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開戦前夜

「まず、ロール家について説明しよう」

レオンは机の上へ一枚の地図を広げた。

俺も身を乗り出す。

サトゥルドス子爵領より西。

そこには二つの伯爵領が並んで描かれていた。

上ロール伯爵領。

下ロール伯爵領。

さらに西には、この地方最大の勢力を持つマインセ公爵領。

東にはオニギエ辺境伯領が広がっている。

「上ロールと下ロールは別の伯爵家じゃないの?」

「今は別家だ」

レオンは頷いた。

「だが元は、一つのロール伯爵家だった」

「いつ分かれたの?」

「四代前だ」

レオンは地図の横へ、一枚の古びた系図を置いた。

「四代前のロール伯爵には二人の男子がいた」

指先が長男を示す。

「長男」

続いて次男。

「次男」

「本来なら長男がすべてを継ぐはずだった」

「じゃあ何で二つになったの?」

「揉めたからだ」

レオンは静かに答えた。

「先代伯爵が病に伏した時、長男派と次男派に家臣団が割れた」

「継承争いがあったの?」

「ああ」

「互いに兵を集め、一触即発になった」

「戦ったの?」

「本格的な戦にはならなかった」

レオンは首を横へ振る。

「当時、この地方へ強い影響力を持っていたマインセ公爵と、オニギエ辺境伯が仲裁へ入った」

「仲裁?」

「ああ」

「長男へ伯爵位と西側の領地」

「次男へ伯爵位に準ずる権限と東側の領地」

「そうして一つのロール伯爵家は二つへ分かれた」

「それが上ロールと下ロール」

「そうだ」

俺は地図を見る。

西側。

マインセ公爵領と接する上ロール。

東側。

オニギエ辺境伯領と接する下ロール。

「その時から?」

「ああ」

レオンは頷く。

「上ロール家はマインセ公爵家との結び付きが強くなり、下ロール家はオニギエ辺境伯家との結び付きが強くなった」

「家臣になったの?」

「いや」

レオンは首を振る。

「どちらも独立した伯爵家だ」

「だが」

そこで言葉を切る。

「婚姻。軍事同盟。交易。裁判の仲裁。様々な場面で、それぞれ公爵家と辺境伯家を頼るようになった」

「完全な臣従じゃない」

「ああ」

「だが、強い後ろ盾ではある」

「だから四代経った今でも上ロールは公爵寄り。下ロールは辺境伯寄り」

「そういうことだ」

レオンは系図へ目を落とした。

「皮肉なことにな」

「え?」

「四代前も継承争いだった。そして今もまた継承争いだ」

部屋が静まり返った。

レオンは静かに息を吐いた。

「上ロール伯爵家に男子がいなくなった」

部屋の空気が少しだけ重くなる。

「先代の上ロール伯爵には三人の子がいた」

「男子が二人、女子が一人」

「そうだ」

「長男は十五年前、馬から落ちて死亡」

「次男は昨年、疫病で死亡」

「残されたのは末娘」

「エリシア・トール・ロールだけになった」

俺は頷く。

「そのエリシア様が、マインセ公爵の庶子と結婚した」

「ああ」

「バルナ・トール・マインセ」

レオンはその名を口にした。

「婚姻は二年前だ」

「先代伯爵も認めていた?」

「認めている」

「じゃあ普通の結婚だった?」

「当時はそう見られていた」

レオンは肩をすくめた。

「まさか一年後に次男が亡くなるとは思われていなかった」

俺は系図を見る。

「それで?」

「先代上ロール伯爵は、死の三日前」

レオンは別の羊皮紙を取り出した。

蝋印の押された複写だった。

「娘エリシアへ家督を継がせるという遺言を残した」

「遺言」

「ああ」

「本物なの?」

「分からない」

レオンは即答した。

「伯爵印は本物だ。筆跡も本人だと言われている。だが」

そこで言葉を切る。

「証人は皆、上ロール家の家臣だった」

「下ロール側はいない」

「当然だ」

「だから下ロール伯爵は認めない」

「ああ」

俺は腕を組む。

「でも、娘に継がせたいと思うのは普通じゃない?」

「そう思う者もいる」

レオンは否定しなかった。

「二人の息子を失い、最後に残った実子だ」

