祝宴
帰還したその夜。
子爵邸では戦勝を祝う宴が開かれた。
普段は来客を迎えるための大広間は、今夜ばかりは兵士たちにも開放されている。
長い樫の食卓が幾列にも並び、その上には料理が所狭しと並べられていた。
焼きたての香ばしいパン。
湯気を立てる野菜の煮込み。
香草で丁寧に焼き上げられた鶏肉。
胡椒と香辛料を惜しみなくまぶした羊肉。
丸ごと炙られた猪。
果物を山盛りにした籠。
甘い焼き菓子。
樽から惜しげもなく注がれる葡萄酒と麦酒。
戦の前には見られなかった豪勢な食卓だった。
「勝利に!」
サトゥルドス子爵が杯を高く掲げる。
「勝利に!」
兵士も騎士も使用人も、一斉に杯を掲げた。
広間いっぱいに歓声が響く。
乾杯の音が何度も重なり、普段は静かな屋敷が笑い声で満たされた。
レオンもようやく肩の力を抜いていた。
鎧を脱ぎ、騎士団の青い外套も椅子へ掛けている。
まだ二十代の青年らしい柔らかな笑みだった。
モーリも果実水の入った杯を掲げ、小さく乾杯する。
その隣では、アークが目の前の皿へ一直線だった。
『うまい!』
『主! この肉めっちゃうまいで!』
焼き立ての羊肉へ豪快に噛みつく。
一枚食べ終える頃には、もう次の肉を狙っている。
「ゆっくり食え」
『そんなことしてたら無くなるやろ!』
『戦争終わったんや! 今日くらい腹いっぱい食わな損や!』
料理人が苦笑しながら新しい皿を運んできた。
「アーク殿、おかわりです」
『ええ人や……』
アークは感動したように尻尾をぶんぶん振る。
皿を置こうとした料理人の手を鼻でつつき、お礼を言うように頭を下げた。
「ははは」
「本当に礼をしているぞ」
「犬が礼儀を知っているなんて」
使用人たちから笑い声が起こる。
もちろん彼らには念話は聞こえない。ただ、人間顔負けの表情を見せるアークが可笑しくて仕方がなかった。
モーリも思わず笑う。
「食い過ぎるなよ」
『今日は別腹や。』
「犬にも別腹なんてあるのか」
『ある。肉専用や。』
モーリは呆れたように肩を竦めた。
少し離れた席では、兵士たちが武勇伝を語り合っていた。
「あの時、お前が槍を投げてくれなかったら死んでた」
「違う違う、お前が先に助けてくれたんだ」
「結局、二人とも生きて帰れたじゃねえか」
酒を飲み交わしながら笑う者。
失った仲間の名を口にし、静かに杯を捧げる者。
喜びと寂しさが入り混じる、不思議な宴だった。
食事が一段落した頃。
モーリはレオンへ声を掛けた。
「明日は朝から採石場か?」
「ああ」
レオンは頷く。
「馬で三十分ほどだ」
「誰も近付かない場所だから、思う存分試せる」
モーリはどこか楽しそうに笑った。
「ようやく本格的に魔法を試せるな」
「戦場では使うだけで精一杯だったから。俺が思っていることが本当にできるのか確かめたい」
レオンは興味深そうに身を乗り出す。
「例えば?」
モーリは指を折りながら数え始めた。
「炎をもっと圧縮できるか」
「風で威力を上げられるか」
「魔法同士を組み合わせられるか」
「剣へ魔法を纏わせられるか」
「まだまだ試したいことが山ほどある」
アークも肉を咥えたまま何度も頷く。
『わいも強うなりたいしな』
『風だけやのうて、もっと色々できる気ぃする』
「俺もそんな気がする」
レオンは杯を置いた。
「君を見ていると、普通の魔術師とは全く違うな」
「普通の魔術師は魔法を覚えるだけだ。師から教わった術を磨き、一生を終える。だが君たちは違う。誰も教えていない魔法を、自分たちで考え、試し、作り出そうとしている。魔法を研究しているように見える」
モーリは少し照れくさそうに笑った。
