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家族

森を抜けた先に見えた村は、浅い環濠と簡素な木柵に囲まれていた。

柵の向こうには藁葺きの家が十数軒ほど並び、その間から細い煙がいくつも立ち上っている。畑では何人かが腰を屈めて働き、家畜らしき鳴き声もかすかに聞こえた。

少なくとも、人が暮らしている。

その事実だけで、胸の奥に張り詰めていたものが少し緩んだ。

「アーク」

『なんです、主』

「念話も、相手の思考を読む力も、絶対に秘密だ」

『承知しました』

「それから、俺の力も」

鬼の首を引きちぎった感触が、右手に蘇る。

何の力なのかさえ分からない。

そんなものを人前で使うべきではない。

『そのほうがよろしいかと。人間いうもんは、分からんもんを怖がりますからな』

「犬に言われると妙に説得力があるね」

『犬やなくてアークです』

こんな状況でもいつもの調子で返してくるアークに、わずかに肩の力が抜けた。

俺たちは村へ続く道をゆっくり進んだ。

門と呼べるほど立派なものではない。丸太を組み合わせただけの簡素な柵が左右へ開かれ、その脇に一人の男が立っていた。

三十代半ばほどだろうか。

日に焼けた大柄な男で、革製の胸当てを身につけ、短槍を肩へ担いでいる。

男は空を見上げていたが、こちらへ気づくとすぐに姿勢を正した。

その視線が、俺とアークを素早く往復する。

次いで、槍を両手で構えた。

「Από πού ήρθες;」

何かを問いかけられた。

声色からして、怒鳴っているわけではない。

だが、当然ながら意味は分からなかった。

俺は立ち止まり、両手をゆっくりと肩の高さまで上げた。

武器を持っていない。

敵意もない。

せめてそれだけでも伝わってほしかった。

門番はなおも警戒を崩さない。

槍先をこちらへ向けたまま、再び問いかけてくる。

「Είσαι τραυματισμένος;」

俺は困ったように首をかしげるしかなかった。

『主。「どこから来た」やら、「怪我しとるんか」やら聞いてますわ』

アークの声が頭へ響く。

答えようと思えば、日本語でなら答えられる。

けれど、それはできない。

この世界には存在しない言葉を口にすれば、余計な疑いを招くかもしれない。

どこから来た。

そう聞かれても、異世界から来たなどと言えるはずがない。

俺は何も話さず、小さく首を横へ振った。

門番の眉間に皺が寄る。

もう一度、今度は少しゆっくりと同じ言葉を繰り返した。

俺は口を開かない。

ただ困惑した表情を浮かべる。

門番はしばらく俺を見つめ、それから視線をアークへ移した。

アークは敵意がないことを示すように、その場へ静かに伏せている。

尻尾だけが、地面の上をゆっくりと左右に動いていた。

『しゃべれへんのやないか、って思い始めましたわ』

どうやら狙いどおりらしい。

いや、本来なら人を欺くことを喜ぶべきではない。

それでも今は、自分たちの身を守ることが最優先だった。

門番は槍を少し下げ、俺の服装へ目を向けた。

雨と泥で汚れた現代の服。

武器もない。

荷物もない。

連れているのは犬一匹だけ。

どう見ても、盗賊や兵士には見えないはずだ。

門番はしばらく迷った末、槍を肩へ戻した。

そして俺たちへ背を向け、付いて来いというように手招きする。

俺は胸へ手を当て、深く頭を下げた。

門番は少し戸惑った顔をしたが、そのまま村の中へ歩き始める。

俺とアークも、一定の距離を空けて後へ続いた。

村へ入ると、何人もの視線がこちらへ向けられた。

畑仕事をしていた男。

井戸から水を汲んでいた女。

裸足で走り回っていた子どもたち。

誰もが手を止め、俺たちを見つめている。

ひそひそと交わされる言葉。

警戒。

好奇心。

わずかな恐れ。

アークには、そのすべてが思考として流れ込んでいるのだろう。

だが、アークは何も言わなかった。

今ここで一つ一つ聞かされても、どうしようもないと分かっているらしい。

門番に案内されたのは、村の中央にある大きな建物だった。

周囲の家より二回りほど大きく、屋根も厚い。

扉をくぐると、広い土間が奥まで続いていた。

壁際には三つのかまどが並び、薪の燃える匂いと、煮込まれた野菜の甘い香りが漂っている。

何人もの人間が一度に食事を取れる場所らしい。

村長の家というより、集会所も兼ねているのかもしれない。

