別れ
力を認められてからというもの、俺の仕事は大きく変わった。
朝の畑仕事を終えると、アークを連れて森へ入る。
村の薬師に頼まれた薬草を採取し、ときには畑や放牧地へ近づく魔獣を狩る。狩人たちだけでは手に負えない相手が現れれば、森の奥まで追跡することもあった。
角ウサギや牙猪程度なら、レーラインから教わった剣術だけで問題なく倒せる。
だが、まれに皮膚の硬い魔獣や、異様に素早い上位種と遭遇することもあった。
そういうときだけ、誰にも見られていないことを確かめてから念動力を使った。
剣の軌道をわずかに押し込む。
相手の足を一瞬だけ地面へ縫い止める。
飛びかかってくる身体を、横から見えない力で弾く。
鬼やオークを倒したときのように力任せに使うのではなく、なるべく剣技の一部に見えるよう制御する練習も重ねた。
『だいぶ器用になりましたな』
倒した牙猪の脚を縄で縛りながら、アークが感心したように言った。
「村でいきなり魔獣を真っ二つにしたら、さすがに言い訳できないからね」
『今さら普通の人や思われてるかは怪しいですけどな』
「そこは深く考えないでおこう」
森から持ち帰った薬草は薬師へ渡し、牙や角、毛皮などの素材は村の倉へ納める。
それらは年に数度訪れる行商人へ売られ、その代金で塩や針、鉄製の農具、布など、村では作れない品々が買われた。
以前は古い鍬を何度も修理して使っていたが、最近では新しい鉄製の刃を取り付けた鍬が何本も増えた。冬を越すための塩や保存食にも、以前より余裕があるらしい。
「モーリが来てから、森の恵みが増えたな」
そんなふうに言われることも多くなった。
俺一人の力ではない。
薬草の見分け方は薬師から教わった。
魔獣の痕跡を探す方法は狩人たちに習った。
剣を教えてくれたのはレーラインだ。
それでも村の役に立てていると思うと、胸の奥が少し温かくなった。
この世界へ来たばかりの頃は、今日を生き延びることしか考えられなかった。
今では、明日の村の暮らしまで考えるようになっていた。
そんな生活が数か月続いたある日のことだった。
昼を少し過ぎた頃、門の外から車輪の軋む音が聞こえてきた。
一台の荷馬車が、土煙を上げながら村へ入ってくる。
荷台には布地や樽、鍋、塩の袋、干し肉などが隙間なく積まれていた。その奥には、紐でまとめられた何冊もの本も見える。
村へ年に数度やって来る行商人だった。
「久しぶりだな、ガレス」
門番をしていたレーラインが片手を上げた。
御者台に座っていた髭面の男も、太い腕を上げて応える。
「おう、レーライン。今年もまだ魔獣に食われてなかったか」
「お前こそ、盗賊に荷物を全部持っていかれなかったようだな」
「俺の荷物を狙うような物好きは、とっくに土の下だ」
冗談とも本気ともつかない会話を交わし、二人は豪快に笑った。
俺も他の村人たちと一緒に荷下ろしを手伝うことになった。
樽を地面へ下ろし、塩の袋を倉へ運ぶ。
その途中、荷台の隅に積まれた一冊の本が目に入った。
分厚い革張りの表紙。
中央には、円と幾何学模様を組み合わせたような紋章が銀色の顔料で描かれている。
見たことのない意匠だった。
俺が手を止めて見つめていると、背後から声がした。
「本に興味があるのか?」
振り返ると、ガレスがこちらを見ていた。
「ええ。少しだけ」
「文字は読めるのか?」
「簡単なものなら。難しい文章はまだ無理です」
この二年間で日常会話には困らなくなった。
読み書きも村長や子どもたちから習っていたが、村にあるのは農作業の記録や簡単な手紙程度だ。専門的な本を読めるほどではない。
ガレスは俺の手から本を受け取り、表紙を軽く叩いた。
「これは学院の教本だ」
「学院?」
「魔術学院さ」
その一言で、胸が大きく跳ねた。
あの日、鬼を倒した力。
オークを斬った力。
今も森で密かに使っている念動力。
それが魔術なのかどうかさえ、俺には分からない。
村の誰に聞いても、魔術を実際に見たことがある者はほとんどいなかった。
「魔術を学べる場所があるんですか?」
「あるとも」
ガレスは当然のように頷いた。
「オニギエ辺境伯領の領都、プラモナスガーンにな。この辺境じゃ一番大きな魔術学院だ」
「誰でも入れるんですか?」
