領都
村を出てから、領都プラモナスガーンに到着するまで、十日かかった。
最初の数日は、ほとんどが山道と森の中だった。
村の周囲よりもいくらか整備されているとはいえ、街道と呼ぶには頼りない道である。荷馬車が繰り返し通ったことで生まれた二本の轍が、木々の間を縫うようにどこまでも延びていた。
雨が降れば轍には泥水がたまり、晴れれば乾いた土が細かな砂埃となって舞い上がる。左右から伸びた枝が道を覆い、昼間でも薄暗い場所が少なくなかった。
人が通る道ではあるものの、決して安全というわけではない。
道中では、何度かゴブリンやコボルトの群れに襲われた。
旅に出て二日目の昼には、茂みの中から粗末な棍棒を持ったゴブリンが五匹、奇声を上げながら飛び出してきた。
別の日の夕暮れには、街道脇の岩陰から七匹ほどのコボルトが姿を現した。こちらが疲れているところを狙っていたのか、前後から挟み込もうとしてきた。
だが、村へ来たばかりの頃ならともかく、今の俺にとっては脅威と呼べる相手ではなかった。
『主、右の茂みに三匹。正面の岩陰に二匹おります。残りは後ろへ回り込んでますな』
アークが念話で敵の位置を知らせる。
俺は剣を抜き、正面から向かってきた一匹を斬り伏せた。
横から飛びかかってきた敵には身体をひねって刃を合わせ、背後を狙った相手には、周囲に気づかれない程度に念動力を使った。
足首を引く。
それだけでコボルトは勢いよく転び、地面に顔から突っ込んだ。
棍棒を振り上げたゴブリンの手から、武器を弾き飛ばすこともあった。
敵からすれば、何も触れていないのに突然足を取られ、武器を奪われるのだから、たまったものではないだろう。
戦いはどれも短時間で終わった。
襲撃は何度かあったものの、俺もアークも大きな怪我を負うことはなかった。
夜は街道から少し外れた場所で野営した。
乾いた枝を集めて火を起こし、村から持ってきた干し肉と硬いパンを食べる。
アークは火のそばで丸くなりながらも、耳だけは周囲へ向けていた。
『主、旅というのも悪くありまへんな』
「食事が毎日干し肉でも?」
『そこは改善の余地がありますな』
「領都に着いたら、何かおいしいものを食べよう」
『その言葉、忘れんといてくださいよ』
そんなやり取りを繰り返しながら、俺たちは先へ進んだ。
そして領都へ近づくにつれて、街道は次第に広くなっていった。
森は少しずつ切り開かれ、代わりに小麦畑や牧草地が増えていく。道端には一定の間隔で石標が立ち、領都までの距離が刻まれていた。
途中からは道も固く踏み固められ、荷馬車同士がすれ違えるほどの幅になった。
農作業をする人々の姿も増えた。
畑では農民たちが鍬を振るい、牧草地ではアゲラザという牛によく似た家畜が草を食んでいる。街道沿いには小さな集落や宿場まであり、旅人向けの井戸も整えられていた。
巡回する兵士の姿も見えるようになった。
槍を手にした兵士が数人一組となり、街道や畑の周囲を見回っている。
それに合わせるように、魔物の姿もめっきり減った。
領都から二日ほどの距離に入って以降、一度も襲撃を受けていない。
街道脇の森にも獣の気配はあったが、ゴブリンやコボルトが潜んでいる様子はなかった。
おそらく辺境伯軍が、定期的に街道周辺の魔物を討伐しているのだろう。
旅人にとってはありがたい。
だが、魔物を狩って金を稼ぐつもりだった俺にとっては、少し気になる事実でもあった。
十日目の昼過ぎ。
なだらかな丘を越えた先に、領都プラモナスガーンが姿を現した。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
