表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/27

渡河

伝令は馬から転げ落ちるように降りると焚き火の近くに立っていた辺境伯の前へ駆け寄り、片膝をついた。

「申し上げます!」

息を整える余裕すらない。

「北西の街道に、公爵軍の先鋒を確認!」

「マインセ公爵本軍!」

「総勢、およそ二万!」

中庭が静まり返った。

火の爆ぜる音だけが聞こえる。

つい先ほどまでの歓声が嘘のように消えた。

二万。

俺たちの倍近い兵力。

しかもこちらは十日を超える包囲戦と今日の総攻撃を終えたばかりだ。

対する公爵軍は今から戦うためにやって来る。

「距離は」

辺境伯が尋ねた。

声に動揺はなかったが酒杯を持つ手は、すでに下ろされている。

「一日の行程です!」

「早ければ、明日の昼には到着します!」

諸侯たちが互いに顔を見合わせた。

宴を続ける者は、もういなかった。

辺境伯は側近へ命じる。

「諸将を集めろ。直ちに軍議を開く」

「はっ!」

伝令役の兵が走り出す。

その時、辺境伯の視線が中庭の一角へ向いた。

俺たちの方だ。

正確には俺へ向けられていた。

辺境伯は周囲の家臣へ短く何かを尋ねた。

家臣の一人が、俺を指差す。

次いでレオンへ視線を向けた。

「モーリ」

レオンが低い声で呼んだ。

「立てるか」

「何とか」

「辺境伯閣下がお呼びだ」

俺は自分を指差した。

「俺を?」

「ああ」

「城門を破った者が誰なのかようやく正確な報告が届いたらしい」

俺はアークと顔を見合わせた。

『主だけ呼ばれとりますな』

「お前はここにいろ」

『また置いていくんですか』

「すぐそこだ」

『肉食べながら見ときます』

俺は立ち上がった。

まだ脚に力が入り切らない。

レオンに付き添われ、辺境伯の前へ向かう。

近付くと周囲にいた騎士や諸侯が道を空けた。

視線が集まる。

門を破った魔術師。

すでに噂は広がっているらしい。

誰もアークの魔力が混じっていたとは知らない。

辺境伯の前へ着くとレオンが片膝をついた。

俺もそれに倣う。

「顔を上げよ」

辺境伯が言った。

俺は顔を上げる。

オニギエ辺境伯は五十歳前後の男だった。

黒髪には白いものが混じり鋭い目が俺を見下ろしている。

鎧の上には銀の鷹が刺繍された黒い外套をまとっていた。

「名は」

「モーリです」

「家名は」

「ありません」

辺境伯の眉がわずかに動いた。

「平民か」

「はい」

「サトゥルドス子爵家の兵か」

答える前にレオンが口を開く。

「我が従士として、この戦へ同行しております」

完全な嘘ではない。

今回の出征中は俺はレオンの従士として扱われている。

だがそれは永遠に仕えるという意味ではない。

俺には各地を巡る必要がある。

古代遺跡を訪れこの世界へ来た理由と俺やアークの力に関する手がかりを探さなければならない。

一つの領地へ留まるつもりはなかった。

辺境伯は俺の顔をしばらく見つめた。

「貴様が、正門を破ったのだな」

「はい」

俺は答えた。

アークのことは言わない。

アークが魔力を持つことを知られればどのように扱われるか分からない。

珍しい魔獣として捕らえようとする者が現れるかもしれない。

教会に調べられる可能性もある。

秘密にしておくべきだった。

「何の魔法だ」

「風の魔法です」

「誰に習った」

「学院です」

辺境伯は疑うように目を細めた。

だが今は詳しく問い詰める時ではない。

公爵軍が迫っている。

「貴様が門を破らなければ我が軍は撤退を余儀なくされていた。城壁の前には、さらに多くの死体が積み上がっていただろう」

「はい」

「功には報いねばならぬ」

周囲の家臣たちが頷く。

「望みを申せ」

辺境伯の言葉に俺は少し迷った。

金。土地。官職。普通ならそうしたものを望むのだろう。

だが金貨はすでに十分持っている。

一生遊んで暮らせるほどではないとしても旅を続けるには困らない。

領地を貰えば管理しなければならない。

土地へ縛られる。

官職も同じだ。

辺境伯やレオンへ仕えるつもりもない。

俺には旅がある。

古代遺跡を回るという目的がある。

必要なのは持ち運べるもの。

旅の邪魔にならずこれから先遺跡や魔物のいる場所で役立つもの。

俺は腰の剣へ触れた。

城内の戦いで使った鉄剣。

刃には幾つもの傷が付き先端もわずかに欠けている。

普通の鋼ではこの先に現れる魔物へ通用しないかもしれない。

「剣を」

俺は言った。

辺境伯が聞き返す。

「剣?」

「ミスリルの剣を一振り」

周囲がざわめいた。

金貨や土地を求めると思っていたのだろう。

ある騎士が眉をひそめる。

「ミスリルの剣が、どれほどの価値か分かっているのか」

俺はその男を見る。

「分かっているつもりです」

本当の市場価格までは知らないが希少であることは聞いている。

鋼より軽く、鋼よりも強く魔力を通しやすい。

魔法を使う俺には普通の剣より遥かに相性がいい。

辺境伯が片手を上げた。

周囲のざわめきが止まる。

「理由は」

「俺は旅を続けます」

辺境伯の目が細くなる。

「旅?」

「各地の古代遺跡を訪れる必要があります」

「なぜだ」

「探しているものがあるからです」

それ以上は言わなかった。

俺が異世界から来たこともアークと念話できることも話すつもりはない。

辺境伯はレオンへ目を向けた。

「この者は、子爵家へ仕えているのではないのか」