その瞬間、ガレスは困ったように苦笑した。
「誰でも……というわけじゃない」
「貴族しか入れないんですか?」
「いや。決まりの上では、平民でも入れなくはない」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。
身分だけで門前払いされるわけではない。
「じゃあ――」
「ただし、金があればな」
胸に灯った期待を見透かしたように、ガレスが続けた。
「授業料が高いんですか?」
「高いなんてもんじゃない」
ガレスは呆れたように肩をすくめる。
「入学金だけで五百ダカットだ」
「……五百ダカット?」
その金額がどれほどなのか、すぐには実感できなかった。
この村では、銀貨や銅貨を使うことの方が多い。金貨であるダカットを実際に見たことすら、数えるほどしかない。
ガレスは俺の表情を見て、指を一本立てた。
「普通の農民が一年働いて、税や食費を引いたあとに残せるのが、一ダカットもあれば上等だ。」
「一ダカット……。」
「つまり五百ダカットは、普通の農民五百年分の蓄えってことだ。」
言葉を失った。
五百年。
人の一生どころではない。
俺がこの二年間、魔獣を狩り、薬草を採り、危険な森へ何度も足を運んで得た取り分も、村で使った分を除けば、ようやく五ダカットを少し超えた程度。
あと四百九十五ダカット。
今と同じペースで貯め続けても、二百年近くかかる計算になる。
遠い、などという言葉では足りなかった。
領都までの道のりではない。
今の自分と学院との間に、越えようのない崖があるように感じた。
「……そんなに」
「だから入れるのは、ほとんどが貴族か大商人の子どもだ」
ガレスは本を荷台へ戻した。
「一般の平民が一生働いても、まず払えん。家や畑を全部売って、親戚中から借りても届くかどうかだ」
胸の奥に灯った希望が、急速にしぼんでいく。
魔術について学べる場所を、ようやく見つけたと思った。
それなのに、門の場所が分かっただけで、その門を開く鍵は遥か遠くにある。
「もっとも」
俯きかけた俺へ、ガレスが言った。
「毎年一人か二人、平民が入ることもある」
「え?」
顔を上げる。
ガレスは腕を組み、俺を値踏みするように見た。
「辺境伯や有力貴族に才能を認められれば、推薦を受けられることがある」
「推薦……」
「学院が学費を免除することもあるし、推薦した貴族が金を出す場合もある。卒業後に仕えることを条件に、先に学費を貸すこともあるそうだ」
完全に閉ざされた道ではない。
その事実に、消えかけた火が再び小さく灯った。
「どうすれば、推薦を受けられるんですか?」
「簡単に言うな」
ガレスは鼻で笑った。
「剣でも魔術でも、誰が見ても分かるほど飛び抜けた才能が必要だ。それか、貴族が無視できないような大きな功績を立てるかだな」
「功績……」
「魔獣の大群から町を救う、盗賊団を壊滅させる、戦で武功を立てる。そういう話だ」
どれも簡単なことではない。
命を賭けても届かないかもしれない。
それでも、五百ダカットを畑仕事だけで貯めるよりは可能性がある。
ガレスは少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「まあ、普通の平民には縁のない話さ」
俺は荷台に戻された教本を見つめた。
普通の平民。
少なくとも、俺が普通かどうかは自分でも分からない。
誰にも見せていない力がある。
制御できるようになれば、貴族に認められる可能性だってあるかもしれない。
だが、力の正体を知られる危険もある。
期待と不安が胸の中でせめぎ合った。
「いつか、領都へ行ってみたいです」
思わず漏れた言葉に、ガレスは少しだけ表情を和らげた。
「若いんだ。夢くらい見ても罰は当たらん」
「その教本はいくらですか?」
「買うつもりか?」
「値段だけでも」
ガレスは三本の指を立てた。
「三ダカット」
「……無理ですね」
俺の即答に、ガレスは声を上げて笑った。
「だろうな。こいつは貴族の倅が途中で投げ出して売った品だ。領都へ持っていけば、それでも買い手はいる」
俺も苦笑するしかなかった。
今の俺には、学院へ入るどころか、教本一冊すら買えない。