「娘へ家を残したいと思っても不思議ではない」

「でも下ロール側は違う」

「ああ」

レオンは系図のもう一方を指した。

「この地方では、昔から男系で家を継ぐ。だから男系が絶えれば最も近い男系親族が継ぐ」

「それが現下ロール伯爵」

俺はゆっくり頷いた。

「つまり下ロール伯爵は『慣習なら自分』と主張して公爵側は『遺言ならエリシア』と主張している」

「そういうことか」

「ああ」

レオンは頷いた。

「皇帝が健在なら、どちらかへ裁定が下されたかもしれない」

「だが皇帝位は空位」

「誰も最終的な裁定を下せない」

「だから」

「諸侯が好き勝手に動く」

部屋が静かになる。

「でも」

俺は気になったことを尋ねた。

「上ロール家の家臣は何でバルナ側に付くんだ?」

「遺言を信じているから?」

レオンは少し笑った。

「全員がそうなら、美しい話なんだがな」

「違う?」

「ああ」

彼は地図ではなく。

上ロール伯爵領の城を指差した。

「家臣にも守るものがある」

「家族?」

「それもある」

「だがもっと現実的だ」

レオンは指を折る。

「城代」

「代官」

「徴税官」

「銀山監督官」

「騎士団長」

「皆今の上ロール家によって任じられている」

俺は理解した。

「下ロール伯爵が来れば」

「自分の腹心を連れてきて今の役職は失う」

「そうだ」

レオンは静かに言う。

「もちろん全員ではない」

「能力を買われれば残る者もいる。だが保証はない。だから自分たちの地位を守るため。バルナへ付く。忠義だけじゃない。保身でもある」

レオンは苦笑した。

「貴族も家臣も、人間だからな」

俺はもう一度系図を見る。

どちらにも理屈はある。

下ロール伯爵は昔から続く慣習を守ろうとしている。

バルナ・トール・マインセは死の床の遺言を掲げている。

そして上ロール家の家臣たちは自分たちの地位を守るために公爵側へ付いた。

「それで」

俺は地図の北側を見た。

「どうしてマインセ公爵が、ここまで本気になる?」

「庶子一人のためとは思えない」

レオンは静かに頷いた。

「そこから先は」

彼の指が上ロール伯爵領北部の山岳地帯へ止まる。

「銀山の話になる」

「銀山」

レオンは山岳地帯を指でなぞった。

「五年前、上ロール領北部で大きな銀脈が見つかった」

「今では帝国でも指折りの銀山だ」

「そんなに凄いの?」

「ああ」

レオンは頷く。

「銀は領地を豊かにするだけじゃない」

「兵を養える。武具を揃えられる。飢饉になれば他領から穀物を買える。一つの銀山が、一つの伯爵家の力を何倍にもする」

俺は地図を見つめる。

銀山は上ロール領の中央より少し北。

完全に上ロール領の中だった。

「だからマインセ公爵は」

「ああ」

レオンは短く答えた。

「バルナがエリシアと共に上ロールを治めれば、その銀山は公爵家と強く結び付く」

「正式に公爵領になるわけではないが、公爵家の影響力は飛躍的に増す」

「逆に下ロール伯爵が継げば銀山は公爵家の手から遠ざかる」

「だから譲れない」

「そういうことだ」

俺は腕を組んだ。

「それでも継承争いだろ?それだけで辺境伯まで動くのか?」

「いや」

レオンは首を横へ振った。

「辺境伯は最初、様子を見ていた」

「ロール家の家督争いに、すぐ兵を出すつもりはなかった」

「じゃあ何があった?」

レオンは地図を指した。

そこには上ロール領と下ロール領の境界近くに、小さな印が描かれている。

「ここはオニギエ辺境伯の蔵入地だ」

「蔵入地?」

「辺境伯が家臣へ与えず、自ら治める直轄地だ。街道の要衝でもある」

「そこを」

レオンの表情が険しくなった。

「マインセ公爵の弟。ディートラップ・トール・マインセが襲った」

「弟が?」

「ああ」

「兵を率いて国境を越え、蔵へ押し入り、保管されていた穀物と銀貨を奪った」

「守備兵は抵抗したが数で押し切られた」

俺は眉をひそめる。

「どうしてそんなことを?」

「表向きは」

レオンは皮肉げに笑う。