門番が奥へ向かって大声を張り上げた。

しばらくして、奥の扉から一人の老人が姿を現した。

白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、腰は少し曲がっている。

だが、歩みはしっかりしていた。

長年、人の上に立ってきた者特有の落ち着きがある。

村長だろう。

老人は門番から短い説明を受けたあと、俺の前まで歩いてきた。

そして顔を覗き込むようにして尋ねる。

「Από πού ήρθες;」

門番と同じ言葉だ。

俺は何も答えない。

ただ、申し訳なさそうに首を横へ振った。

老人は少し考え込み、今度はまったく違う響きの言葉を使った。

「De unde vii?」

俺は再び首を横へ振る。

さらに別の言葉。

「Nga vjen?」

それでも答えない俺を見て、老人は深く息を吐いた。

この老人は、複数の土地の言葉を知っているらしい。

辺境の開拓村とはいえ、旅人や移民を受け入れることがあるのかもしれない。

だが、そのどれも俺には分からなかった。

『主、いろんな土地の言葉を試しとります。どれも通じへんから、困ってますわ』

俺は黙ったまま自分の胸を指差した。

次に、畑で鍬を振る仕草をする。

木材を肩へ担ぐ真似。

重い荷物を運ぶ動作。

最後に腹を押さえ、老人へ深く頭を下げた。

働く。

食べるものと、眠る場所が欲しい。

言葉がなくても、その意思だけは伝えたかった。

老人は黙って俺を見つめていた。

門番へ何かを尋ねる。

門番は短く答え、首を横へ振った。

『武器も持ってへん。怪我もなさそうや。それに犬も大人しい。悪い人間には見えへん、いう話になっとります』

老人の視線がアークへ向く。

アークは行儀よく伏せたまま、老人を見上げた。

少しだけ尻尾を振る。

老人の表情が、ほんのわずかに緩んだ。

それから俺の手を取る。

掌。

指先。

腕。

働ける身体かどうかを見ているらしい。

土砂崩れや森を歩いたせいで細かな傷はあるが、大きな怪我はない。

老人は俺の掌を裏返し、しばらく眺めた。

農作業に慣れた手ではない。

剣を握っていたわけでもない。

どこから来たのか分からず、言葉も話せない、奇妙な若者。

それでも働く意思だけはある。

老人は長いあいだ考え込んでいた。

村に余裕があるとは思えない。

食料を一人分余計に与えるだけでも、負担になるだろう。

追い返されても仕方がない。

そう覚悟しかけたとき、老人がゆっくりとうなずいた。

近くにいた若い男を呼び、俺とアークを指差して何かを指示する。

『空いてる小屋を貸して、働かせてみるそうですわ』

胸の奥に溜めていた息が、一気に漏れた。

追い返されなかった。

少なくとも今夜は、森の中で眠らずに済む。

俺は老人へ何度も頭を下げた。

老人は少し困ったように笑い、もういいというように手を振った。

若い男に連れられ、俺たちは村の外れへ向かった。

男は二十代半ばほどで、日焼けした細身の身体をしている。

口数は少ないらしく、道中もほとんど何も話さなかった。

もっとも、話しかけられても今の俺には分からない。

案内されたのは、柵際に建つ小さな藁葺き小屋だった。

壁はところどころ歪み、板の隙間から外の光が差し込んでいる。

中には寝台代わりの藁束と、欠けた木椀が一つあるだけだった。

豪華とは到底言えない。

それでも屋根がある。

壁がある。

雨風をしのげる。

今の俺には、それだけで十分すぎるほどありがたかった。

俺は若い男へ深々と頭を下げた。

男は照れくさそうに頬を掻く。

それから自分の胸を指差した。

「Λας」

名前だろう。

俺は音を忘れないよう、頭の中で何度か繰り返す。

ラッス。

男は俺の胸も指差した。

一瞬、迷う。

本名を名乗るべきではない。

どこから来たのかを調べられたとき、この世界には存在しない名前が不自然に思われるかもしれない。

俺は少し考え、自分の胸へ手を当てた。

「……モーリ」

この世界で使うために、今つけた名前だった。

ラッスは「モーリ」と一度繰り返し、満足そうにうなずいた。

俺が話したことで、少し驚いた様子は見せた。

だが、名前だけは声にできるのだと思ったらしい。

それ以上は何も聞かず、小屋を出ていった。

扉が閉まる。

足音が遠ざかったのを確認してから、俺は藁の上へ腰を下ろした。

全身から一気に力が抜ける。

