黒霧の森
狩人ギルドを出た俺たちは、広場の端に並ぶ店を順番に見て回った。
黒霧の森へ向かう狩人が集まる街だけあって、必要な道具のほとんどはギルドの周辺で揃う。
通りを行き交う者の多くは、これから森へ向かう狩人か、森から戻ってきた狩人だった。
綺麗な鎧を着た者は少ない。
革鎧には爪で引っかかれた跡があり、盾には牙の突き刺さった穴が残っている。
武器の刃を布で拭きながら歩いている者もいれば、包帯を巻いた腕を胸元で吊っている者もいた。
狩人という仕事が、決して安全なものではないことが分かる。
「まずは解体用の短刀だね」
『肉切り包丁では駄目なんですか』
「料理をするわけじゃないんだから」
『肉を切ることに変わりはありませんで』
「魔石や素材を傷つけないためには、専用の道具が必要なんでしょ」
『わいとしては、最後に食べられれば何でもええんですが』
アークは道端の露店へ鼻を向けながら答えた。
串に刺した肉が火の上で炙られている。
香辛料と脂の匂いが漂い、アークの歩みが目に見えて遅くなった。
「道具を買ってからね」
『見るだけですで』
「尻尾が完全に食べるときの動きなんだけど」
『見るだけでも尻尾は動きます』
アークの主張を無視し、俺は解体道具を扱っている店へ入った。
店内には、さまざまな形の刃物が壁一面に並べられていた。
細長い短刀。
刃先が曲がった皮剥ぎ用のナイフ。
骨を断つための鉈。
小さな鋸。
先端が丸くなった内臓採取用の刃物。
地球で見た料理道具に似たものもあれば、何に使うのか想像もつかない形のものもある。
カウンターの奥には、片目に黒い眼帯をつけた中年の男が座っていた。
男は俺の腰に下がった剣と、首元から覗く銅色の狩人札を順番に見た。
「新入りか」
「分かりますか?」
「銅札が新品だからな。それに、慣れた狩人は店に入ってから道具を見回したりしねえ。必要なものを取って、すぐに出ていく」
確かに、俺は店内の刃物を珍しそうに眺めていた。
隠す意味もないので頷く。
「今日、初めて森へ入るつもりです」
「どこまで行く」
「浅層だけです」
「狙う魔物は?」
「特に決めていません。ゴブリンかコボルト、見つかればオークも」
男は俺の体格を値踏みするように眺めた。
「オークは初めてか?」
「何度か倒したことがあります」
「なら、戦い方については何も言わねえ。ただし、解体は別だ」
男は壁に並ぶ短刀の中から、一本を取り出した。
刃渡りは俺の手のひらより少し長い程度。
剣ほど鋭くは見えないが、刃は厚く、先端がわずかに反っている。
「初心者なら、これにしておけ。皮剥ぎにも使えるし、関節へ入れれば腱も切れる。刃先が厚いから、骨に当てても簡単には欠けねえ」
俺が腰の剣へ目を落とすと、店主が鼻を鳴らした。
「それは悪くねえ剣だな」
「分かるんですか?」
「この街で刃物を売って二十年だぞ。見れば分かる。刃も厚い。鉄の量だけでも、そこらの狩人が持っている槍を十本は作れる」
「そんなにですか」
「手入れを怠るなよ。魔物の血は刃を傷める。戦いが終わったら、すぐに拭け。骨へ当てた場合は刃こぼれも確認しろ」
俺は頷いた。
戦いのたびに乱暴に使い、壊していいものではない。
「この短刀はいくらですか?」
「七ラリだ」
思っていたより高い。
登録料よりも高かった。
「もう少し安いものは?」
「鉄の量を減らしたものなら三ラリだ。ただし、オークの皮を切っている途中で曲がっても知らねえぞ」
店主が別の短刀を取り出す。
先ほどのものより刃が薄く、柄も簡素だ。
見ただけでも頼りない。
高い道具には、高いだけの理由があるということだろう。
ここで金を惜しみ、解体中に刃が折れれば、素材を持ち帰れなくなる。
怪我をする可能性もある。
「七ラリの方をください」
「賢明だ」
短刀を購入すると、店主は使い古した革の鞘をつけてくれた。
