準備
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの頃に、俺は目を覚ました。
寝台の脇では、アークが腹を見せたまま眠っている。
前脚は大きく開き、後脚は寝台の端から半分ほど落ちていた。
黒霧の森では小さな物音がするだけで耳を立て、風向きが変われば鼻を動かし、眠っているように見えても常に周囲を警戒していた。
それが今では完全に気を抜いている。
口元から僅かに舌まで出ていた。
「アーク」
声を掛ける。
反応はない。
「朝だよ」
『……肉……』
寝言のような念話だけが返ってきた。
「夢の中でも食べてるのか」
『わいのです……』
「取らないよ」
俺は寝台から降りる。
床へ足を着いた瞬間。
身体の奥に残っていた疲労が鈍い重さとなって返ってきた。
黒霧の森から戻ってまだ数日しか経っていない。
傷は塞がっている。筋肉痛も前日よりは軽くなっていた。
それでも完全に回復したわけではない。
本来ならもう少し宿で休んでいたほうがいい。
遺跡の記録を整理し、魔石を探し、装備を修繕してから改めて黒霧の森へ戻る予定だった。
だがレオンからの手紙を受け取った時点で予定は変わった。
心の友が俺を必要としている。
ならば身体が重い程度で行かない理由にはならない。
今回は長期間人のいない深層を探索するための準備ではない。
ダリスティからサトゥルドス子爵領へ向かう。
その先で何が起こるかは分からない。
すでに戦が始まっているのかまだ兵を集めている段階なのか、レオンの手紙だけでは詳しい状況までは分からなかった。
だからこそ何にでも対応できるように準備を整える必要がある。
ただし持てる量には限界がある。
俺一人とアーク。二人で持てる範囲。
それが基準だった。
「起きて」
アークの脇腹を軽く揺する。
『あと少し……』
「朝食を食べに行くよ」
アークの目が開いた。
『起きました』
「早いな」
『朝食は大事です』
アークは何事もなかったように身体を起こす。
大きく伸びをする。
前脚を突き出し、背中を反らす。
最後に身体全体をぶるぶると震わせた。
『今日、出発です?』
「まだだよ」
『ほな、何します?』
「買い物」
『肉?』
「薬と武器」
『肉は?』
「食料を買う時にね」
『最初に買いましょう』
「薬屋が先」
『肉屋は逃げますで』
「昨日も同じこと言ってたよ」
『今日売り切れるかもしれません』
「朝から全部は売り切れない」
まず薬屋へ向かった。
以前にも利用した店だ。
大通りから一本外れた場所。
緑色の瓶を模した看板が軒先から下がっている。
扉を開けると乾燥させた薬草、酒精、油、根、樹皮などさまざまな匂いが混ざり合って鼻へ入った。
棚には大小の瓶、木箱、軟膏、粉薬、包帯、解毒剤、火傷薬など用途ごとに細かく分けられている。
奥では年老いた店主が乳鉢で何かをすり潰していた。
扉の鈴が鳴る。
店主が顔を上げる。
俺の姿。
腰の金色の狩人証。
その隣のアーク。
順番に目を向けた。
「また来たか」
「お久しぶりです」
「その格好を見る限り、相変わらず危ない場所へ行っていたらしいな」
「黒霧の森へ」
「やはりか」
店主は。
乳鉢から手を離した。
「随分汚れた外套だ」
「洗いましたけど、落ちないところが多くて」
「それは汚れじゃない。焦げと裂け目だ」
「そうとも言います」
店主は俺の顔をじっと見る。
次に。
腕。
肩。
足元。
目立つ怪我がないか確認しているらしい。
「生きて戻ったなら何よりだ」
「ありがとうございます」
『わいも無事です』
アークが。