「……助かったな、アーク」

『ええ。完全に、まともにはしゃべれへん人やと思われてますわ』

「名前だけ言えたのは、まずかったかな」

『名前ぐらいは言える人もおりますやろ。あのラッスいう人も、特に疑っとりません』

「ならよかった」

アークが藁の上を何度か回り、俺の隣へ身体を横たえた。

俺もその背へ手を置く。

温かい。

柔らかな毛の感触は、元の世界と何も変わらない。

「しばらくは、話せないふりを続ける」

『言葉を覚えるまでは、それが一番ですな』

「頼りにしてるよ」

『任せといてください』

外からは、家畜の鳴き声と人々の話し声が聞こえていた。

その言葉は、まだ一つも分からない。

ここがどんな国なのか。

どんな人々が暮らしているのか。

元の世界へ帰る方法があるのか。

何一つ分からない。

それでも、今日を生き延びる場所だけは手に入れた。

俺は藁の上へ身体を倒し、木組みの天井を見上げた。

異世界での暮らしが、こうして静かに始まった。


ここでの暮らしは、日の出とともに始まる。

東の空が白み始める頃には、村人たちは皆、それぞれの仕事へ向かう。

寝坊をすれば、その日の仕事が終わらない。

だから目覚ましなどなくても、自然と身体が目を覚ますのだ。

俺もすっかりその生活に慣れ、夜明け前には目が覚めるようになっていた。

『主、今日もええ天気ですわ。』

隣でアークが大きく伸びをする。

顔を洗うと、そのままラッスと合流し、家畜小屋へ向かう。

まずはアゲラザという牛によく似た家畜の乳搾りだ。

全身は深い緑色の毛に覆われ、背中には魚のような背びれが並ぶ奇妙な生き物だが、性格は驚くほどおとなしい。

搾乳が終わると草原へ放し、その後は畑へ向かう。

麦や豆の世話をし、畝を作り、雑草を抜く。

季節によっては森へ薪を取りに入り、柵の補修を手伝うこともあった。

日が高いうちは黙々と働き続け、夕暮れとともに仕事を終える。

その日支給された黒パンと野菜、それにときどき分けてもらえるアゲラザの乳やチーズを使って、簡単な夕食を作る。

最初は火を起こすだけでも苦労したが、今では手際よく鍋を煮られるようになっていた。

アークには肉や骨、それに乳を少し分ける。

『主の料理、最初よりだいぶましになりましたな。』

「最初は焦がしてばっかりだったからね。」

『あの黒いスープは忘れられませんわ。』

「忘れて。」

思わず笑いながら鍋をかき混ぜる。

豪華な食事ではない。

それでも、アークと二人で囲む夕食は、不思議と温かかった。


最初の一週間は、とにかく失敗ばかりだった。

ラッスは仕事そのものは丁寧に教えてくれる。

だが、それ以外はほとんど口を開かない。

何か伝えたいことがあれば身振りで示し、俺も身振りで返す。

会話らしい会話はほとんどなかった。

その代わり、よく話しかけてくる者たちがいた。

村の子どもたちだった。

最初の頃は、遠くから俺とアークを眺めるだけだった。

「異国から来た変な男」

そんな目で見ているのがよく分かった。

それでも子どもというものは好奇心に勝てないらしい。

数日もすると、一人、また一人と近寄ってくるようになった。

アークの存在も大きかった。

「ワン!」

尻尾をぶんぶん振りながら遊びに誘うものだから、子どもたちもすぐに警戒を解いた。

『わい、人気者ですわ。』

「犬だからね。」

『犬いうてもボーダーコリーですから。』

「そこ関係ある?」


ある日の仕事帰りだった。

一人の小さな女の子が、俺の袖をくいっと引っ張った。

栗色の髪を肩で切り揃えた、小柄な少女だった。

まだ五歳くらいだろう。

門番レーラインの娘、サーシだ。

彼女は空を指差した。

「ουρανός。」

俺は空を見上げる。

青い空。

雲。

つまり空という意味か。

「……うらのす?」

少女は満面の笑みで頷いた。

「ουρανός!」

「うらのす。」

今度は地面を指差す。

「γη。」

「ぎ。」

違うらしい。

少女は首を横に振る。

「γη。」

「ギィ?」

今度は嬉しそうに飛び跳ねた。

『先生、厳しいですな。』

「いや、優しいよ。」


翌日。

今度は木を指差す。

「δέντρο。」

「でんとろ。」

違う。

「δέντρο。」

「でんどろ?」

今度は正解だったらしい。

サーシは手を叩いて喜んだ。

それを見ていた他の子どもたちも集まってくる。