「誰かが作らなきゃ、新しいものは生まれない」
レオンは静かに頷く。
「面白い考え方だ」
アークが口を挟む。
『つまり、主は変人や。』
「そこまで言ってない」
『だいたい合うとる。』
モーリは苦笑しながら肉を一切れ口へ運んだ。
宴は夜更けまで続いた。
兵士たちは酒を飲み交わし、生還を喜び合う。
失った仲間を思い出して涙ぐむ者もいた。
それでも、この日だけは誰もが生きて帰れたことを祝い、明日への希望を語っていた。
そして翌朝。まだ朝靄が残る頃。
モーリとアーク、それにレオンの三人は子爵邸を出発した。
目指すは、人里離れた古い採石場だった。
高い岩壁に囲まれたその場所は、かつて石材を切り出していた跡地である。
今では誰も近付かず、鳥の鳴き声だけが響いていた。
「ここなら好きに試せる」
レオンが周囲を見回す。
「多少壊れても誰も困らない」
「助かる」
モーリは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、まずは一つ目だ」
右手へ小さな炎を灯す。
以前よりも遥かに安定している。
炎は拳ほどまで圧縮され、赤ではなく白に近い色へ変わっていく。
「火力を一点へ集中させる」
「そこへアーク、お前の風を細く一直線に流してくれ」
『了解や。』
アークが前脚を踏み出す。
風が一本の線となって炎を包み込んだ。
炎は消えない。
逆に細く細く引き延ばされる。
白い光。
まるで一本の光線だった。
「行け!」
ズガァァァァッ!!
白い閃光が岩壁へ突き刺さる。
一瞬だけ眩く光り、次の瞬間には岩が真っ赤に溶け始めた。
ジュウウウウウ……
岩肌が飴のように溶け落ちていく。
一直線に深い穴が穿たれ、その周囲は真っ赤に焼けていた。
レオンは言葉を失う。
「…………」
しばらく口を開いたまま固まっていた。
ようやく絞り出した声は震えていた。
「岩が……溶けた……」
モーリは頷く。
「これなら再生する魔物にも効く。肉体を切るだけじゃない。焼き切れば再生する前に倒せるかもしれない」
レオンは思わず岩壁へ近寄った。
指先で触れようとして、あまりの熱さに慌てて手を引っ込める。
「まだ熱い……。恐ろしい威力だ」
モーリは腕を組む。
「でも、一発撃つだけで魔力をかなり使う。実戦で連発は無理だな」
「なら切り札か」
「ああ」
それから一か月。
三人は毎日のように採石場へ通った。
風と炎を何度も組み合わせる。
失敗して爆発。
成功して岩壁を吹き飛ばす。
雨の日も。
風の日も。
来る日も来る日も研究は続いた。
やがてアークが巨大な風を前方へ撃ち出し、その流れへモーリが炎を流し込む技が完成する。
轟音とともに前方一帯を飲み込む巨大な火炎放射。
木々なら一瞬。
重装歩兵の隊列ですら飲み込めるほどの業火だった。
さらに研究は進む。
アークが巨大な竜巻を生み出す。
そこへモーリが炎を投げ込む。
炎は竜巻へ吸い込まれ、燃え盛る火柱へ変わった。
火炎竜巻。
内部へ取り込まれた敵は逃げ場を失い、長時間にわたって灼熱の炎へ焼かれ続ける。
その光景を見たレオンは完全に言葉を失った。
「……これは。軍団一つを壊滅させかねない」
研究はまだ終わらない。
モーリは剣を抜く。
「最後はこれだ」
アークが剣へ薄く風を纏わせる。
刃が低く唸り始めた。
モーリは試しに岩へ振り下ろす。
スパン。
まるで木を切るように岩が真っ二つへ割れた。
「切れ味が倍どころじゃない。岩まで……」
さらにモーリは念動力を重ねる。
目には見えない力が剣を押し出す。
振り下ろした瞬間。
ドォォン!!
