包囲戦
翌朝。最初の攻撃が始まった。
「アーク」
俺は荷駄隊の脇へしゃがみ込んだ。
「ここで待て」
『分かっとります』
「何があっても前へ来るな」
『分かっとりますって』
「必ず戻ってくる」
『絶対ですで』
「ああ」
『嘘ついたら噛みますからな』
俺は立ち上がりレオンの後を追った。
夜が明けると同時に角笛が鳴り響く。
城の南側へ数千の兵が並んでいた。
前列は大盾を持つ兵。
その後ろには長梯子を担いだ兵士たち。
さらに後方には弓兵が並ぶ。
俺たちサトゥルドス家の兵は最初の攻撃には加わらなかった。
陣の前で待機しながらその様子を見守る。
「弓兵、前へ!」
号令が響く。
何百本もの弓が一斉に引かれた。
「放て!」
矢が空を覆った。
黒い影が弧を描き城壁へ降り注ぐ。
城兵たちは胸壁の後ろへ身を隠す。
それを見て歩兵へ命令が下った。
「進め!」
兵士たちが走り出す。
長梯子を担ぎ土煙を巻き上げながら空堀へ向かう。
城壁から角笛が鳴る。
次の瞬間矢が降った。
大盾へ突き刺さる。
盾を持たない兵が倒れる。
腕に。
脚に。
顔に。
矢を受けた兵士が悲鳴を上げる。
それでも後続は止まらない。
空堀へ土嚢や木材を投げ込み道を作る。
梯子が城壁へ立てかけられた。
兵士たちが登る。
一段。
二段。
三段。
城壁の上から長い槍が突き出された。
梯子を登っていた兵士の肩へ刺さる。
男は手を放し背中から堀の底へ落ちた。
別の場所では大きな石が投げ落とされ梯子が折れる。
何人もの兵士がまとめて地面へ叩き付けられた。
さらに城壁から湯気を立てる液体が降り注いだ。
熱湯だった。
絶叫が上がる。
鎧の隙間へ流れ込み兵士たちが梯子から転げ落ちる。
皮膚が赤くただれ顔を押さえながら地面を転げ回る。
「退け!」
角笛が鳴った。
だが攻撃に夢中になった兵には聞こえない。
あるいは聞こえていても戻れない。
梯子が押し返される。
兵士たちは互いを押し退けながら逃げ出した。
城からは逃げる背中へ矢が放たれ続ける。
最初の攻撃は一刻も経たずに終わった。
城壁にはほとんど傷一つ付いていない。
地面には死体と負傷者だけが残された。
俺は目の前の光景から目を逸らせなかった。
土の上に倒れた男が片手を伸ばしている。
誰かを呼んでいる。
そのすぐ横には頭を潰された兵士が倒れていた。
訓練とは違う魔物との戦いとも違う。
ここでは人間が人間を殺している。
互いに言葉が通じ家族がいて恐怖も痛みも感じる人間同士が。
その日の攻撃で辺境伯軍は百人近い死者とその倍以上の負傷者を出した。
城側の被害はほとんどなかった。
陣営へ戻るとアークが俺を見つけ全速力で走ってきた。
『主!』
俺の脚へ身体をぶつける。
『怪我してへんですか』
「大丈夫だ」
『血の臭いします』
「俺のじゃない」
アークは俺の身体を何度も嗅いだ。
腕。
脚。
腹。
顔。
それからようやく。
少しだけ尻尾を振った。
『嘘やないみたいですな』
「だから言っただろ」
『けど』
アークは戦場の方を見た。
負傷者が次々と運ばれてくる。
悲鳴。
呻き声。
血の臭い。
『明日もやるんですか』
「ああ」
二日目。
投石機が組み立てられた。
陣営へ運び込まれていた長い木材を組み合わせ太い縄を巻き付ける。
完成した投石機は人の背丈を遥かに超えていた。
石を受ける革袋へ数人がかりで岩を載せる。
合図とともに長い腕が跳ね上がった。
岩が空を飛ぶ。
城壁へ衝突し鈍い音が響き。
石の破片が散った。
兵士たちから歓声が上がる。
だが城壁の一部が欠けただけだった。
投石は一日中続いた。
しかし城側も黙ってはいない。
城内から石弾が飛んできた。
一発が辺境伯軍の投石機の横へ落ちる。
地面が揺れる。
二発目。
木枠へ直撃した。
太い梁が折れ、縄が弾けた。
周囲にいた兵士が吹き飛ばされた。
投石機は半日も経たずに一基を失った。
三日目。
辺境伯軍は城門を狙った。
分厚い丸太の先端へ鉄を被せ上から鎖で吊り下げる。
さらにその周囲を木の屋根で覆った。
破城槌だ。
屋根には濡らした獣皮が張られている。
火矢を防ぐためだった。
何十人もの兵士が破城槌を押す。
狭い坂道を上り正門へ近付く。
城壁から矢が降る。
屋根へ次々と突き刺さる。
それでも破城槌は進んだ。
あと五十歩。
四十歩。
三十歩。
城門が近付く。
兵士たちから声が上がる。
その時城門横の塔から。
巨大な石が落とされた。
破城槌の屋根へ直撃。
木材が砕ける。
支柱が折れる。
下にいた兵士たちが押し潰された。
破城槌は城門へ一度も触れることなく止まった。
四日目。
城の西側へ攻城塔が作られ始めた。
三階建ての家ほどもある巨大な木塔だった。
何十本もの丸太を組み外側へ板を張り内部へ階段を作る。
塔の上部には城壁へ渡すための跳ね橋が付けられた。
完成まで三日かかった。
七日目の朝。
数百人の兵士が攻城塔を押した。
車輪が軋む。
巨大な塔が少しずつ城壁へ近付いていく。
城壁の上から矢が降り注ぐ。