「水。」

「石。」

「鳥。」

「花。」

次々に物を指差し、その名前を教えてくれる。

俺はそのたびに繰り返す。

間違える。

笑われる。

また言い直す。

その繰り返しだった。


俺も負けてはいなかった。

ある日、地面へ四角い線を書いた。

「これは"けんけんぱ"っていう遊び。」

もちろん言葉は通じない。

だから実際に跳んで見せる。

右。

左。

両足。

子どもたちは最初きょとんとしていた。

だが一人が真似をすると、すぐに全員が飛び跳ね始めた。

失敗して転ぶ。

笑う。

また挑戦する。

その日以来、夕方になると村の広場では子どもたちがけんけんぱをするようになった。

別の日には、木の枝を使って地面へ丸を描き、おはじき代わりに小石を弾く遊びも教えた。

アークはというと、その小石を追い掛け回しては子どもたちの笑い声を誘っていた。

『わいも参加してますで。』

「邪魔してるだけじゃない?」

『細かいことは気にせんことです。』


気付けば、一日の終わりは決まって子どもたちと過ごすようになっていた。

仕事で疲れた身体だったが、不思議と苦ではない。

彼らは俺に言葉を教え、

俺は彼らに遊びを教える。

それが自然な日課になっていった。

村人たちも、そんな様子を遠巻きに眺めながら、少しずつ俺への警戒を解いていった。

「口がきけない異邦人」ではなく、「少しずつ言葉を覚えている働き者の若者」そう見てもらえるようになるまで、それほど長い時間はかからなかった。


一方、門番のレーラインとも少しずつ親しくなっていった。

村一番の力持ちで、巨大な槍を軽々と振るう男だった。

ある日の夕方、レーラインは薪割りをしていた俺を見て声を掛けてきた。

「……。」

言葉は分からなかったが、「やってみろ」と言っているらしい。

槍を渡される。

持ち上げただけで重い。

見よう見まねで構えると、レーラインは腹を抱えて笑った。

その日から、仕事が終わるとレーラインが槍や剣の構えを教えてくれるようになった。

言葉は通じない。

だから教え方は単純だった。

見せる。

真似する。

違えば首を振る。

できれば笑う。

その繰り返しだった。

二年という歳月は、決して短くない。

村の言葉も少しずつ理解できるようになり、会話もできるようになった。

剣はまだレーラインには及ばない。

それでも、森に現れるコボルト程度なら、一人でも相手にできるまでになっていた。

そして村人たちは、もう誰一人として俺を「よそ者」とは呼ばなくなっていた。

彼らにとって俺は、開拓村で共に働く仲間――モーリだった。

季節は二度巡った。

春には畑を耕し、夏は雑草を刈る。

秋には黄金色に実った麦を刈り取り、冬は薪を割り、家畜の世話をする。

毎日同じことの繰り返し。

それでも退屈だと思ったことは一度もなかった。

この世界へ来たばかりの頃は何を言っているのか全く分からなかった村人たちの会話も、今ではほとんど理解できる。

発音はまだ少しぎこちないらしく、ときどき笑われることはあるが、それも今では笑い話だった。

「モーリ!」

畑の向こうからサーシが駆けてくる。

もう七歳になった彼女は、以前よりもずっと活発になっていた。

「また遊ぼ!」

「今日は仕事が終わったらな。」

「約束だからね!」

そう言って笑顔で走り去っていく。

『すっかり人気者ですなぁ。』

アークが尻尾を揺らした。

「お前もだろ。」

『わいは撫でられてるだけですわ。』

そう言いながら、村の子どもたちに囲まれて腹を見せているのだから説得力がない。

ラッスとも、今では言葉少なに意思疎通ができるようになっていた。

朝になれば自然と仕事を分担し、昼には水を飲みながら他愛もない話をする。

彼は相変わらず口数は少ない。

それでも、困ったときには必ず手を貸してくれる男だった。

夕方になると、レーラインが声を掛けてくる。

「モーリ。」

「今日もですか?」

「もちろんだ。」

仕事が終われば、村外れの広場が稽古場になる。

最初の頃は木剣を振るだけで息が上がっていた。

レーラインの一撃を受け止めることなど到底できなかった。

何度も尻もちをつき、

何度も木剣を弾き飛ばされ、

そのたびに笑われた。

「もっと腰を落とせ。」

「踏み込みが浅い。」

「相手を見るな。肩を見ろ。」

二年間。

毎日のように木剣を振り続けた。

「……よし。」

カンッ!

