騎士
先頭を走る壮年の騎士が馬を止めた。
銀で縁取られた胸甲。
白い外套。
胸には三つの貝の紋章が刻まれている。
「先頭にいるのは、コーレム伯だ」
レオンが小声で教えてくれた。
「コーレム伯?」
モーリは聞き返した。
「ああ。辺境伯閣下の重臣だ」
「伯爵位を持ち、辺境伯軍でも指折りの将軍として知られている。若い頃から数々の戦で武功を挙げ、一度も敗走したことがないという」
モーリは思わず口笛を吹きそうになった。
「かなりの大物なんだな」
「大物どころではない」
レオンは苦笑する。
「辺境伯閣下が最も信頼する将の一人だ。辺境伯軍の主力を率いることも多い。この援軍も、あの方が総指揮だろう」
そう言った直後だった。壮年の騎士が馬を止める。
鋭い眼光が戦場を見渡した。
「コーレム伯爵である」
低く、よく通る声だった。
その視線が浅瀬の戦場をゆっくりと巡る。
倒れた兵。
積み重なる死体。
血に染まった川。
そして、百七十人足らずでなお踏み止まったサトゥルドス家の兵たち。
コーレム伯は静かに息を吐いた。
「……よくぞ守り抜いた。」
レオンは一歩前へ出る。
「援軍に感謝します。敵別働隊は崩壊しました。ですが橋の本隊はまだ健在です」
コーレム伯は頷いた。
「伝令から報告は受けている。敵別働隊を発見したのは貴殿だな。」
「はい」
「そして三刻、この浅瀬を守り抜いた」
「はい」
コーレム伯はしばらく黙っていた。
やがてもう一度戦場を見渡す。
敵兵の退却方向。
浅瀬の位置。
倒れた兵の数。
すべてを確認し終えると馬から降りる。
側近が手綱を受け取った。
コーレム伯はレオンの前まで歩み寄る。
「子爵殿」
「はい」
「これは貴殿の戦場だ」
レオンが僅かに目を見開く。
「……私に、ですか」
周囲の兵たちも息を呑んだ。
その言葉の意味を理解したからだ。
本来なら、この場の総指揮はコーレム伯が執る。
伯爵であるコーレム伯は、子爵であるレオンより遥かに身分が高い。
率いてきた兵も九百余。
兵力でも。
爵位でも。
戦歴でも。
すべてコーレム伯が上だった。
誰もが、援軍の到着と同時に指揮権はコーレム伯へ移るものと思っていた。
レオン自身もそう考えていた。
コーレム伯は静かに頷く。
「当然だ」
「この戦場を最初から見ていたのは貴殿だ。敵別働隊を見抜いたのもこの浅瀬を守り抜いたのも、三刻、この地で戦い続けたのも貴殿だ。私は援軍を率いて来ただけに過ぎん。今ここで私が指揮を奪えば、兵は命令には従うだろう。だが、それではこの戦場を誰より理解している者の判断を捨てることになる。」
馬上から真っ直ぐレオンを見据える。
「私はそんな愚は犯さん。」
一拍置き。
力強く言った。
「子爵殿。作戦を聞こう。」
レオンは深く息を吸った。
周囲を見回す。
サトゥルドス家の兵。
援軍。
そして敵本隊が待ち構える橋。
やがて静かに頷くと、剣先で川岸の土へ図を描いた。
「敵本隊は橋しか見ていません。別働隊が我々を突破したと思っています。こちらが逆に浅瀬を渡ったことは、まだ知りません」