まず目に入ったのは、都市をぐるりと囲む巨大な石壁だった。
灰白色の石を幾重にも積み上げた城壁は、村の木柵とは比べものにならないほど高い。
その上には一定の間隔で監視塔が建ち、槍や弓を持った兵士たちが周囲を見張っている。
門の左右には旗が掲げられていた。
濃紺の地に、白い角を持つ獣が描かれている。あれがオニギエ辺境伯家の紋章なのだろう。
壁の向こうからは、何本もの教会の尖塔が空へ突き出していた。
鐘楼らしき塔もあり、遠くからでも大きな鐘が吊るされているのが見えた。
そして領都のやや北寄りには、小高い丘がある。
その頂には、オニギエ辺境伯の居城がそびえていた。
城は領都全体を見下ろすように建てられており、分厚い城壁と複数の塔を備えている。
高い中央塔には辺境伯家の旗が翻り、その周囲をいくつもの建物が取り囲んでいた。
遠目からでも、村長の家が何十軒も収まりそうなほど巨大だと分かった。
しかし、なにより目を引いたのは街の屋根だった。
領都の建物は、その多くが淡い黄色のスレートで葺かれている。
それらが午後の太陽を受け、きらきらと光を反射していた。
遠くから眺めると、街全体が黄金に包まれているように見える。
石壁の内側に広がる無数の屋根が光の波となり、城や教会の塔を取り囲んでいた。
隣を歩いていたアークも、口を半開きにして街を眺めている。
『主。これはすごい街ですな』
感嘆の声が頭の中に響く。
『こんなキラキラした街、地球にもなかなかありまへんで。まさに黄金の街ですな』
「うん。きれいな街だね」
村を離れるときには、寂しさの方が強かった。
自分を受け入れてくれた人々と別れ、再び見知らぬ場所へ向かうことが、不安でないわけがなかった。
だが、目の前に広がる光景を見ていると、これから始まる新しい生活への期待が少しずつ膨らんできた。
ここなら、村では知ることのできなかったことを学べるかもしれない。
自分の力についても。
地球へ帰る方法についても。
そして、魔術学院へ入る道も見つかるかもしれない。
南門の前には長い列ができていた。
荷馬車を引く商人、籠を背負った農民、旅装姿の傭兵らしき男たち。馬に乗った使者や、布で覆われた荷車を連れた商隊も並んでいる。
門の脇では兵士たちが荷物を確認し、街へ入る理由を一人ずつ尋ねていた。
俺も列の最後尾に並び、順番を待った。
列はゆっくりと前へ進んだ。
門へ近づくにつれ、城壁の大きさがよりはっきりと分かる。
石壁は見上げるほど高く、門扉は太い木材と鉄板で作られていた。閉じられれば、巨人でも簡単には破れそうにない。
「次」
門番に呼ばれ、前へ進む。
門番は四十歳ほどの男だった。
日焼けした顔に短い髭を生やし、槍を片手にこちらを観察している。
「名前は」
「モーリです」
「出身は?」
一瞬迷った。
地球から来たとは言えない。
「アルサ村から来ました」
「そっちの犬は?」
「アークです」
門番はアークを一瞥した。
普通の犬よりも明らかに大きい。
だが、首輪をして俺の隣に大人しく座っているため、魔物とは思われなかったらしい。
「噛まないだろうな」
「大丈夫です」
『失礼ですな。わては無闇に人を噛んだりしまへん』
アークが小さく鼻を鳴らした。
「領都へ来た目的は?」
「仕事を探しに来ました。それと、魔術学院について調べたいと思っています」
「入学希望者か?」
「まだ分かりません。まずは話を聞いてみるつもりです」
門番は俺の旅装と腰の剣を見た。
学院への入学を目指す者には見えなかったのかもしれない。
だが、毎年同じような若者が訪れるのか、それ以上は尋ねなかった。