だが板張りの外壁が兵を守る。
火矢も放たれた。
濡らした獣皮へ突き刺さり白い煙を上げる。
それでも燃えない。
「行けるぞ」
周囲の兵士が呟いた。
攻城塔は空堀へ架けられた仮橋を渡る。
あと二十歩。
城壁の兵が慌ただしく動き始めた。
あと十歩。
その時。
城壁の上から大きな樽が投げ落とされた。
樽は攻城塔の上部へぶつかり割れた。
黒い液体が塔全体へ流れ落ちる。
油だ。
続いて火のついた藁束が放り投げられた。
一瞬だった。
炎が攻城塔の側面を駆け上がる。
濡れた獣皮の隙間。
板の継ぎ目。
内部の乾いた木材。
至る所へ火が入り込む。
「水をかけろ!」
怒号。
内部から煙が噴き出す。
中にいた兵士たちが出口へ殺到する。
上階にいた者は逃げられない。
炎に追われ塔から飛び降りる。
地面へ叩き付けられ動かなくなる。
攻城塔は巨大な松明となった。
やがて。
支柱が焼け落ちる。
城壁へ届く寸前で轟音とともに横倒しになった。
炎と煙が空へ噴き上がる。
城壁から歓声が上がった。
辺境伯軍の陣営は。
静まり返っていた。
八日目。
攻撃は行われなかった。
負傷者の手当て。
壊れた兵器の修理。
死体の埋葬。
そのための一日となった。
陣営の外には。
大きな穴がいくつも掘られた。
身元の分かる者は各家の区画へ運ばれる。
だが身元の分からない兵はまとめて穴へ入れられた。
聖職者が祈りを捧げる。
土がかけられる。
それだけだった。
夏の暑さで死体はすぐに腐り始めた。
風向きによっては陣営まで甘く重い臭いが流れてくる。
ハエが増えた。
アークは一日中鼻を前脚で覆うようにして丸くなっていた。
『臭いが取れません』
「犬には辛いな」
『臭いだけやないです』
アークは顔を上げる。
『死ぬ前に考えとったことが、まだあちこちに残っとる気がします』
「考えていたこと?」
『帰りたい』
『痛い』
『助けて』
アークの声が小さくなる。
『そんなんばっかりです』
俺は何も答えられなかった。
負傷者の天幕からは昼夜を問わず呻き声が聞こえた。
矢を抜く。
傷口を焼く。
壊死した腕や脚を切り落とす。
麻酔などない。
酒を飲ませ数人がかりで身体を押さえる。
そして刃を入れる。
悲鳴が陣営中に響いた。
九日目。
城内へ密かに潜り込む作戦が試みられた。
夜陰に紛れ。
少数の兵が北側の崖を登る。
城側が最も警戒していない場所。
そこから城壁を越え内側から門を開ける。
そのはずだった。
だが夜明け前、城壁の上から松明が投げ落とされた。
続いて悲鳴。
登っていた兵士たちが見つかったのだ。
岩が落とされる。
矢が飛ぶ。
暗闇の中崖から落ちていく人影が見えた。
戻ってきたのは送り出された者の半分にも満たなかった。
十日目。
包囲陣には。
疲労と焦りが広がっていた。
食料はまだある。
だが長引けば公爵軍が到着する。
そうなれば城内の敵と外から来る公爵軍に挟まれる。
諸侯の間では包囲を解くべきだという声も出始めた。
このままでは兵を無駄に失うだけだ。
公爵軍が来る前に下ロール領へ退くべきだ。
そんな噂が。
兵士たちの間にも広がった。
夜。
レオンは軍議から戻ると。
兜を机へ置いた。
表情は険しい。
「明日」
彼は言った。
「総攻撃が行われる」
「城を落とせなければ?」
「撤退だ」
「公爵軍が近付いているという報告が入った」
「あと何日?」
「早ければ三日」
時間がない。
明日の攻撃が最後になる。
「俺たちは?」
「正門を攻める」
「先鋒の一つだ」
レオンは俺の目を見る。
「俺の傍を離れるな」
「ああ」
「無理に前へ出るな」
一瞬返事をためらった。
この十日間。
何百人もの兵士が死んだ。
俺には城門を破る力があるかもしれない。
最初から使えばよかったのではないか。
何度もそう考えた。
だが自分の力がどこまで通用するのか分からない。
城門は魔物の首とは違う。
何本もの分厚い樫材を組み合わせ。
鉄帯を巻き。
内側には巨大な閂がある。
壊せる保証はない。
それに大勢の前で力を使えばもう隠すことはできない。
あの力は何だ。
魔法なのか。
必ず問われる。
恐れられるかもしれない。
利用されるかもしれない。
だからこれまで俺は黙って見ていた。
『主』
アークの声が頭へ響く。
足元を見る。
いつの間にかアークが天幕の入口へ座っていた。
『明日、前へ行くんですか』
「ああ」
『わいも』
「駄目だ」
強い口調で遮った。
アークの耳が伏せられる。
「明日は今までとは違う」
「俺もどうなるか分からない」
「だからこそ、お前は後ろにいろ」
『でも』
「駄目だ」
アークは俺を見つめた。
やがて小さく頭を下げる。
『……分かりました』
その声は今までになく素直だった。
だからこそ俺は少し不安になった。
十一日目。
夜明け前。
陣営にはいつもとは違う静けさがあった。
兵士たちは黙って装備を整えている。
冗談を言う者はいない。
誰もが分かっている。
今日多くの者が死ぬ。