乾いた音が響く。

レーラインの木剣を受け流し、そのまま喉元へ切っ先を突き付ける。

「参った。」

レーラインは苦笑しながら木剣を下ろした。

「もう村じゃ、お前に勝てる奴はいないな。」

「まだまだですよ。」

「謙遜するな。」

そう言って笑うレーラインの表情は、どこか嬉しそうだった。

『主、強なりましたなぁ。』

「毎日しごかれたからね。」

それでも念動力だけは一度も使っていない。

いや、使わなかった。

あの日以来、一度も。

あの力が何なのか分からない以上、人前で使う気にはなれなかった。

それに、あんな力を見られれば、村人たちが俺を見る目はきっと変わってしまう。

だから俺は、普通の村人として強くなろうと決めていた。

ある日の夕暮れ。

レーラインが村の見張り台から戻ってきた。

その表情は珍しく険しい。

「モーリ。」

「どうしました?」

「森の様子がおかしい。」

「何かあったんですか?」

「狩人たちの話じゃ、コボルトの縄張りが村へ近付いてきている。」

俺も眉をひそめる。

コボルトは群れで行動する魔獣だ。

普段なら森の奥で暮らし、人里へ降りてくることはほとんどない。

「餌が減ったんでしょうか。」

「分からん。」

レーラインは腕を組んだ。

「それだけじゃない。鹿も猪も、森の外へ逃げ始めている。」

「逃げる?」

「森の奥に、もっと厄介な何かがいる。」

その言葉に、背筋が冷えた。

動物は人間より危険を察知する。

森の獣たちが一斉に逃げ出すような相手など、考えたくもない。

「麦の収穫が終わったら、一度森を調べる。」

レーラインが言った。

「手を貸してくれるか。」

俺は迷わず頷く。

「もちろんです。」

その隣で、アークだけが険しい表情で森を見つめていた。

『主。』

「どうした?」

『森から、嫌ぁな気配が流れてきますわ。』

アークの尻尾は、ゆっくりと下がっていた。

麦の収穫が終わった翌朝。

まだ朝靄の残る中、俺とアーク、それにレーラインは村を出た。

三人とも軽装だった。

レーラインは使い慣れた長槍。

俺はレーラインから譲り受けた片手剣を腰に提げる。

アークはいつもどおり、少し前を歩きながら鼻を地面へ近づけて匂いを追っていた。

「森へ入ったら、俺から離れるな。」

レーラインが低い声で言う。

「コボルトくらいなら何とかなるが、群れに囲まれたら面倒だ。」

「分かってる。」

森へ一歩足を踏み入れる。

村の近くとは空気が違った。

木漏れ日は届いている。

風も吹いている。

それなのに妙に静かだった。

「……鳥がいませんね。」

レーラインも頷く。

「ああ。」

普段なら聞こえるはずの鳥の囀りが一切ない。

虫の羽音さえほとんど聞こえなかった。

まるで森全体が息を潜めているようだった。

アークが立ち止まる。

鼻先を上げ、風の匂いを嗅いでいる。

『主。』

「どうした。」

『血の匂いがします。』

レーラインも同じものに気付いたらしい。

「こっちだ。」

三人は慎重に歩を進める。

やがて、小さな空き地へ出た。

そこには鹿によく似た魔獣が倒れていた。

腹が裂かれている。

肉は半分以上食い荒らされていた。

レーラインがしゃがみ込み、傷口を見る。

「新しい。」

「昨日……いや、一昨日くらいですか。」

「そのくらいだ。」

俺も周囲を見回す。

争った跡はほとんどない。

一撃で仕留められたらしい。

「コボルトですか?」

レーラインは首を横へ振る。

「違う。」

傷口を指差す。

「噛み跡じゃない。」

深く、一直線に裂けている。

まるで大きな刃物で切られたようだった。

その時だった。

アークの耳がぴくりと動く。

『主。』

「ん?」