「武器を抜いて騒ぎを起こすな。犬は人に噛みつかせるな。何か問題を起こせば、犬ごと牢に入れるぞ」
「分かりました」
『わては賢い犬ですからな。人になんて噛みつきまへん』
「聞こえないんだから、門番に怒っても仕方ないよ」
『せやけど、犬ごと牢とは失礼な話ですわ』
もちろん、その声が門番に聞こえることはない。
簡単な確認を終え、俺たちは南門をくぐった。
門の内側には、想像していた以上の光景が広がっていた。
まず、人が多い。
村の祭りの日でさえ、これほど多くの人間を見たことはなかった。
幅の広い石畳の道を、人と荷車が絶え間なく行き交っている。
商人の呼び声。
馬のいななき。
車輪が石畳を削る音。
鍛冶場から響く金属音。
建物の二階から洗濯物を干す女性の声や、走り回る子どもたちの笑い声まで聞こえてくる。
あらゆる音が混ざり合い、街そのものが一匹の巨大な生き物のように動いていた。
空気の匂いも村とは違う。
焼いた肉や香辛料の匂い。
馬や家畜の匂い。
鍛冶場の煙と、革をなめす薬品の匂い。
それらが入り混じって、領都特有の空気を作り出していた。
南門から少し進むと、大きな広場に出た。
広場には色とりどりの布を張った屋台が、所狭しと並んでいる。
山積みにされた野菜や果物。
木の器や鉄製の鍋。
革靴や鞄、色鮮やかな布。
干し肉、香辛料、見たこともない焼き菓子まで売られていた。
店先には売り物を示す看板が掲げられ、商人たちは道行く人々へ大声で呼びかけている。
「さすがに大きな街だね。何でも売ってる」
『主、見てくだされ』
アークの声が弾む。
『あの真っ赤な果物から、えらい甘い香りがします。あれは間違いなく買いでっせ』
「自分が食べたいだけでしょ」
『旅の疲れを癒やすには、糖分が必要ですからな』
「犬にそんな理屈が必要なの?」
『わてはただの犬やありまへんから』
「はいはい。分かったよ」
アークが真っ赤な果実から視線を外そうとしないため、俺はその屋台へ近づいた。
果実は大人の拳ほどの大きさで、表面には薄い産毛のようなものが生えている。色は熟れたトマトのように鮮やかな赤だった。
近づくだけで、甘さの中にわずかな清涼感を含んだ香りが漂ってくる。
「店主、これはいくらだい?」
「ロークの実かい? 一個三オドルスだよ。今朝、西の農園から届いたばかりだ」
「それじゃあ、二個ちょうだい」
「はいよ」
銅貨を渡すと、店主は布で軽く表面を拭いてから、果実を二つ手渡してくれた。
一つをアークに渡し、もう一つをかじる。
果肉は柔らかく、噛んだ瞬間に果汁があふれた。
まず、ミントにも似た爽快感が鼻に抜ける。
その直後に、舌全体を包み込む濃厚な甘みが広がった。
「これは……食べたことがない味だね」
爽やかなのに甘い。
妙な組み合わせだが、嫌な感じはまったくしない。
むしろ、一口食べると、すぐにもう一口かじりたくなる。
「癖になりそう」
アークは果実を器用に前足で押さえ、夢中になって食べている。
『ミントのような爽快感のあとに、リンゴとメロンを混ぜたような香りがきますな。エステル類っぽい香りですわ』
アークは種の周りまできれいに食べ尽くした。
広場を見て回ったあと、俺たちは宿を探した。
街にはいくつも宿があったが、立派な建物ほど料金も高い。
大通りに面した宿は、玄関に絨毯が敷かれ、馬車置き場まで備えていた。聞いてみると、一泊数ダカットもするという。
さすがに今の俺たちが泊まれる場所ではない。
何軒か見て回り、最終的に大通りから一本外れた場所にある宿を選んだ。
決め手は、店の中から漂ってきた香ばしい肉の匂いだった。
看板には、眠っている鹿の絵が描かれている。
扉を開くと、一階は食堂になっていた。