俺はアークを荷駄隊へ連れていった。
「ここで待て」
『はい』
「絶対に来るな」
『はい』
「俺が戻るまで、荷駄長の言うことを聞け」
『分かりました』
アークは俺の顔を見上げていた。
尻尾は動かない。
俺はしゃがみその頭を抱き締めた。
「行ってくる」
『主』
頭の中へ小さな声が響く。
『絶対に帰ってきてください』
「ああ」
俺は立ち上がった。
振り返らずにレオンの元へ向かった。
東の空が赤く染まり始めた頃、オニギエ辺境伯が馬に乗り軍勢の前へ姿を現した。
黒い鎧。
銀の鷹を飾った兜。
その背後には。
辺境伯家の大旗が掲げられている。
「諸君!」
辺境伯の声が響く。
「十日間!」
「我らはあの城の前で血を流した!」
「多くの勇士が倒れた!」
「敵は我らが恐れたと思っている!」
「我らが退くと思っている!」
馬が前脚を上げる。
辺境伯は剣を抜き。
ロール城へ向けた。
「今日!」
「あの門を破る!」
「あの壁を越える!」
「奪われたものを取り戻し!」
「我らの血を流した者へ、報いを与える!」
兵士たちが盾を叩く。
一つ。
二つ。
やがて。
何千という盾が同時に鳴った。
地面が震える。
「ロール城を落とせ!」
「オオオオオオオッ!」
雄叫びが空を揺らした。
戦鼓が鳴る。
角笛が響く。
総攻撃が始まった。
投石機が。
一斉に石を放つ。
城壁へ岩が衝突し。
破片が飛び散る。
弓兵が矢を放つ。
空が黒く染まる。
その援護を受け歩兵たちが前進した。
俺はレオンのすぐ後ろを走った。
周囲をサトゥルドス家の兵士たちが固める。
城壁が近付く。
城兵の顔まで見える。
「盾を上げろ!」
レオンが叫ぶ。
直後矢が降り注いだ。
円盾へ矢が突き刺さる。
一本。
二本。
強い衝撃が腕へ伝わる。
横を走っていた兵士が倒れた。
目へ矢が刺さっている。
だが止まれない。
後ろから来る兵に押される。
足を止めれば踏み潰される。
俺たちは空堀へ入った。
前方では兵士たちが土嚢を積み破城槌の通り道を作っている。
城壁から石が落ちる。
大盾を持った男が頭から押し潰された。
兜が潰れ身体が不自然に折れ曲がる。
叫ぶ暇すらなかった。
「進め!」
破城槌が坂道を上ってきた。
前回壊されたものより大きい。
屋根には何重にも濡れた獣皮が重ねられている。
何十人もの兵が下から押していた。
俺たちは破城槌の左右を守りながら進んだ。
城門まであと五十歩。
矢が降る。
投石が落ちる。
熱湯が飛び散る。
盾を持った兵士たちが。
次々と倒れる。
後ろにいた者が盾を拾い代わりに前へ出る。
あと四十歩。
城壁から樽が落とされた。
地面へぶつかり砕ける。
油が広がった。
「火が来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
火矢が飛び油へ突き刺さる。
一瞬で炎が走った。
破城槌の前方が火に包まれる。
熱風が顔へ叩き付けられた。
兵士たちが怯む。
「止まるな!」
レオンが叫ぶ。
破城槌は進む。
濡れた獣皮が炎を防ぐ。
だが城壁から次の樽が落ちた。
破城槌の屋根へ直撃し油が広がる。
今度は屋根そのものが燃え始めた。
煙が内部へ充満する。
押していた兵士たちが咳き込み。
一人また一人と飛び出してくる。
「水を!」
「火を消せ!」
怒号が飛び交う。
その時頭上から。
巨大な石が落ちてきた。
破城槌の前部へ直撃。
轟音。
屋根が砕けた。
丸太を吊るしていた鎖が外れる。
破城槌の先端が地面へ落ちた。
下にいた兵士が挟まれる。
悲鳴。
動けない。
破城槌は城門まであと二十歩という場所で止まった。
「もう一度押せ!」
指揮官が叫ぶ。
兵士たちが破城槌へ取り付く。
だが丸太は地面へめり込み炎も消えていない。
城壁からは容赦なく矢と石が降る。
このままではまた同じだ、攻撃は失敗する。
兵士たちは退却し倒れた者だけが残される。
そして明日には公爵軍が来る。
俺は城門を見上げた。
厚い樫材。
黒い鉄帯。
幾つもの鋲。
その向こう側にある。
巨大な閂。
あれさえ壊せば。
道が開く。
「モーリ!」
レオンの声が聞こえた。
振り返る。
レオンは盾を掲げながら。
こちらを見ている。
「下がれ!」
その瞬間だった。
『主! 上や!』
聞こえるはずのない声が、頭の中へ鋭く響いた。
反射的に上を見る。
城壁の上で、数人の兵士が巨大な大釜を傾けていた。
釜の縁から、どろりとした赤黒い液体が溢れ出す。
熱した油。
浴びれば鎧の隙間へ流れ込み、皮膚を焼きながら全身へまとわりつく。
逃げる間もなかった。
俺は右手を上げる。
魔力を風へ変え、一気に放った。
空気が爆ぜた。
目の前に生まれた突風が渦を巻き、降り注いだ油へ正面からぶつかる。
赤黒い液体が空中で押し返され、俺たちの左右へ激しく飛び散った。
地面へ落ちた油が火を吸い、瞬く間に炎を上げる。
周囲の兵士たちが息を呑んだ。
俺の方を見る。
だが。
今の声。
俺は周囲を見回した。
『主!』
再び声が響いた。
