狩人ギルド
領都プラモナスガーンを出発してから、六日が過ぎた。
北東へ延びる街道は、領都の周辺ほど立派ではなかったものの、旅人が歩くには十分すぎるほど整えられていた。
道幅は広く、荷馬車が二台並んでも余裕を持ってすれ違える。街道脇には一定の間隔で石標が立てられ、次の村や町までの距離が刻まれている。
もっとも、文字を読めるようになったとはいえ、そこに刻まれた土地の名前のほとんどは、俺にとって初めて見るものだった。
石標を通り過ぎるたびに、自分が地球から遠く離れた場所を歩いているのだと実感させられる。
旅の初めの二日間は、比較的穏やかな景色が続いた。
道の左右には麦や豆を育てる畑が広がり、遠くには赤や黄色の屋根をした小さな村が点在している。
農民が荷車を押し、子供たちが道端からこちらを眺めていた。
俺の腰に下がった剣が珍しいのか、それとも大きな犬を連れて歩いているのが目立つのか。
子供の一人がアークへ手を振ると、アークも愛想よく尻尾を振り返した。
『わて、子供には人気がありますな』
「見た目だけなら、普通の犬だからね」
『見た目だけ、とは失礼ですで』
「じゃあ、見た目も中身も立派な犬」
『そう言われると、それはそれで腹が立ちますな』
そんなやり取りをしながら、俺たちは街道を進んだ。
三日目を過ぎた頃から、景色は少しずつ変わり始めた。
畑は減り、代わりに背の高い針葉樹が増えていく。
なだらかだった地面には岩が目立つようになり、吹き抜ける風にも冷たさが混じるようになった。
夜になれば、その変化はさらに分かりやすかった。
領都を出たばかりの頃は、毛布一枚でも十分に眠れた。
だが、北へ進むにつれて夜気は冷え込み、焚き火を消せばすぐに指先がかじかむようになった。
宿場のある日は、安い宿に泊まった。
宿場がない日は、街道から少し離れた場所で野営をした。
木々に囲まれ、地面が比較的乾いている場所を探し、倒木や枯れ枝を集めて火を起こす。
火を起こす作業にも、もう慣れた。
最初の頃は、乾いた枝を集めるだけでも時間がかかった。
今では、どの木なら燃えやすいのか、どの程度の風なら火が安定するのかも分かる。
地球にいた頃なら、一人で森に泊まるなど考えもしなかった。
それが今では、剣を手の届く位置へ置き、魔物の気配を警戒しながら眠る生活にも慣れ始めている。
慣れというのは恐ろしい。
夕食は、領都で買った硬いパンと干し肉、それに豆を煮込んだ簡単なスープだった。
小さな鍋の中で、薄く切った干し肉と豆が煮えている。
味付けは塩だけだ。
料理と呼ぶには寂しいものだったが、歩き続けた体には十分ありがたかった。
鍋の前に座っていたアークが、物足りなさそうに鼻を鳴らした。
『主。もう少し肉を入れてもええんやないですか』
「まだ四日も歩くんだから、食料は節約しないと」
『黒霧の森に着けば、肉はいくらでも手に入るんでしょう?』
「食べられる魔物ばかりとは限らないでしょ」
『オークは豚に似とりますし、きっと食べられますわ』
「人に似た魔物を食べるのは、ちょっと抵抗があるな」
『食べてみたら案外うまいかもしれませんで』
「アークは食べることに関してだけは、妙に勇敢だね」
『腹を満たすことは、生きるうえで何より大事ですからな』
アークはもっともらしく言ったあと、鍋の中をじっと見つめた。
俺が干し肉を一切れ追加すると、すぐに尻尾が揺れ始める。
「説得されたわけじゃないからね」
『分かっとります。主の慈悲ですな』
「都合がいいなあ」
その夜は、遠くから獣の遠吠えが聞こえた。
一度だけではない。
一匹が鳴くと、それに答えるように別の方向からも声が響いた。
アークは耳を動かしていたが、特に警戒する様子はなかった。
『遠いですな。こちらへ来る気配はありません』
「狼?」
『似た臭いはしますが、普通の狼より大きいかもしれませんな』
「この世界だと、何でも普通より大きい気がする」