木製の卓が並び、昼間にもかかわらず何人もの客が酒や料理を楽しんでいる。
「一泊朝食付きで一ラリ。犬も部屋へ入れていいが、物を壊したら弁償してもらうよ」
女将はアークを見ながら言った。
がっしりとした体格の女性で、腕まくりをした両腕は、下手な男よりも太い。
「一週間お願いします」
「あいよ。先払いだ」
七ラリを渡し、二階の部屋へ案内される。
部屋は狭かったが、木製の寝台と小さな机があり、壁際には荷物を置く棚もあった。
窓からは裏通りを見下ろせる。
村の家と比べれば落ち着かないが、鍵もかかるし、雨風をしのぐには十分だ。
荷物を置き、アークの水を用意する。
腰の剣を外した瞬間、ようやく十日間の旅が終わったのだという実感が湧いた。
寝台へ腰を下ろすと、身体の奥にたまっていた疲れが一気に押し寄せてくる。
少し休んでもよかったが、まだ日が高い。
この街でやるべきことは多かった。
「街を見て回ろうか」
『賛成ですわ。先ほどの広場に、焼いた肉を売っとる屋台もありましたな』
「さっき果物を食べたばかりでしょ」
『果物は別腹です』
「普通は甘い物の方が別腹じゃない?」
『わての場合は、全部別腹です』
「便利な身体だね」
宿を出て、今度は南門周辺から離れた通りを歩いてみる。
広場の近くには食料品や日用品を扱う店が多かった。
だが、中心部へ近づくにつれて、建物も次第に立派になっていく。
宝石店や高級な衣服店。
細工の施された剣や鎧を飾る武具店。
色のついた液体が入った小瓶や、文字の刻まれた石板を並べた魔術道具店まであった。
店の前には杖や水晶玉が飾られている。
それらが本当に魔術道具なのか、それとも観光客向けの品なのかは分からない。
だが、見ているだけでも、この街には村になかったものが無数にあると分かった。
当然ながら、値段も高い。
「やっぱり街は高いね。見てよ、このチーズ。これだけで十オドルスだって」
手のひらに収まるほどの大きさしかない。
『薬草も高いですな。村に来ていた商人が買い取った額の、二倍近い値段で売られとります』
「輸送費とか、店の儲けが乗ってるんだろうけど……」
腰に下げた革袋を触る。
村を出るまでに貯めた金は、五ダカットと少し。
この街では驚くほど早く消えていくだろう。
宿代だけで毎日一ラリ。
食事代や道具の補充まで考えれば、一週間でかなり減る。
仕事を見つけなければ、数か月も暮らせない。
学院の入学金どころではなかった。
「それより、早く仕事を見つけないとね」
『やはり魔物狩りですかな』
「できればそうしたいけど、ここまで来る途中、魔物はほとんどいなかったでしょ。領都の近くじゃ狩りにならないと思う」
領都に近づくほど、街道は安全になった。
兵士たちが魔物を討伐しているなら、当然、獲物も少ない。
安全な土地では、危険な仕事の報酬も安くなる。
魔物を狩って短期間で五百ダカットを稼ぐつもりなら、ここは向いていないのかもしれない。
『その前に、魔術学院を見に行きませんか? どのみち入るつもりなんでしょう』
「そうだね。まずは見てみよう」
俺が領都まで来た大きな理由の一つだ。
入れるかどうかはともかく、どんな場所なのかくらいは見ておきたい。
通行人に道を尋ねると、魔術学院は領都の東側、小高い丘の中腹に建てられているという。
俺たちは街の中心を抜け、東へ向かった。
進むにつれて道は緩やかな上り坂になり、周囲の建物も変わっていく。
商店や工房が減り、代わりに大きな屋敷や静かな庭園が増えた。
身なりの良い人々が歩き、通りを走る馬車にも細かな装飾が施されている。
この辺りは、貴族や富裕層が暮らす区画なのだろう。