レオンは一瞬だけ俺を見た。俺の意思を確認するような視線だった。

それから辺境伯へ答える。

「今回の出征中は、私の従士として同行しております。しかし戦後も我が家へ仕えるとの約束は交わしておりません」

辺境伯は再び俺を見る。

「仕官を望まぬか」

「はい」

周囲の空気が少し変わった。

辺境伯から直々に声をかけられそれを断る。

無礼だと思う者もいるだろう。

だが辺境伯は怒らなかった。

むしろ興味深そうに俺を見た。

「土地も金も官位も要らぬ」

「はい」

「望むのは剣一振りか」

「はい」

しばらく沈黙が続いた。

焚き火の向こうではアークが肉を咥えたまま、こちらを見ている。

『ええ剣にしてくださいや』

頭の中へ声が届いた。

聞こえる距離に限界はないのだろうか。

俺は表情へ出さないよう耐えた。

辺境伯は側近へ顔を向ける。

「城の宝物庫を確認した者は」

一人の家臣が前へ出た。

「はい」

「上ロール伯爵家の宝物庫に、ミスリル製の武器はあるか」

「長剣が一振りございます」

家臣は答えた。

「先々代の上ロール伯が、北方のドワーフ商人より購入した品かと」

「状態は」

「良好です」

「儀礼用ではなく、実戦向けの剣でございます」

辺境伯は頷いた。

「持ってこい」

「閣下」

家臣がわずかに躊躇する。

「よろしいのでしょうか」

「この者が門を破ったことで、我らはこの城と宝物庫を得た」

辺境伯の声は冷静だった。

「その中から剣一振りを与えることに、何の異論がある」

「ございません」

家臣は頭を下げ、数人の兵を連れて主塔へ向かった。

その背中を見送った後、辺境伯は再び俺へ目を向けた。

「先ほど、旅を続けると言ったな」

「はい」

「ならば、この剣を受け取ったことで、我が家へ仕える義務が生じるとは思わなくてよい」

俺は僅かに目を見開いた。

「これはあくまで、城門を破った功績に対する褒章だ。臣従の対価ではない」

どうやら辺境伯は、俺が仕官を求められることを警戒していると察していたらしい。

「ありがとうございます」

「ただし」

辺境伯の声が少しだけ厳しくなる。

「この戦が終わるまでは、貴様も我が軍に属する者として扱う」

「はい」

「マインセ公爵軍が迫っている。明日にも戦闘となれば、他の兵と同じく命令に従ってもらう」

「承知しています」

今回の戦が終わるまでは、俺も立ち去るつもりはなかった。

サトゥルドス家の兵と共にここまで来た。

ロール城を攻め、多くの兵が俺の目の前で傷つき、命を落とした。

褒章だけを受け取り、公爵軍が迫る中で彼らを残して逃げることなどできなかった。

レオンと共に城を攻めた。

今さら褒章だけ受け取って立ち去るつもりはなかった。

やがて主塔から二人の兵士が戻ってきた。

その手には細長い木箱が抱えられている。

辺境伯の前へ箱が置かれた。

留め金が外され蓋が開く。

中に収められていたのは一振りの長剣だった。

派手な装飾はない。

柄には黒い革が巻かれ鍔も実用性を重視した単純な形をしている。

だが鞘から抜かれた刃は普通の鋼とは明らかに違った。

銀色。

それだけではない。

淡い青を含んだような光が、刃の表面を流れている。

火に照らされるたび水面のように柔らかく輝いた。

辺境伯が剣を持ち上げる。

「モーリ」

俺は両手を差し出した。

剣が掌へ載せられる。

軽い。驚くほど軽かった。

普通の長剣より刃は長い。

それなのに片手でも簡単に扱えそうなほど軽い。

柄を握る。

試しに魔力を流す。

刃がわずかに震えた。

淡い青銀の光が、刃全体へ走る。

周囲から息を呑む音が聞こえた。

魔力が散らない。

抵抗もほとんどない。

俺が流した力がそのまま剣先まで届く。

念動力の刃や風を剣へ沿わせることができる。

これなら魔法の制御も楽になる。

「気に入ったか」

辺境伯が尋ねる。

「はい」

俺は剣を見つめたまま答えた。

「ありがとうございます」

「礼は要らぬ」

辺境伯は言った。

「貴様は剣に値する働きをした」

俺は剣を鞘へ戻した。

高く澄んだ音が鳴る。

腰の古い剣を外し代わりにミスリルの剣を吊るす。

重さがほとんどない。

歩く邪魔にもならないだろう。

アークの声が届く。

『主、ちょっと抜いて見せてください』

「後でな」

俺は小さく呟いた。

辺境伯が眉を上げる。

「何か言ったか」

「いえ」

危ない。

アークと話している癖が人前でも出始めている。

辺境伯はそれ以上追及せず。

軍議へ向かうため身を翻した。

だが数歩進んだところで足を止める。

「モーリ」

「はい」

「旅を続けると言ったな」

「はい」

「古代遺跡は、領主の許可なく立ち入れぬ場所も多い」

それは俺も考えていた問題だった。

遺跡が貴族の領内にあれば勝手に入ることはできない。

門前で追い返される可能性もある。

辺境伯は側近へ命じる。

「後で通行証も用意させる」

「我が名と印章を記したものだ」

「オニギエ領内と我が影響が及ぶ諸侯の領地であれば、多少は役に立つだろう」

予想していなかった言葉だった。

剣だけでも十分な褒章だ。

だが旅を続ける俺にとってその通行証は金貨より価値があるかもしれない。

「ありがとうございます」

今度は深く頭を下げた。

辺境伯は振り返らず辺境伯はそのまま歩き去った。

諸侯と騎士たちも後へ続く。

間もなく大天幕で軍議が始まる。

俺は腰のミスリル剣へ手を置いた。

軽い。

だがそこにあることは確かに感じられる。

レオンが隣へ来た。

「良いものを選んだな」