それでも、その日から領都と魔術学院の存在が頭を離れなくなった。
夜。
小屋の前で焚き火を眺めながら、俺はアークへ話しかけた。
「五百ダカットだってさ」
『途方もないですな』
「今の貯金が一ダカットちょっと」
『あと四百九十九ダカットくらいですか』
「数字にすると余計に絶望するね」
『畑仕事だけやったら、主がお爺ちゃんになっても無理ですわ』
「だよね」
薪がぱちりと弾けた。
「でも、推薦なら可能性があるらしい」
『貴族に力を見せるんですか?』
「そこが問題なんだよな」
念動力を見せれば、学院へ近づけるかもしれない。
同時に、危険な存在として扱われる可能性もある。
この村では俺を家族として受け入れてくれた。
だが、領都の人間も同じように受け入れてくれる保証はない。
『主はどうしたいんです?』
アークの問いに、しばらく答えられなかった。
炎の向こうに、鬼の首が飛んだ日の光景が浮かぶ。
オークを斬ったときの感触。
あの力が何なのか知りたい。
どうすれば安全に扱えるのか知りたい。
それに、もしこの世界へ来た理由や、元の世界へ帰る方法があるのなら――知識が集まる場所へ行かなければ何も分からない。
「領都へ行きたい」
ようやく、そう答えた。
「今すぐ学院へ入れなくてもいい。まずは町を見て、金を稼ぐ方法や推薦を受ける方法を探したい」
『ほんなら、決まりですな』
「でも、村を放ってはいけない」
俺が森へ入るようになってから、狩人たちの負担は減った。
魔獣の素材や薬草も、村にとって大きな収入になっている。
自分の目的のために、それを突然投げ出すのは無責任に思えた。
『主は律儀ですなぁ』
「ここには恩があるからね」
それからさらに数か月が経った。
冬を越え、雪解け水が環濠へ流れ込み始めた頃。
一人の若い男が村へやって来た。
名はバルド。
年は俺より少し上に見えた。
日に焼けた顔には浅い傷がいくつもあり、背中には幅広の剣を背負っている。鎧は擦り切れ、旅の荷物も小さな袋一つしか持っていなかった。
レーラインが警戒しながら事情を尋ねると、バルドは気まずそうに頭をかいた。
「戦が終わったんだ」
隣の領地で続いていた小競り合いが、ようやく終結したらしい。
雇われていた傭兵団は解散し、給金の支払いも途中で打ち切られた。
「故郷へ戻ろうにも、家族はもういねぇ。町じゃ仕事を探す傭兵が溢れてる。ここで働き手を探してるって、行商人から聞いた」
ガレスが紹介したらしい。
開拓村は常に人手を必要としている。
ただし、武器を持つ流れ者をすぐ信用するほど村人たちも甘くはない。
最初の数日は、バルドは村の外れにある空き小屋で暮らし、レーラインの監視のもとで柵の修理や薪割りを手伝った。
口調は荒いが、仕事は真面目だった。
子どもが近寄れば顔をしかめながらも危ない道具を遠ざけ、老人が荷物を運んでいれば黙って手を貸す。
ある日、畑の近くへ牙猪が現れた。
レーラインが槍を取るより早く、バルドは畑と牙猪の間へ割って入り、一人で仕留めた。
豪快な剣だった。
俺のように相手の動きを見て受け流すのではなく、重い一撃で正面から押し切る。
レーラインと稽古をさせてみると、勝負は長く続いた。
最後にはレーラインが槍を弾かれたが、バルドの喉元にも穂先が突き付けられていた。
「相打ちだな」
レーラインが笑う。
「俺は勝ったつもりだったが」
バルドも歯を見せて笑った。
その日から、二人は酒を飲むたびにどちらが強いか言い争うようになった。
バルドは森の道を覚えるのも早かった。
魔獣の痕跡を見つけ、罠を仕掛け、薬草の群生地を避けて獲物を追う。俺や狩人たちと何度か森へ入ったあとには、一人でも浅い場所を巡回できるようになった。
村人たちも少しずつ彼を受け入れ始めた。
ある日の夕方。
俺とレーラインは柵の上から、バルドが狩人たちと森から戻る姿を眺めていた。
肩には大きな牙猪を担いでいる。
「これなら安心だな」
レーラインが言った。
「何がです?」
「お前が町へ行っても、森の見回りは何とかなる」
不意に言われ、言葉が詰まった。
「ガレスから聞いた。領都へ行きたいんだろ」
「……まだ決めたわけじゃ」
「嘘つけ。あの日から、町へ続く道ばっかり見てるじゃねぇか」