石畳の坂道をしばらく登ると、巨大な鉄門が見えてきた。
門の両脇には、先端に青い石がはめ込まれた石柱が立っている。
鉄門の表面には見慣れない文字と幾何学模様が刻まれ、中央には星と杖を組み合わせた紋章があった。
門の奥には、白い石造りの校舎がいくつも建ち並んでいる。
円筒形の塔が空へと伸び、その先端には金属製の輪がいくつも浮かんでいた。
輪は支えもないのにゆっくりと回転し、ときおり淡い光を放っている。
「どうなってるんだ、あれ」
『魔法でしょうな』
「それは分かるけど……」
中庭では黒や紺のローブをまとった学生たちが、談笑しながら歩いていた。
年齢は十五歳前後から二十歳ほどまで、ばらばらに見える。
胸元には色の違う徽章があり、おそらく学年や専攻を示しているのだろう。
開け放たれた窓からは、教師らしき人物の声が聞こえてくる。
さらに奥の訓練場では、何人もの生徒が魔術の練習をしていた。
一人の生徒が杖を振ると、手のひらほどの火の玉が宙に浮かぶ。
別の生徒が呪文を唱えると、地面から細い水柱が立ち上がった。
風を起こす者。
土を盛り上げる者。
光の球を作る者。
村では一度も見たことのない光景だった。
「……すごい」
無意識に鉄門へ近づく。
『あれだけの人数が魔法を使えるんですか』
「ここなら、俺の念動力についても何か分かるかもしれない」
俺の力が、この世界の魔術と同じものなのか。
それとも、まったく別の力なのか。
さらに、異世界や転移について記された本もあるかもしれない。
地球へ帰る方法を探すためにも、いつかここで学びたい。
門の脇には小さな受付所があった。
学院へ出入りする者を確認するための場所らしい。
「すみません。入学について伺いたいのですが」
受付にいた老職員は、読んでいた書類から顔を上げた。
白髪を短く整え、鼻の上には小さな眼鏡を載せている。
俺の身なりを見たあと、足元のアークへ視線を落とした。
「一般入学か?」
「はい」
「年齢は?」
「十六です」
「読み書きと算術はできるか」
「一応は」
地球では当然できた。
この世界の文字も、村で暮らすうちにある程度は読めるようになっている。
老職員は机の下から一枚の紙を取り出した。
「入学金は五百ダカット。それとは別に、授業料として一年ごとに百ダカット必要だ。教材や実習で使う品は、原則として各自で購入してもらう。寮へ入るなら、寮費と食費も別にかかる」
「五百ダカットを払ったうえで、毎年百ダカットですか?」
「そうだ」
やはり、入学金は五百ダカットだった。
村で聞いていたため、知らなかったわけではない。
だが、一年ごとに百ダカット必要だという話までは聞いていなかった。
分かっていたはずの金額が、さらに大きく膨らんでいく。
俺が持っている金は、五ダカットと少し。
入学金だけでも、その百倍近い。
仮に五百ダカットを用意して入学できたとしても、それで終わりではない。
二年通えば授業料だけで二百ダカット。
三年なら三百ダカット。
そこへ教材費や実習費、寮費、食費まで加わる。
卒業までに必要な総額がどれほどになるのか、想像するだけで頭が痛くなった。
「入学試験はいつですか?」
「年に一度、春の初めに行う。魔力適性試験、筆記試験、それから実技試験だ」
「魔力適性試験というのは?」
「魔力量、属性、制御力を見る。魔力をまったく扱えない者は、原則として入学できない」
「特待生制度はありませんか?」
「ある」
その言葉に、わずかな期待が生まれた。
「試験で良い成績を取れば、入学金や授業料を免除してもらえるんですか?」
「単に優秀なだけでは駄目だ」
老職員は淡々と答えた。