「金より役に立つ」

「領地を望むと思っていた者もいたようだ」

「俺に領地の管理なんてできない」

「そうだろうな」

即答だった。

「少しくらい否定してくれ」

「古代遺跡を探して領地を放り出す領主など、家臣にとっては悪夢だ」

「違いない」

レオンは俺の剣を見る。

「我が家へ仕える気がないことも」

「辺境伯の前ではっきりしたな」

「悪い」

「なぜ謝る」

レオンの声はいつもと変わらなかった。

「従士にしてもらったのに」

「戦が終わるまでの話だ」

レオンは言った。

「お前が旅を続けることは、最初から聞いている」

「引き止めるつもりはない」

少しだけ胸が軽くなった。


ロール城を発って半日。

進軍を続けた辺境伯軍は、大河の東岸へ陣を敷いた。

その川は、南北へ果てしなく流れている。

対岸が霞んで見えるほどではない。

だが百メートル近い川幅は、十分に天然の城壁だった。

春先の雪解け水を集めた流れは速く、白く泡立っている。

岸辺へ落ちた丸太が、一瞬で下流へ流されていく。

鎧を着て飛び込めばまず助からない。

モーリは川を見ながら呟いた。

「これじゃ泳いで渡るなんて無理だな」

レオンも頷く。

「ああ」

「だからこそ、この橋が重要なんだ」

視線の先には、古びた石橋があった。

幅は荷馬車二台がようやくすれ違えるほど。

数百年前に築かれた橋らしく、橋脚は太く、簡単には壊せそうにない。

「あれを取られれば、この一帯は突破される」

「逆に守れば、公爵軍二万でも簡単には渡れん」

モーリは橋を見つめた。

既に対岸ではマインセ公爵家の軍旗が風にはためいていた。

その下には整然と並ぶ兵士。

長槍兵が最前列。

その後方へ盾兵。

さらに弓兵。

そして投石機。

橋だけでなく、周辺一帯を射程に収める位置だった。

こちらも負けてはいない。

辺境伯軍は橋の西詰へ大盾を並べ、槍兵を密集させる。

弓兵は後方の小高い丘へ。

さらに投石機も組み立て始めた。


昼頃。

静寂を破ったのは公爵軍だった。

「放て!」

将校の号令。

一斉に弦が鳴る。

数百本の矢が黒い雲のように空を覆った。

「盾!」

こちらも叫ぶ。

盾が一斉に持ち上がる。

ガガガガッ。

矢が盾へ突き刺さる。

地面へ刺さる。

何本かは兵士の足や肩へ突き刺さった。

悲鳴が上がる。

だが死者は数人。

すぐこちらも射返す。

矢は川の上で交差し何本も水へ吸い込まれていく。

川幅が広すぎる。

互いに届く矢は一部だけだった。

その後は投石機。

拳ほどの石。

人の頭ほどある岩。

それらが空を飛ぶ。

轟音。

水柱が立ち。

岸が削られる。

兵士が吹き飛ばされる。

それでも橋へ踏み込む者はいない。

誰もが知っていた。

橋へ足を踏み入れた瞬間両側から矢を浴びることになる。


夕方。

角笛が鳴る。

双方とも兵を下げた。

死者は出たが橋は動かない。

最初の一日は互いの力量を測るだけで終わった。


次の日

朝霧が川を覆っていた。

兵士たちは皆、今日は決戦になると思っていた。

朝食も喉を通らない。

橋の前では槍兵が既に整列している。

しかし昼になっても敵は動かない。

橋の向こうでは工兵が忙しく歩き回っている。

木材。

縄。

鉄杭。

何かを作っているように見える。

モーリが尋ねた。

「橋を補強しているのか?」

「違う」

レオンは即答した。

「あれは見せるための作業だ」

「見せる?」

「ああ」

「工兵が目立つほど、こちらは橋を意識する」

「敵はこちらの目を橋へ向けたい」

モーリは目を細めた。

確かに工兵は隠れるどころか、わざと高い場所で作業している。

「陽動か……」

「まだ断定はできん」

レオンは静かに言う。

「だが妙だ」

「あれだけ兵がいて、一度も橋へ踏み込もうとしない」

「普通なら試しに百人でも突撃させる」

「それすらしない」

モーリも違和感を覚え始めていた。


さらに次の日

昼を過ぎる頃、公爵軍が一斉に動いた。

長槍兵。

盾兵。

弓兵。

さらに投石機。

まるで総攻撃の準備だった。

橋の前は兵で埋まる。

こちらも全軍が緊張する。

「始まるぞ」

兵士たちが槍を握り直した。

しかしモーリだけは違うものを見ていた。

正確にはモーリではない。その足元にいるアークが先ほどからじっと上流を見つめていた。

耳を立て鼻先をわずかに持ち上げている。

対岸の大軍ではなく川沿いに続く森の奥を。

『主』

頭の中にアークの声が響いた。

いつもの軽い調子ではない。

低く緊張を帯びた声だった。

『変です』

「何がだ」

モーリは橋を見たまま小さな声で尋ねた。

周囲の兵士には犬へ話しかけているようにしか見えない。

『橋の前におる連中です』

『本気で橋を取ろうとは思ってません』

モーリは眉をひそめた。

対岸では公爵軍の長槍兵が橋の前へ密集している。

その後ろでは弓兵が矢をつがえ投石機の兵も忙しく動き回っていた。

どう見てもこれから総攻撃を始めるようにしか見えない。

「そんなはずないだろ。これだけ兵を集めてるんだぞ」

『せやけど』

アークは橋へ視線を戻した。

『誰も渡ること考えてません』

「誰も?」

『はい』

アークの耳が小さく動く。

大勢の人間が集まる場所では無数の思考が押し寄せてくる。

普段ならあまりに多すぎて一人一人の考えまで読み取ることは難しい。

だが今、橋の前に並ぶ兵士たちの頭には似たような言葉ばかりが浮かんでいた。

『持ち場を離れるな』

『矢を射続けろ』