「略奪ではない。辺境伯が下ロール伯爵を支援しようとしている証拠を掴んだ、と」

「もちろん辺境伯は否定した」

「証拠なんてない」

「ああ」

レオンは頷く。

「誰も信じてはいない」

「銀山を巡る争いで辺境伯が動く前に、一度殴って反応を見る。それが本当の狙いだと皆考えている」

「辺境伯は?」

「当然、抗議した」

レオンは答えた。

「使者を送り、奪われた財貨の返還と、ディートラップ・トール・マインセの引き渡しを求めた」

「マインセ公爵は応じたの?」

「応じるはずがない」

レオンは静かに首を振る。

「弟は独断で動いた、とだけ返した」

「そんな言い訳、信じるわけないだろ」

「辺境伯も同じ考えだった」

レオンは苦笑した。

「公爵家の直系が三百もの兵を率いて他領へ攻め込み、兄である公爵が知らなかったなど誰も思わない」

「じゃあ……」

「ああ」

レオンは地図の東を指差した。

「オニギエ辺境伯は、公爵が自ら仕掛けてきたと判断した」

部屋が静まり返る。

「その翌日辺境伯は諸侯を招集した」

「サトゥルドス家にも?」

「ああ」

レオンは頷く。

「命令は簡潔だった」

『武装を整え、プラモナスガーンへ集結せよ。』

「領都に兵を集めるのか」

「まずはな」

レオンは地図の一点を指で叩いた。

「辺境伯も、すぐ公爵領へ攻め込むつもりはない」

「まずは下ロール伯爵領へ敵が侵入しないよう備える。だが」

そこでレオンの声が低くなる。

「時期が来れば辺境伯軍も動く」

「そうなれば」

「全面戦争だ」

俺は思わず地図を見つめた。

たかが一家の跡継ぎ争い。

そう思っていたが実際は違う。

銀山を巡る思惑。

公爵と辺境伯の長年の対立。

そして、一度流れた血。

すべてが重なり、小さな火種は大きな戦へ変わろうとしていた。

俺はゆっくり尋ねた。

「何人くらい兵を出す?」

「二百」

レオンは即答した。

「歩兵百五十」

「騎兵三十」

「弓兵二十」

「それが我が家の軍役だ」

「二百……」

想像していたより多い。

「もちろん領内の兵をすべて連れて行くわけじゃない」

「城と村を守る兵は残す」

「だが、それでも我が家にとっては大きな出兵だ」

レオンは地図を畳み始めた。

「出陣は五日後」

「それまでに兵を集め、糧食を積み、荷馬車を揃える」

「忙しいわけだ」

「ああ」

レオンは小さく笑った。

「だから屋敷中があれだけ騒がしかった」

俺はようやく納得した。

廊下を走る使用人。鍛冶場から響いていた金属音。庭へ並べられた荷車。

すべて戦へ向かう準備だった。

俺は静かに息を吐く。

「レオン」

「何だ?」

「俺も連れて行ってくれ」

レオンは何も言わなかった。

ただ、じっと俺の目を見つめていた。

長い沈黙が流れる。

やがて、小さく息を吐いた。

「……頼む」

その一言だった。

「俺の従士として来てくれ。今回の出陣で、俺の傍を離れるな。護衛も伝令も、お前に任せたい」

俺は思わず笑った。

「もちろんだ」

「最初からそのつもりだ」

レオンもわずかに口元を緩める。

「父上からも許しは出ている」

「お前は今日から正式に俺の従士だ」

その日のうちに装備が支給された。

鎖帷子。

鉄兜。

短槍。

円盾。

一人の従士として戦場へ立つ資格は与えられた。


翌朝。

まだ東の空が白み始めたばかりだというのに、サトゥルドス子爵邸はすでに騒然としていた。

中庭には武装を整えた兵士たちが列を作り、家臣たちが一人ずつ槍や盾を確認している。

鍛冶場からは、刃こぼれを直す槌の音が絶え間なく響いていた。

厩では馬丁たちが馬へ鞍を載せ、荷馬車の周囲では使用人たちが麦袋や干し肉の樽を積み込んでいる。

武器。

食料。

水。

薪。

馬の飼葉。

天幕。

鍋。

縄。

釘。

戦へ向かうというのは、兵士だけを並べれば済む話ではないらしい。

庭のあちこちを走り回る人々の顔には、明らかな焦りが浮かんでいた。

一方門の外には、出征する兵士たちを見送る家族が集まっている。

夫の腕を離そうとしない妻。