店主へ向かって尻尾を振る。
当然念話は聞こえていない。それでも店主はアークへ目を向けた。
「犬も元気そうだな」
『犬やなくてアークです』
「名前は覚えてるだろ」
『なら、アーク言うてほしいです』
「本人は不満みたいです」
「何がだ?」
「犬と呼ばれたことが」
店主は。
アークを見る。
「犬だろう」
『主、帰りましょう』
「薬を買ってからね」
店主が。
僅かに口元を緩める。
「それで、今日は何が欲しい」
俺は用意していた紙を取り出した。
「傷薬を二つ。止血薬を二つ。解毒薬を一つ。火傷用の軟膏を一つ。それと包帯を数巻」
店主の眉が少し上がる。
「いつもより多いな」
「遠出をするので」
「また森か?」
「今回は違います」
「どこへ行く」
「サトゥルドス子爵領へ」
店主は僅かに手を止めた。
だがすぐに棚へ向かう。
「今は街道も穏やかではないと聞く」
「何か噂が?」
「兵が増えている。食料をまとめて買う者もいる。武器屋も忙しいらしい」
「やっぱり」
「何か知っているのか?」
「詳しいことは分かりません」
これは嘘ではない。
戦争が始まるかもしれない。
それは分かっている。
だが誰と誰が何を理由にどこまで動いているのかまだ何も聞いていない。
「知り合いから呼ばれました」
「貴族か」
「はい」
店主はそれ以上尋ねなかった。
薬瓶を棚から取り出す。
一本ずつ。
栓。
液の濁り。
色。
匂い。
状態を確認していく。
「これは傷口を洗う薬だ。傷薬を塗る前に使え」
「一つ追加してください」
「なら小さい瓶でいい。持ち運びやすい」
「お願いします」
店主が止血薬の瓶を二本並べる。
「一つは即効性が高い。深い傷に使え。ただし、傷口へ直接流し込むとかなり痛む」
『痛いの嫌です』
「怪我しなければ使わなくて済むよ」
『主が盾になってください』
「アークも避けるんだよ」
店主は。
俺がアークへ話しかけるのを見ても。
すでに気にしなくなっていた。
「犬用の薬もいるか?」
「アーク用に傷薬を一つお願いします」
『苦くないやつで』
「塗り薬だよ」
『舐めるかもしれません』
「舐めないで」
店主は棚の下から小さな陶器の容器を出した。
蓋を開ける。
中には薄い緑色の軟膏。薬草の強い匂いがする。
「人にも使えるが、獣の毛へ付けても固まりにくい」
「それにします」
『臭いですな』
「効くなら我慢して」
「犬は傷口を舐める」
店主が言う。
「塗った後は布を巻いておけ」
「分かりました」
薬を一つずつ布で包む。
瓶同士がぶつからないように間へ乾燥した草と綿を詰める。
傷薬。
解毒薬。
止血薬。
何がどこにあるか暗い場所でも手探りで分かるように入れる位置も決める。
「魔力回復薬も置いていますか?」
俺が尋ねると。
店主が奥の棚へ目を向けた。
「ある。だが、うちにあるのは一般的なものだけだ」
「高品質のものは?」
「金があるなら専門の魔道具店へ行け。これは品質が悪いわけではないが、高位魔法を使った後では回復量が足りないこともある」
「そうします」
会計を済ませる。
「帰ってきたら、空瓶を持ってこい。状態が良ければ買い取る」
「分かりました」
「それから」
店主は俺の腰の剣へ視線を落とした。
「その剣で行くつもりか?」
「修繕してから」
「直すだけで足りるか?」
鞘へ収めたままでも状態は分かるらしい。
黒霧の森で何度も魔物と戦った。
サイクロプス。
グリフォン。
遺跡の内部にいた魔物。
刃は研げばまだ使える。
だが衝撃の蓄積。僅かな歪み。内部の傷。
外から見ただけでは判断できないものもある。
「武器屋へ行くつもりです」