新品ではないが、刃を収めるには十分だ。
さらに厚手の革手袋を一組購入する。
毒を持つ魔物を解体するには専用の手袋が必要らしいが、今日入る浅層で、無理に毒性素材を採るつもりはない。
続いて、素材を包む油紙。
口を革紐で縛れる小袋。
魔石を入れるための、内側に柔らかい布を張った小箱。
水筒。
予備の縄。
血を拭うための布。
買うものは次々に増えていった。
店を出たときには、背負い袋が来たときよりも重くなっていた。
財布は逆に軽くなっている。
「狩りへ行く前から、結構なお金を使ったな」
『金を稼ぐために金が要る。世知辛い話ですな』
「道具なしで森へ入るよりはいいよ」
『わての牙なら、皮くらい裂けますで』
「アークにオークの腹を噛み破らせたくないよ」
『わては気にしませんが』
「俺が気にするんだよ」
広場を離れ、西門へ続く通りを進む。
途中、保存食を売る露店の前でアークが完全に足を止めた。
串焼きの肉が炭火の上で音を立てている。
肉の表面には香草と塩が振られ、脂が火へ落ちるたびに香ばしい煙が立ち上った。
『主』
「駄目」
『まだ何も言うとりませんで』
「顔を見れば分かるよ」
『森へ入る前に、腹ごしらえは必要です』
「さっき宿場でパンを食べたでしょ」
『歩いている間に消化しました』
「そんなに早く消化しないよ」
『わいは犬ですからな』
都合のいいときだけ犬になる。
しばらく見つめ合ったあと、俺は根負けした。
串焼きを二本買い、一本をアークへ渡す。
厳密には、串から肉だけを外してやった。
アークは地面に置かれた肉へ勢いよく食いついた。
『うまい!』
「ゆっくり食べなよ」
『こんなええ肉を、ゆっくり食べる方が失礼ですで』
「誰に対して?」
『肉に対してです』
俺も自分の串焼きを口にする。
少し硬いが、香辛料がよく効いていた。
何の肉なのか店主に聞かなかったが、獣臭さは少ない。
黒霧の森で獲れた魔物の肉かもしれない。
そう考えると少し気になったが、アークほどではないにしろ、俺も空腹だった。
食べ終える頃には、西門が見えてきた。
東門よりも大きく、門の周囲には多くの兵士が配置されている。
城壁の外へ向かう狩人たちと、森から戻った荷車が絶えず行き交っていた。
帰還した荷車の一つには、巨大な猪のような魔物が積まれていた。
背中を灰色の甲殻で覆われ、口から突き出した牙は人間の腕ほどもある。
「あれがグレイボアかな」
『冊子の絵に似とりますな』
アークが荷車の後ろを追うように鼻を動かした。
『肉の臭いがします』
「魔物の種類より、そっちで判断したの?」
『間違いありません。あれは食えます』
「食べられるかどうかを見分ける能力だけは、一流だね」
西門では、狩人札の確認が行われていた。
兵士へ銅色の札を見せる。
「新規登録か」
「はい」
「今日が初めてか?」
「そうです」
兵士は、背負い袋と腰の剣を確認した。
「浅層だけにしておけ。赤い石柱を越えるな」
「分かりました」
「日没の鐘が鳴る前には戻れ。鐘が聞こえないほど奥へ入った時点で、銅級には深すぎると思え」
兵士はそこで言葉を切り、俺の横にいるアークを見た。
「犬は役に立つか?」
「鼻が利きます」
『鼻だけやありませんで』
「なら、犬が怯えたら前へ進むな。獣は、人間より危険に敏感だ」
「覚えておきます」
兵士は森の方角へ顎を向けた。
「それから、森の中で妙に静かな場所があったら近づくな」
「静かな場所?」
「鳥も虫も鳴いていない場所だ」
兵士の顔から、わずかに表情が消えた。
「そういう場所には、何かいる」
何がいるのか聞こうとしたが、後ろから別の狩人が近づいてきた。
兵士は俺たちから視線を外し、次の札を確認し始める。
俺とアークは門を通り、ダリスティの外へ出た。
城壁を抜けた先には、広い平地が続いていた。