父親の脚へしがみつく幼い子供。

黙ったまま息子の肩を叩く老人。

兵士たちは笑っていた。

すぐに戻ってくる。

心配するな。

そんな言葉を繰り返している。

だがその笑顔の裏にある不安までは隠し切れていなかった。

本当に帰ってこられるのか。

誰にも分からない。

俺は鎖帷子の上から革帯を締め直した。

鉄輪が擦れ合い、細かな音を立てる。

腰には剣。

背には円盾。

右手には短槍。

「主」

足元から声がした。

黒と白の毛並みを持つアークが、俺の足元に座っていた。

普段と違う格好をした俺を、落ち着かない様子で見上げている。

『ほんまに行くんですか』

「ああ」

俺は周囲へ聞こえないよう、小さく答えた。

「もう決まったことだ」

アークの耳が後ろへ倒れる。

『戦争なんでっしゃろ』

「ああ」

『人間同士で殺し合う』

返事に詰まった。

言葉にしてしまえば、その通りだ。

俺が何も答えずにいると、アークは立ち上がった。

『ほな、わいも行きます』

「駄目だ」

思わず即答する。

『何でですの』

「危険だからだ」

『主は行くのに?』

「俺はレオンの従士になった。行かなきゃならない」

『わいは主の犬です』

アークは真っ直ぐに俺を見た。

『主が行くんやったら、わいも行きます』

「遊びに行くんじゃないんだ」

『分かっとります』

『せやから行くんです』

アークは一歩、俺へ近付いた。

『この前、約束したやないですか』

何かあれば一緒に逃げる。

勝手に一人で残らない。

俺も。

アークも。

そう約束した。

『主だけ危ない所へ行って、わいだけここで待っとれ言われても、そんなん無理ですわ』

「でもな」

『嫌です』

珍しくアークは俺の言葉を遮った。

『置いていかれて、主が帰ってこんかったら』

そこで声が止まる。

アークは顔を逸らした。尻尾が下がっている。

『わいは、どうしたらええんですか』

それ以上何も言えなくなった。

俺がしゃがみ込み、アークの首元へ手を置いた時だった。

「何をしている?」

後ろからレオンの声がした。

振り返る。

すでに鎧を着込んだレオンが、騎乗したままこちらを見下ろしていた。

俺とアークを交互に見る。

「アークを置いていくよう説得していた」

「失敗したようだな」

「ああ」

レオンはアークを見る。

アークもまた。

レオンを見上げていた。

もちろんレオンには念話は聞こえない。

アークの言葉が届くのは、今のところ俺だけだ。

「連れていけ」

レオンはあっさりと言った。

「いいのか?」

「犬一匹分の食料に困るほど、我が家は貧しくない」

「そういう問題じゃなくて」

「分かっている」

レオンは表情を引き締めた。

「行軍中はお前の傍に置け。陣営では迷惑をかけないよう見張れ」

「戦闘が始まれば?」

「荷駄隊へ預ける」

「前線へは絶対に連れてくるな」

「ああ」

俺は頷いた。

それからアークへ顔を向ける。

「聞いたな」

『聞きましたで』

「戦いが始まったら、後ろで待つんだ」

『分かりました』

「絶対にだぞ」

『分かりましたって』

返事が妙に早い。

俺は目を細めた。

「本当か?」

『信用ないですなあ』

「お前の日頃の行いのせいだ」

『犬に日頃の行い言われましても』

アークは口を開けいつものように舌を出した。

だがその尻尾が小さく左右へ振られているのを見て。

俺も少しだけ安心した。

やがて館の門前で角笛が鳴った。

兵士たちの話し声が止まる。

列の先頭にはサトゥルドス家の旗。

続いて騎兵三十。

歩兵百五十。

弓兵二十。

さらに武器や糧食を積んだ荷馬車が並ぶ。

総勢二百。

領内の兵をすべて連れていくわけではない。

館と村を守る者は残る。

それでもサトゥルドス家にとっては大きな出兵だった。

レオンが馬上から右手を上げた。

「出発する!」

角笛が再び鳴る。

列の先頭が動き始めた。

家族へ手を振る兵士。

顔を伏せたまま歩き出す兵士。

何度も振り返る者。

俺はレオンの馬のすぐ後ろへ付いた。