「なら早く行け。最近は良い武器から売れている」
「兵が買っているんですか?」
「兵だけじゃない。傭兵。狩人。商人の護衛。皆、何かを感じている」
店主は低い声で続けた。
「何も起きない時ほど、人は武器を買わない」
「そうですね」
「無事に戻れ」
「ありがとうございます」
薬屋を出る。
朝より通りを歩く人が増えていた。
荷車。
商人。
兵士。
狩人。
鍛冶場からは。
鉄を打つ音が聞こえる。
かん。
かん。
かん。
一定の間隔。
だが。
一つの工房だけではない。
通りの先や裏道、複数の場所から同じ音が響いている。
「武器屋へ行こう」
『肉屋は?』
「剣の後」
『薬屋の次いう話でした』
「食料を買う時にまとめる」
『約束が変わっとります』
「肉は持って帰るまで傷むだろ」
アークが少し考える。
『確かに』
「先に武器」
『冷静に考えれば、主の言う通りですな』
「珍しく素直だね」
『肉のためです』
俺たちは武器屋へ向かった。
ダリスティには武器を扱う店がいくつもある。
狩人向けの安価な剣。
兵士が使う量産品。
貴族や騎士が好む装飾剣。
魔物素材を使った高級武器。
店によって得意とするものが違う。
俺が向かったのは派手さより実用性を重視する店。
金級狩人になった時以前の剣を調整してもらった場所でもある。
店の前には。
槍。
盾。
剣。
簡素な見本が並べられていた。
扉を開ける。
鉄。
油。
革。
炭。
研磨剤。
薬屋とはまったく違う匂い。
壁一面に剣が掛けられている。
長剣。
短剣。
片刃。
両刃。
細身。
幅広。
武器だけではない。
鎧。
手甲。
脛当て。
盾。
矢。
弓。
槍。
戦うために必要なものが。
店内へ隙間なく並んでいた。
奥では大柄な店主が一人の兵士へ剣を渡している。
「次」
兵士が去ると店主が俺を見る。
最初に腰の金色の狩人証。
次に顔。
そして古い剣。
「戻ったのか」
「はい」
「黒霧の森へ行ったと聞いた」
「噂が早いですね」
「ギルドでサイクロプスとグリフォンの素材を出せば、噂にもなる」
「そんなに広まっていますか?」
「町中とは言わん。だが、狩人と武器屋の間ではな」
店主は顎で剣を示した。
「見せろ」
俺は剣を鞘ごと渡す。
店主がゆっくりと抜く。
刃を光へかざす。
指先で刃の側面をなぞる。
鍔。
柄。
茎。
何度か角度を変え最後に剣を軽く弾いた。
低い音。
以前より僅かに濁っている。
「よく折れなかったな」
「そんなに悪いですか?」
「刃こぼれは研げる。柄も巻き直せる。だが、ここだ」
店主が。
刃の中ほどを指で叩く。
「僅かに歪んでいる」
「見た目では分かりません」
「目では分からん。何度も硬いものを斬ったな」
「サイクロプスと、グリフォンの鉤爪を」
「剣で受けたのか?」
「何度か」
店主が。
呆れたように息を吐く。
「剣は盾ではない」
「分かっています」
「分かっていて受けた顔だな」
「避けられなかったので」
店主は。
もう一度剣を見る。
「直せなくはない」
「どのくらいかかります?」
「二日」
「それなら間に合います」
「だが」
店主が。
剣を鞘へ戻す。
「これ一本で行くつもりなら、やめておけ」
「新しい剣も探しています」
「何に使う」
「街道の移動。その先で戦いになる可能性があります」
「人相手か」
「まだ分かりません」
「分からん時は、人も魔物も斬れる剣を選べ」
店主が。
店の奥へ歩いていく。
「軽い剣がいいか」
「今の剣と同じくらいで」
「魔力を流すか?」
「身体強化は使います。剣に直接流すこともあります」
「なら、柔らかすぎる鋼は駄目だ」