黒霧の森は、そこから西へ一時間ほど歩いた場所にある。
街と森の間には、荷車が何度も通った太い道が延びている。
森へ向かう狩人。
素材を運び帰る者。
巡回する兵士。
多くの人間が行き交っているため、この道の上で魔物に襲われる可能性は低そうだった。
遠くに見える黒霧の森は、巨大な壁のようだった。
木々がどこまでも密集し、その上を暗い緑色の葉が覆っている。
空は晴れているのに、森の奥だけが陰って見えた。
歩くにつれて、森の輪郭が大きくなっていく。
最初は普通の森に見えていた。
だが、近づくと名前の由来が分かってきた。
木々の間に、薄い黒色の霧が漂っている。
煙にも見える。
しかし、風が吹いても流されて消えることはない。
地面に近い場所を這うように、木の根や茂みの間をゆっくりと動いていた。
「本当に黒い霧があるんだ」
『名前だけやなかったんですな』
アークが鼻先を上げる。
しばらく匂いを嗅いでいたが、やがて表情を険しくした。
『湿った土。腐った木。獣。それから血の臭いがします』
「血?」
『古いものです。いろんな場所からしますな』
俺には湿った森の匂いしか分からない。
だが、アークの嗅覚には、過去にここで流された血まで残っているらしい。
森の入口には、丸太を組んだ簡素な柵と監視小屋が設けられていた。
出入りを完全に止めるためのものではない。
森から何かが出てきた際、街へ知らせるための見張り所なのだろう。
小屋の前にいた兵士へ、再び狩人札を見せる。
「銅級か」
「はい」
「今日は西側の道を使え。南側でアーマーボアの群れが確認された」
「討伐されていないんですか?」
「鉄級の狩人が向かった。だが、群れが散っている可能性がある。近づかない方がいい」
兵士は地面へ立てられた案内板を指した。
森の入口から、複数の細い道が延びている。
木の幹へ塗られた色によって、行き先が分かるらしい。
赤は街へ戻る道。
白は西側の浅層。
黄色は南側の浅層。
青は川のある北側。
「道を見失ったら、木の赤い印を探せ。夕方になると霧が濃くなる。昼間に見えていた印が見えなくなることもあるから、時間には余裕を持て」
「分かりました」
俺たちは白い印がついた道を選び、黒霧の森へ足を踏み入れた。
一歩中へ入っただけで、空気が変わった。
外よりも温度が低い。
風は弱く、湿気が肌へまとわりつく。
頭上を枝葉が覆っているため、昼間にもかかわらず薄暗かった。
地面には枯れ葉と苔が積もり、歩くたびに柔らかく沈む。
入口近くには、人や荷車の痕跡が多く残っていた。
靴跡。
車輪の跡。
切られた枝。
焚き火をした跡。
木の幹には一定の間隔で赤い塗料が塗られ、街へ戻る方向を示している。
遠くから人の声も聞こえた。
斧で木を打つ音。
金属同士がぶつかる音。
獣の唸り声。
入口付近だけを見るなら、想像していたほど恐ろしい場所には思えない。
「思ったより人が多いね」
『浅いところですからな』
「初日はゴブリンかコボルトを何匹か狩るくらいかな」
『オークも浅層に出ると書いてありましたで』
「出ても一匹か二匹でしょ」
『油断は禁物ですな』
「分かってるよ」
そう答えながらも、俺はどこか気楽に考えていた。
ダリスティの城壁を見たときは、この森がどれほど危険な場所なのかと身構えた。
だが、浅層には道がある。
目印もある。
ほかの狩人もいる。
銅級になったばかりの者でも入れる場所なのだ。
突然、どうしようもない怪物へ襲われる可能性は低いだろう。
少なくとも、このときの俺はそう思っていた。
俺たちは白い印を辿りながら、森の奥へ進んだ。
時折、道から少し外れて周囲の様子を確認する。
アークが匂いを嗅ぎ、何かの気配を探す。
一度、小型の獣が茂みから飛び出した。
灰色の毛を持つ兎に似た生き物だったが、頭には小さな角が二本生えていた。