衝撃波が一直線に走り、十メートル先の岩壁までまとめて切り裂いた。
轟音とともに巨大な岩盤が崩れ落ちる。
採石場全体が揺れた。
レオンは額へ手を当てた。
「……君たちは、一体どこまで強くなるつもりなんだ」
モーリは苦笑する。
「まだ始まったばかりだ」
一か月に及ぶ研究の末。
モーリとアークは、誰も見たことのない新たな魔法と連携技を次々と生み出していった。
そしてある朝。
モーリは荷物をまとめ、子爵邸の中庭へ立っていた。
空はよく晴れていた。
朝露に濡れた石畳が淡い光を反射し、厩舎の方から馬の鼻を鳴らす音が聞こえてくる。
旅に必要な荷物は、すでに馬の背へ括り付けてあった。
毛布。
水袋。
干し肉。
着替え。
薬。
レオンから譲られた地図。
荷物は用途ごとに分けられ、防水布で包まれている。
左右の重量も揃えられ、革紐は長い旅でも緩まないよう幾重にも締められていた。
その足元では、アークが荷物の周囲を落ち着きなく歩き回っている。
『肉、ちゃんと入っとるか?』
「入ってる」
『燻製のやつも?』
「入ってるよ」
『途中で主が食うたらあかんで。あれはわいの非常食や』
「半分は俺のだ」
『けちやなあ』
アークが不満そうに鼻を鳴らした時、屋敷の扉が開いた。
レオンが一人で中庭へ出てくる。
簡素な上着に剣だけを帯びた姿だった。
「もう準備は終わったのか」
「ああ」
モーリは荷物を載せた馬を軽く叩いた。
「いつでも出られる」
「そうか」
レオンは短く答えた。
その視線が馬の背へ向かう。
綺麗にまとめられた荷物。
隙間なく締められた革紐。
すぐに取り出せる位置へ置かれた薬袋。
雨が降っても濡れないよう包まれた地図。
一目見ただけで、旅慣れた者の支度だと分かる。
レオンもそれを理解していた。
それでも、すぐには何も言わなかった。
「食料は足りているか?」
「十分だよ」
「水袋は?」
「二つある。途中で補給できない区間も考えてる」
「薬は?」
「止血薬、解毒薬、魔力回復薬。全部入れた」
「地図は?」
「防水布で包んである」
レオンが次々と尋ねるたび、モーリは淀みなく答えた。
最後には少し可笑しくなり、笑みが零れる。
「お前、全部分かってて聞いてるだろ」
レオンの目が僅かに揺れた。
「確認しているだけだ」
「俺が黒霧の森の深層まで行ったこと、忘れてないよな」
「忘れていない」
「なら、旅支度くらい任せてくれてもいいだろ」
「それと心配することは別だ」
レオンはそう答えた後、僅かに視線を逸らした。
モーリは少し首を傾げる。
アークは二人を交互に見上げていた。
『なんや、出発してほしくないみたいやな』
「心配性なんだろ」
『ふうん』
アークは何か言いたげにレオンを見つめたが、それ以上は口を挟まなかった。
朝の風が中庭を抜ける。
二人の間に短い沈黙が落ちた。
「本当に行くんだな」
レオンが言った。
「ああ」
モーリは頷く。
「黒霧の森の深層で見つけた魔法陣。あれを動かすには、雷、光、闇、空間、それに属性の分からない魔石が必要だ」
「まずは雷の魔石を探す」
「ブラフンド公爵領か」
「あそこなら、雷の魔石が手に入る可能性が一番高いらしいからな」
レオンは眉を寄せた。
「雷鳴山脈には危険な魔物が多い」
「分かってる」
「マインセ公爵領の近くも通る」
「南から迂回するよ」
「山賊も増えている」
「それも聞いた」
モーリは腰の剣を軽く叩いた。
「黒霧の森より危険な道じゃないだろ」
レオンは返す言葉を失った。
サイクロプス。
グリフォン。
ケンタウロスの群れ。
人がほとんど帰還しない深層。
そこを歩いて戻ってきたモーリへ、街道の危険を説くのは少し滑稽だった。
「君が旅慣れていることは分かっている」
レオンは静かに言った。
「強いことも、危険を見抜けることも」
「なら大丈夫だ」
「ああ」
レオンは頷いた。
だが、表情から不安は消えなかった。
「それでも心配はする」
モーリは一瞬だけ目を瞬いた。
レオン自身も、口にしてから少し驚いたようだった。