「折れにくいものを」
「硬いだけの剣も折れる」
店主は奥にある鍵付きの棚を開けた。
中から細長い木箱を取り出す。
両手で持ち作業台へ置いた。
留め金を外す。
蓋を開く。
中には一本の剣が収められていた。
鞘は黒。装飾は少ない。
鍔も無駄に大きくない。
柄は濃い茶色の革で巻かれている。
見た目だけなら店の壁に掛けられた剣とそれほど違わない。
だが店主がゆっくりと刃を抜いた瞬間違いが分かった。
暗い銀色。
鏡のように強く光るわけではない。鈍く落ち着いた輝き。
刃の表面には幾重にも重なる細かな波模様が見える。
「これは?」
「鋼を重ねて鍛えたものだ」
店主は。
剣を水平に持つ。
「硬さの違う鋼を重ねる。熱し。叩き。折り返し。また叩く」
刃を。
光の下で傾ける。
波模様が僅かに浮かび上がる。
「一度二度ではない。何度も鍛えた」
「どのくらい?」
「回数を数えて価値が決まるわけじゃない」
店主が少し不機嫌そうに言う。
「大事なのは、刃の中で硬さと粘りがどう合わさっているかだ」
「硬くて、折れにくい?」
「正確には、刃先は硬い。芯は粘る」
店主が刃の腹を軽く叩く。
澄んだ音が店内へ響いた。
「刃先が斬る。芯が衝撃を受ける。硬いだけの剣は欠ける。柔らかいだけの剣は曲がる。こいつは、その両方を避けるために鍛えた」
「誰が作ったんですか?」
「俺だ」
「店主が?」
「武器屋だからな」
「売るだけかと」
「殴るぞ」
「冗談です」
店主は剣を俺へ差し出した。
「持ってみろ」
受け取る。
見た目よりも僅かに重い。
今まで使っていた剣と比べれば刃幅が少し広い。
厚みもある。
だが重心は鍔からそれほど離れていない。
持ち上げても刃先に引かれる感じは少なかった。
右手で握る。
柄の太さ。
革の感触。
指の収まり。
悪くない。
左手を添える。
両手でも。
片手でも。
振れる。
店内では大きく動かせない。
俺は僅かに構えを変える。
上段。
中段。
身体の横。
手首を返す。
剣先の動きを確認する。
「どうだ」
「少し重いです」
「嫌か?」
「いえ」
軽すぎる剣は振りやすい。だが大型の魔物、厚い革鎧、硬い骨、そうしたものを斬るには重さも必要になる。
身体強化を使えばこの程度の差は問題にならない。
むしろ刃へ乗る重みは武器になる。
「試せますか?」
「裏へ来い」
店の裏庭には試し斬り用の藁束がいくつか並んでいた。
壁が高く外からは見えない。
店主が最初に藁束を指す。
「身体強化なしで斬れ」
「分かりました」
俺は剣を構える。
足を肩幅に開く。
呼吸。
重心。
腕だけで振らない。
腰。
肩。
肘。
すべてをつなぐ。
一歩踏み込む。
横薙ぎ。
抵抗はほとんど感じなかった。
刃が藁束を通り抜ける。
上半分が僅かにずれそのまま地面へ落ちた。切断面は乱れていない。
俺は剣を止める。
重さはあるが振った後に身体が引かれすぎることはない。
店主が切断面を確認する。
次に俺の持つ剣を見る。
「刃を見ろ」
俺も刃を光へ向ける。
欠け、歪み、大きな傷は見当たらない。
「悪くない」
「悪くない、ですか」
「俺が作った剣だからな。良いのは知っている」
「なら最初から良いと言えばいいのに」
「使い手に合うかは別だ」
店主は俺の手元を見る。
「お前には合っている」
「買います」
「値段を聞いていないぞ」
「聞いたら迷うかもしれないので」
「聞け」
提示された額は予想より高かった。
今まで使っていた剣を何本も買える。
黒霧の森からサイクロプスとグリフォンの素材を持ち帰っていなければ簡単には手を出せない額だった。