俺たちを見るなり、すぐに逃げていく。
『追いますか?』
「今日は魔物の素材が目的だから、やめておこう」
『食べられそうでしたで』
「結局それなんだ」
さらに進むと、道の脇で血の跡を見つけた。
まだ完全には乾いていない。
少量ではなく、枯れ葉の広い範囲が赤黒く染まっている。
「何かがここで争ったみたいだね」
アークが血へ鼻を近づける。
『人間の血ではありません』
「分かるの?」
『人と獣では臭いが違います。これは……猪に近いですな』
「アーマーボア?」
『そこまでは分かりません。ただ、ほかにも臭いが混じっとります』
血痕の周囲には、大きな足跡が残っていた。
蹄の跡。
人間に似た裸足の跡。
地面を引きずったような跡もある。
「狩人が獲物を運んだのかな」
『そうかもしれませんな』
血の跡は道の外へ続いていた。
だが、俺たちは追わなかった。
森では、目に見えるものだけを追ってはいけない。
負傷した魔物を追いかけた先で、別の魔物に襲われることもある。
ギルドの冊子にも、そう書かれていた。
最初の狩りで、わざわざ危険を冒す必要はない。
それからしばらく歩いたが、魔物らしい魔物には出会わなかった。
遠くで何かが走る音はする。
茂みの向こうで枝が揺れることもある。
だが、こちらへ近づいてくる気配はない。
森へ入って一時間近く経った頃。
「案外、何もいないね」
『主の剣の臭いを嗅いで、逃げとるんやないですか』
「剣にそんな臭いはないよ」
『今まで斬った魔物の血が染みついとりますで』
「ちゃんと手入れしてるんだけど」
『人の鼻では分からんだけです』
アークが自信ありげに言う。
本当かどうかは分からない。
だが、アークの言葉を完全に冗談だと切り捨てることもできなかった。
野生動物の嗅覚なら、武器に残ったわずかな血の臭いも感じ取るのかもしれない。
「もう少しだけ奥へ行って、何もいなければ戻ろうか」
『まだ昼を過ぎたばかりですで』
「初日から欲張らなくてもいいよ」
『オークの眼球が待っとります』
「眼球が待ってるって、嫌な言い方だなあ」
軽口を交わしながら進んでいたときだった。
アークが突然足を止めた。
さっきまで揺れていた尻尾が下がる。
耳を立て、右側の茂みへ顔を向けた。
『主』
声から、冗談めいた調子が消えていた。
俺も足を止める。
「何かいる?」
『おります』
俺は腰の剣へ手を伸ばした。
周囲を見回す。
黒い霧が木々の根元を流れている。
茂みの向こうは暗く、何も見えない。
「何匹?」
『まだ分かりません。風向きが悪いです』
アークは鼻先を動かしながら、ゆっくりと身を低くした。
『ただ、血の臭いが強い』
血。
先ほどの古い血痕とは違うらしい。
俺は背負い袋の肩紐を緩め、すぐに降ろせるようにした。
剣を抜く。
鞘から滑り出した鉄の刃が、薄暗い森の中で鈍く光った。
森へ入ってから、初めて武器を構える。
不思議と緊張はなかった。
ゴブリン。
コボルト。
オーク。
浅層にいる魔物なら、どれが出ても対処できる。
念動力を使えば、不意打ちにも対応できる。
以前の俺とは違う。
剣の扱いも覚えた。
魔物との戦いにも慣れた。
そう自分へ言い聞かせる。
茂みの奥から、枝が折れる音が聞こえた。
ばきり。
次に、荒い息遣い。
一つではない。
いくつもの呼吸音が重なっている。
何かがこちらへ向かって走ってくる。
『来ます』
アークが牙を剥く。
茂みが大きく揺れた。
枝が押し倒され、葉が舞い上がる。
次の瞬間、巨大な影が一つ、道へ転がり出てきた。
豚に似た頭。
灰黄色の皮膚。
人間より一回り大きな体。
オークだ。
だが、その姿は俺が知っているオークとは違っていた。
左腕が肩口から深く裂けている。
血に濡れた腕はほとんど動かず、垂れ下がっていた。
手にしているのは、先端へ黒い石を括りつけた粗末な斧。