コーレム伯は腕を組み、黙って聞いている。
「今なら敵の側面は完全に無防備です」
レオンは剣先を橋の方角へ滑らせた。
「コーレム伯には騎兵を率いて、このまま川下へ進軍していただきます。同時に本陣へ伝令を送り、橋から総攻撃を開始してもらいます。敵は正面と側面から挟撃されます。橋へ向いた陣形では側面への対応は間に合いません。一度崩れれば、本隊全体が混乱します」
説明が終わると、コーレム伯は何も言わず図を見つめた。
やがて静かに頷く。
「異論はない」
ゆっくりと剣を抜く。
陽光を受けて刃が輝いた。
「聞け!」
援軍の兵士たちが一斉に振り向く。
「これより本戦場の指揮は、サトゥルドス子爵レオンに委ねる!」
兵士たちがどよめく。
しかしコーレム伯は構わず続けた。
「全軍!」
「サトゥルドス子爵の命令を我が命令と思え!」
「勝利は目前だ!」
「応ッ!!」
何百もの怒号が森を震わせた。
コーレム伯は剣を収め、レオンへ穏やかな笑みを向ける。
「子爵殿。私は兵を率いよう。貴殿は、この戦いを率いよ」
レオンは力強く頷いた。
「必ず勝ちます」
コーレム伯は静かに笑う。
「勝ち筋を見つけたのは貴殿だ。勝ち筋を見つけた者が将である。私は、その将に兵を預ける」
その言葉に、援軍の兵たちもサトゥルドス家の兵たちも背筋を伸ばした。
レオンは深く一礼し、剣を掲げる。
「全軍、進軍!」
その号令とともに、千を超える兵が一斉に動き始めた。
「応ッ!!」
千を超える兵が一斉に動き出した。
川岸を駆ける騎兵。
槍を構える歩兵。
旗手たちが軍旗を掲げ、森を抜けて進んでいく。
モーリもアークとともにその後を走った。
「急ぐぞ!」
レオンは馬腹を蹴る。
コーレム伯もすぐ隣へ馬を寄せた。
「伝令!」
「はっ!」
一騎の騎兵が駆け寄る。
「辺境伯閣下へ伝えよ。敵の別働隊は撃破。我らは敵左翼へ回り込む。橋の軍へ総攻撃を命じていただきたい」
「はっ!」
伝令は馬首を返し、砂煙を巻き上げながら駆け去った。
レオンは地形を見渡す。
「このまま林を抜ければ敵の左翼だ。敵はまだこちらに気付いていない」
コーレム伯は満足そうに頷いた。
「別働隊が壊滅したとは夢にも思うまい」
「はい」
レオンは短く答える。
「敵は橋の本隊へ全ての意識を向けています。」
「ならば」
コーレム伯は剣の柄へ手を置く。
「我らは影となろう」
軍勢は木々の間を進む。
数百の兵が動いているとは思えないほど静かだった。
先頭の斥候が手を上げる。
「敵です!」
レオンは馬を止めた。
林の切れ目。
その向こうに敵本隊が見える。
橋へ向けて幾重にも並ぶ槍兵。
後方には弓兵。
中央には公爵の大旗。
そのすべてが橋の方だけを向いていた。
誰一人として左翼を警戒していない。
レオンは静かに笑う。
「やはりだ」
コーレム伯も敵陣を見つめる。
「見事に無防備だな」
「別働隊がこちらを突破したと思い込んでいます。その慢心が命取りになります。」
その時だった。
遠く橋の方角から角笛が鳴り響く。
ボオォォォ──ッ!