焚き火の向こうへ広がる暗闇を眺めながら、俺は剣の柄へ触れた。
旅の途中、獣や魔物の気配を感じることは何度かあった。
だが、街道を巡回する兵士や狩人が多いからか、ゴブリンやコボルトが堂々と姿を現すことはなかった。
夜中に遠くから何者かの気配を感じたこともあったが、アークが唸ると、しばらくして遠ざかっていった。
結局、襲撃を受けることは一度もなく、六日間の旅は順調に進んだ。
六日目の昼前。
森に挟まれた街道の先に、巨大な城壁が見えてきた。
「あれがダリスティか」
俺は足を止め、遠くにそびえる城壁を見上げた。
プラモナスガーンの城壁も高く、立派なものだった。
しかし、あちらが領主の権威や街の繁栄を示すための城壁だとすれば、ダリスティのものは明らかに違う。
美しさなど最初から求められていない。
敵を防ぐためだけに造られた壁だった。
城壁の周囲には、幅の広い深い堀が巡らされている。
堀の底には水がない。
その代わり、先端を鋭く削った大量の杭が、斜め上を向くように何列も並べられていた。
逆茂木だ。
一度あそこへ落ちれば、人間も魔物も無事では済まないだろう。
堀の内側には、大きな石を隙間なく組み上げた城壁がそびえている。
石の一つ一つが人間の胴体ほどもあり、表面には華美な装飾など一つもない。
監視塔の数も、領都よりはるかに多かった。
塔と塔の間には弓兵が身を隠すための胸壁が連なり、その背後を兵士たちが絶えず巡回している。
弓を手にする者。
長槍を背負う者。
巨大な角笛のそばに立つ者。
城壁の上には、岩や切り出した丸太を積み上げた場所まであった。
魔物が城壁へ取りついたとき、上から落とすためのものだろう。
「なんか……領都とは全然違うね」
『えらく物騒な街ですな』
アークも堀の底を覗き込みながら言った。
『あれだけ杭を並べるということは、実際に魔物がここまで来ることがあるんでしょうな』
「そうだろうね」
城壁の外側には、焼け焦げたような黒い跡がいくつも残っていた。
さらには巨大な爪で引っかいたような傷まである。
傷は一か所だけではない。
古い傷なのか、最近ついたものなのかは分からない。
しかし、この街がただ魔物の森に近いだけの街ではないことは理解できた。
ここは、魔物の襲撃を何度も受けながら、それでも残り続けてきた街なのだ。
東門の前には、人と荷馬車の列ができていた。
領都ほど長い列ではない。
だが、並んでいる者たちの様子がまるで違った。
商人や農民より、武装した人間の方が多い。
革鎧を身につけた若者。
鎖帷子の上から毛皮を羽織った大男。
長弓を背負う男。
巨大な石斧を肩に担いだ男までいる。
列の脇には荷車が並んでいた。
積まれているのは、野菜や布ではない。
布を被せた巨大な角。
縄でまとめられた毛皮。
血の染みた木箱。
大きな籠の中には、まだ生きている小型の魔物まで入れられていた。
猿に似た魔物が鉄格子を掴み、こちらへ歯を剥いている。
その隣では、荷車から垂れた血を男が水で洗い流していた。
門の近くには、獣臭と血の臭いが混ざった独特の臭気が漂っている。
『えらい臭いですな』
アークが鼻先へ前足を当てる。
「アークでもきつい?」
『鼻が利く分、人よりきついですで。いろんな魔物の臭いが混ざっとります』
「でも、嬉しそうに尻尾を振ってない?」
『肉の臭いも混じっとりますからな』
「ぶれないなあ」
少しずつ列が進み、やがて俺たちの順番が来た。
門の前には、厚い革鎧を身につけた兵士が二人立っている。
一人が俺の腰にある剣を見て、次にアークへ視線を移した。
「旅人か」
「はい。狩人になるために来ました」
「登録は済んでいるか?」
「まだです。これから狩人ギルドへ行くつもりです」
「なら、東門を入って正面の広場へ行け。大きな赤煉瓦の建物が狩人ギルドだ」
兵士はそう言うと、アークを眺めた。
「その犬は猟犬か?」
「似たようなものです」
『似たようなものとは何ですか。わては相棒ですで』