鉄製ではない。
鋭く割った黒曜石を、木の柄へ獣の腱と革紐で固定したものだ。
オークは俺たちを見ると、一瞬だけ足を止めた。
その目には怒りではなく、恐怖が浮かんでいる。
続いて、茂みから二匹目が飛び出した。
さらに三匹目。
四匹目。
五匹目。
合計五匹。
どれも傷だらけだった。
腹を深く抉られ、内臓が見えかけている個体。
右脚を引きずりながら、太い木の棍棒を杖代わりにしている個体。
片方の牙が根元から折れ、顔半分を血で染めた個体。
石斧。
木製の棍棒。
尖らせた骨を先端へ取りつけた槍。
どの武器にも鉄は使われていない。
魔物が鉄の武器を持つはずもない。
それでも、オークの怪力で振るわれれば、石や木の武器でも人間を殺すには十分だった。
「オークか」
相手の正体が分かり、わずかに肩の力が抜ける。
オークとは何度も戦っている。
力は強い。
だが、動きは大きく、直線的だ。
念動力で姿勢を崩し、隙を作れば倒せる。
五匹いるとはいえ、全員が重傷を負っている。
負ける相手ではない。
しかし、すぐに違和感へ気づいた。
傷が新しい。
流れている血は、まだ固まっていない。
そして何より、傷の形がおかしかった。
剣で切られた傷ではない。
槍で突かれた傷でもない。
肉そのものを、力任せに抉り取ったような傷だ。
『主』
アークが低く唸る。
『あの傷、人間につけられたものやありません』
「分かってる」
五匹のオークは俺たちを取り囲もうとしなかった。
隊列を整えることもしない。
茂みから飛び出した勢いのまま、何度も背後を振り返っている。
何かから逃げてきた。
俺たちへ襲いかかるために現れたのではない。
逃げた先に、たまたま俺たちがいただけだ。
最初に飛び出したオークが、喉の奥から唸り声を漏らした。
俺とアークを見る。
次に、自分たちが来た茂みを見る。
前には人間。
後ろには、それ以上に恐ろしい何か。
オークは迷った。
ほんの一瞬だけ。
そして、人間の方がまだ殺しやすいと判断したらしい。
石斧を持ち上げ、大きく口を開いた。
「グォォォッ!」
咆哮を合図に、五匹が一斉にこちらへ向かってきた。
「アーク、下がって!」
『承知!』
アークが道の端へ飛ぶ。
俺は剣を正面へ構えた。
先頭のオークが石斧を頭上へ振り上げる。
傷を負っているとは思えないほどの勢いだった。
地面を蹴るたび、巨体が大きく揺れる。
だが、遅い。
以前は恐ろしく感じた動きが、今でははっきりと見える。
肩の動き。
足の運び。
石斧が振り下ろされる軌道。
すべて分かる。
俺は、ほんの半歩だけ右へずれた。
石斧が鼻先を掠め、地面へ叩きつけられる。
黒曜石の刃が土へ食い込み、小石と枯れ葉が跳ね上がった。
オークの両腕が伸びきる。
首が無防備になる。
俺は一歩踏み込み、剣を横へ振り抜いた。
刃が首筋へ入った。
分厚い皮膚を裂き、筋肉を断つ。
骨へ触れる直前。
剣へ、ほんの少し念動力を重ねる。
刃が加速した。
抵抗が消える。
オークの首が身体から離れ、宙を舞った。
首のない身体が勢いのまま二歩進み、膝から崩れ落ちる。
一匹。
首が地面へ落ちるより早く、二匹目が迫ってきた。
木製の棍棒が横薙ぎに振るわれる。
人間の胴体ほどもある太い丸太だ。
鉄製でなくとも、まともに受ければ身体ごと吹き飛ばされる。
俺は左手を上げた。
念動力を放つ。
棍棒を完全に止める必要はない。
軌道を数十センチずらすだけでいい。
見えない力が棍棒の先端を押す。
オークの腕が外側へ流れた。
棍棒が俺の胸元を通り過ぎ、背後の木へ激突する。
鈍い音。
木の幹が大きく揺れ、葉が降り注いだ。
棍棒を振り抜いたオークは、脇腹を晒している。
俺は懐へ入った。
剣先を、肋骨の隙間へ向ける。
突き出す。
刃が肉へ沈む。
心臓まで届いた手応えがあった。