正式な従士となった以上行軍中も戦場でも俺の居場所はレオンの傍だ。

アークは俺の左側を歩いている。

普段の散歩とは違う。

周囲には武装した兵士が並び馬と荷車が続く。

それでもアークは、俺から離れようとしなかった。

屋敷が遠ざかる。

丘の上に建つ石造りの館が、少しずつ小さくなっていく。

俺は一度だけ振り返った。

次にここへ戻ってくる時何人が欠けているのだろう。

そんな考えが浮かびすぐに前へ向き直った。

街道には、同じ方向へ進む軍勢が幾筋も見えた。

小さな男爵家の旗。

騎士だけを率いた下級貴族。

百人を超える兵と何十台もの荷馬車を連れた子爵家。

旗の色も兵の装備も進む速さも違う。

だが皆が目指している場所は同じだった。

オニギエ辺境伯の領都プラモナスガーン。

夏の日差しは、容赦なく兵士たちを照らした。

鎖帷子が熱を持ち肩へ食い込む。

街道を歩く数百人分の足が土埃を巻き上げ、汗をかいた顔や首筋へ張り付いた。

アークも舌を出しハアハアと荒い息を吐いている。

「大丈夫か?」

『これくらい余裕ですわ』

そう答える声とは裏腹にアークは街道脇の木陰へ視線を向けていた。

休みたいのだろうが軍勢は犬一匹の都合で止まってくれない。

俺は自分の革袋から掌へ水を少し出しアークへ飲ませた。

『主の分、減りますで』

「次の井戸で補給できる」

『ほんまですか』

「多分」

『多分て』

アークは不満そうに鼻を鳴らしたが結局、掌の水を綺麗に舐め取った。

行軍は想像していたよりも単調でそして苦しかった。

歩く。

止まる。

また歩く。

先頭が順調に進んでいても後方の荷車が泥へ嵌まれば、全軍が止まる。

橋を渡る時は列が詰まる。

兵士たちは鎧と武器を身に着けたまま何時間も歩き続ける。

途中で足を痛める者もいた。

暑さで倒れる者もいた。


初日の夕方。

街道沿いの開けた土地へ陣を敷いた。

兵士たちは荷を下ろし天幕を張り、馬へ水を飲ませる。

夕食は硬い黒パンと干し肉それに薄い麦粥。豪華さなど欠片もない。

それでも一日中歩き続けた後では驚くほど美味く感じられた。

アークには、味付けされていない煮肉と水へ浸して柔らかくしたパンを与えた。

『これ、味薄いですな』

「お前に塩辛い物を食わせるわけにいかないだろ」

『元の世界でも、よう分からん粒々の飯ばっかりでしたけど』

「ドッグフードのことか?」

『あれに比べたら肉があるだけ上等ですわ』

アークは文句を言いながらも皿を綺麗に舐めた。

夜になると見張りを残し、陣営は静かになった。

遠くで馬が鼻を鳴らす。

焚き火が爆ぜる。

眠れない兵士たちが、故郷の話をしている。

俺は地面へ敷いた外套の上で横になった。

アークは俺の脇腹へ身体を押し付けるように丸くなっている。

『主』

「何だ?」

『怖いですか』

俺は少し考えた。

「怖いよ」

『主でも怖いんですな』

「当たり前だろ」

『せやけど、魔物の首を飛ばした時は凄かったですやん』

「あの時は考えている余裕がなかった」

『今は考える余裕があるから怖い』

「そういうことだ」

アークはしばらく黙った。

やがて身体をさらに俺へ寄せる。

『大丈夫です』

『わいが付いとります』

「お前は後ろで待つんだぞ」

『分かっとりますって』

夜空には元の世界では見たことのないほど多くの星が浮かんでいた。


翌日も歩いた。

そして。

二日目の午後。

街道の先に巨大な城壁が見えた。

「あれがプラモナスガーンだ」

レオンが言った。

遠くからでもその大きさが分かる。

城壁にはオニギエ辺境伯家の旗が翻っていた。

だが俺の目を引いたのは城壁そのものではない。

城壁の前に広がる平原。

そこが天幕で埋め尽くされていた。

赤。

青。

黒。

白。

大小様々な天幕が地平線まで連なっている。

無数の旗が林立し一つの町が新たに生まれたようだった。

近付くにつれて音が押し寄せてくる。

馬の嘶き。

鍛冶屋の槌音。

荷車の車輪が軋む音。

兵士たちの怒号。

商人の呼び声。