アークの抗議が頭の中へ響く。
もちろん、兵士には聞こえていない。
俺が笑いそうになるのを堪えていると、兵士が怪訝そうに眉を寄せた。
「どうした?」
「いえ、何でもありません」
「街の中では必ずそばに置け。狩人が連れてきた魔物や従魔と喧嘩でもされると面倒だ」
「分かりました」
簡単な荷物検査を受ける。
背負い袋の中を確認され、剣についてもどこで手に入れたものか聞かれた。
盗品を警戒しているのだろう。
領都で正当に買ったものだと答えると、兵士はそれ以上追及しなかった。
こうして俺たちは、東門からダリスティへ入った。
街の中も、プラモナスガーンとは大きく違っていた。
黄色い屋根や白い石造りの建物は、ほとんど見当たらない。
道沿いに並ぶのは、黒ずんだ煉瓦や灰色の石で造られた、頑丈そうな建物ばかりだ。
窓は小さく、扉には分厚い板が使われている。
一部の建物では、扉の表面に薄い鉄板が打ちつけられていた。
防犯のためというより、魔物が街へ侵入した際に立てこもることを想定しているように見える。
大通りを歩く者の半数近くが武器を携えていた。
片手剣や槍だけではない。
巨大な斧を肩に担ぐ男。
身の丈より大きな弓を背負う男。
胴体を覆うほど大きな木製盾を運ぶ者。
鎖で繋いだ鉄球を腰から下げる者もいた。
もっとも、鉄を大量に使った武器や防具は少ない。
鉄製の盾を持っている者など、周囲から羨望の視線を集めているほどだった。
「あの盾、高そうだね」
『主の剣より高いかもしれませんな』
「壊したら泣くだろうね」
『壊す前提で考えん方がええですで』
通りの端では、荷車の上に乗せられた魔物の死骸を解体している者がいた。
毛むくじゃらの四足獣の腹を開き、内臓を大きな桶へ移している。
別の店では、地面に流れた血を何度も水で洗い流していた。
武具店。
解体所。
薬草店。
保存食を売る店。
革袋や縄ばかりを扱う店。
どの店も、黒霧の森へ向かう狩人を相手に商売をしているようだった。
『領都より、こっちの方が主に合っとる気がしますな』
「どういう意味?」
『剣を持った人と、血まみれの荷車ばかりですからな』
「それじゃあ、俺が物騒な人間みたいじゃないか」
『違うんですか?』
「違うよ」
『オーガの首を飛ばした人が言っても、説得力がありませんで』
「生き残るためだったんだから仕方ないでしょ」
『分かっとります。冗談ですわ』
アークは上機嫌に尻尾を振った。
俺たちは門番に教えられた通り、大通りをまっすぐ進んだ。
やがて、広い石畳の広場へ出た。
中央には大きな水場があり、その周囲を荷車や人々が行き交っている。
広場に面した建物の中で、ひときわ大きな赤煉瓦造りの建物があった。
三階建てほどの高さがあり、他の建物より一回り大きい。
正面には、剣と弓を交差させ、その中央に人の姿を描いた巨大な紋章が掲げられていた。
狩人ギルドだ。
建物の前には、武装した者たちが絶えず出入りしている。
素材の詰まった袋を抱えた者。
空の背負い籠を背負い、これから森へ向かうらしい者。
肩を負傷し、仲間に支えられながら歩く者。
入口の脇では、顔に大きな傷のある老人が、若い狩人へ何かを怒鳴っていた。
「本当に、いろんな人がいるな」
『腕に覚えがある者が集まっとるんでしょうな』
扉を開けて中へ入る。
最初に感じたのは、騒がしさだった。
広い室内には十を超えるカウンターが並び、その前には狩人たちが列を作っている。
書類を読み上げる職員の声。
硬貨を数える音。
魔物の素材について値段を交渉する声。
依頼の内容を巡って言い争う狩人たち。
酒場ほど無秩序ではない。
だが、役所のように静かでもない。
地球の銀行と市場と役所を、一つの建物へ無理やり押し込んだような場所だった。
カウンターの奥では、制服を着た職員たちが忙しそうに働いている。
大きな秤を使い、袋から取り出した魔石の重さを量る者。
半透明の石を金属製の器具へ挟み、表面の色や透明度を確認する者。