オークの目が大きく開く。
口から血を吐き、俺の肩を掴もうと腕を伸ばした。
その前に剣を抜き、念動力で胸を押す。
巨体が後ろへ倒れた。
二匹。
『左です!』
アークの声が頭の中へ響いた。
考えるより先に身体が動く。
左から、骨槍が突き出されていた。
穂先は大型の獣の骨を削ったものらしい。
石より脆いかもしれないが、先端は鋭い。
俺は剣の腹で槍を受け流した。
金属と骨が擦れ、甲高い音が響く。
槍の先端が脇を通り過ぎる。
柄を握るオークの手へ念動力を集中させた。
指を開かせる。
力任せに握っていた指が、不自然に外側へ引かれた。
「グァッ!?」
オークが驚き、槍を落とす。
その一瞬で十分だった。
下から剣を振り上げる。
腹を斬り裂き、胸まで刃を走らせる。
血が噴き出した。
オークは傷口を押さえながら後退する。
まだ倒れない。
俺は踏み込み、首を斬った。
三匹。
残る二匹が足を止めた。
仲間が立て続けに倒されたことで、ようやく俺が簡単な獲物ではないと気づいたらしい。
一匹は木製の棍棒を握りしめたまま、荒い息を吐いている。
最も大きな個体だった。
もう一匹は石斧を持っている。
二匹とも重傷だ。
だが、逃げようとはしない。
いや、逃げられない。
二匹の視線が、何度も背後の森へ向けられている。
俺の方へ進めば死ぬ。
森へ戻っても死ぬ。
その恐怖が、目に浮かんでいた。
「お前たちを、こんなふうにしたのは何だ」
問いかけても、オークが答えるはずはない。
だが、言葉へ反応したように、大柄なオークが咆哮を上げた。
「グルァァァッ!」
棍棒を両手で持ち、真正面から突進してくる。
傷ついた右脚を引きずっているため、走り方は不安定だった。
それでも、巨体と怪力による突進は脅威だ。
俺は避けずに、念動力を足元へ向けた。
傷ついた右足首を横へ払う。
オークの足が地面を外れた。
身体の重さを支えきれず、巨体が前のめりになる。
棍棒の先端が土を削り、オークは片膝をついた。
俺は横を駆け抜けながら、首へ剣を走らせる。
刃が入り、血が噴き上がる。
完全には切断できなかった。
だが、頸動脈は裂いた。
オークは首を押さえ、立ち上がろうともがく。
数秒後、力を失って倒れた。
四匹。
最後の一匹は、仲間の死体を見回した。
石斧が手から落ちる。
俺と目が合う。
その瞳には、戦意がなかった。
オークは踵を返し、森の奥へ逃げようとした。
『主!』
「分かってる」
逃がせば、ほかの狩人や街道を通る人間を襲うかもしれない。
それに、こいつが逃げてきた方向には、何かがいる。
不用意に追いかけるつもりはない。
俺は足元に落ちていた石へ念動力を集中させた。
拳ほどの大きさの石が宙へ浮かぶ。
狙いを定める。
放つ。
石は森の空気を切り裂き、逃げるオークの後頭部へ直撃した。
鈍い音が響く。
オークの身体が前へ倒れる。
まだ動いている。
俺は追いつき、首へ剣を振り下ろした。
五匹目が動かなくなった。
森に静けさが戻った。
俺はゆっくりと息を吐く。
「終わった」
『お見事です』
アークが茂みから姿を現した。
戦闘中は邪魔にならない位置へ下がり、周囲を警戒してくれていた。
俺は剣についた血を布で拭った。
刃の表面。
刃先。
刃こぼれがないか、指先で慎重に確認する。
幸い、目立った損傷はなかった。
石斧や骨槍をまともに受けなかったのがよかったのだろう。
鉄の剣は強い。
だが、決して壊れないわけではない。
これほど高価なものを、不注意で傷めるわけにはいかない。
「傷ついていたとはいえ、五匹か」
『前より、ずいぶん楽そうでしたな』
「実際、楽だったよ」
息は乱れていない。
腕にも疲れはほとんどない。
念動力も、棍棒の軌道を逸らしたり、足を払ったりする程度しか使っていない。
以前なら、オーク一匹を相手にするだけでも、もっと慎重になっていた。