『こちらへ敵を引きつけろ』

『合図があるまで橋へ入るな』

『そんなんばっかりです』

モーリの背筋を冷たいものが走った。

「陽動……」

『たぶん』

アークは再び上流へ顔を向けた。

『本命は別におります』

「どこだ」

『上流です』

「どれくらい先だ」

『そこまでは分かりません』

『けど』

アークの目が細くなる。

『森の方から』

『見つかる前に渡れ』

『そう考えとる奴が大勢おります』

モーリは上流を見る。

川沿いには深い森が続いている。

木々に遮られその先がどうなっているのかは見えない。

浅瀬があるのか、小さな橋があるのか分からない。

だが敵が本当に上流から渡ろうとしているなら橋へ兵を集めた辺境伯軍は側面を無防備に晒していることになる。

敵の別働隊が南岸へ渡り切れば辺境伯軍は川と敵軍に挟まれる。

退路を断たれ総崩れになる可能性すらあった。

「レオン」

モーリは振り返った。

少し離れた場所でレオンは橋の様子を見ている。

「レオン!」

先ほどより強く呼ぶ。

レオンが顔を向けた。

「どうした」

「敵は橋を渡らない」

レオンの眉が動いた。

「何?」

「橋の軍は陽動だ」

「本隊は上流から渡ろうとしている」

周囲にいた兵士たちがモーリを見る。

レオンもすぐには答えなかった。

橋を見る。

続いて上流を見る。

「なぜ分かる」

当然の問いだった。

敵の陣営が見えるとはいえこちらから聞こえるのは号令と騒音だけ。

相手の作戦を知る方法などない。

モーリは答えに詰まった。

アークが人の思考を読める、そんなことを言えるはずがない。

「……勘だ」

レオンの表情が険しくなる。

「勘だと?」

「ああ」

「確かな証拠はない」

「だが」

モーリは橋の向こうを指差した。

「あれだけ兵を並べているのに」

「先頭の連中は一歩も橋へ入ろうとしない」

「工兵も見える場所で動いているだけだ」

「二日目にお前が言っただろ」

「敵はこちらの目を橋へ向けたがっているかもしれないって」

レオンは黙った。

確かに。

橋の前に並んだ敵軍は総攻撃の構えを見せながら。

まだ矢を射るだけで前進していない。

本当に橋を奪うつもりならこちらが兵を集め切る前に多少の犠牲を払ってでも攻めるはずだった。

それをしない。

兵を見せ、旗を見せ、投石機を前へ出しただこちらを橋へ縛りつけている。

「上流に渡れる場所があるというのか」

「分からない」

「だが敵は知っている」

レオンは再び上流を見る。

そこには延々と森が続いているだけだった。

「敵の数は」

「それも分からない」

「ただ」

モーリは一度アークへ視線を落とした。

アークは小さく頷く。

「少数じゃない」

「おそらく数千いる」

近くにいた騎兵隊長が声を上げた。

「数千ですと?」

「もし本当なら」

「我らだけでは止められません」

「分かっている」

レオンは短く答えた。

そして橋の正面を見た。

本陣へ報告し辺境伯の判断を待つ。

それが軍として正しい手順だ。

だが本陣はここから離れている。

報告が届き、命令が戻り、部隊が動き始めるまでどれほど時間がかかるか分からない。

その間にも敵は上流から渡河を続ける。

一方サトゥルドス子爵家は後陣に置かれていた。

まだ橋の防衛線へ組み込まれていない。

予備兵として待機していたため他の諸侯軍よりも自由に動ける。

今上流を確かめに行けるのは自分たちだけだった。

レオンは決断した。

「伝令!」

近くにいた騎兵が馬を寄せる。

「はっ!」

「本陣へ走れ」

「上流に敵別働隊の可能性あり」

「サトゥルドス子爵軍は直ちに上流を確認する。浅瀬、または渡河地点を発見した場合は敵の数と位置を改めて報告すると伝えろ」

「はっ!」

騎兵は馬首を返し本陣へ向かって駆け出した。

レオンは次に自軍の陣へ向き直った。

迷いはもうなかった。

「サトゥルドス家の兵!」

その声が後陣へ響き渡る。

休んでいた兵士たちが一斉に顔を上げた。

「騎兵は馬へ乗れ!」

「歩兵と弓兵は装備をまとめろ!」

「上流へ向かう!」

兵士たちが一斉に動き出す。

「歩兵百二十!」

「騎兵三十!」

「弓兵二十!」

「これだけで上流を確認する!」

兵士たちの間にざわめきが起きた。

橋の正面では今にも戦が始まりそうなほど、敵兵が密集している。

その中で後陣を離れることに、不安を覚えない者はいない。

しかしレオンは構わず剣を抜いた。

「敵が橋を渡るつもりなら、我らの動きは無駄足だ!」

「だが上流に別働隊がいるなら今動かなければ、辺境伯軍は横腹を食い破られる!」

「走れ!」

号令と同時に部隊が動き出した。

騎兵が先行する。

歩兵は槍を担ぎ、弓兵は矢筒を背負い直した。

モーリも馬へ跨がる。

その横をアークが駆けていた。

「本当に上流なんだな」

『間違いありません』

アークの声は硬い。

『さっきより増えてます』

「何が?」

『考えてる人の数です』

『渡れ。急げ。列を乱すな』

『同じこと考えとる奴が、ずっと上流におります』

モーリは前を向いた。

「距離は分かるか?」

『正確には分かりません』

『ただ。』

アークは鼻先を上げた。

『かなり遠いです。』

川沿いの道は道と呼べるほど整えられていなかった。

雪解け水でぬかるみ馬の蹄が深く沈む。

所々川岸から張り出した木々が進路を塞いでいる。

騎兵は枝を剣で払い、歩兵は泥へ足を取られながら進んだ。

一刻ほど進んだ頃には隊列は大きく伸びていた。