魔物の角へ定規を当て、長さを記録する者。
血のついた牙や爪を、種類ごとに木箱へ仕分ける者。
別のカウンターでは、ダカット金貨を一枚ずつ秤へ載せていた。
この世界の硬貨は、現代の地球の硬貨のように完全に均一ではない。
縁を削って金を盗む者や、別の金属を混ぜた偽物もあるらしい。
だから大きな取引では、枚数だけではなく重さまで量る。
「本当に銀行みたいだね」
『あれだけ金が動いとるということですな』
列に並ぶ狩人たちは、それぞれ袋や木箱を抱えていた。
小さな布袋に魔石を詰めた者。
オークのものらしい太い牙を束ねている者。
巨大な鳥の羽を背負った者。
荷車ごと建物の裏手へ向かう者もいる。
運び込んだ魔物を、ギルドの解体所で処理してもらうのだろう。
カウンターの脇には、大きな掲示板が立っていた。
そこには依頼書だけではなく、魔石や魔物素材の買取価格が細かく掲示されている。
俺は掲示板の前で足を止めた。
魔石。
魔物の心臓付近に形成される、魔力を含んだ硬い石。
領都で聞いたことはあったが、詳しく調べたことはなかった。
掲示板には、魔石の見本らしき絵とともに、大きさや色ごとの目安価格が記されていた。
小指の先ほどのものなら、数オドルス。
親指ほどになれば、数十オドルスから一ラリ以上。
鶏卵ほどの大きさなら、十ダカットを超える場合もある。
さらに大きなものについては値段が書かれておらず、個別交渉とだけ記されていた。
色によっても価値は変わる。
赤。
青。
緑。
黄色。
紫。
魔物が持つ性質や属性によって、魔石の色が異なるらしい。
珍しい色ほど高値がつく。
大きさは、その魔物が蓄えていた魔力の量と関係している。
基本的には、強い魔物ほど大きな魔石を持っている。
つまり、強い魔物を倒せば、それだけ多くの金を得られる可能性があるということだ。
だが、単純に取り出せばいいわけではない。
掲示板の下には、品質についての注意書きがあった。
ひび割れ。
欠損。
魔力の流出。
刃を直接当てて傷をつければ、価値が大きく落ちる。
保管状態が悪ければ、同じ大きさでも半値以下になる場合があるらしい。
「取り出し方も覚えないと駄目だな」
『心臓ごと真っ二つにしたら、魔石まで割れるかもしれませんな』
「今まで倒したゴブリンやコボルトからも、取り出せたのかな」
『たぶん、捨ててきましたな』
「今になってもったいなく感じるよ」
村にいた頃は、魔物を倒すだけで精一杯だった。
倒したあとは焼くか、穴へ埋めていた。
魔石の存在を詳しく知らなかったとはいえ、金になるものを何度も捨てていたことになる。
もっとも、当時は買い取ってくれる場所もなかった。
知識があったところで、どうしようもなかっただろう。
魔物から買い取られるものは、魔石だけではないらしい。
牙。
角。
爪。
皮。
骨。
内臓。
掲示板には多種多様な素材の名前が並んでいた。
しかし、どの魔物から何を取ればいいのかまでは分からない。
「全部覚えるのは大変そうだな」
『全部持って帰ったらええんやないですか』
「オーガを丸ごと運べると思う?」
『念動力を使えば』
「人前では目立つから、できるだけ使いたくないんだよ」
『森の外まで運んで、誰もいないところで降ろせば』
「それでも荷車が必要でしょ」
『主が荷車ごと浮かせれば』
「俺を荷馬扱いしないでよ」
比較的空いている案内カウンターを見つけ、そちらへ向かう。
受付にいたのは、灰色の制服を着た若い女性だった。
髪を後ろで束ね、忙しそうに書類を整理している。
「すみません」
「はい。どのようなご用件でしょうか」
「魔物から、どの部位を採取すればいいのか知りたいのですが」
女性は俺の装備と、首から何も下げていないことを確認した。
「新規の狩人の方ですか?」
「まだ登録前です」
「でしたら、登録の際に簡単な説明を受けられます。詳しい素材一覧については、あちらの棚にある冊子をご覧ください」
