
中層。
深層。
その先には、今の俺でも敵わない存在がいるかもしれない。
そう考えると、不思議と恐怖より期待が湧いた。
もっと強くなれる。
この森で戦い続ければ、念動力も剣も、さらに成長する。
金を稼ぎ、魔術学院へ入る。
この力の正体を知る。
そして、いつか地球へ帰る。
目標はまだ遥か先だ。
だが、今日得た硬貨の重みは、その道が決して夢物語ではないと教えてくれていた。
『主、肉が焦げますで!』
「今行ってるよ」
考えにふけって立ち止まっていた俺を、アークが急かす。
俺は苦笑しながら、夕暮れの広場を歩き出した。