今では、五匹が同時に向かってきても、動きが遅く見える。
剣術を覚えた。
身体も鍛えた。
念動力も強くなった。
その成果が、戦いの中ではっきりと分かった。
「強くなってるんだな」
『今さら気づいたんですか』
「自分では、なかなか分からないからね」
『わいから見れば、最初から化け物じみとりましたで』
「褒められてる気がしないよ」
『褒めとります』
俺は剣を鞘へ戻さず、倒れたオークへ近づいた。
解体を始める前に、傷の確認をする。
五匹とも、俺がつけたものとは別の傷を負っている。
一匹の腹には、深い裂傷が五本並んでいた。
しゃがみ込み、傷口を見る。
「これ、爪だね」
一本一本の傷が太い。
人間の指ほどではない。
人間の腕ほどの幅がある。
爪そのものが巨大なのか、それとも指の間隔が広いのか。
どちらにしても、オークよりはるかに大きな魔物だ。
別の個体の背中は、大きく陥没していた。
棍棒か拳で殴られたような傷。
骨が何本も折れている。
それでも、ここまで逃げてきたらしい。
『主』
アークがオークの死体ではなく、森の奥を見ていた。
「どうしたの?」
『さっきの臭いです』
「血の臭い?」
『それとは別です』
アークの背中の毛が、ゆっくりと逆立っていく。
『オークの臭いを追って、何かが近づいてきます』
俺は立ち上がった。
剣を構え直す。
耳を澄ます。
最初は何も聞こえなかった。
風が葉を揺らす音。
遠くで鳴く鳥の声。
虫の羽音。
だが、少しずつ異変が広がった。
鳥の声が消えた。
虫の音も止まった。
風まで止んだように感じる。
森全体が、息を潜めている。
門番の言葉が頭へ浮かんだ。
――森の中で妙に静かな場所があったら近づくな。
近づくなと言われた場所に、俺たちは自分から入ったわけではない。
静寂の方が、こちらへ近づいてきている。
ばきり。
森の奥で、太い枝が折れた。
次に、ずしん、と地面が揺れる。
一度。
二度。
三度。
何かが歩いている。
一歩ごとに、足元の土がわずかに震える。
『主』
アークが俺の横まで下がった。
『大きいです』
「分かる?」
『臭いも、足音も。オークよりずっと大きい』
黒い霧の向こうで、巨大な影が動いた。
木々の間を、何かがこちらへ進んでくる。
枝が押し分けられる。
細い木が、根元から折れた。
最初に見えたのは、巨大な腕だった。
灰褐色の皮膚。
岩のように盛り上がった筋肉。
腕だけで、オークの胴体ほどの太さがある。
次に、丸太のような脚。
三メートルを優に超える巨体。
額から突き出した一本の太い角。
右手には太い棍棒。。
魔物は黒い霧を押し分け、俺たちの前へ姿を現した。
足元に転がる五匹のオークを見下ろす。
次に、俺へ赤い瞳を向けた。
その姿を見た瞬間、忘れるはずのない記憶が蘇った。
この世界へ来たばかりの頃。
何も分からず、森をさまよっていたときに遭遇した怪物。
あのときは剣もなかった。
戦い方も知らなかった。
ただ必死に念動力を放ち、その力だけで首を飛ばした。
俺がこの世界で初めて倒した、強大な魔物。
「……オーガ」
俺の呟きに反応したように、怪物が大きく口を開く。
鋭い牙が並んでいる。
「グォォォォォォォッ!」
咆哮が森を揺らした。
木々の葉が震え、黒い霧が足元から広がる。
アークが低く唸る。
『主』
「大丈夫」
俺は剣を両手で握った。
以前の俺は、念動力だけでこいつを倒した。
そして今の俺は、あの頃よりも遥かに強い。
念動力も。
剣術も。
身体も。
すべてが違う。
オーガは恐ろしい魔物だ。
銅級の狩人が一人で戦うような相手ではない。
だが、俺にとっては違う。
かつての自分と、今の自分を比べるための相手だ。
オーガが棍棒を振り上げる。
地面を踏みしめる。
俺は剣先を怪物へ向けた。
「今度は、剣で倒す」