今度は、より近い。
少し離れた場所。
壊れた荷車の陰から、黒と白の身体が飛び出した。
「アーク!?」
アークは矢と石が降り注ぐ中を、俺へ向かって全力で走ってくる。
地面へ突き刺さった矢を飛び越え、倒れた盾を避け、炎の上がる油溜まりの脇を駆け抜ける。
「来るな!」
『無理ですわ!』
「後ろで待てと言っただろ!」
『待っとりました!』
アークは走りながら言い返す。
『ずっと待っとりました!』
『けど、主が死ぬ思てる奴が、ぎょうさんおるんです!』
城壁の上から向けられる敵意。
殺意。
誰がどこを狙い次に何をしようとしているのか。
それがアークには聞こえている。
『右の塔! 弓!』
俺は盾を右へ向けた。
直後。
鋭い衝撃が腕へ伝わる。
一本の矢が盾へ深く突き刺さった。
『左! 石!』
身を引く。
次の瞬間。
俺が立っていた場所へ、人の頭ほどもある石が落ちた。
地面が揺れる。
砕けた石片が脚へ当たった。
アークは俺の傍へ駆け込んだ。
息を切らし、舌を出し全身を土と煤で汚している。
「馬鹿!」
『後で何ぼでも怒ってください!』
アークは俺の前へ出るように立った。
城壁を睨みつける。
『今は門です!』
怒っている暇などなかった。
もう力を隠している意味もない。
俺は盾を捨てた。
「レオン!」
少し後ろにいるレオンへ叫ぶ。
「門を壊す!」
レオンの目が見開かれた。
「何を――」
答えを待たず。
俺は前へ出る。
アークも俺の横を走った。
「お前は下がれ!」
『主の横が一番安全です!』
「どんな理屈だ!」
『わいが守ります!』
「お前を守るのは俺だ!」
『わいの方が魔力多いんですで!』
言い返す間もなく、正面から矢が飛んできた。
『正面! 三本!』
俺が左手を払おうとした、その時。
アークの身体から魔力が膨れ上がった。
目には見えない圧力が、俺たちの前へ広がる。
飛来した三本の矢が、空中で急停止した。
矢羽だけが細かく震えている。
まるで見えない壁へ突き刺さったかのようだった。
「アーク?」
『これくらい、わいにもできます!』
アークが吠える。
止まっていた矢が、一斉に弾き返された。
俺たちは炎上する破城槌の横を通り抜けた。
城門まで、あと二十歩。
城壁から巨大な石が投げ落とされる。
『上!』
アークが叫ぶ。
俺は右手を突き出した。
念動力が石を捉える。
重い。
落下の勢いまで加わっている。
腕へ強い負荷がかかる。
だが石は空中で止まった。
俺が手首を返す。
石は来た方向へ弾き返され、城壁へ激突した。
鈍い音。
胸壁が砕ける。
石の後ろにいた城兵が、悲鳴を上げながら吹き飛んだ。
城門まで十五歩。
頭上から矢の雨が降る。
『右の奴ら、まとめて撃ちます!』
アークが叫んだ。
俺は風を起こそうとした。
だがそれより早くアークが低く吠えた。
黒白の毛並みが、風もないのに逆立つ。
アークを中心に膨大な魔力が広がった。
降り注いだ何十本もの矢が。
俺たちの頭上で一斉に止まった。
『主!』
アークの声が響く。
『先へ!』
俺は前へ進んだ。
直後アークが魔力を外側へ押し広げる。
空中で止まっていた矢がまとめて左右へ吹き飛ばされた。
矢が地面や城壁へぶつかり土埃と火の粉が舞い上がった。
敵兵たちの叫び声が聞こえる。
「魔術師だ!」
「奴を殺せ!」
一斉に俺へ狙いが集まった。
殺す。
殺せ。
あいつを止めろ。
城壁の上から降り注ぐ殺意をアークが拾っている。
『わいを狙っとりますな』
「分かってるなら下がれ!」
『主は門に集中してください!』
「お前一人で防げるのか!」
『主より魔力多い言うたでしょう!』
アークの周囲で魔力が渦を巻く。
確かに俺とは量が違う。
「無茶するなよ!」
『それ、主にだけは言われたないですわ!』
城門まで十歩。
俺は立ち止まった。
右手を掲げる。
城門全体へ意識を集中した。
表面の板。
鉄帯。
鋲。
蝶番。
内側の閂。
目では見えない。
だが念動力を伸ばすと門の形が、厚みが、組み上げられた木材の一本一本が手で触れているかのように感じられた。
重い。想像していた以上に重い。
ただ押すだけでは壊れない。
ならば一点へ力を集める。
細く。
鋭く。
念動力を刃のように絞る。
そこへ風を重ねる。
空気が唸り始めた。
足元の砂が浮かび上がる。
城壁の旗が風に煽られ、激しくはためいた。
城門が軋む。
鉄帯が震える。
敵兵たちが、俺を止めようと一斉に矢を放った。
だが俺は動けない。
集中を解けば城門を捉えている念動力が崩れる。
『任せてください!』
アークが俺の前へ飛び出した。
その身体から、再び魔力が溢れる。
矢が空中で止まった。
一本。
十本。
二十本。
見えない壁へ次々と突き刺さる。
だが矢だけではなかった。
『上の兵、油を落とします!』
アークが叫ぶ。
城壁の上別の大釜が傾けられている。
俺は集中を解けない。
右手も動かせない。
「アーク!」
『分かっとります!』
アークが大地を踏み締めた。
四本の脚から魔力が流れ出す。