「特待入学には、辺境伯や諸侯、あるいは学院に認められた高位魔術師の推薦が必要になる。推薦者は、その学生の身元に責任を持つ」
「推薦があれば、費用はどうなりますか?」
「推薦の内容にもよる。入学金だけが免除される場合もあれば、授業料や寮費まで推薦者が負担する場合もある。だが、それは学院ではなく、推薦者との契約によって決まる」
「推薦がなければ?」
「一般入学だ。入学時に五百ダカット。その後は一年ごとに百ダカットを納めてもらう」
期待は一瞬で消えた。
辺境伯にも、高位の魔術師にも知り合いはいない。
今の俺には、推薦を頼める相手など一人もいなかった。
「分かりました。ありがとうございます」
老職員は、少しだけ表情を和らげた。
「春までにはまだ時間がある。受験を考えているなら、読み書きと算術、それから魔術の基礎理論を学んでおけ。金だけ持ってきても、試験に落ちれば入学はできんぞ」
「はい」
受付を後にし、学院の門を振り返る。
門の向こうでは、学生たちが笑いながら歩いている。
誰かが杖を振り、宙に小さな光の鳥を生み出した。
鳥は学生たちの頭上を一周し、光の粒となって消えた。
俺とはまるで違う世界の住人のようだった。
彼らにとって、魔術を学ぶことは日常なのだろう。
だが、俺にとっては、手を伸ばしても届かないほど遠い場所にある。
『主……』
「分かってる」
拳を握る。
「入学するだけで五百ダカット。そのあとも一年ごとに百ダカットかかる」
『五百ダカットを集めれば終わりやなかったんですな』
「うん。教材や生活費も別だ。五百ダカットだけを目標にしてたら足りない」
村で普通に暮らしていたなら、一生かかっても貯められない。
領都で働けば村より賃金は高いだろう。
だが、物価も高い。
一日に数オドルスずつ貯めたところで、入学金へ届くまで何年かかるか分からない。
仮に入学できても、翌年にはまた百ダカットが必要になる。
『領都は安全すぎますな』
「兵士が魔物を狩ってるからね。街道にもほとんど出ない」
『安全なのはええことですが、主が稼ぐには都合が悪いですな』
「そうだね」
学院へ続く坂を下りながら考える。
俺にあるのは剣と念動力。
村での暮らしを通じて、魔物を狩る経験も積んだ。
普通の仕事をするよりも、それを活かした方が多く稼げるはずだ。
問題は、領都周辺に強い魔物がいないことだった。
その夜。
宿の一階にある食堂で、俺は夕食を取っていた。
木皿には、豆と根菜を煮込んだシチューと、厚切りの黒パンが載っている。
アークには女将から骨付き肉を分けてもらった。
『この宿、当たりですな』
「アークは食事さえよければ、どこでも当たりって言いそうだけど」
『食事は大事ですからな』
食堂には商人や職人、旅人らしい者たちが集まっていた。
酒が入っているためか、昼間よりもずっと騒がしい。
その中で、隣の卓に座っていた三人の男たちの会話が耳に入った。
いずれも革鎧を身につけ、腰に武器を下げている。
狩人か傭兵だろう。
「だから言っただろ。この辺じゃ、もう稼げねぇって」
髭の濃い男が、木杯を卓へ置いた。
「昨日の依頼なんざ、畑に出たゴブリン三匹で十五オドルスだぞ。三人で割ったら何が残る」
「領都の周りは兵隊が狩り尽くしてるからな」
「安全になりすぎたんだよ。昔はオークも出たらしいが、今じゃせいぜいゴブリンかコボルトだ」
別の男が、干し肉を噛みながら答えた。
「金が欲しいなら北へ行け」
「北?」
「ああ。ダリスティだ。黒霧の森の入口にある」
思わず耳を傾ける。
「黒霧の森なら毎日のようにオーク、オーガ、トロール。時期によっちゃ、ワイバーンまで出合えるぞ」