女性が指した先には、本棚が並んでいた。
棚には、魔物の種類や生息域ごとに分けられた薄い冊子が置かれている。
『黒霧の森・浅層』
『黒霧の森・中層』
『大型魔獣素材一覧』
『毒性素材の取り扱い』
『損傷を避ける解体法』
冊子は持ち出し禁止だが、建物内なら自由に閲覧できるらしい。
俺はまず、『黒霧の森・浅層』と書かれた冊子を手に取った。
紙は厚く、何度も読まれたのか端が擦り切れている。
中には魔物の絵とともに、生息域、危険度、買取対象となる素材が記されていた。
ゴブリン。
買取対象は耳。
ただし、討伐確認のための部位であり、素材としての価値はほとんどない。
コボルト。
犬歯と状態のいい毛皮。
毛皮は裂傷が多いほど価値が下がる。
オーク。
眼球、心臓、牙、肝臓。
特に眼球は、一部の視力回復薬へ使われるため、傷がなければ高値で買い取られる。
心臓は魔石を取り出したあとでも、薬の材料になる。
俺は冊子へ顔を近づけた。
「眼球か……」
『主は首を斬ることが多いですから、目は無傷で残りそうですな』
「そう考えると、悪くない戦い方なのかな」
『頭を潰したら損ですな』
「今後は気をつけよう」
さらにページをめくる。
オーガ。
牙、角を持つ種なら角、脚や腕の太い腱、皮、睾丸。
冊子によれば、オーガの睾丸は強壮薬の材料として珍重されるらしい。
アークがすぐに反応した。
『主。オーガを倒したら、真っ先に股間を切り取らなあきませんな』
「そういう言い方をしないでよ」
『事実ですで』
「事実でも、もっと別の言い方があるでしょ」
『睾丸を丁寧に採取する』
「言い直しても嫌だな」
『念話なんですから、誰にも聞こえとりませんで』
「俺には聞こえてるんだよ」
近くにいた狩人が、突然顔をしかめた俺を不思議そうに見ていた。
俺は何事もなかったように冊子へ視線を戻す。
ジャイアントスパイダー。
毒腺、糸を作る器官、脚の関節。
毒腺は高値で買い取られるが、破損すると毒が漏れるため、専用の容器が必要。
グレイボア。
牙、背中の甲殻、皮、肉。
肉は食用になり、街の料理店でも人気があるらしい。
『ほら、食べられる魔物もおりますやん』
「オークじゃなくてよかったよ」
『グレイボアは猪に近いんでしょうな。脂が乗っとったら、さぞうまいでしょう』
「まだ会ってもいないのに、食べるところまで想像してるの?」
『獲物を見る前から調理法を考える。それが一流ですで』
「狩人じゃなくて料理人の考え方だよ」
冊子の後半には、素材の採取方法まで簡単に記されていた。
眼球を傷つけずに取り出す方法。
心臓の位置。
魔石を取り出す際に刃を入れる場所。
毒腺を傷つけないための切り方。
毛皮の価値を落とさない剥ぎ方。
一つ一つは簡単な説明だが、初めて知ることばかりだった。
魔物狩りは、倒すだけでは終わらない。
素材を傷つけずに回収する。
腐敗する前に持ち帰る。
毒や寄生虫へ注意する。
初めて、そこで金になる。
「解体用の短刀も必要だな」
『袋や保存用の油紙も要りますな』
「手袋も買っておいた方がいいかもしれない」
思っていたより、準備するものが多い。
狩人になれば、すぐ森へ入って魔物を倒せると思っていた。
だが、何も知らずに向かえば、高価な素材を無駄にするだけではない。
毒へ触れたり、魔物の体内にいる寄生虫に噛まれたりする危険すらある。
戦う力があるだけでは、狩人としてやっていけないのだ。
冊子を棚へ戻し、再び受付カウンターへ向かった。
「狩人登録をしたいのですが」
受付の女性は頷き、机の下から一枚の書類を取り出した。
「新規登録ですね。登録料は五ラリです。名前、年齢、出身地、使用武器をこちらへ記入してください」
俺は渡された羽ペンを手に取った。
名前。
モーリ。
年齢。
正確な年齢を書いて問題があるか一瞬迷ったが、そのまま記入する。
「身元保証人はいますか?」
「いません」
「犯罪歴は?」
「ありません」
「現在、領主や商会との契約は?」