レーラインは柵へ肘をついた。
「村のことを心配してたんだろ?」
俺は否定できなかった。
「俺がいなくなったら、狩りや薬草採取の負担がまた増えます」
「お前が来る前から、この村はここにあった」
レーラインは静かに森を見た。
「お前のおかげで楽にはなった。豊かにもなった。だが、お前一人がいなきゃ潰れるような村じゃねぇ」
「でも――」
「それに今はバルドがいる。あいつは腕も立つし、森を怖がらねぇ。少々性格は悪いがな」
少し離れた場所から、バルドの怒鳴り声が飛んできた。
「聞こえてるぞ、槍馬鹿!」
レーラインは腹を抱えて笑った。
「耳もいいらしい」
笑いが収まると、レーラインは俺の肩を軽く叩いた。
「モーリ。ここで一生畑を耕すのも悪くない」
「はい」
「だが、お前はずっと、自分の力が何なのか知りたがっていた」
俺は黙った。
念動力について詳しく話したことはない。
オークを倒したときに見せた一撃についても、レーラインは理由を尋ねなかった。
それでも、俺が何かを隠していることは分かっているのだろう。
「俺が教えられるのは剣だけだ」
レーラインは続けた。
「町には魔術師も学者もいる。お前の知りたいことを知ってる奴が、きっといる」
「学院は五百ダカットですよ」
「知ってる。俺なら数字を聞いただけで諦める」
「励ましてるんですか、それ」
「俺とお前は違うって話だ」
レーラインは真っ直ぐこちらを見た。
「お前なら、五百ダカットを稼ぐ道でも、誰かに認めさせる道でも見つけられるかもしれねぇ」
俺はしばらく言葉を返せなかった。
レーラインは視線を村へ戻した。
夕餉の煙が家々から立ち上っている。
畑ではラッスが道具を片付け、広場ではサーシたちがアークと走り回っていた。
『主、こっちやでー!』
もちろん、子どもたちにはアークの声は聞こえていない。
それでも楽しそうに追いかけている。
ここを離れる。
そう考えるだけで、胸の奥が痛んだ。
けれど、いつまでもここに留まり続ければ、何も知らないままだ。
その夜、俺は村長の家を訪ねた。
村長は炉のそばに座り、古い帳面を読んでいた。
「話がある顔だな」
俺が口を開く前に、村長が言った。
「領都へ行きたいと思っています」
村長は驚かなかった。
帳面を閉じ、向かいの椅子を示す。
俺が座ると、村長はしばらく黙って火を見つめていた。
「魔術を学びたいのか」
「はい。すぐ学院へ入れるとは思っていません。まずは町で働いて、金を稼ぐ方法や推薦を受ける方法を探したいです」
「五百ダカットだったか」
「知っていたんですか?」
「ガレスは口が軽い」
村長は小さく笑った。
「村のことが心配か」
「……はい」
「お前は、この村に大きなものを残してくれた」
村長は皺の深い手を膝に置いた。
「魔獣を退け、薬草を集め、子どもたちへ遊びを教えた。働き方だけでなく、新しい考え方もいくつも持ち込んだ」
「俺は、そんな大したことは」
「大したことかどうかを決めるのは、受け取った者だ」
静かな声だった。
「だがな、モーリ。この村は、お前を縛るために助けたのではない」
胸を突かれたような気がした。
「何も持たず、言葉も話せなかった若者が、一人で生きられるようになるまで置いてやろうと思っただけだ」
村長の目元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「それが今では、村で一番頼れる男の一人になった」
「村長……」
「若いうちにしか見られん景色がある。行けるときに行ってこい」
「でも、学院へ入れるかどうかも分かりません」
「入れなければ帰ってくればいい」
あまりに簡単に言われ、思わず瞬きをした。
村長は笑った。
「失敗したら戻れんなどと、誰が決めた」
「……戻ってきていいんですか?」
「ここはもう、お前の家でもある」
胸の奥が熱くなった。
この世界へ来たばかりの頃、俺には何もなかった。
言葉も。
金も。
身分も。
帰る場所も。
今は違う。
旅に出ても、戻れる場所がある。
「ありがとうございます」
頭を下げると、村長は気まずそうに咳払いした。
「礼は帰ってきたときに聞こう。領都の土産話と一緒にな」
旅立ちの日は、春の終わりに決まった。