あちこちで槍を合わせる訓練が行われ、伝令の騎馬が絶え間なく陣中を駆け回っている。

炊事場からは何十本もの煙が上がっていた。

肉を焼く匂い。

麦粥の匂い。

馬糞と汗の臭い。

湿った薪の煙。

様々な臭いが混じり合いむせ返るほどだった。

アークが鼻をひくつかせる。

『臭いが多すぎますわ』

「犬にはきついか?」

『人間には分からんと思いますけど、あっちで肉焼いとる匂いと、こっちの馬の糞と、その向こうの怪我人の血の臭いが、全部一緒に来ます』

「怪我人?」

俺が辺りを見る。まだ戦いは始まっていない。

『喧嘩でもしたんちゃいますか』

確かに少し離れた場所で、頭へ布を巻かれた兵士が仲間に支えられて歩いていた。

辺境伯軍はまだ一度も戦っていないというのにすでに一つの巨大な生き物のように脈打っていた。


『主。』

俺の隣を歩いていたアークが頭の中へ話しかけてくる。

『あの旗、魚ですか?』

アークが鼻先を向けた先。

青地に銀色の細長い魚が描かれた旗が立っている。

「魚に見えるな」

俺が小声で答えると。

レオンがこちらを見た。

「何がだ?」

「いや」

俺は旗を指差した。

「あの青い旗」

「魚が描いてある」

レオンは一度だけ旗を見る。

「あれは魚ではない。あの青地に銀の海蛇が、ヒョール男爵家」

「男爵家か」

「ああ。男爵家は伯爵や子爵ほど兵は多くないが、数が多い。こういう戦では欠かせない」

次に黄色い旗へ視線を移す。

「黄地に黒い牡牛はブント子爵家」

「子爵になると兵も増えるのか」

「男爵家よりはな。もっとも、領地によって差はある」

さらに少し離れた場所を指差す。

白地に赤い烏が描かれた旗が風を受けて翻っていた。

「あれはヴァント子爵家」

「子爵家なのか」

「元はポエール伯爵家の分家だ」

「分家?」

「嫡男以外の子が新たに興した家だ。本家との繋がりを示すため、紋章も似せることが多い」

「どこが似ている?」

「ポエール伯爵家は白地に二羽の赤烏」

「ヴァント家は一羽だけだ」

「本家と区別するためだ」

「なるほど」

俺は改めて旗を見渡した。

確かに、似た意匠の旗がいくつかある。

「全部覚えているのか?」

「近隣諸侯の紋章くらいは当然だ」

レオンは平然と言う。

「戦場では旗で味方と敵を見分ける」

「使者が来れば、どの家の人間かすぐ分からなければならない。宴席でも同じだ。紋章を知らないということは、その家を知らないと言っているのと変わらない」

「そんなに重要なのか」

「ああ。紋章学は、剣術や馬術と並んで貴族の教養だ」

俺はもう一度、平原を埋め尽くす旗へ目を向けた。

同じように見えていた旗も、名前を聞くだけで少し違って見える。

この軍勢は一つの軍ではない。

数え切れないほどの家が集まり、一つの軍を形作っているのだ。


俺たちは陣営の入口で止められた。槍を持った兵が進み出て旗と書状を確認する。

アークにも視線が向けられた。

「その犬は?」

「俺の犬だ」

「軍用犬か?」

「いや」

兵士は少し眉をひそめたが。

レオンが口を挟む。

「私の従士の犬だ。責任は私が持つ」

それ以上兵士は何も言わなかった。

案内役に従いサトゥルドス家へ割り当てられた区画へ向かう。

そこは領都の南門から少し離れた場所だった。

近隣の男爵家がすでに陣を敷いている。

俺たちもすぐに作業へ取りかかった。

天幕を立てて荷車を円形に並べる。

馬を繋ぎ糧食と武器を分けて保管する。

周囲へ浅い溝を掘る。

戦うために集まった軍勢とはいえ。

まず必要なのは寝る場所と飯を作る場所だった。

アークは最初こそ見慣れない場所と大勢の人間に落ち着かない様子だった。

だがすぐにサトゥルドス家の兵士たちの間で人気者になった。

「賢そうな犬だな」

「羊でも追わせる犬か?」

「こいつ、何を言っているか分かっているみたいだぞ」

兵士が話しかけるたびアークは首を傾げたり前脚を差し出したりした。

『この人ら、単純ですな』

「お前が愛想を振りまくからだろ」

『飯を分けてもらえるかもしれませんやん』