「速度を落とすな!」

レオンが怒鳴る。

「歩兵を置き去りにするな!」

騎兵だけで先へ行けば敵を見つけても戦えない。

だが歩兵へ合わせすぎれば渡河を許してしまう。

レオンは何度も後方を振り返りながら、ぎりぎりの速さで部隊を進ませた。

兵士たちは息を切らしている。

鎖帷子が肩へ食い込み、槍が徐々に重くなる。

それでも誰も止まらなかった。

やがて川幅が少しずつ狭くなり始めた。

流れの中に大きな岩が目立つようになる。

アークが突然、耳を立てた。

『主』

「見つけたか?」

『近いです。この先、木の向こうです』

モーリはレオンへ声を飛ばす。

「近い!」

レオンは片手を上げた。

「声を抑えろ!」

「旗を畳め!」

「騎兵は馬を降りろ!」

一斉に軍旗が下ろされた。

兵士たちは息を殺し森の中へ入っていく。

馬の手綱を引きながら木々の隙間を進む。

鳥の声が消えていた。

代わりにかすかな水音。

金属の触れ合う音。

そして多くの人間が動くざわめきが聞こえてくる。

レオンが手を上げた。

部隊が止まる。

彼は数人の騎兵を連れ茂みの先へ進んだ。

モーリもその後を追う。

枝を押し分ける。

その先で視界が開けた。

川だった。

本流よりも幅が狭い。

川底には白い石が連なり、水深は深い場所でも腰ほどしかない。

馬でも歩兵でも渡れる。

浅瀬だ。

そしてそこにはすでに公爵軍がいた。

「……遅かったか」

レオンが低く呟く。

対岸の森は兵士で埋まっていた。

マインセ公爵家の軍旗。

その周囲には枝を被せた荷車。

馬。

槍兵。

弓兵。

騎兵。

数え切れないほどの兵が集まっている。

先頭の兵士たちは。

すでに川へ入っていた。

百人。

二百人。

さらに後方から。

途切れることなく続いてくる。

「三千……」

同行していた兵士が呟いた。

「いや」

レオンは目を細める。

「もっといるかもしれん」

すでに五十人ほどがこちら側の岸へ上がっている。

敵はまだサトゥルドス家の部隊に気付いていない。

岸へ上がった兵士たちは周囲を警戒しながら。

橋頭堡を作ろうとしていた。

杭を打ち、盾を並べ後続が渡り切るための場所を確保している。

レオンはしばらく黙っていた。

兵力差は明らかだった。

こちらは百七十。敵は三千以上。

まともに戦えば勝てるはずがない。

後ろから歩兵隊長が追いついてきた。

「子爵様。どうします」

レオンは川を見たまま答えた。

「本陣へ伝令を出す。」

「敵別働隊を確認。数は少なくとも三千。浅瀬の位置を知らせろ。援軍を急がせるんだ」

「はっ」

騎兵が一人すぐに来た道を引き返した。

レオンは残った兵士たちへ振り返る。

「我らはここで敵を止める」

沈黙。

誰も言葉を発しなかった。

聞き間違いではない。

敵三千を百六十九人で止める。

そう命じられたのだ。

歩兵の一人が乾いた声で笑った。

「子爵様」

「そいつは無茶です」

「ああ」

レオンはあっさり認めた。

「勝つ必要はない。渡らせなければいい。援軍が来るまで辛抱しろ」

兵士が川の向こうを見る。

敵は今も次々と水へ入っている。

「援軍はいつ来ます」

「分からん。一刻か、二刻かそれ以上かもしれん」

レオンは剣を抜いた。

「だが我らが逃げれば公爵軍はそのまま橋の守備隊の側面へ出る。そうなれば辺境伯軍は終わりだ」

「ここで死ねとは言わん。逃げたい者は今すぐ行け」

誰も動かなかった。

恐怖がないわけではない。

兵士たちの顔は強張り。

何人かは唇を噛んでいる。

それでも槍を捨てる者はいなかった。

歩兵隊長が肩をすくめた。

「帰ったところで領地を失えば食う場所もありませんからな」

弓兵の一人が笑う。

「公爵軍に畑を踏み潰されるくらいならここで矢を使い切ります」

レオンは短く頷いた。

「ならば布陣する」

「歩兵は岸の木々を利用して横陣を作れ!」

「騎兵は左右へ十五騎ずつ!」

「敵が回り込もうとしたら叩け!」

「弓兵は後方の斜面へ!」

「合図するまで射るな!」

兵士たちが散る。

浅瀬のこちら側には川岸から少し離れた場所に緩やかな斜面があった。

大木が何本も立ち根が地面から露出している。

平地よりは少ない兵で守りやすい。

歩兵は木々の間へ並び盾を重ねる。

その隙間から槍を突き出す。

弓兵は斜面へ上がり矢を地面へ突き立てた。

騎兵は森の中へ隠れる。

モーリはレオンの隣へ立った。

アークも低く身を伏せている。

「俺たちはどうする」

レオンは答える前に。

モーリを見た。

「城門を破った力もう一度使えるか」

「使える」

モーリはまっすぐ川を見た。

『敵。気付きました。』

対岸で声が上がった。

こちら側へ渡った敵兵の一人が森の奥を指差している。

「敵だ!」

「南岸に敵兵!」

「伏兵だ!」

将校が叫んだ。

岸へ上がっていた敵兵が盾を構える。

川の中にいた者たちも一斉にこちらを向いた。

対岸では騎士らしき男が馬上で剣を抜いた。

「見つかった!」

「構わん!」

「数は少ない!」

「渡れ!」

「岸を奪え!」

号令が響く。

川の中の兵士たちが走り始めた水飛沫が上がる。

盾を頭上へ掲げ、槍を前へ向けこちら側の岸へ押し寄せる。

レオンは剣を上げた。

「弓兵!」

敵が川の中央へ入る。

「まだだ!」

弓兵たちは弦を引き絞る。

腕が震える。

敵は近づく。

五十歩。

四十。

三十。

レオンの剣が振り下ろされた。

「放て!」

二十本の矢が飛ぶ。

数は少ない。