続いて何本もの角笛が重なる。
敵陣がざわめいた。
「橋だ!」
「敵が動いたぞ!」
橋の正面では、辺境伯本隊がついに総攻撃を開始したのだ。
兵たちの視線が一斉に橋へ向く。
左翼はなお無人に近い。
レオンはゆっくりと剣を抜いた。
陽光を浴びた刃が鈍く輝く。
「全軍」
静かな声だった。
それでも千を超える兵が一斉に息を呑む。
「敵左翼へ突撃する。目標は敵本陣。橋の軍と挟撃し、一気に勝負を決める。」
剣を敵陣へ向ける。
「進め!鬨の声を上げよ!」
「おおおおおおおっ!」
森を揺るがす雄叫びが響いた。
その瞬間、敵軍の左翼にいた兵が振り返る。
「な……!」
「ば、馬鹿な!」
「なぜ後ろから敵が!」
顔から血の気が引いていく。
「左翼!」
「左翼だ!」
「敵襲! 敵襲!」
混乱が一気に広がる。
橋へ向いていた槍兵が慌てて隊列を変えようとする。
しかし遅い。
「突撃!」
コーレム伯が剣を振り下ろした。
重騎兵が一斉に駆ける。轟音のような蹄が地面を震わせた。
敵左翼へ鋼鉄の楔が突き刺さる。
槍が砕ける。
盾が吹き飛ぶ。
兵が次々と跳ね飛ばされる。
同時に橋の方角からも歓声が響いた。
辺境伯本隊が敵前衛を押し崩し始めていた。
敵軍は完全に挟み撃ちとなった。
レオンは敵本陣の大旗を見据える。
「あの旗を倒せ!あそこが崩れれば終わる!」
その一言で、サトゥルドス家の兵たちは一直線に敵本陣へ向かって駆け出した。
その左右をコーレム伯率いる騎兵が駆け抜け、敵の隊列をさらに引き裂いていく。
「押し返せ!」
「隊列を組め!」
敵将たちは必死に叫ぶ。
しかし、もう遅かった。
正面では辺境伯本隊が橋を渡り切っている。
中央では百騎のペガサス騎士団が敵陣を縦横無尽に駆け回る。
左翼ではコーレム伯。
そのさらに奥からレオン。
三方向からの攻撃に、敵軍は完全に統制を失っていた。
「伝令!」
敵将の一人が叫ぶ。
「右翼を中央へ!」
「左翼は何をしている!」
返ってきた伝令は顔面蒼白だった。
「り、両翼とも崩壊しております!」
「何だと!」
「左翼は辺境伯軍に突破され、右翼は橋から渡河した敵に押されております!中央にはペガサス騎士団が……!」
その報告を聞いた将軍たちは顔を見合わせた。
誰もが理解した。
包囲されている。
「総大将へ知らせろ!」
「本陣を守れ!」
「近衛隊を前へ!」
敵本陣の周囲へ重装歩兵が集まり始める。
そこへ、空から影が差した。
「上だ!」
一人の兵が叫ぶ。
次の瞬間、十数騎のペガサスが敵本陣へ急降下した。
「散れ!」
隊長の号令とともに騎士たちが槍を突き出す。
槍が旗手を貫く。
軍旗が倒れた。
「た、大旗が!」
「旗を守れ!」
敵兵が群がる。
しかし、ペガサスは軽やかに舞い上がり、その頭上を飛び越える。
続く第二陣が舞い降りる。
「うわあああ!」
敵兵が吹き飛ばされる。
本陣は完全に混乱へ陥った。
レオンはその光景を見逃さなかった。
「あそこだ。」
剣を敵本陣へ向ける。
「本陣が乱れた!今が好機だ!全軍、本陣へ突撃!」
「応ッ!」
兵たちが一斉に加速する。
コーレム伯も笑みを浮かべた。
「見事だ。ペガサス騎士団が敵の目を奪った。今なら本陣まで一直線だ。」
レオンは頷く。
「敵はもう命令を伝えられません。軍旗も倒れました。ここからは各部隊が勝手に戦うだけです。」
まさに軍の死だった。
将の命令は届かず。
旗は倒れ。
伝令は討たれ。
誰も戦場全体を把握できない。
一方、辺境伯軍は違う。
橋から進撃する本隊。
左翼を突破したコーレム伯軍。
空から敵を翻弄するペガサス騎士団。
すべてが一つの意思で動いている。