すぐに言葉を重ねる。
「戦友が危険な場所へ向かうんだ。当然だろう」
「そうだな」
モーリは深く考えずに笑った。
「無理はしないよ」
「ああ」
「知らない魔物にも、いきなり近づかない」
「ああ」
「魔法陣は……」
「むやみに触れるな」
レオンが先回りして言う。
モーリは苦笑した。
「それは約束できないな」
「モーリ」
レオンの声が少しだけ強くなる。
「冗談だよ」
「君の冗談は冗談に聞こえない」
「できるだけ慎重にする」
「できるだけでは困る」
レオンはなおも何か言おうとした。
だが、ふとモーリと目が合うと、その言葉を飲み込んだ。
代わりに、静かに息を吐く。
「……必ず戻ってこい」
低い声だった。
命令のようにも聞こえた。
だが、その奥には隠しきれない願いが滲んでいた。
モーリは少しだけ目を瞬く。
「戻るよ」
いつもの調子で答える。
「魔石を見つけたら、またここに寄る」
「新しい魔法も見せてやる」
レオンはすぐには返事をしなかった。
やがて、ほんの僅かに口元を緩める。
「採石場以外で頼む」
「まだ気にしてるのか」
「半分溶かされたんだ。忘れられるものか」
『芸術的な出来やったのにな』
アークが不満そうに呟く。
モーリが視線を戻すより先に、レオンは顔を背ける。
「そろそろ出た方がいい」
「ああ」
モーリは馬の手綱を取った。
一歩進んだところで、レオンが呼び止める。
「モーリ」
振り返ると、レオンが右手を差し出していた。
「また会おう」
「ああ」
モーリも手を差し出す。
二人の手が固く重なった。
戦場で何度も交わした、戦友同士の握手。
ただ、その日はいつもより少し長かった。
レオンの手には、僅かに力が込められている。
モーリが不思議そうに見つめると、レオンはようやく手を離した。
「気をつけて」
「お前もな」
モーリは前を向いた。
アークもその隣へ並ぶ。
二人が門へ向かって歩き出す。
石畳を叩く馬の蹄の音が、少しずつ遠ざかっていった。
レオンはその場から動かなかった。
モーリが一度振り返る。
レオンはまだ中庭に立っていた。
「またな!」
モーリが手を上げる。
レオンも片手を上げて応えた。
門を抜け、その姿が見えなくなってからも、しばらく同じ場所に立ち続けていた。
背後から近づいてきた侍従が声を掛ける。
「レオン様。朝食のご用意ができております」
「ああ」
レオンは答えた。
それでも、すぐには屋敷へ戻ろうとしない。
視線は閉じられた門へ向いたままだった。
やがて自分でもそのことに気付いたのか、僅かに眉を寄せる。
「……旅の無事を願うのは、戦友として当然のことだ」
誰に言うでもなく呟く。
侍従は何も答えなかった。
ただ、レオンの横顔を一度見た後、静かに頭を下げた。
レオンはようやく門へ背を向ける。
だが、屋敷へ戻るその足取りは、普段より僅かに重かった。
雷、光、闇、空間。
そして、属性の判別できない魔石。
黒霧の森の深層で見つけた古代魔法陣を起動させるには、その五つが必要だった。
だが、どれも市場で簡単に買えるような代物ではない。
一般に流通している魔石の多くは、炎や水、風、土といった基本属性のものだ。
それらでさえ小さな欠片が高値で取引され、魔道具師や貴族が競って買い求める。
まして、雷や光、闇の属性を持つ魔石となれば、目にすることすら稀だという。
空間属性に至っては、レオンですら実物を見たことがなかった。
属性不明の魔石については、どこで手に入るのか以前に、どのようなものなのかさえ分からない。
五つすべてを揃えるには、どれほどの時間がかかるのか。
モーリにも見当はつかなかった。
それでも、最初の手掛かりは得ていた。
ブラフンド公爵領。
マインセ公爵領のさらに西。
険しい山々と深い渓谷に囲まれたその土地では、数年前から雷を纏う魔物がたびたび目撃されているという。
雷角鹿。
雷牙狼。
そして、雷雲の中を飛ぶ巨大な鳥。
そうした魔物の体内からは、稀に雷属性の魔石が得られる。