だが。

狙う場所は決まっていた。

水の中。

盾で足元を守れない敵。

矢が顔へ、首へ、腿へ突き刺さる。

十人近くが倒れた。

倒れた兵士へ後続が躓く。

川の中で隊列が乱れる。

「次!」

弓兵がすぐに二射目を放つ。

しかし敵は止まらない。

「盾を前へ!」

最前列が大盾を並べる。

矢を防ぎながら進んでくる。

岸まであと十歩。

レオンは剣を握り直す。

「歩兵!」

「構え!」

百二十本の槍が前へ向いた。

その時。

モーリが一歩前へ出た。

右手を川へ向ける。

胸の奥へ意識を集中させる。

空気を掴む。

押し固める。

前へ放つ。

「吹き飛べ!」

轟音が鳴った。

見えない塊が。

川面へ叩きつけられる。

水が壁のように持ち上がった。

最前列の敵兵が。

盾ごと宙へ浮く。

十人。

二十人。

さらに後ろの兵まで巻き込みまとめて川下へ転がっていく。

悲鳴。

怒号。

水飛沫。

浅瀬の隊列が中央から大きく崩れた。

「魔術師だ!」

敵兵が叫ぶ。

「城門を破った奴だ!」

噂はすでに公爵軍にも伝わっていたらしい。

「弓兵!」

対岸の将校がモーリを指差す。

「あの男を射殺せ!」

弓兵が前へ出る。

数は百を超えていた。

「モーリ!」

レオンが叫ぶ。

一斉に弦が鳴る。

黒い矢の群れが川を越えて飛んでくる。

モーリは両手を上げた。

風を起こす。

矢が揺れる。

何本かが軌道を逸らす。

だがすべては止めきれない。

『主!』

アークが吠えた。

矢の群れが。

突然。

空中で減速した。

まるで見えない泥へ突っ込んだように。

一本。

また一本。

力を失って川へ落ちる。

兵士たちは。

モーリが防いだと思った。

誰も足元の犬を見てはいない。

それでも数本が防壁を抜けた。

一本が歩兵の肩へ刺さる。

もう一本が盾を貫く。

悲鳴が上がった。

「下がるな!」

歩兵隊長が怒鳴る。

「傷兵を後ろへ!」

「穴を埋めろ!」

倒れた兵士が引きずられる。

その隙間へ別の兵が入る。

再び盾が重なった。

敵は川の中で体勢を立て直していた。

「進め!」

「敵は少数だ!」

「魔術師一人を恐れるな!」

今度は盾兵を前へ、長槍兵を後ろへ置き密集したまま渡ってくる。

モーリが風を放つ。

盾が揺れる。

数人は倒れた。

だが先ほどのようには吹き飛ばない。

「重ねてる」

モーリは歯を食いしばる。

敵はすぐに対応してきた。

盾を何枚も重ね後ろの兵が前の兵を押している。

一人を吹き飛ばしてもその後ろが支える。

『主。』

『わいが川底を動かします。』

「できるのか?」

『少しだけなら。』

アークの目が細くなる。

川の中で。

突然。

何人もの兵士が足を滑らせた。

石が転がったのだ。

不自然ではない。

激しい流れの中誰も魔法だとは思わない。

最前列が倒れる。

重ねていた盾が崩れた。

「今だ!」

モーリが風を放つ。

今度こそ密集した敵兵がまとめて吹き飛んだ。

川面に大きな穴が開く。

レオンが剣を掲げる。

「前へ!」

歩兵が一斉に走った。

川岸へ上がろうとしていた敵へ。

槍を突き出す。

腹。

胸。

喉。

岸へ手を掛けた兵士が。

次々と川へ落ちる。

「押し返せ!」

敵の最前列は崩れた。

しかし対岸にはまだ。

無数の兵が残っている。

最初の攻撃を退けただけだった。

レオンもそれを理解している。

「追うな!」

「陣へ戻れ!」

兵士たちはすぐに後退した。

勝鬨は上げない。

喜ぶ余裕もない。

弓兵は矢を拾い歩兵は折れた槍を交換する。

負傷者を後方へ運ぶ。

すでに六人が倒れていた。

うち二人は動かない。

モーリは息を整える。

「あと何回くる」

レオンは対岸を見る。

敵は再び隊列を組み始めていた。

「援軍が到着するまで何度でもだ」

二度目の渡河は最初より激しかった。

敵は上流と下流へ兵を分けた。

正面で盾兵が進み。

その両側から軽装の兵士が走る。

「左右へ回り込むつもりだ!」

騎兵隊長が叫ぶ。

「騎兵!」

レオンが剣を振る。

「側面を潰せ!」

森に隠れていた三十騎が動いた。

上流へ十五。

下流へ十五。

岸へ上がったばかりの敵へ。

横から突っ込む。

蹄が地面を叩く。

長槍が敵兵の胸を貫く。

勢いのまま数人をまとめて押し倒す。

だが敵も槍を構える。

一頭の馬が腹を刺され大きく跳ねた。

騎兵が投げ出される。

そこへ敵兵が群がった。

「助けろ!」

仲間の騎兵が馬を返す。

剣を振り回し倒れた者を救おうとする。

その間にも正面の敵は近づいていた。

「槍を下げろ!」

歩兵隊長が叫ぶ。

盾と盾がぶつかる鈍い音。

敵兵が岸へ上がる。

槍が突き出され、盾に当たる。

刃が隙間へ滑り込み最前列の兵士が喉を押さえて倒れた。

その場所へ敵が足を踏み入れる。

「通すな!」

レオンが飛び込んだ。

剣が横へ走る。

敵兵の顔面を斬り裂く。

返す刃でもう一人の腕を落とす。

押しては押し返される。

足元には敵味方の死体が重なる。

川の水が少しずつ赤く染まっていく。

モーリは右手を突き出す。

近距離で大きな風を放てば味方まで巻き込む。

狙いを絞る。

敵の盾、槍、武器を持つ腕だけを押す。

盾が開く。

その隙間へ味方の槍が突き込まれる。

『主!』

アークの声が響く。

『右の木陰!』

振り向く一人の敵兵が倒れた味方の盾を使い。

横から近づいていた。

モーリは剣を抜く。

男の槍を風で逸らし、胴を斬る。