「拾い食いするなよ」

『主はわいを何やと思っとるんですか』

「犬」

『それはそうですけど』

その日から一週間俺たちはプラモナスガーンの城外で過ごした。

毎朝日が昇る前に角笛が鳴る。

兵士たちは列を作り点呼を受ける。

それが終われば訓練だ。

槍を構える。

盾を並べる。

隊列を組んで前進する。

合図と同時に止まりまた進む。

何百何千という兵を一度に動かすためには個人の強さよりも命令へ合わせて動くことの方が重要らしい。

俺はレオンの従士として彼の装備や馬の世話をしながら戦場で使われる旗や角笛の合図を教え込まれた。

一度の長い音は前進。

短い音を三度なら停止。

旗を横へ振れば隊列を広げる。

赤旗が上がれば全軍警戒。

覚えることは山ほどあった。

空いた時間には陣営の中を歩いた。

毎日新しい軍勢が到着する。

五十人ほどしか連れていない小領主もいれば五百を超える兵を率いた伯爵もいる。

到着するたび兵士たちは旗を見上げて噂した。

あれは誰の軍だ。

何人連れてきた。

騎兵が多い。

弓兵ばかりだ。

あの領主は辺境伯と仲が悪い。それでも来たのか。

集まった諸侯が全員辺境伯へ忠誠を誓っているわけではない。

軍役だから来た者。

マインセ公爵の勢力拡大を恐れている者。

下ロール伯爵へ恩を売ろうとする者。

戦で功績を立て領地を得ようとする者。

理由は様々だった。

アークは時折通り過ぎる貴族や兵士を見つめていた。

『あの人、怖がっとります』

『あっちの人は、戦で手柄立てることしか考えてませんわ』

『あの太った人は、帰った後に誰の土地を貰うか考えとります』

「人の頭を勝手に読むな」

『勝手に聞こえてくるんです』

「本当か?」

『半分くらい』

「半分は自分から読んでるんじゃないか」

アークは目を逸らした。


夜には大きな天幕で軍議が開かれた。

辺境伯。

下ロール伯爵。

有力な伯爵や子爵。

レオンも父の代理として何度か呼び出された。

戻ってくるたび顔には疲れが見えた。

「揉めているのか?」

ある夜天幕へ戻ったレオンに尋ねた。

「ああ」

レオンは剣を外し。

椅子へ座った。

「すぐ上ロール領へ攻め込むべきだという者もいれば、領都へ籠もって公爵軍を待つべきだという者もいる」

「辺境伯は?」

「攻めるつもりだ」

「公爵軍の主力が到着する前に、ロール城を落とす」

「間に合うのか?」

「分からない」

即答だった。

「だが、ロール城を残したまま公爵軍とは戦えない」

「後ろから攻撃されるから?」

「ああ」

レオンは地図を広げた。

「それだけではない」

「城を取れば、上ロール領の中央街道を押さえられる」

「倉庫も」

「周辺の村も」

「銀山へ続く道もだ」

つまり。

ロール城は単なる一つの城ではない。

上ロール伯爵領を支配するための要だった。


六日目には。

集まった兵の数が一万を超えた。

城壁の外へ広がる陣営はもはや端が見えないほど大きくなっている。

だが兵が増えれば問題も増えた。

水。

食料。

薪。

馬の飼葉。

病人。

喧嘩。

盗み。

異なる領地から集まった兵士同士が酒に酔って争い血を流すこともあった。

規律を守らせるため陣営の中央には絞首台まで作られた。

実際に吊された兵士を見た。

荷車から食料を盗み止めようとした仲間を刺した男だった。

死体は一日中、そのままにされた。

見せしめだ。

アークは死体の方を見ようとしなかった。

『戦が始まる前から、人が死ぬんですな』

「ああ」

『人間は、よう分かりませんわ』

俺も同じ気持ちだった。


七日目の朝。

夜明け前の暗闇を。

低い角笛の音が切り裂いた。

一つ。

続いて別の場所から一つ。

やがて無数の角笛が呼応し。

陣営全体へ広がっていく。

眠っていた兵士たちが飛び起きた。

「出陣だ!」

誰かが叫ぶ。

天幕が畳まれ、火が消される。

荷が積まれ、馬へ鞍が置かれる。

一週間かけて作られた巨大な陣営がわずか数刻で形を変えていく。

辺境伯の命令は簡潔だった。