雪解けで荒れていた道が乾き、行商人の荷馬車が領都方面へ戻る時期だ。途中まで同行させてもらえば、道に迷う危険も減る。
出発の朝。
まだ日の出前だというのに、村の門には大勢が集まっていた。
「こんなに集まらなくても……」
照れくさくなって呟く。
『主、人気者ですからなぁ』
アークは妙に得意げだった。
ラッスが無言で近づいてきた。
手には、丈夫な革紐で縛られた小さな包みを持っている。
「これ」
中には、黒パンと干し肉が入っていた。
「道で食え」
「ありがとう、ラッス」
「……戻ってこい」
それだけ言って、ラッスは顔を背けた。
薬師からは傷薬や虫除けの草、腹痛に効く粉薬を渡された。
「町の薬師が、皆まともとは限らん」
「先生より詳しい人は、そういないと思います」
「当然だ」
薬師は得意そうに鼻を鳴らした。
レーラインは長い布に包まれたものを差し出した。
中に入っていたのは、使い込まれた長剣だった。
俺が稽古で何度も借りた剣だ。
「これを?」
「俺のお古だ」
「でも、村を守るのに必要でしょう」
「予備はある。それに今はバルドもいる」
少し離れた場所で、バルドが腕を組んで立っていた。
「安心して行け。あんたの代わりが務まるとは言わねぇが、村を魔獣に食わせるほど間抜けじゃない」
「お願いします」
俺が頭を下げると、バルドは肩をすくめた。
「その代わり、町でいい酒を見つけたら送れ」
「覚えておきます」
レーラインは剣を俺の胸へ押し付ける。
「持っていけ」
俺は両手で受け取った。
鞘には細かな傷が無数に刻まれている。
レーラインが何年も使ってきた証だった。
「領都へ着いたら、まず自分の力を試してこい」
「はい」
「無茶はするな。だが、怖がって何もしないのも駄目だ」
「難しい注文ですね」
「それくらい自分で考えろ」
レーラインは笑い、俺の肩を強く叩いた。
「それと、覚えておけ」
「何をです?」
「帰る場所なら、ここにある」
返事をしようとしたが、喉が詰まった。
代わりに、深く頷いた。
最後にサーシが駆けてきた。
もう七歳になった彼女は、両手で何かを抱えている。
「モーリ兄ちゃん、これ!」
差し出されたのは、小さな木彫りの犬だった。
脚の長さはばらばらで、耳も左右で形が違う。それでも、黒い炭で塗られた背中と白い腹は、間違いなくアークを模していた。
「サーシが作ったの?」
「お父さんに手伝ってもらった」
「そっくりだね」
『いや、だいぶ不細工ですけど』
「静かにしてろ」
思わず日本語で小声を漏らし、慌てて口を閉じる。
サーシは不思議そうに首をかしげた。
「何?」
「何でもない。ありがとう。大事にするよ」
木彫りを鞄へしまう。
サーシは唇を噛み、目元を赤くしていた。
「絶対、帰ってきてね」
「もちろん」
「絶対だよ」
「約束する」
そう答えると、サーシはアークへ抱きついた。
アークは困ったようにこちらを見ながらも、じっとされるがままになっている。
『主。わい、ちょっと泣きそうですわ』
「俺もだよ」
やがてガレスの荷馬車が動き始めた。
俺とアークも、その隣を歩き出す。
門を出る直前、振り返った。
浅い環濠。
簡素な木柵。
最初に見たときは、頼りなく小さな村だと思った。
今では、その全てが懐かしく、離れがたいものに見える。
村人たちが手を振っていた。
ラッス。
薬師。
バルド。
レーライン。
村長。
子どもたち。
その中央で、サーシが両手を大きく振っている。
「行ってきます!」
俺が叫ぶと、大勢の声が返ってきた。
『みんな、達者でなー!』
アークも尻尾を大きく振った。
もちろん、その声は俺にしか聞こえない。
「行こうか、アーク」
『いよいよですな、主』
目指すは、オニギエ辺境伯領の領都――プラモナスガーン。
手持ちの金は、一ダカットとわずかな銀貨。
魔術学院の入学金は、五百ダカット。
気が遠くなるほど遠い。
それでも、道は完全に閉ざされてはいない。
金を稼ぐ。
力を認めさせる。
推薦を得る。
そのどれかを掴み取ればいい。
自分の力の正体を知るため。
この世界について知るため。
そしていつか、元の世界へ帰る方法を見つけるため。
俺とアークは、二年間暮らした村に背を向け、新たな道を歩き始めた。