鎖帷子へ刃が食い込み、男が倒れる。

その後ろからさらに二人。

終わりがない。

アークが飛び出した。

一人の腕へ噛みつく。

男が悲鳴を上げ剣を取り落とす。

もう一人がアークを蹴ろうとする。

その足が不自然に止まった。

ほんの一瞬。

モーリ以外には躓いたようにしか見えない。

モーリは男の胸へ剣を突き刺した。

「アーク!」

『大丈夫です!』

アークはすぐに離れた。

敵の二度目の攻撃は半刻近く続いた。

少しずつ子爵軍は後退した。

最初に構えた川岸から。

十歩。

二十歩。

大木の並ぶ斜面まで押し込まれる。

それでも陣は崩れなかった。

木々が敵の数を制限する。

一度に戦える人数は両軍とも同じになる。

狭い場所へ入ってきた敵を槍で突き、剣で斬り、風で押し返す。

やがて敵側から角笛が鳴った。

兵が引いていく。

完全な撤退ではない。攻撃を組み直すためだ。

川岸には多くの死体が残された。

味方もすでに三十人近くが戦えなくなっていた。

歩兵隊長は左腕から血を流している。

弓兵の矢も半分を切っていた。

レオンは息を切らしながら対岸を睨んでいる。

「どれくらい経った」

「浅瀬へ着いてから一刻半ほどです」

兵士が答える。

レオンは顔を歪めた。

「まだそれだけか」

モーリも同じ気持ちだった。

体感では半日以上戦っている。

だが援軍は来ない。

伝令が本陣へ着き辺境伯が兵を選びここまで進む。それだけで最低でも三刻近くかかる。

「もう一度来るぞ!」

対岸で敵兵が動き始めた。

今度は先ほどまでとは違う。

中央に騎兵が集まっている。

浅瀬を馬で一気に突破するつもりだ。

その後ろには。

新しい歩兵隊。

さらに弓兵。

敵はこちらが消耗していることを知っている。

「次で決めるつもりだ」

レオンが呟いた。

「兵を集めろ」

残った者が大木の前へ並ぶ。

歩兵は九十人に満たない。

騎兵は二十三。

弓兵は十四。

負傷していても立てる者は列へ加わった。

レオンが兵士たちの前へ立つ。

「よく耐えた」

誰も返事をしない。

息をするだけで精一杯だった。

「だがまだ終わっていない」

レオンは剣を掲げた。

「次を止めれば」

「援軍は必ず来る」

確証はない。

それでもそう言うしかなかった。

川の向こうで公爵軍の騎兵が動き出す。

馬が水へ飛び込む。

水飛沫が上がる。

その数およそ百。

後ろから歩兵も続く。

敵の将校が叫んだ。

「敵は疲れている!」

「踏み潰せ!」

「渡れぇ!」

地面が震える。

モーリは両手を前へ出した。

アークが隣へ立つ。

『主』

『魔力を送ります』

「無理するな」

『ここで負けたら無理も何もありません』

アークの身体から魔力が流れ込んでくる。

温かい。

だが以前よりはるかに弱い。

アークも消耗している。

それでもモーリは受け取った。

自分の魔力と重ねる。

狙うのは騎兵ではない。

川。

馬の脚元。

流れそのもの。

モーリは両手を振り上げた。

川面が盛り上がる。

騎兵の先頭で。

馬が驚いて前脚を上げた。

その直後横から巨大な水の塊がぶつかる。

馬が倒れる。

後続が追突する。

一頭。

二頭。

五頭。

狭い浅瀬で馬と騎兵が折り重なる。

「今だ!」

弓兵が残った矢を放つ。

倒れた騎兵。

立ち止まった馬。

密集した敵へ矢が降る。

しかしすべては止められない。

左右へ広がった騎兵が岸へ上がった。

「来るぞ!」

レオンが叫ぶ。

騎兵が突っ込んでくる。

子爵軍の盾列へ真正面から激突した。

盾が割れる。

兵士が吹き飛ぶ。

槍が折れる。

レオンは馬の脚を斬った。

騎手が地面へ落ち、そこへ剣を突き立てる。

歩兵隊長は盾で馬の顔を殴り進路を逸らした。

モーリは風を放つ。

騎手だけを馬上から引き剥がす。

一人。

二人。

だが。

敵歩兵も到着した。

斜面は人で埋まる。

「押せ!」

「奴らを殺せ!」

剣。

槍。

盾。

怒号。

悲鳴。

もう陣形などない。

一人一人が。

目の前の敵と戦っている。

味方が倒れる。

敵も倒れる。

その死体を踏みまた誰かが前へ出る。

モーリの頬を剣が掠めた。

熱い痛み。

血が流れる。

「主!」

アークが吠える。

敵兵の膝が突然横へ折れた。

男が倒れる。

モーリは剣を振り下ろした。

肩から胸まで斬る。

その瞬間別の槍が脇腹へ迫る。

レオンが割り込む。

剣で槍を弾く。

「ぼさっとするな!」

「してない!」

「ならもっと働け!」

レオンは叫びながら。

次の敵へ向かった。

彼の鎧もすでに血で濡れている。

自分の血か敵の血か分からない。

戦いは続いた。

子爵軍はさらに後ろへ押された。

大木の列を抜かれればその先は開けた草地。もう敵を狭い場所へ押し込めない。

「ここが最後だ!」

レオンが叫ぶ。

「これ以上下がるな!」

残った兵士が集まる。

六十人ほど。

騎兵も馬を失い。

歩兵として戦っている。

敵はまだ数百人。

川の向こうにはさらに後続がいる。

絶望的だった。

それでもモーリは右手を上げた。

アークも。

低く唸る。

「あと一回」

『はい』

「大きいのをやる」

『倒れんといてくださいよ』

「お互い様だ」

魔力を集める。

目の前の空気が歪む。

敵兵が気付いた。

「魔術だ!」

「殺せ!」

一斉に押し寄せる。

その時遠くから角笛が聞こえた。

低く。

長い音。

一度。

二度。

そして三度。