中でもブラフンド公爵領北部に連なる雷鳴山脈では、空が晴れている日でさえ雷鳴が絶えず響き、周辺の魔物は強い雷の力を宿すといわれていた。
確かな保証があるわけではない。
それでも、他の属性よりは手に入る可能性が高い。
最初の目的地としては十分だった。
サトゥルドス子爵領からブラフンド公爵領までは、まっすぐ進んでも徒歩でおよそ一か月。
その途中には、先日の戦で敵となったマインセ公爵領が横たわっている。
公爵本人は捕虜となった。
だが、領地にはまだ公爵家の騎士や兵士が残されている。
モーリが戦場で敵近衛を吹き飛ばし、マインセ公爵を捕らえる手助けをしたことが知られれば、歓迎されるとは思えなかった。
そのため、マインセ公爵領を直接通る道は避けることになった。
一度南へ下り、国境沿いの丘陵地帯を大きく迂回する。
そこから西へ向かい、マインセ公爵領の南端を越えた後、再び北上してブラフンド公爵領へ入る。
距離はさらに伸びる。
それでも、敵地を正面から横断するよりは遥かに安全だった。
旅の最初の数日は、穏やかなものだった。
サトゥルドス子爵領の南部には、緩やかな丘と麦畑が広がっている。
収穫前の麦が風に揺れるたび、金色の波が遠くまで走っていった。
街道沿いには小さな村が点在し、畑で働く農民たちがモーリの姿を見つけて手を上げる。
レオンとともに帰還した姿を見た者もいたらしく、宿へ入ると声を掛けられることもあった。
「あんた、レオン様と一緒に帰ってきた人じゃないか?」
「橋の戦いにいたっていう」
「風の魔法で騎士を吹き飛ばした旅人だろう?」
噂というものは、モーリが思っていた以上に速く広がるらしい。
そのたびにモーリは曖昧に笑い、余計なことを話さずにその場を離れた。
四日目。
サトゥルドス子爵領を出た二人は、南へ続く丘陵地帯へ入った。
そこから先は、それまでとは景色が一変した。
緑色の丘の間を、真っ白な岩の柱が何本も突き抜けている。
細いものでも城の塔ほどの太さがあり、高いものは雲の近くまで伸びていた。
「何だ、あれ」
モーリは思わず足を止めた。
岩柱の上部は大きく広がり、巨大な茸のような形をしている。
その縁からは何本もの滝が落ちていた。
水は地面へ届く前に霧へ変わり、陽光を受けて虹を作っている。
さらに岩柱の周囲には、巨大な翼を持つ魚のような生物が群れをなして飛んでいた。
銀色の鱗が光を反射し、空を泳ぐたびに尾びれがゆっくりと揺れる。
『魚、飛んどるで。』
「ああ」
『あれ、食えるんやろか。』
「最初に考えることがそれかよ」
『魚見たら普通そう思うやろ。』
「空を飛ぶ魚は普通じゃない」
二人が見上げていると、近くを通りかかった荷馬車の御者が笑った。
「空鰭魚を見るのは初めてかい?」
「あれは魚なんですか?」
「名前には魚と付いてるが、詳しいことは学者にしか分からん」
御者は手綱を操りながら答える。
「雨が近いと地上近くまで下りてくる」
「捕まえて塩焼きにすると、なかなかうまいぞ」
その瞬間。
アークの耳が立った。
『主。』
「分かってる」
『今夜や。』
「まだ捕まえてないだろ」
『風で落とせるで。』
「やめろ」
モーリは慌ててアークの首輪を掴んだ。
空鰭魚は獲物として認識されていることに気付くこともなく、悠々と空を泳いでいった。
その日の夕方。
二人は街道沿いにある小さな宿場町へ入った。
町の中心には露店が並び、旅人や商人で賑わっている。
見たことのない食材がいくつも並んでいた。
紫色の殻を持つ大きな卵。
切ると青い汁が出る果物。
自らゆっくりと動く茸。
串に刺され、香ばしく焼かれている空鰭魚。
『あれや!』
アークが一直線に魚の屋台へ向かう。
「待て!」
モーリは慌てて追いかけた。
屋台の店主は、目の前で尻尾を振るアークを見て笑った。
「ずいぶん魚が好きな犬だな」
「肉なら何でも好きなんです」
「これも食わせてやるか?」
店主が焼き上がった魚を一本持ち上げる。
空鰭魚は腕ほどの大きさだった。