『変です。』

「何が?」

『コボルトの匂いはいっぱいあります。』

「じゃあ群れか?」

『ちゃいます。』

アークはゆっくり首を振る。

『全部、逃げとる。』

「逃げてる?」

『森の奥から離れるように。』

俺とレーラインは顔を見合わせた。

コボルトですら逃げる相手。

嫌な予感しかしない。

さらに奥へ進む。

今度はコボルトの死骸が見つかった。

一体。

二体。

三体。

どれも全身が潰されていた。

「これは……。」

レーラインの顔色が変わる。

「オークだ。」

「え?」

「オークが縄張りへ入ってきた。」

レーラインは周囲を見回す。

「だからコボルトが村へ近付いていたのか。」

ようやく全てが繋がった。

森の奥からオークが現れる。

縄張りを追われたコボルトが村の近くまで逃げる。

異変の正体は、それだった。

その時。

アークの身体が硬直した。

『主。』

声が震えている。

『来ます。』

レーラインも槍を構えた。

「どっちだ。」

アークは一点を見つめる。

『正面。』

その直後だった。

ドォンッ!!

何か巨大なものが木へ体当たりした。

太い幹が大きく揺れる。

続いてもう一本。

バキバキバキッ!!

木が倒れる。

鳥たちが一斉に飛び立った。

レーラインが歯を食いしばる。

「間違いない。」

地面が揺れる。

ドン。

ドン。

ドン。

足音だけで、その大きさが分かる。

木々の隙間から、灰色の巨大な腕が見えた。

次の瞬間、森を押し分けるようにして、それは姿を現した。

「……オークだ。」

木々を押し倒しながら姿を現したそれは、鬼とはまた違う威圧感を放っていた。

背丈は二メートル半ほど。

鬼ほど大きくはない。

だが、その身体は丸太を何本も束ねたように太く、灰褐色の皮膚はまるで岩肌のように硬そうだった。

口元からは猪のように湾曲した二本の牙が突き出し、小さな黄色い瞳が獲物を探すように辺りを見回している。

右手には、人間一人では持ち上げられそうもない巨大な鉈を握っていた。

刃はところどころ欠けている。

それでも一振りで人間など真っ二つになりそうな厚みがあった。

「……オーク。」

レーラインが小さく呟く。

その表情から余裕は消えていた。

「まずい。」

「そんなに強いんですか。」

「ああ。」

レーラインは槍を握り直した。

「村の近くで見る魔獣じゃない。」

オークはまだこちらに気付いていない。

鼻を鳴らしながら地面の匂いを嗅いでいる。

レーラインが声を潜めた。

「今なら奇襲できる。」

「どうします?」

「俺が足を止める。」

「モーリ、お前は横から斬れ。」

「分かりました。」

アークも静かに身を伏せる。

『主、気ぃ付けてください。』

俺は小さく頷いた。

レーラインは音もなく草むらを回り込み、オークの背後へ近付く。

さすがは村一番の狩人だ。

大柄な身体とは思えないほど足音がしない。

あと五歩。

四歩。

三歩。

レーラインが地面を蹴った。

「はあっ!」

槍が一直線に突き出される。

狙いは左膝。

人体なら間違いなく膝を砕く一撃だった。

ガギィンッ!!

しかし響いたのは金属を叩いたような音だった。

槍の穂先は皮膚を貫き切れず、数センチ食い込んだだけで止まる。

「ちっ!」

オークが唸り声を上げた。

「グオオオォォ!」

巨体が振り向く。

鉈が横薙ぎに振るわれた。

レーラインは槍を引き抜く暇もなく飛び退く。

鉈は大木を切り裂き、そのまま幹を半ばからへし折った。

「硬ぇ!」

その隙に俺は右側から踏み込む。

レーラインに教わった通り、腰を落とし、肩ではなく腰で斬る。

「はっ!」

渾身の袈裟斬り。

ガッ!