レオンが顔を上げる。

兵士たちも戦いながら耳を澄ませた。

森の奥から地鳴りが響く。

最初は小さく徐々に大きくなる。

馬の蹄だ。一頭や十頭ではない。何百頭もの馬がこちらへ近づいている。

木々の向こうに軍旗が見えた。

オニギエ辺境伯家の旗。

「援軍だ!」

誰かが叫んだ。

「辺境伯軍だ!」

味方から歓声が上がる。

敵兵が振り返る。

その顔へ初めて明確な恐怖が浮かんだ。

森を抜けて辺境伯軍の騎兵が現れる。

その数五百。

さらに後ろから。

槍兵と弓兵が続いている。

先頭の騎士が槍を高く掲げた。

「サトゥルドス子爵軍を救援せよ!」

「敵を川へ叩き落とせ!」

騎兵が突撃する。

公爵軍はこちらへ攻め込むため。

岸の狭い場所へ密集していた。

逃げ場はない。

辺境伯軍の騎兵がその側面へ突き刺さる。

轟音。

人が宙を舞う。

盾が砕ける。

陣形を整える暇もなく。

公爵軍は押し潰された。

「退け!」

「川へ戻れ!」

「対岸へ逃げろ!」

敵の命令が飛ぶ。

だが浅瀬にはまだこちらへ渡ろうとしていた味方がいる。

退く兵。

進む兵。

川の中で正面からぶつかる。

隊列が完全に崩れた。

レオンは剣を掲げた。

「今度はこちらの番だ!」

「押し返せ!」

生き残った子爵軍が最後の力を振り絞る。

援軍とともに敵を川へ追い落とす。

モーリも集めていた魔力を放った。

暴風が敵兵の背中へぶつかる。

何十人もがまとめて浅瀬へ倒れた。

その上を味方が進む。

敵兵は対岸へ逃げようとする。

だが辺境伯軍は止まらなかった。

「浅瀬を渡れ!」

援軍を率いてきた騎士が命じる。

「今こそ敵の側面を突く!」

騎兵が川へ入る。

その後ろを。

歩兵が続く。

先ほどまで公爵軍が渡ろうとしていた浅瀬を今度は辺境伯軍が逆に渡り始めた。

対岸の敵はまだこちらの援軍の全容を把握していない。

渡河部隊が敗れ、敵が逆に押し寄せてくる。

その事実だけで混乱が広がった。

「本隊が来た!」

「浅瀬を奪われた!」

「橋の軍も破られたぞ!」

誤った叫びが次々と飛び交う。

誰も全体を見ていない。

一人が逃げれば周囲も逃げる。

公爵軍の別働隊は森の中へ雪崩れ込むように後退し始めた。

辺境伯軍の騎兵がその側面を追う。

モーリたちも浅瀬を渡った。

対岸には捨てられた荷車。

武器。

軍旗。

負傷兵。

逃げ遅れた兵士が溢れている。

「降伏しろ!」

「武器を捨てろ!」

味方の兵が叫ぶ。

多くの敵兵が槍を落とした。

だがまだ戦おうとする者もいる。

その中で一際豪華な鎧を着た若い騎士が護衛に囲まれていた。

十五歳を少し過ぎた程度。

金の飾りがついた鎧。

赤い羽根の兜。

乗っていた馬は負傷し後ろ脚を引きずっている。

護衛の兵が叫んだ。

「若君を逃がせ!」

「道を開けろ!」

それを聞いた周囲の歩兵たちが一斉に目の色を変えた。

「若君だと?」

「公爵家の者か!」

「殺せ!」

「仲間の仇だ!」

一人の歩兵が槍を構えて突進した。

若い騎士は落馬し泥の上へ倒れる。

兜が外れた。

まだ幼さの残る顔が露わになる。

「死ね!」

槍が振り下ろされる。

その前へレオンが飛び込んだ。

剣で槍を弾く。

金属音が鳴った。

「やめろ!」

歩兵が目を剥く。

「子爵様!」

「そいつは敵です!」

「見れば分かる!」

レオンは若い騎士を背に庇う。

「だからこそ殺すな!」

「公爵家の者なら!」

「生かしておく方が価値がある!」

若い騎士は荒い息を吐きながらレオンを睨んでいた。

「名を名乗れ」

レオンが剣先を向ける。

若い騎士は唇を噛む。

答えない。

護衛の一人が武器を捨てて膝をついた。

「お待ちください。この方はマインセ公爵閣下が次男ユリウス・トール・マインセ様です」

周囲がざわめいた。

公爵の次男。

ただの貴族ではない。

交渉材料としても身代金としても計り知れない価値がある。

レオンは剣を下げた。

「ユリウス殿あなたを捕虜とする。抵抗しなければ身分に応じた扱いを保証しよう」

ユリウスはしばらくレオンを睨んでいた。

やがて力なく息を吐く。

腰の剣を抜き地面へ置いた。

「……降伏する」

レオンは兵士へ命じた。

「丁重に拘束しろ。傷があるなら治療を受けさせろ」

「はっ!」

ユリウスの両腕へ縄が掛けられる。

それを見届けたレオンはようやく大きく息を吐いた。

立っていることすら限界に近いようだった。

モーリが隣へ立つ。

「手柄第一だな」

レオンは疲れ切った顔で笑う。

「お前が別働隊に気付かなければ全員死んでいた」

「勘が当たっただけだ」

「その勘で敵三千を止め、浅瀬を奪い、公爵の次男を捕らえた」

レオンは川岸を見る。

サトゥルドス家の兵たちが倒れた仲間を運んでいる。

喜ぶ者。

泣く者。

その場へ座り込む者。

百七十人いた兵は。

半数近くが負傷していた。

死者も多い。

勝った。

だが何も失わずに得た勝利ではない。

レオンは剣を鞘へ収めた。

「帰ったら」

「全員の名を記録する」

「死んだ者の家族にも」

「必ず報いる」

モーリは頷いた。

その足元でアークが地面へ伏せた。

舌を出し大きく息をしている。

『主』

『しんどいです』

「俺もだ」

『帰ったら肉』

「分かった」

『一番ええ肉』

「好きなだけ食わせる」

アークの尻尾が地面を一度だけ叩いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