ロール城を落とす。

オニギエ辺境伯家の大旗が掲げられた。

黒地に銀の鷹。

風を受け大きくはためく。

その旗を先頭に一万を超える軍勢が動き始めた。

槍の穂先が朝日に輝く。

荷車の列が軋む。

何千という足音が地面を揺らす。

目指すは上ロール伯爵領。


行軍は四日に及んだ。

一万もの軍勢が動く速度は遅い。

先頭が進んでも後方の荷車が泥へ嵌まれば全軍が止まる。

橋を渡るだけで半日を使う。

狭い街道では隊列が何里にも伸びた。

アークは初めの二日こそ元気だったが三日目にはさすがに疲れが見え始めた。

『主』

「何だ?」

『馬に乗せてもらういうのは』

「駄目だ」

『まだ最後まで言うてませんやん』

「レオンの馬は軍馬だ。お前を乗せるための馬じゃない」

『荷馬車でもええです』

「最初からそう言え」

結局。

空いた荷馬車の端へ乗せてもらった。

アークは荷物の間へ身体を収め。

満足そうに顔だけを出している。

『文明の利器ですな』

「ただの荷車だ」

『歩かんでええ物は全部文明の利器です』

上ロール領へ入ると村々の様子が変わった。

戸は閉ざされ畑に人影はない。

家畜も見当たらない。

俺たちが来る前に村人は森や城へ逃げたらしい。

街道沿いの井戸は石で塞がれ穀物倉は空にされていた。

敵へ食料を渡さないためだ。


四日目の午後。

丘を越えた先にロール城が姿を現した。

城は小高い岩山の上へ築かれている。

灰色の城壁が丘の形に沿って何重にも伸びていた。

外壁の前には深い空堀。

堀の底には、尖らせた杭が打ち込まれている。

正門へ続く道は狭く緩やかに曲がりながら斜面を上っていた。

大軍が一度に門へ押し寄せることはできない。

城壁には一定の間隔で塔が築かれていた。

塔は外側へ張り出している。

門へ近付く兵は正面だけでなく左右からも矢を浴びることになる。

城の中央にはさらに高い内城と主塔がそびえていた。

「あれを攻めるのか」

思わず呟く。

遠くから見ただけでも分かる。

堅い。

正面から攻めれば多くの血が流れる。


辺境伯軍はロール城を取り囲むように陣を敷いた。

完全な包囲ではない。

北側は切り立った崖と山林が広がり大軍を置くことができなかった。

それでも主要な街道と城門は全て封鎖された。

俺たちは正門から東へ少し離れた場所へ陣を置いた。

天幕を張り終えた頃俺はアークを荷駄隊の責任者へ引き合わせた。

戦闘が始まった時預かってもらうためだ。

「犬を?」

責任者の老兵は眉をひそめた。

「頼む」

「吠えたり荷馬を追ったりしないだろうな」

「しない」

『多分』

「絶対にしない」

俺はアークを睨んだ。

『分かってますって』

老兵はしばらくアークを見た後。

「自分の餌は自分で持ってこい」

そう言って許してくれた。


まず辺境伯は降伏を勧告した。

白旗を掲げた使者が正門へ向かう。

城壁の弓兵が狙いを定める中使者は一人で城門前まで進んだ。

巻物を広げ声を張り上げる。

「オニギエ辺境伯閣下の名において告げる!」

「城門を開き、賊ディートラップを引き渡せ!」

「抵抗を止める者の命と財産は保証する!」

返事はなかった。

城壁の上には上ロール家の旗とマインセ家の旗が並んでいる。

使者はもう一度降伏を呼びかけた。

その時一本の矢が飛んだ。

矢は使者の足元へ突き刺さった。

城壁の上から笑い声が上がる。

続いて一人の男が姿を現した。

鮮やかな赤い外套。

金で飾られた兜。

遠くて顔までは見えない。

「あれがディートラップだ」

レオンが言った。

城壁の男は両手を広げた。

「辺境伯へ伝えろ!」

声が風に乗って届く。

「ここはエリシア・トール・ロールが正当に継いだ上ロール伯爵領である!」

「賊は貴様らだ!」

「城が欲しければ、力ずくで奪ってみせろ!」

城壁の兵士たちが盾を叩き歓声を上げた。

使者は何も答えず引き返してきた。


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