翼に見えた部分は薄く広がったひれで、焼かれると端がぱりぱりに縮んでいる。
表面には岩塩と、黄色い香草を砕いたものが振り掛けられていた。
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「二本ください」
モーリが銅貨を差し出す。
『三本や。』
「二本で十分」
『主も食べるんやろ。わいの分が一本しかないやん。』
「犬が一人前を要求するな」
店主は二人のやり取りが分からず、首を傾げながら魚を差し出した。
モーリは一本をアークへ渡し、自分の分へ齧りつく。
表面は香ばしく焼けている。
中の身は驚くほど柔らかく、噛むと脂が溢れた。
味は白身魚に近い。
だが、後からほのかな甘みが広がる。
「うまいな」
『せやろ!』
アークはすでに半分以上食べ終えていた。
『空飛んどるだけあって、普通の魚より軽い味や。』
「適当なこと言うな」
『主、こっちのひれ食べへんのか?』
「食べるよ」
『残したら、わいが責任持って処理するで。』
「絶対に残さない」
二人は露店を見て回った。
青い汁の果物は、見た目に反して酸味が強く、口へ入れると舌の上で小さく弾けた。
紫色の卵は茹でると中身が三層に分かれ、外側は甘く、中心に近づくほど塩辛くなる。
動く茸は鉄板の上に置かれると逃げ出そうとしたため、店主が木べらで押さえながら焼いていた。
『あれ生きとるんちゃうんか。』
「茸らしいぞ」
『食うの、ちょっと可哀想やな。』
「さっき魚を一瞬で食べた奴が言うな」
そう言いながらも注文した茸は、鶏肉のような歯応えだった。
噛むたびに香草のような香りが広がり、アークは結局二皿食べた。
旅は長い。
危険も多い。
それでも、見たことのない景色や食べ物に出会うたび、モーリはこの世界へ来た当初に抱いていた恐怖とは別の感情を覚えるようになっていた。
この世界を、もっと見てみたい。
黒霧の森で目覚めた時には、そんなことを考える余裕などなかった。
だが今は違う。
次に何が待っているのか。
少しだけ楽しみになっていた。
宿場町を出てから三日後。
二人は街道を外れ、川沿いの細い道を西へ進んでいた。
周囲には人家がない。
右手には濁った川。
左手には背の高い木々が並ぶ。
時折、木々の間から小動物の気配がした。
だが昼を過ぎた頃。
アークが突然足を止めた。
耳を立てる。
鼻をひくつかせ、前方の林を見つめた。
『主』
その声から、先ほどまでの陽気さが消えていた。
「どうした?」
『人がおる』
モーリは手綱を握り直した。
「旅人か?」
『ちゃう』
アークは低く唸る。
『隠れとる。こっちを襲う気や』
モーリは周囲を見回した。
一見すると、何も変わったところはない。
細い道。
川。
木々。
だが注意深く見ると、前方の地面に不自然な縄が張られている。
草や土で隠されているが、馬の脚を引っ掛けるためのものだ。
「山賊か」
『十人以上おるで。前に八。後ろに五』
アークは相手の思考を読み取っている。
『金を奪う。馬も奪う。抵抗したら殺す。そんなこと考えとる。』
モーリは静かに息を吐いた。
「戻る道も塞がれてるか」
『もう後ろに出てきよる』
その直後。
背後の茂みから、粗末な革鎧を身に着けた男たちが姿を現した。
錆びた剣。
斧。
弓。
顔を布で隠している者もいる。
前方の林からも次々と男たちが出てきた。
全部で十三人。
モーリとアークは道の中央で完全に挟まれていた。
「止まれ!」
前方にいた髭面の男が叫ぶ。
おそらく頭目なのだろう。
他の者よりも体格が大きく、両手で幅広の剣を構えている。
「馬と荷物を置いていけ」
「金も全部だ」
「素直に従えば、命だけは助けてやる」
『嘘や』
アークが即座に言った。
『全部奪った後で殺す気や』
モーリは馬の手綱を離した。
怯えた馬が逃げないよう、近くの木へゆっくりと繋ぐ。
その動きを見た山賊たちが笑った。
「賢いじゃねえか」
「そうだ。それでいい」
「妙な真似はするなよ」
モーリは返事をせず、腰の剣を抜いた。