「冗談じゃねぇ。命がいくつあっても足りん」
「だから金になるんだろうが」
髭の男が笑った。
「オーガ一匹なら数ダカット。状態のいい素材まで持ち帰れば、さらに上乗せだ。トロールの心臓や胆石なら、薬師や魔術師が高値で買う」
「ただし、弱い奴は一週間で死ぬ」
「強い奴なら、一年で領都に家を買える」
彼らは笑って酒を飲んだ。
俺は手元のシチューへ視線を落とした。
学院へ入るには五百ダカット。
さらに、入学後は毎年百ダカットが必要になる。
この街でゴブリンを何匹狩ったところで、到底届かない。
一日中働いて数オドルス。
食費や宿代を引けば、手元に残るのはさらに少ない。
だが、強い魔物なら報酬も高い。
危険なのは分かっている。
オークよりも強い魔物がいるなら、今の俺でも簡単には勝てないかもしれない。
それでも、危険を避けて普通に働いていたのでは、学院へ入る前に何年も過ぎてしまう。
それに、強くなるという目的もある。
より強い魔物と戦えば、自分の剣も念動力も鍛えられる。
金を稼ぎながら強くなれるなら、俺にとっては都合がいい。
「アーク」
『何です?』
「次の目的地が決まった」
アークは骨から顔を上げた。
『北ですな?』
「ああ。ダリスティへ行って強い魔物を狩って金を稼ぐ。この領都で何年も雑用をするより、ずっと早い」
『危険らしいですで』
「分かってる」
『オーガにトロール。下手をすれば、ワイバーンまで出るとか』
「怖い?」
アークはしばらく俺を見つめたあと、尻尾を振った。
『まさか。ようやく主らしい選択をしたと思っとります』
「俺らしい?」
『主は安全な場所でじっと働くより、危ない場所へ首を突っ込む人ですからな』
「そんなつもりはないんだけど」
『自覚がないのが一番危ないんですわ』
否定しようとしたが、これまでの行動を思い返すと言葉に詰まった。
地球へ帰る方法を探す。
魔術学院へ入る。
自分の力の正体を知る。
そのためには金も知識も必要だ。
学院へ入る夢は変わらない。
むしろ、実際に学院を目にしたことで、その思いは以前より強くなっていた。
門の向こうで魔術を学ぶ学生たち。
空に浮かぶ光。
回転する金属の輪。
あの場所には、俺が求める答えがあるかもしれない。
だが、憧れて見上げているだけでは、門の向こうへは行けない。
入学金として五百ダカットを稼ぐ。
その後の授業料として、毎年百ダカットを払い続けられるだけの蓄えも作る。
試験に合格できるだけの知識を身につける。
そのための最初の一歩が、魔境へ向かうことだった。
「まずは、ダリスティまでの行き方を調べよう」
『食料も必要ですな』
「武器の手入れもしたい」
『ロークの実も買いましょう』
「それは必要ない」
『旅には糖分が必要です』
「またそれ?」
アークは当然だと言わんばかりに尻尾を振った。
俺たちは翌日から、北方のダリスティへ向かう準備を始めることにした。
領都プラモナスガーンは、目的地ではなかった。
俺に夢を見せ、その夢がどれほど遠いかを教えた場所だった。
けれど、遠いからといって諦めるつもりはない。
五百ダカットが必要なら、稼げばいい。
その後も毎年百ダカットが必要なら、それ以上に稼げるようになればいい。
強さが必要なら、身につければいい。
門を開ける資格がないのなら、自分の力で手に入れる。
窓の外では、淡い黄色の屋根が月明かりを反射していた。
昼間には黄金に見えた街が、今は静かな銀色に染まっている。
その先、さらに北にあるダリスティ。
そこが、俺の次の目的地だ。
1ダカット = 7ラリ
1ラリ = 13ギニュー
1ギニュー = 14オドルス