その中心にいるのは、レオンだった。
敵本陣まで残り二百歩。
百五十歩。
百歩。
敵近衛兵が最後の壁として立ちはだかる。
全身を鋼で覆った重装兵が槍を構え、一歩も退かずに待ち受ける。
レオンは剣を構え直した。
「突破する。」
その一言に、サトゥルドス家の兵たちが雄叫びを上げる。
決戦が、始まった。
「槍を構えろ!」
敵近衛隊長が怒鳴る。
重装歩兵たちが一斉に長槍を前へ突き出した。
何重にも重なる槍衾。
騎兵の突撃を止めるための、最後の防壁だった。
レオンは馬を止めない。敵陣だけを見据えて叫ぶ。
「止まるな!」
「突破しろ!」
「おおおおおっ!」
サトゥルドス家の兵が槍を構えたまま駆ける。
次の瞬間。
両軍が激突した。
槍が折れる。
盾が砕ける。
金属音と悲鳴が入り混じり、敵本陣の前は一瞬で乱戦となった。
「押し返せ!」
「本陣へ近付けるな!」
近衛兵は精鋭だった。
一歩も退かず、何人倒れても次の兵が前へ出る。
その時だった上空から影が落ちる。
「ペガサスだ!」
十数騎のペガサス騎士団が再び急降下した。
「道を開けよ!」
隊長の号令とともに、騎士たちが敵近衛隊の後方へ飛び込む。
槍を構えていた近衛兵たちは前後から挟まれた。
「後ろだ!」
「空から!」
陣形が崩れる。
その一瞬をレオンは見逃さなかった。
「今だ!突き破れ!」
サトゥルドス家の兵が一斉に押し込む。
コーレム伯も剣を振り上げた。
「騎兵隊、続け!」
重騎兵が横合いから敵陣へ突っ込む。
槍衾は完全に砕け散った。
「敵本陣まで五十歩!」
伝令が叫ぶ。
レオンは敵本陣中央に翻る黒い軍旗を見つめる。
その下には黄金の鎧をまとった一人の男。
豪奢な兜。
深紅の外套。
周囲を近衛騎士に囲まれている。
「あれがマインセ公爵か」
コーレム伯も頷く。
「間違いない」
「旗を守れ!」
マインセ公が怒鳴る。
近衛騎士が壁となって立ちはだかる。
レオンは剣を構え直した。
「私が行く」
「道を開けろ!」
「応ッ!」
サトゥルドス家の兵たちが左右へ散り、一本の道を作る。
「私が捕らえる」
静かな声だった。
レオンは馬腹を蹴る。
愛馬が一直線に敵本陣へ駆ける。
「止めろ!」
近衛隊長が剣を振り上げた。
十数人の近衛騎士が一斉に前へ躍り出る。厚い盾が並び、長槍がレオンへ向けられた。
「近付けるな!」
「公爵閣下をお守りしろ!」
その瞬間だった。
モーリは右手を前へ突き出す。
手のひらへ魔力が集まる。
次の瞬間、爆発するような暴風が敵近衛へ叩きつけられた。
ドォォォンッ!!
突風は一直線に駆け抜ける。
「ぐわぁぁっ!」
「何だこれは!」
盾ごと兵士が吹き飛ぶ。
槍が宙を舞い、馬がいななく。
十数人いた近衛騎士は木の葉のように弾き飛ばされ、地面へ転がった。
敵本陣の前に大きな空間が生まれる。
レオンはその一瞬を逃さなかった。
「今だ!」
愛馬が最後の距離を駆け抜ける。
マインセ公は目を見開いた。
「なっ……!」
腰の剣を抜こうとする。
しかし間に合わない。
レオンは馬上から剣を振り下げ、鋭い切っ先がマインセ公の喉元で止まった。
「動くな」
低い声だった。
「次に動けば、この剣は止まらん」
周囲の近衛騎士が剣を構える。
だが、その一歩が踏み出せない。
切っ先はわずかでも動けば公爵の喉を貫く位置にあった。
マインセ公はゆっくりとレオンを見上げた。
やがて小さく息を吐く。
「……見事だ」
腰の剣を静かに外し、地面へ落とした。
金属音が戦場に響く。
それは敗北を認める音だった。
レオンは剣を下ろさない。
「マインセ公。貴殿を捕虜とする」
その言葉を聞いた瞬間、周囲の敵兵たちから動揺が広がる。