手応えはあった。

だが刃は肩へ数センチ食い込んだだけだった。

まるで厚い鎧を斬ったような感触。

「くそっ!」

オークが腕を振る。

反射的に飛び退く。

鉈は避けた。

だが太い腕が俺の胸をかすめる。

「がっ!」

息が詰まる。

身体が吹き飛び、背中から地面へ転がった。

肺から空気が一気に押し出される。

視界が白く霞んだ。

「モーリ!」

レーラインが割って入る。

槍を何度も突き出す。

喉。

脇。

膝裏。

急所ばかりを狙う。

しかしどれも浅い。

オークは鬱陶しそうに腕を振るだけで、まともな傷にならない。

「これじゃ止められん!」

レーラインが叫ぶ。

オークは二人を無視するように鼻を鳴らした。

その視線が村の方向へ向く。

一本道。

このまま進めば十分も掛からず村へ着く。

「まずい!」

レーラインの顔色が変わる。

「村へ行かれる!」

オークは俺たちへの興味を失ったように歩き始めた。

「止まれ!」

レーラインが追いすがる。

槍で何度突いても止まらない。

オークは振り返りもせず歩き続ける。

その先には、

子どもたちがいる。

サーシがいる。

ラッスがいる。

村長がいる。

二年間、一緒に暮らしてきた人たちがいる。

「レーライン。」

俺は立ち上がった。

「もう一度だけ、俺にやらせてください。」

レーラインが振り返る。

「何か策があるのか。」

俺は頷いた。

「一か八かです。」

もちろん策などない。

あるのは、あの日以来一度も使っていない力だけだった。

使えば、レーラインに見られる。

もう隠し通せないかもしれない。

それでも――。

村だけは守らなければならなかった。

レーラインは険しい表情で俺を見た。

「策があるんだな。」

「……あります。」

嘘ではない。

策というより、最後の手段だった。

「分かった。」

レーラインは短く頷く。

「俺が一瞬だけ動きを止める。その隙を逃すな。」

「お願いします。」

二人は再び駆け出した。

オークは村へ向かって歩き続けている。

その背中を追いながら、俺は腰の剣へ手を添えた。

心臓が嫌なほど速く脈打つ。

使うのか。

本当に。

あの日以来、一度も使っていない力を。

いや、まだだ。

まだ剣で届くかもしれない。

レーラインが先に飛び込んだ。

「おおおおっ!」

槍が一直線に喉を狙う。

オークは鉈で受け止める。

その瞬間だった。

レーラインは槍を手放した。

そのまま身体を捻り、肩から体当たりを叩き込む。

巨体がわずかによろめく。

「今だ!」

俺は全力で踏み込んだ。

レーラインから二年間叩き込まれた動き。

左足。

右足。

腰を切る。

肩の力を抜く。

剣筋だけを信じる。

「はああっ!」

渾身の袈裟斬り。

ギィィン!!