山賊たちの笑みが消える。
「何のつもりだ?」
「死にたいのか?」
「一人で俺たち全員を相手にできると思ってんのか!」
男たちが武器を構える。
前後から少しずつ距離を詰めてくる。
モーリは剣を両手で握った。
採石場で一か月にわたって繰り返した感覚を思い出す。
風を生み出す。
だが、放つのではない。
剣の刃へ集める。
薄く。
鋭く。
回転する風を、刃の表面に沿わせる。
キィィィィン。
金属が震えるような高い音が響いた。
剣の周囲で空気が歪む。
山賊たちが足を止めた。
「何だ、あれは」
「魔法剣士か?」
「構うな!」
頭目が怒鳴る。
「一斉にかかれ!」
前後から山賊たちが走り出した。
剣を振り上げる者。
槍を突き出す者。
弓の弦を引く者。
モーリは腰を落とした。
敵は前方に八人。
ほぼ横一列に並んでいる。
後方には五人。
まず前。
次に後ろ。
それだけだった。
モーリは剣を横薙ぎに振るった。
刃は、誰の身体にも届いていない。
それでも、風を纏った斬撃は剣先から離れ、白い線となって前方へ走った。
ヒュン。
あまりにも軽い音だった。
山賊たちの足が止まる。
最初は、何が起きたのか誰にも理解できなかった。
前列にいた男の首筋へ、細い赤い線が浮かぶ。
隣の男にも。
その隣にも。
一直線に並んでいた八人すべての首へ、同じ高さの傷が現れた。
一拍遅れて、血が噴き出した。
八つの首が同時に胴体から離れた。
剣を構えたままの身体が、次々と道へ崩れ落ちる。
首は土の上を転がり、驚愕した表情のまま止まった。
後方から迫っていた五人が凍りつく。
「な……」
一人が掠れた声を漏らした。
「何を……した……」
モーリは身体を反転させる。
風を纏った剣が、低い音を立てている。
山賊たちの顔から血の気が引いた。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
男たちは武器を捨て、背を向ける。
だが、モーリはすでに剣を振り抜いていた。
二度目の白い斬撃が、地面と平行に走る。
五人の身体を通り過ぎる。
山賊たちは数歩だけ走った。
そして、一斉に首を失った。
身体が前のめりに倒れ、頭だけが勢いのまま地面を転がっていく。
静寂が戻った。
木々の葉が風に揺れる。
川の流れる音だけが聞こえていた。
モーリはゆっくりと剣を下ろす。
剣そのものには血が一滴も付いていない。
刃が直接触れることなく、風だけで切り裂いたからだ。
『……主』
アークが地面から顔を上げる。
『一振りで全員いうて、ほんまにやる奴がおるか』
「前にいたのが八人で、後ろに五人」
「二振りだ」
『そういう問題ちゃう』
モーリは剣から風を消し、鞘へ収めた。
「行こう」
『埋めへんのか?』
「十三人も埋める道具はない」
モーリは周囲を見回す。
「近くの町で役人に知らせる。山賊の仲間がいる可能性もある」
『せやな』
二人は山賊たちの荷物を調べた。
奪ったと思われる銀貨。
旅人のものらしい指輪。
商人の印が入った革袋。
そして、何人もの名前が書かれた通行証。
彼らがこれまで一度や二度ではなく、何度も旅人を襲ってきたことは明らかだった。
モーリは証拠になりそうな品だけを布袋へ入れた。
山賊の金には手を付けなかった。
手綱を解き、馬を道へ戻す。
出発しようとしたところで、アークが切り落とされた首を振り返った。
『風の剣、強すぎへんか?』
「俺もそう思う」
『採石場では岩一個ずつ切っとったやん』
「実戦だと横に並んでくれるからな」
『次から加減した方がええで』
「できるように練習する」
『切った後で言うても遅いけどな』
二人は再び西へ歩き始めた。
背後には十三人の山賊と、赤く染まった街道が残された。
目指すブラフンド公爵領までは、まだ遠い。
その先には雷鳴山脈。
雷を纏う魔物。
そして、古代魔法陣を起動させるための最初の魔石が待っている。
モーリとアークの新たな旅は、まだ始まったばかりだった。