「ありません」
女性は俺の返答を淡々と書き留めていく。
使用武器の欄には、剣と記入した。
念動力については書かない。
魔術だと誤解されれば、余計な注目を集める可能性がある。
今はまだ、自分の力を不用意に広めたくなかった。
書類を書き終えると、女性がアークを見た。
「犬を連れて森へ入る予定ですか?」
「はい。問題がありますか?」
「従魔でしょうか」
「従魔?」
「魔術的な契約を結んだ魔獣や動物のことです」
「契約はしていません。ただの相棒です」
『ただの、は余計ですで』
「失礼。大切な相棒です」
『よろしい』
女性は、急に言い直した俺を不思議そうに見たが、追及はしなかった。
「街の外へ連れていくこと自体は禁止されていません。ただし、狩りの最中に負傷した場合も、ギルドは責任を負いません。また、他の狩人や商隊へ危害を加えた場合は、飼い主の責任になります」
「分かりました」
『わてが誰かへ危害を加える前に、主が全部倒してしまいますけどな』
「黙ってて」
「何か?」
「いえ、何でもありません」
女性は少し首を傾げたあと、机の下から地図を取り出した。
「新規登録者は銅級からの開始となります」
机の上へ地図が広げられる。
ダリスティの西側には、広大な黒霧の森が描かれていた。
森の入口近くには複数の小道があり、そこから先へ進むほど地図が曖昧になっている。
「銅級の狩人が単独で立ち入れるのは、黒霧の森の浅層までです。中層より奥への単独進入は禁止されています」
「浅層と中層は、どうやって見分けるんですか?」
「境界には赤く塗られた石柱があります。その先へ進むには、鉄級以上の資格が必要です」
地図には、浅層へ出る魔物の名前が記されていた。
ゴブリン。
コボルト。
オーク。
アーマーボア。
毒を持つ小型の蛇や、大型の虫もいるらしい。
中層には、オーガ、ジャイアントスパイダー、トロール。
さらに奥は地図そのものが途切れており、『深層』とだけ書かれている。
「深層には何がいるんですか?」
「正確には分かっていません」
女性は淡々と答えた。
「大型の飛竜や上位魔獣が確認されています。しかし、帰還した者が少ないため、地図もほとんど作られていません。今のあなたには関係のない場所です」
「そうですか」
今の俺には関係ない。
そう言われると、逆に興味が湧く。
だが、まずは浅層だ。
自分がどこまで戦えるのか。
黒霧の森の魔物が、村の近くにいた魔物とどれほど違うのか。
それを確認する前に、危険な場所へ踏み込むつもりはない。
女性は地図を畳み、別の書類を取り出した。
「狩人ギルドでは、討伐依頼や採取依頼を受けられます。ただし、依頼を受けていなくても、指定された魔物の討伐部位や素材を持ち込めば買い取ります」
「森で偶然倒した魔物でもいいんですね」
「はい。ただし、盗品や横取りした素材でないことが前提です。ほかの狩人との争いが起きた場合、ギルドが調査を行います」
「魔物の死体を丸ごと持ち込んだ場合は?」
「裏手の解体所で処理できます。解体料と素材の一部を差し引きますが、自分で解体できない場合は利用してください」
「解体料は高いですか?」
「魔物の大きさによります。オーク一体なら、素材売却額の二割ほど。オーガ以上の大型種になると、運搬費も必要です」
『二割は大きいですな』
「自分で解体した方がよさそうだね」
「慣れないうちは無理をしないことを勧めます」
女性は少しだけ表情を柔らかくした。
「魔物の体内には、毒や腐食性の体液を持つものもいます。安い解体料を惜しんで腕を失う方もいますから」
「気をつけます」
「それから、素材を持ち込む際には、狩人札を提示してください。討伐実績も記録されます」
登録料の五ラリを支払う。
女性は硬貨を確認すると、奥にいた職員へ書類を渡した。
しばらく待っていると、小さな金属札が運ばれてきた。
銅色の札。
表面には狩人ギルドの紋章。
裏面には俺の名前と登録番号が刻まれている。