地面の砂と木片が浮き上がり。
俺たちの周囲で渦を巻いた。
熱した油が降り注ぐ。
その直前アークが大きく吠えた。
空気が爆発した。
アークの周囲から衝撃波が放たれる。
降り注いでいた油が空中で弾かれ、城壁側へ押し返された。
油の一部が大釜を傾けていた兵士たちへ降りかかる。
絶叫が上がった。
大釜が城壁から落ちる。
地面へ激突し赤黒い油と炎を撒き散らした。
「アーク!」
『大丈夫です!』
声は強い。
まだ余力がある。
俺が城門破壊のために全力を注いでいる間も。
アークは矢を止め、油を弾き、石を逸らし、広い範囲を覆う防壁を維持している。
それでも魔力が尽きる気配はない。
本当に俺よりも遥かに多い。
「切れろ」
歯を食いしばる。
頭の奥が痛む。
鼻の奥が熱い。
視界が滲む。
城門は軋んでいる。
だがまだ足りない。
念動力の刃が、鉄帯へ食い込む。
樫材の表面に細い亀裂が生まれる。
しかし門全体を切断するには俺の魔力だけでは足りない。
力が少しずつ薄れていく。
「くそっ……」
集中が途切れそうになった。
その時温かな何かが足元から流れ込んできた。
アークの前脚が俺の足へ触れている。
『主』
アークの声がすぐ傍から響く。
『わいの魔力、使ってください』
「そんなことができるのか?」
『分かりません!』
「分からないのかよ!」
『でも、流せそうです!』
次の瞬間。
アークから膨大な魔力が流れ込んだ。
身体の中へ洪水のような力が押し寄せる。
多すぎる。
制御できない。
俺の中にある魔力の器へ無理やり大河を流し込まれたような感覚だった。
全身が熱い。
血管の中を火が走る。
「アーク、少し抑えろ!」
『抑え方が分かりません!』
「お前な!」
『主が何とかしてください!』
無茶苦茶だった。
だが力はある。
俺は流れ込んでくる魔力を受け止める。
そのまま使えば城門だけでなく周囲の味方まで吹き飛ばす。
だから絞る。
広がろうとする魔力を細くさらに細く一枚の刃へ変える。
アークが力を生み俺が形を与える。
荒れ狂う濁流が少しずつ研ぎ澄まされた刃へ変わっていく。
城門が悲鳴を上げた。
木材が歪む。
鉄帯が弓のように反る。
『主!』
アークの声。
『いけます!』
『そのままです!』
なぜ分かるのか。
そんなことはどうでもよかった。
アークの魔力が。
俺の念動力へ重なる。
俺の風がアークの膨大な力を包み込む。
一人では作れなかった巨大で鋭く重い刃。
「切れろッ!」
右手を振り下ろす。
空気が裂けた。
耳をつんざく轟音。
見えない巨大な刃が城門を斜めに走る。
樫材が割れ、鉄帯が弾け、鋲が引き千切られ、内側の閂が断ち切られる。
一瞬遅れて門の中央に細い亀裂が現れた。
亀裂は端から端まで走る。
次の瞬間巨大な城門が内側へ崩れ落ちた。
木片。
鉄片。
石の破片。
すべてが爆発するように吹き飛ぶ。
地面が揺れた。
土煙が正門を覆う。
戦場から音が消えた。
敵も味方も誰もが崩れた城門を見つめている。
俺は右手を突き出したまま荒い息を吐いた。
指先が震えている。
鼻から温かいものが流れた。
血だった。
頭が痛い。
身体の中へ入ったアークの魔力を無理やり細く制御した反動だ。
脚から力が抜けるその場へ膝をつきかけた。
アークが俺の身体へ横からぶつかった。
『主!』
アークの身体を支えに。
どうにか踏みとどまる。
「お前……魔力を流しすぎだ」
『加減が分からんかったんです』
「少しどころじゃなかったぞ」
『門は壊れましたやん』
「俺まで壊れるところだった」
『壊れてません』
「壊れかけた」
『次は気を付けます』
本当に分かっているのか怪しい。
だが城門は壊れた。
俺一人の力ではない。
アークが防ぎアークが魔力を与え俺がそれを刃へ変えた。
二人で壊した。
その時背後からレオンの声が響いた。
「門が開いたぞ!」
我に返った兵士たちが顔を上げる。
レオンは剣を抜き崩れた城門へ向けた。
「突撃ッ!」
雄叫びが上がる。
「オオオオオオオッ!」
辺境伯軍が動く。
何百何千という兵士が崩れた門へ殺到する。
俺たちの横を駆け抜けていく。
肩を叩く者。
歓声を上げる者。
俺はその声を聞きながらその場へ座り込みそうになった。
レオンが腕を掴む。
「立てるか?」
「ああ」
「なら来い」
彼は俺を引き起こした。
「まだ終わっていない」
その通りだった。
城門を破っただけだ。
城はまだ落ちていない。
「アーク」
俺は荒い息のまま言う。
「今度こそ後ろへ――」
言いかけて口を閉じた。
アークがいなければ俺はここまで来られなかった。
矢を防いだのも油を押し返したのも最後に足りない魔力を補ったのも全部アークだ。
守るべき犬。
後方へ置くべき存在。
そう考えていた。
だが違うアークは俺と同じ魔法を使い。
自分の意志でここへ来た。
俺よりも多い魔力を持ち俺を守りながら戦える相棒だ。
『今度こそ後ろへ戻れ、ですか?』
アークが尋ねた。
少しだけ不安そうな声だった。