「公爵閣下が……」
「捕まった……」
「総大将が捕虜になったぞ!」
誰かの叫びが戦場中へ広がっていく。
その声は伝染するように敵軍全体へ伝わり、なお戦っていた兵たちの剣が次々と止まっていった。
五日後。
辺境伯領の領都エルフェルト。
高い城壁に囲まれた城下町は、勝利の知らせで沸き返っていた。
「辺境伯軍が勝った!」
「マインセ公爵を捕らえたそうだ!」
「レオン様が敵別働隊を撃破したらしい!」
「橋の戦いを勝利へ導いた英雄だ!」
町中でそんな話が飛び交う。
城門をくぐると、沿道には大勢の領民が詰めかけていた。
「レオン様!」
「英雄万歳!」
「辺境伯軍万歳!」
歓声が城下へ響く。
先頭を進むコーレム伯は、後ろを振り返って笑った。
「子爵殿。領民というものは正直だ」
レオンは少し照れくさそうに笑うだけだった。
やがて一行は辺境伯の居城へ到着する。
巨大な謁見の間。
赤い絨毯の両脇には諸侯が並び、中央奥の玉座には辺境伯が座っていた。
白髪交じりの髪。
鋭い眼光。
その姿には長年国境を守り続けてきた歴戦の将としての威厳があった。
コーレム伯が進み出る。
「閣下。敵軍を撃退し、敵総大将マインセ公爵を捕虜といたしました。」
謁見の間がざわめく。
「本当に捕らえたのか。」
「公爵を生け捕りとは……。」
辺境伯は静かに頷いた。
「報告は受けている。」
その視線がレオンへ向く。
「サトゥルドス子爵嫡男レオン。」
レオンは片膝をついた。
「はっ。」
「面を上げよ。」
辺境伯は静かに立ち上がる。
「敵別働隊を見抜き、百七十の兵で三刻守り抜き、さらには敵総大将を生け捕った。これほどの武勲、余は久しく見ておらぬ。」
その声が謁見の間に響く。
「よってサトゥルドス子爵レオンに恩賞を与える。」
侍従が一通の羊皮紙を差し出す。
「国境西部、クオンニ村と周辺六村を、そなたへ与える。」
どよめきが広がる。
村一つなら珍しくない。
しかし七つもの村を含む領地となれば、一介の武勲への褒賞としては破格だった。
「以後、その地を治め辺境を守れ。」
レオンは深く頭を下げる。
「身に余る光栄にございます。」
辺境伯は満足そうに頷いた。
「そなたは今日より辺境を支える柱の一人だ。」
「その武と知略、これからも余のために振るってもらう。」
さらに侍従が銀盆を運んできた。
そこには一振りの美しい剣と、青い外套が載せられている。
辺境伯は自ら外套を手に取った。
その胸には銀糸で縫われた一頭の獅子。
辺境伯直属騎士団ザレーン騎士団の紋章だった。
「本日をもって、そなたを我がザレーン騎士団の騎士に叙任する。」
居並ぶ諸侯からどよめきが起こる。
「ザレーン騎士団だと……。」
「まだ二十代だぞ。」
「異例にも程がある。」
辺境伯は青い外套をレオンの肩へ掛けた。
銀糸で縫われた獅子が、謁見の間に差し込む陽光を受けて輝く。
続いて、侍従が捧げ持っていた剣を手に取った。
辺境伯はそれを鞘から抜き、レオンの右肩へ軽く当てる。
次に左肩。
最後に、頭上へ掲げた。
「サトゥルドス家嫡男レオン」
「そなたをザレーン騎士団の騎士として迎える」
「その剣をもって弱き者を守り、その知略をもって辺境の敵を退けよ」
レオンは片膝をついたまま、深く頭を下げた。
「この剣と名誉に懸け、必ずや務めを果たします」
辺境伯は満足そうに頷き、剣をレオンへ差し出す。
「受け取れ」
「はっ」
レオンは両手で剣を受け取った。
それを見届けると、謁見の間に集まった諸侯たちが一斉に胸へ拳を当てる。
「ザレーン騎士団の新たなる騎士に敬意を!」
コーレム伯の声だった。
続いて、居並ぶ騎士や貴族たちも声を重ねる。
「敬意を!」