紐を通すための穴があり、首から下げられるようになっていた。
「こちらが狩人札です」
俺は札を受け取った。
小さな金属片でしかない。
それでも、手のひらに載せると不思議な重みを感じた。
これで、俺は正式に狩人になった。
魔物を倒し、その素材を売って金を得る。
魔術学院へ入るための資金を稼ぐ。
自分の力を鍛える。
そしていつか、地球へ帰る方法を探す。
そのための一歩だ。
「紛失した場合、再発行には五ラリかかります。依頼を受ける際と、素材を売却する際に提示してください」
「分かりました」
「初めて森へ入るのでしたら、解体道具と保存袋を用意することを勧めます。それから、日没前には必ず戻ってください」
「夜は危険なんですか?」
女性の表情がわずかに険しくなった。
「昼間とは、出てくる魔物が違います」
周囲の騒がしさの中でも、その言葉だけは妙にはっきりと聞こえた。
「黒霧の森には、暗くなってから活動を始める魔物がいます。中には、狩人の火や血の臭いを探して動くものもいる。銅級の狩人が夜の森へ残るのは、自殺と同じです」
「日没前に戻ります」
「必ず守ってください」
登録を終え、俺たちは狩人ギルドの外へ出た。
広場には、相変わらず多くの人々が行き交っていた。
素材を運び込む者。
依頼書を手に仲間と話し合う者。
これから森へ向かうらしく、武器の手入れをする者。
そのすべてが、先ほどまでとは少し違って見えた。
俺も今は、彼らと同じ狩人だ。
首から下げた銅色の札を指で持ち上げる。
『それが狩人の証ですか』
「そうみたい」
『思ったより小さいですな』
「大きかったら邪魔でしょ」
『もっとこう、立派な紋章でも入っとるのかと思いましたわ』
「入ってるよ。小さいけど」
『主の名前も?』
「ちゃんと刻まれてる」
『わての名前は?』
「ないよ」
アークの尻尾が止まった。
『相棒なのに』
「犬の登録じゃないからね」
『解せませんな』
「有名になったら、アークの名前も一緒に知られるようになるよ」
『では、早く有名になりましょう』
「目的が変わってない?」
『有名になれば、うまいものも食べられますで』
「やっぱり食べ物なんだ」
広場の向こうには、西門へ続く大通りが延びている。
その先。
城壁の向こうには、黒霧の森が広がっているはずだ。
魔物がひしめく森。
オーク。
オーガ。
トロール。
そして、まだ名前すら知らない強大な魔獣たち。
怖くないわけではない。
だが、不安以上に高揚感があった。
ここなら金を稼げる。
ここなら強くなれる。
魔術学院へ入るために必要な金も、自分の力の正体へ近づくための経験も、あの森で手に入れられるかもしれない。
俺は狩人札を服の中へしまった。
「まずは道具をそろえよう」
『そのあと森へ行くんですか?』
「まだ昼前だからね。浅層を少し見るくらいなら大丈夫でしょ」
アークは嬉しそうに尻尾を振った。
『ええですな。まずはオークでも探しますか』
「いきなりオーク?」
『目玉と心臓と牙、それに魔石。全部売れば、ええ金になりますで』
「冊子の内容、もう覚えたの?」
『金と食べ物に関することは、忘れません』
「頼もしいのか、頼もしくないのか分からないな」
『オーガなら、さらに睾丸も――』
「それは忘れていいよ」
『高価な素材ですで』
「分かったから、広場の真ん中で繰り返さないで」
『念話ですやん』
アークが楽しそうに歩き出す。
俺は小さくため息をつきながら、そのあとを追った。
解体用の短刀。
厚手の革手袋。
魔石を入れる袋。
素材を包む油紙。
必要なものは多い。
手持ちの金にも限りがある。
それでも、不思議と足取りは軽かった。
黒霧の森へ挑む狩人たちが集まる街ダリスティ。
ここで、俺の新しい生活が始まる。
そしてこのときの俺は、まだ知らなかった。
初めての狩りで出会うことになる相手が、新米の銅級狩人にはあまりにも不釣り合いな魔物であることを。