俺は首を横へ振る。
「違う」
『ほな、何です?』
俺はアークを見る。
「一緒に来い」
アークの耳が立った。
『ええんですか』
「ああ」
「ただし」
俺は指を一本立てる。
「俺から離れるな」
アークの尻尾が大きく揺れた。
『もちろんです』
「勝手に魔力を全部流すな」
『善処します』
「善処じゃない」
『気を付けます』
「大きな魔法を使う時は先に言え」
『主もですで』
「分かった」
『無茶せんでください』
「お前もな」
『わいは魔力多いから大丈夫です』
「そういう問題じゃない」
時間はない。
俺たちは兵士たちの後を追い城内へ入った。
門の内側には敵兵が槍衾を作って待ち構えていた。
狭い通路。
両側は高い石壁。
正面には盾と槍の列。
辺境伯軍の先頭が突っ込む。
槍が刺さる。
兵士が倒れる。
後続が押し寄せる。
逃げる場所はない。
人と人がぶつかる。
盾が軋む。
槍が折れる。
「押せ!」
「下がるな!」
怒号と悲鳴が入り交じる。
城兵は門の奥へ簡易の柵を作っていた。
崩れた門を抜けてもすぐには城内へ広がれない。
前列の兵士たちは柵へ押し付けられ頭上から矢を浴びる。
『主』
アークが城内を見回す。
『上から矢が来ます』
「防げるか?」
『任せてください』
アークが一歩前へ出る。
魔力の壁が密集する味方の頭上へ広がった。
城壁から放たれた矢が次々と空中で止まる。
だが今度は先ほどのように弾き返さない。
止めたまま横へ流す。
矢は味方のいない通路の端へ落ちた。
「加減できるじゃないか」
『今覚えました』
「本当か?」
『多分』
「怖いことを言うな」
周囲の兵士が俺たちの作った隙を使って前へ進む。
だが正面の柵が邪魔だった。
敵兵が柵の向こうから槍を突き出す。
『あれ、飛ばしましょか』
「味方が近い」
『ほな、上だけ飛ばします』
アークが柵を睨んだ。
上部の木材だけが激しく震える。
次の瞬間。
柵の上半分が敵兵側へ吹き飛んだ。
木材へ身体を打たれ数人の城兵が倒れる。
「今だ!」
辺境伯軍の兵士たちが、低くなった柵を乗り越える。
槍衾が崩れた。
正門の内側へ味方が雪崩れ込む。
『右です!』
アークが叫ぶ。
門の内側の壁の上へ続く石段。
敵兵がそこから次々と降りてきていた。
「レオン!」
俺が指差す。
レオンもすぐに気付いた。
「サトゥルドス兵、右の石段を取る!」
俺たちは兵を率い石段へ向かった。
上から敵が槍を突き下ろす。
『来ます!』
先頭の兵士が盾を上げる。
槍が盾へ刺さった。
俺は左手を突き出す。
だがアークの方が早かった。
小さな衝撃波が階段を駆け上がる。
強すぎない。
敵兵だけの足元を崩す程度に抑えられている。
階段上の男たちが、まとめて体勢を崩した。
「今だ!」
その隙にレオンが駆け上がる。
剣を横へ振るう。
一人の腕が斬られる。
返す刃で二人目の首元を切る。
俺も後へ続く。
敵兵が剣を振り下ろす。
『右上!』
円盾で受ける。
重い衝撃。
身体が沈む。
剣を突き出す。
剣先が鎖帷子へ当たり滑る。
もう一度。
今度は喉へ刺さった。
手に生々しい感触が伝わる。
男の目が大きく見開かれた。
剣を抜くと血が噴き出す。
男が倒れる。
その顔を見る暇はなかった。
『前です!』
アークの声が飛ぶ。
盾を上げる別の剣が盾へ叩き付けられた。
敵の身体を押し返そうと風を放つ。
だが城門を壊した反動で魔力が思うように動かない。
風が弱い。
敵は一歩下がっただけだった。
『主、わいの使ってください!』
アークの魔力が流れ込む。
「少しだけだぞ!」
『分かっとります!』
今度は本当に少しだけだった。
必要な分だけ俺の中へ魔力が加わる。
風が強まる。
敵兵が壁へ吹き飛ばされた。
後続の兵士が槍で仕留める。
俺たちは石段を登り切った。
城壁の上では激しい乱戦が起きていた。
辺境伯軍の梯子が次々と掛けられ外からも兵士が登ってくる。門が破られたことで城兵の注意が分散したのだ。
だが城壁は狭い。味方と敵が入り乱れている。
アークが大きな魔法を使えば味方まで巻き込む。
『やりにくいですな』
「だから勝手に撃つなよ」
『分かっとります』
アークは低く身を沈める。
敵兵たちの思考を読む。
『三歩先の男、主を狙っとります』
男が味方兵を押し退け俺へ剣を突き出す。
俺は半歩下がり刃を盾で逸らす。
アークが男の足元だけへ魔力をぶつけた。
男の右脚が横へ弾かれ、体勢が崩れる。
俺は剣を振り男の肩口へ刃を食い込ませた。
『その後ろ、レオンはんを狙ってます!』
「レオン、後ろ!」
レオンが振り返る。
背後から振り下ろされた斧を剣で受け止める。
押し返し相手の胸を貫く。
一人。
また一人。
俺たちは前へ進む。
アークは。
広い魔法を無闇に放たなかった。
敵の足。剣を持つ手。盾の端。必要な場所だけへ小さく魔力をぶつける。
粗かった制御が戦うたびに少しずつ細かくなっていく。
俺が教えたわけではない。
アーク自身が俺の魔力の使い方を見て真似ている。