低く力強い声が、石造りの広間を震わせた。
恩賞の授与から二日後。
レオンたちは辺境伯領の領都エルフェルトを発ち、サトゥルドス子爵領への帰路についた。
来た時と同じ道だったが、行軍する兵たちの姿は大きく変わっていた。
出征した時には百七十人いた。
今、故郷へ向かって歩いている者は、それよりも遥かに少ない。
馬上のレオンは、何度も後ろを振り返った。
包帯を巻いた兵。
片腕を吊った兵。
仲間の遺品を抱える兵。
空になった馬を曳く従者。
勝利した軍とは思えないほど、その列は静かだった。
誰もが勝利を喜んでいる。
それでも、帰れなかった者たちの姿を忘れることはできなかった。
モーリもアークと並んで歩きながら、兵たちの背中を眺めていた。
『勝ったのに、あんまり嬉しそうやないな』
アークの声が頭の中へ響く。
「仕方ないよ。仲間が大勢死んだ」
『人間の戦争いうんは、勝ってもこんなんなんやな』
モーリは答えなかった。
街道の先に、サトゥルドス子爵領の境界を示す石碑が見えてきた。
その周囲には、大勢の領民が集まっていた。
兵士たちの家族だった。
父親の帰りを待つ子供。
夫を探す妻。
息子の名を何度も呼ぶ老夫婦。
軍勢が近づくにつれ、人々の間から声が上がり始める。
「帰ってきたぞ!」
「兵たちが帰ってきた!」
「レオン様だ!」
一人の少年が列の中へ飛び込んだ。
「父ちゃん!」
腕に包帯を巻いた兵士が目を見開く。
「お前……!」
少年は兵士の腰へしがみついた。
遅れて駆け寄ってきた女も、夫の胸へ飛び込む。
「よかった……本当によかった……」
「心配をかけたな」
兵士は残った腕で妻と子を抱き締めた。
別の場所では、若い女が軍列の中から夫を見つけ、泣きながらその名を呼んだ。
兵士は足を引きずりながら列を離れ、妻のもとへ歩いていく。
二人は言葉もなく抱き合った。
喜びの声が、あちこちから上がる。
だが、すべての家族が再会できたわけではなかった。
軍列の最後まで息子の姿を探していた老婆がいた。
何度も背伸びをし、帰還兵たちの顔を一人ずつ確かめている。
やがて、一人の兵士が老婆の前へ歩み出た。
その手には、折れた剣と血に染まった首飾りが握られていた。
老婆の表情が凍りつく。
「これは……」
兵士は何も言えなかった。
ただ、膝をついて遺品を差し出す。
老婆は震える手で首飾りを受け取った。
しばらくそれを見つめていたが、やがてその場に泣き崩れた。
「どうして……」
「どうして、あの子が……」
兵士は頭を下げたまま動かなかった。
近くでは、夫の帰還を待っていた女性が、幼い娘を抱き締めながら声を殺して泣いていた。
娘は何が起きたのか理解できず、母親の服を握っている。
「お父さんは?」
その問いに答えられる者はいなかった。
勝利を祝う歓声と、死者を悼む泣き声。
二つの声が、同じ場所で入り混じっていた。
レオンは馬から降りた。
青い外套を外し、側近へ預ける。
そして泣き崩れた老婆の前まで歩いていくと、静かに膝をついた。
「あなたの御子息は、最後まで勇敢に戦われました」
老婆は顔を上げる。
涙で赤く腫れた目がレオンを見つめた。
「本当でございますか……」
「ああ」
レオンは迷わず頷いた。
「彼が持ち場を守ってくれたからこそ、我々は敵を食い止めることができました」
「彼らが命を懸けてくれなければ、私はここへ帰ることもできなかった」
レオンは周囲を見回した。
帰還した兵士たち。
傷を負った者。
家族との再会を喜ぶ者。
そして、帰る者を失った家族たち。
「この勝利は、私一人のものではない。彼らが勝ち取ったものだ」
レオンは立ち上がる。