火花が散った。

刃は肩口へ食い込む。

だが、そこで止まった。

また浅い。

骨まで届かない。

「くっ!」

オークが腕を振る。

咄嗟に飛び退く。

鉈が地面を叩き割った。

土砂が降り注ぐ。

「駄目だ!」

レーラインが叫ぶ。

「普通の剣じゃ斬れん!」

普通。

その言葉が頭の中で反響した。

普通じゃ、守れない。

オークは再び村へ向かく。

その背中が少しずつ遠ざかる。

サーシ。

ラッス。

村長。

子どもたち。

二年間で出会った笑顔が脳裏をよぎる。

守りたい。

その想いだけが胸いっぱいに広がる。

「……ごめん。」

誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。

俺は静かに剣を構える。

目を閉じる。

腹の底へ意識を落とす。

あの日と同じ場所。

身体の奥底で眠っていた何かへ、そっと触れる。

熱い。

確かにそこにある。

まるで小さな太陽が腹の中で燃えているようだった。

その熱へ、ゆっくり手を伸ばす。

次の瞬間。

全身を凄まじい力が駆け抜けた。

熱は腕へ流れ込み、握った剣へと吸い込まれていく。

刀身が微かに震えた。

風が止む。

森が静まり返る。

「モーリ……?」

レーラインが息を呑む。

俺は答えなかった。

答えられなかった。

今は、目の前の敵しか見えていない。

一歩。

踏み込む。

二歩。

地面を蹴る。

世界がゆっくりになった。

オークが振り向く。

鉈を持ち上げる。

その動きさえ、ひどく遅く見える。

「終わりだ。」

剣を振る。

それだけだった。

特別な構えでもない。

レーラインから何千回も教わった、ごく基本の袈裟斬り。

ただ一つ違ったのは――剣とともに、目には見えない巨大な力が振り抜かれたことだった。

ズッ――。

空気そのものが裂けるような音が響く。

オークは一歩踏み出したまま止まった。

「……グォ?」

胸元へ一本の赤い線が浮かぶ。

次の瞬間、その線が一気に開いた。

巨体が肩口から腰まで斜めに断たれ、上下二つにずれ落ちる。

大量の血が噴き上がり、地面を真っ赤に染めた。

轟音とともに、二つになった巨体が倒れ込む。

森が再び静寂に包まれた。

俺は剣を下ろした。

同時に、全身から力が抜ける。

膝が折れ、その場へ崩れ落ちた。

息が苦しい。

腕が鉛のように重い。

「はぁ……はぁ……。」

これが、代償なのか。

荒い呼吸を繰り返していると、ゆっくりと近付く足音が聞こえた。

レーラインだった。

倒れたオーク。

真っ二つになった死骸。

俺の剣。

その全てを何度も見比べている。

やがて口を開いた。

「……モーリ。」

「はい。」

「今の剣は……俺が教えた剣じゃないな。」

俺は苦笑した。

「途中までは、教わった剣でしたよ。」

レーラインは数秒黙ったあと、大きく笑った。

「違いねぇ。」

そう言って俺の肩を力強く叩いた。

「理由は聞かん。」

「……ありがとうございます。」

「誰だって、一つや二つ、人には言えねぇ切り札はある。」

その一言に、胸が少しだけ軽くなった。

レーラインはオークの死骸を見下ろえながら笑う。

「それより問題は、これを村へ運ぶ方法だ。」

「それ、二人で運べます?」

「無理だな。」

『主。』

アークが嬉しそうに尻尾を振る。

『村のみんな、腰抜かしますで。』

「さて。」

レーラインは頭をかきながら、真っ二つになったオークを見下ろした。

「どうやって運ぶかだな。」

「半分ずつなら何とかなるかもしれません。」

「そうだな。」

二人はオークの両脚へ縄を巻き付けた。

引いてみる。

ずるっ。

ほんの少し動いただけだった。

「重っ!」

「これは一人じゃ無理ですね。」

レーラインは苦笑する。

「村まで戻って応援を呼ぶしかねぇな。」


それから一時間後。

村の男たち十人ほどが荷車を引いて森へやって来た。

先頭にいたラッスは、倒れたオークを見るなり目を見開く。

「……!」

村人たちの間にもざわめきが広がった。

「本当にオークだ……。」

「こんな場所まで来ていたのか。」

「信じられねぇ……。」

レーラインは照れくさそうに鼻をかいた。

「危なかった。」

そして俺の肩を叩く。

「こいつがいなけりゃ、村まで突破されてた。」

一斉に視線が集まる。

俺は困って頭を掻いた。

「レーラインが動きを止めてくれたおかげです。」

「ははっ。」

レーラインは笑う。

「謙遜しやがる。」

「最後に仕留めたのはお前だ。」

村人たちは何度もオークと俺を見比べていた。

驚き。

尊敬。

そして安堵。

そのすべてが入り混じった表情だった。


オークは解体され、村まで運ばれた。

普段は解体場として使われている広場へ置かれると、子どもたちまで集まってくる。

「大きい!」

「これがオーク?」

「怖い……。」

サーシは俺の服をぎゅっと掴んだ。

「モーリ兄ちゃんが倒したの?」

「レーラインと一緒にな。」

そう答えると、サーシは満面の笑みを浮かべた。

「すごい!」

その言葉に、周囲からも拍手が起こる。

照れ臭くて仕方がなかった。


その夜。

村では珍しく酒樽が開けられた。

「オーク討伐だ!」

「乾杯!」

普段は硬い黒パンと野菜の煮込みだけの食卓も、今日は肉料理が並ぶ。

オークではない。

狩人たちが仕留めてきた鹿肉だった。

広場では子どもたちが走り回り、大人たちは酒を酌み交わして笑っている。

アークは村人たちから肉を次々ともらい、完全に人気者だった。

『もう食べられませんわ。』

そう言いながら、差し出された肉は全部食べていた。

「お前な。」

思わず笑う。

その様子を見ていた村長が、ゆっくり俺の隣へ腰を下ろした。

「モーリ。」

「はい。」

「お前はこの村を救った。」

村長は静かに酒を飲む。

「もう、お前は客人ではない。」

俺は黙って村長を見る。

「この開拓村の家族だ。」

その一言が、胸に深く染み込んだ。

異世界へ来て二年。

初めて、この世界で居場所を得た気がした。



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