城壁の一角が奪われる。
続いて。
塔が奪われる。
辺境伯家の旗が掲げられた。
「城壁を取ったぞ!」
歓声が上がる。
だが敵は内城へ退いた。
ロール城は外壁だけではない。
城の中央にはさらに高い石壁に囲まれた内城がある。
ディートラップと上ロール家の重臣たちはそこへ籠もった。
外城を制圧するだけで半日を使った。
城内の建物からも抵抗が続く。
窓から矢が飛ぶ。
路地の角から槍が突き出される。
倉庫へ隠れていた兵士が背後から襲いかかる。
だが今のアークは敵の思考を読むだけではない。
『その家の中に三人!』
アークが吠える。
『一人、窓から矢を撃ちます!』
窓へ人影が現れる。
俺が風を放つより先にアークが魔力をぶつけた。
窓枠が内側へ砕ける。
弓兵が悲鳴とともに部屋の奥へ倒れた。
『もう二人は、扉の左右です!』
俺はレオンへ伝える。
「扉の両側にいる!」
レオンが兵へ合図する。
二人が大盾を構え、扉を蹴破った。
内側から剣が振られる。
だが待ち構えていた盾に阻まれる。
後続の兵が槍を突き込む。
建物が制圧される。
『屋根に一人!』
上を見る。
瓦屋根の陰から敵兵が石を抱えて立ち上がった。
アークが短く吠える。
男の足元の瓦だけが吹き飛ぶ。
敵兵は足を滑らせ屋根の反対側へ転がり落ちた。
『角の向こう、槍です!』
俺たちは盾を前へ出す。
予告通り角から槍が突き出された。
穂先が盾へ突き刺さる。
兵士たちが一斉に角を回り待ち伏せていた敵を取り囲んだ。
敵が姿を現すより早くアークが教え、俺が方向を示す。兵士たちが構え、必要ならアークが魔法で敵の動きを崩す。
奇襲を防ぎ一つずつ建物を制圧していく。
俺一人で戦っていた時とは違う。
アークは守られているだけではない。
俺よりも多い魔力を使い俺の隣で確かに戦っている。
俺たちはさらに先へ進んだ。
夕方近く内城への攻撃が始まった。
外城より小さいが壁は厚く門も堅い。
だが守兵はすでに疲れ切っている。
外壁を奪われたことで士気も崩れていた。
投降する者が現れ始める。
武器を捨て両手を上げ門から出てくる。
アークは一人ずつを見つめていた。
『あの人ら、本気で降参してます』
「偽りじゃないか?」
『戦いたないことしか考えてません』
それでもディートラップは降伏しなかった。
内城の塔に立ち徹底抗戦を命じる。
「マインセ公爵軍は来る!」
「今日を耐えれば我らの勝ちだ!」
その言葉で踏みとどまる兵士もいた。
辺境伯軍は内城門へ破城槌を運んだ。
今度は妨害する城兵が少ない。
丸太が門へ叩き付けられる。
一度。
二度。
三度。
鈍い音が響く。
門が軋む。
五度目。
閂が折れた。
内城門が開く。
辺境伯軍が突入する。
最後の戦闘は短かった。
狭い中庭で。
上ロール家の兵と辺境伯軍がぶつかる。
逃げ場はない。
剣。
槍。
盾。
肉が裂け。
骨が砕ける音。
血が石畳を濡らす。
アークは。
俺のすぐ後ろを離れなかった。
ディートラップは主塔へ逃げ込んだ。
だが日が沈む前主塔の上から白旗が掲げられた。
ディートラップの部下たちが彼を拘束して降伏したのだ。
主のために死ぬより自分たちの命を選んだ。
城内へ歓声が響いた。
「勝ったぞ!」
「ロール城を落とした!」
兵士たちが槍を掲げる。
盾を叩く。
抱き合う。
泣く。
十一日間。
何度も失敗し多くの兵士が死んだ。
それでもロール城は陥落した。
主塔から上ロール家とマインセ家の旗が引きずり下ろされる。
代わりにオニギエ辺境伯家の銀の鷹そして下ロール家の旗が掲げられた。
夕日を受け二つの旗が城の上ではためく。
俺は血に濡れた石段へ座り込んだ。
右腕に力が入らない。
頭痛が続いている。
鼻血は止まったが身体の芯が空になったように重い。
自分の手を見る乾いた血がこびりついている。
「生きているか?」
レオンが隣へ腰を下ろした。
鎧には幾つもの傷が刻まれ、頬にも浅い切り傷が走っている。
乾き始めた血が、顎の近くまで細く垂れていた。
「ああ」
そう答えた自分の声は、ひどく掠れていた。
喉が焼けたように痛い。
身体の中には、もうほとんど力が残っていなかった。
「お前のおかげで城が落ちた」
レオンは正面を見たまま言った。
主塔の上では、マインセ家の旗が引きずり下ろされている。
代わって掲げられたのは、オニギエ辺境伯家の銀の鷹と、下ロール家の旗だった。
夕日を受けた二つの旗が、血と煙に染まった城の上ではためいている。
「俺だけじゃない」
俺は自分の手を見た。
指先はまだ小さく震えている。乾いた血と泥が、皮膚の皺へこびりついていた。
「みんなが戦った」
城壁を登った兵。
破城槌を押した兵。
矢を受けながら梯子を支えた兵。
門が開いた後、槍衾へ飛び込んだ兵。
俺が門を壊しただけで、城が落ちたわけではない。
レオンはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「ああ」
「そうだな」
それから。