その声を、周囲の兵士や領民たちへ届かせるように言った。
「戦った者には、報酬として一人につき半ダカットを支給する」
兵士たちがざわめいた。
半ダカット。
一般の兵士に支払われる褒賞としては、明らかに相場より高い額だった。
「戦で命を落とした者の家族には、一ダカットを支給する」
ざわめきがさらに大きくなる。
「一ダカットだと……」
「そんな大金を?」
「本当なのか……」
レオンは続けた。
「重傷を負い、今後兵として働けなくなった者にも同額を支給する」
「加えて、戦死者の家族が望むならば、子爵家の管理する農地を優先して貸し与える」
「幼い子供がいる家には、成人するまで毎年穀物を支給する」
周囲が静まり返った。
兵士一人の死に対し、一度金を渡して終わり。
それが普通だった。
ましてや、農地や継続的な食料の支給まで約束されることなど滅多にない。
レオンの側近が慌てて近づいてきた。
「レオン様。その額では、今回の恩賞の多くが失われます」
レオンは側近へ顔を向けた。
「構わない」
「しかし、新領地の整備にも金が必要です」
「分かっている」
レオンはもう一度、帰還兵と遺族たちを見た。
「それでも彼らへ支払うべきだ」
「彼らがいなければ、新しい領地も、ザレーン騎士団の称号もなかった」
「彼らのおかげだ。必ず補償しよう」
その声を聞いた一人の老兵が、目元を拭った。
「ありがてえ……」
隣にいた兵も深く頭を下げる。
「ありがとうございます、レオン様」
やがて、声は次々と広がっていった。
「ありがとうございます!」
「レオン様!」
「サトゥルドス家万歳!」
泣いていた老婆も、首飾りを胸へ抱きながら深く頭を下げた。
「息子も……きっと喜びます」
レオンは何も言わず、静かに頭を下げ返した。
その日の夕刻。
一行はサトゥルドス子爵邸へ到着した。
屋敷の門は大きく開かれていた。
使用人たちが左右へ並び、その中央にはサトゥルドス子爵が立っている。
普段は人前で感情を見せない男だった。
しかし、レオンの姿を見つけた瞬間、その厳しい顔が崩れた。
「レオン!」
「父上!」
レオンは馬から降りた。
次の瞬間、サトゥルドス子爵は息子へ歩み寄り、両肩を強く掴んだ。
頭から足先まで、傷がないか確かめるように見つめる。
「無事か」
「はい」
「本当に、無事なのだな」
「ご心配をおかけしました」
レオンが頭を下げようとした瞬間、父親の腕がその身体を抱き締めた。
「よく戻った」
掠れた声だった。
レオンは一瞬驚いたように目を見開いた。
やがて、自らも父の背へ腕を回す。
「ただいま戻りました、父上」
使用人たちはその光景を見守っていた。
涙を拭う侍女もいる。
サトゥルドス子爵はしばらく息子を抱き締めた後、ようやく身体を離した。
そこで初めて、レオンの肩に掛けられた青い外套に気付く。
銀糸で縫われた獅子。
ザレーン騎士団の紋章。
「これは……」
「辺境伯閣下より、ザレーン騎士団の騎士に任じていただきました」
「さらに、七村を賜りました」
サトゥルドス子爵は言葉を失った。
何度も外套と息子の顔を見比べる。
「ザレーン騎士団……」
「そして七つの村だと……」
「はい」
次の瞬間、父親は堪えきれないように笑った。
「そうか」
「そうか……!」
息子の肩を何度も叩く。
「よくやった!」
「お前は我が家の誇りだ!」
屋敷の前で歓声が上がった。
使用人たちも兵士たちも、惜しみなく拍手を送る。
少し離れたところで見守っていたモーリは、思わず頬を緩めた。
足元では、アークが大きなあくびをしている。
『長かったなあ』
「そうだな」
『ほな、今日はご馳走やろか』
(お前はそればっかりだな)