俺の横へ伏せているアークへ目を向けた。
「後方で待てと言ったはずだが」
アークは顔を上げ、レオンを見つめた。
もちろんレオンにはアークの言葉は聞こえない。
アークが念話を使えることも。
人の思考を読めることも知らない。
まして城門の前で俺へ魔力を渡していたことなど、想像すらしていないだろう。
周囲の兵士たちも同じだった。
矢や石を避けられたのは、アークが危険を察知して吠えたから。
城壁から降る矢が逸れたのは、すべて俺の魔法。
そう思われている犬が魔法を使うなど誰も考えてはいなかった。
アークはレオンの言葉の意味を理解すると、ゆっくり立ち上がった。
そして何食わぬ顔で俺の背後へ回り込む。
大きな身体の半分ほどしか隠れていない。
『主』
頭の中へ、小さな声が響く。
『ここは上手いこと言うてください』
「お前」
思わず声が漏れた。
レオンが眉を上げる。
「どうした?」
「いや」
俺は咳払いした。
「俺からも後で叱っておく」
『ほんまに叱るんですか』
「そうしてくれ」
レオンはそう答えたが口元がほんの少しだけ緩んでいた。
アークもそれに気付いたのか俺の背後から、そっと顔を出す。
『レオンはん、ほんまは怒ってませんな』
「黙ってろ」
「何がだ?」
「何でもない」
レオンは不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
城内では、すでに次の作業が始まっている。
捕虜の拘束。
負傷者の手当て。
火災の消火。
倉庫の確認。
井戸へ毒が投げ込まれていないかの調査。
崩れた門と城壁の応急修理。
死体の回収。
抵抗を続ける敵兵の捜索。
戦が終わったわけではない。この城を守らなければならない。
城門を開けたことで勝利は得られたが同じ壊れた門から、今度は敵が入ってくるかもしれない。
兵士たちは勝利を喜ぶ間もなく、倒れた荷車や木材を運び、崩れた正門を塞ぎ始めていた。
捕虜となった城兵も駆り出される。
つい先ほどまで殺し合っていた者たちが今は同じ場所で石を運んでいた。
俺は立ち上がろうとした。
だが、膝に力が入らない。
身体が前へ傾く。
レオンが腕を掴んだ。
「休め」
「まだ手伝える」
「その状態で何をするつもりだ」
「石くらいなら」
「座っていろ」
レオンの声は有無を言わせなかった。
仕方なく、再び石段へ腰を下ろす。
アークも俺の横へ戻ってきた。
『主は休んだ方がええです』
「誰の魔力を流し込まれたせいだと思ってる」
『門は壊れましたやん』
「加減しろと言っただろ」
『あの時は初めてやったんです』
「次は気を付けろ」
『次もやる気ですか』
「必要ならな」
アークの尻尾が地面を叩いた。
『ほな、練習せなあきませんな』
「ああ」
人のいない場所で少しずつ。
アークから俺へ流す魔力の量を調整する必要がある。
今回のように一気に流し込まれれば次は城門より先に俺の身体が壊れるかもしれない。
だがそれを周囲へ説明することはできない。
夜になると、兵士たちへ酒と食事が配られた。
勝利を祝うためだ。
中庭には幾つもの焚き火が焚かれた。
鍋では肉と豆が煮込まれ奪取した城の倉庫から運び出された酒樽が開けられる。
戦いを生き延びた兵士たちは、木杯を打ち合わせた。
歌う者。
踊る者。
泣く者。
失った仲間の名を叫びながら酒を飲む者。
笑い声のすぐ隣から嗚咽が聞こえる。
勝利の宴というより生き残ったことを確かめるための騒ぎだった。
俺にも木杯が渡された。
だが一口だけ飲み、残りは脇へ置いた。
頭痛がまだ収まっていない。
酒を飲めば、倒れてしまいそうだった。
アークには骨の付いた大きな肉が一切れ与えられた。
昨日まで薄い粥や干し肉ばかりだったせいかアークの目が輝いている。
『戦に来て初めて、まともな飯ですな』
「お前は命令違反したんだぞ」
アークは肉へ噛みつきながら、こちらを見る。
『それと飯は別です』
「後で説教だからな」
『肉食べた後にお願いします』
「食べてる間に逃げ方を考えるなよ」
『そんなこと考えてません』
「目を逸らすな」
アークは返事をせず。
肉を押さえていた前脚へ力を込めた。
『冷めたら不味なりますから』
「犬が贅沢を言うな」
『命懸けで戦った犬ですで』
「誰が来いと言った」
『またその話ですか』
「まだ終わってない」
アークは聞こえないふりをして肉を噛み始めた。
だが勝利の歓声は長く続かなかった。
日が沈みきる直前、西門の方から、慌ただしい蹄の音が近付いてきた。
一騎の騎馬が、止めようとする兵士たちを押し退けるように中庭へ駆け込んでくる。
馬は口から泡を吹いていた。
脚は傷つき蹄の周囲まで血で濡れている。
騎手も泥と汗にまみれ。
外套は枝に引っかけたのか、何か所も裂けていた。
「急報!」
中庭に歓声が消えた。
伝令は馬から転げ落ちるように降り、辺境伯の前へ膝をつく。
「北西街道にマインセ公爵軍を確認! 総勢二万!」
――ロール城を落とした戦いは、まだ終わっていなかった。