『命懸けで戦ったんや。肉の三枚や四枚では足らんで』
モーリが呆れたようにアークを見る。
その視線に気付いたのか、レオンが二人のもとへ歩いてきた。
「モーリ」
「お疲れ、英雄様」
「それはやめてくれ」
レオンは苦笑した。
「街へ入ってから、何度そう呼ばれたか分からない」
「その外套、似合ってるぞ」
モーリが青い外套を指さす。
レオンは肩に掛けられた獅子の紋章へ目を落とした。
「まだ自分のものだという実感がない」
「そのうち嫌でも湧いてくるだろ」
「そうかもしれないな」
レオンは一度言葉を切った。
「モーリ」
その表情が真剣なものへ変わる。
「今回の勝利は君のおかげでもある。敵の別働隊を最初に見つけたのも、敵近衛を吹き飛ばしてマインセ公を捕らえる道を開いたのも君だ」
「俺だけじゃない。アークもいた」
『そうやそうや。もっと言うたれ』
モーリにしか聞こえない声で、アークが得意げに胸を張る。
「もちろんアークもだ」
レオンはアークの頭を撫でた。
アークは満足そうに尻尾を振る。
「しばらくの間、この屋敷に滞在してくれないか」
レオンは少し申し訳なさそうに笑った。
「戦から戻ったばかりで、今は屋敷も慌ただしい。大したもてなしはできないが」
モーリは目を瞬いた。
「いいのか?」
「当然だ」
レオンは迷いなく答える。
「君は命の恩人であり、共に戦った戦友だ」
「父上も歓迎する」
「それじゃあ、しばらく世話になろうかな」
「そうしてくれ」
レオンは安堵したように笑った。
「部屋はすぐに用意させる。」
モーリはふと思い出した。
「そうだ、レオン」
「何だ?」
「魔法の実験がしたいんだが、どこかいい場所を知らないか?」
レオンの笑みが僅かに固まった。
「魔法の実験?」
「ああ。戦場で使った風の魔法も、まだ加減がよく分からない」
モーリは自分の右手を見つめる。
「あれがどの程度まで強くできるのか試したい。それに、炎の魔法も練習したいんだ」
レオンは屋敷の方へ視線を向けた。
木造の厩舎。
干し草を積んだ倉。
使用人たちの住居。
そして多くの人間が行き交う中庭。
その頭には、戦場で十数人の近衛騎士がまとめて吹き飛ばされた光景が浮かんでいるようだった。
「屋敷では絶対にやらないでくれ」
即答だった。
「俺もそのつもりだよ」
「君の言う実験が、普通の魔術師の実験と同じとは思えない」
レオンはしばらく考え込む。
やがて何かを思い出したように顔を上げた。
「屋敷から馬で半刻ほど行った場所に、使われなくなった採石場がある」
「採石場?」
「ああ。周囲を岩壁に囲まれていて、近くに村や畑もない」
「今では石を切り出す者もいないから、人が近づくこともほとんどない」
モーリの表情が明るくなる。
「そこなら炎を使っても大丈夫そうだな」
「岩を溶かすほどでなければな」
レオンは念を押すように言った。
「溶かすつもりはないよ」
『今のところは、やろ』
アークの呟きを無視し、モーリは頷く。
「案内してもらえるか?」
「今日はもう遅い。明日の朝、俺が案内する」
「いいのか? 帰ってきたばかりで忙しいだろ」
「君たちだけで行かせる方が不安だ」
レオンは真顔で答えた。
「場所を間違えて、森の中で大爆発でも起こされたら困る」
「そんなことはしない」
モーリはそう答えたが、レオンはどこか疑わしそうな目を向けている。
足元では、アークがモーリを見上げていた。
『主。こいつ、わいらのこと全然信用してへんで。見る目のある男や』
「とにかく、実験は明日だ」
レオンは屋敷の入口へ向かって歩き出した。
「今日は風呂に入って、食事をして、ゆっくり休んでくれ」