「高いですね」
「何度も鍛えた鋼だ」
「もう少し安く」
「なら別の剣を買え」
「鞘と手入れ道具込みで」
「元から込みだ」
「予備の柄巻きも」
店主は。
俺を見た。
「お前、交渉する気があるのか」
「あります」
「なら、もう少し上手くやれ」
「アーク」
『何です?』
「愛想を振りまいて」
『肉くれる人にしかせえへんです』
「役に立たないな」
結局提示された額を支払った。
高い。
だが命を預ける武器。
安さだけで選ぶものではない。
新しい剣を鞘へ収め、腰へ下げる。
今までの剣より僅かに重みが増した。
だが不快ではない。むしろ手を伸ばせば確かなものがそこにある、そう感じられた。
「古い剣は二日で直す」
店主が言う。
「刃を研ぎ直す。歪みも取る。柄も巻き直す」
「お願いします」
「予備にするのか?」
「はい」
「二本持つなら、荷物の位置を考えろ。」
「腰に二本は?」
「長剣を二本ぶら下げれば、歩きにくい」
「一本は荷物へ固定します」
「すぐ抜ける場所にしろ」
「分かりました」
店主は剣の手入れ用の油、布、小さな砥石も用意した。
「毎日確認しろ」
「そんなに?」
「戦場へ行くならな」
俺が顔を上げる。
店主はこちらを見ていなかった。
新しい剣の木箱を片付けながら静かに続ける。
「今、剣を新調する者は多い。誰も戦争へ行くとは言わん。だが、行き先を聞けば、皆同じ方角だ」
「サトゥルドス子爵領?」
「オニギエ辺境伯領の方角だ」
店の外からまた鉄を叩く音が聞こえる。
かん。
かん。
かん。
途切れない。
「何が起きているんでしょうね」
「武器屋は、政治には詳しくない」
店主が古い剣を作業台へ置く。
「だが、武器の売れ方は分かる」
「今は?」
「良くない売れ方だ」
「売れているのに?」
「戦争前は売れる」
店主は俺を見る。
「戦争が始まれば、壊れた剣が戻ってくる」
一度言葉を切る。
「持ち主が戻らない剣もある」
俺は腰の新しい剣へ手を置いた。
「二日後に取りに来ます」
「ああ」
「必ず来ます」
「剣を取りに来るくらいで、大げさなことを言うな」
「縁起です」
「なら、帰ってくる時にも言え」
「帰ってきます」
店主は何も答えなかった。ただ小さく頷いた。
店を出る。
まだ準備は終わっていない。
食料、外套、革鎧、水袋、雨具、そして古い剣の受け取り。
出発までに確認することは多い。
二日後。
俺は、朝から武器屋へ向かった。
古い剣を受け取るためだ。
まだ町が完全に目を覚ます前、大通りには、荷車の車輪が石畳を鳴らす音と、店先を掃く箒の音だけが響いていた。
空は薄く曇っている。
雨が降るほどではないが、湿った風が町の建物の間を抜けていた。
アークは俺の隣を歩いている。
黒と白の毛は、宿で念入りに洗ったおかげで、黒霧の森から戻ってきた時よりも随分ときれいになっていた。本人は、最後まで洗われることへ抵抗していたが。
『わいの毛、えらいふわふわですな』
アークは、歩きながら自分の胸元を見る。
「洗ったからね」
『自然の油が落ちました』
「泥と血も落ちたよ」
『野性味がなくなりました』
「宿の寝台で腹を出して寝る犬に野性味なんてないよ」
『犬やなくてアークです』
「はいはい」
『それに、あれは寝台が安全やからです』
「黒霧の森では、あんな寝方しなかったもんね」
『敵に腹見せたら終わりです』
「町では見せるんだ」
『平和の証ですな』
俺たちは、武器屋の前へ到着した。
扉を開ける前から中で鉄を磨く音が聞こえている。
扉を押す。
鉄と油の匂いが鼻へ入る。
店主は、作業台の前に立っていた。
俺の古い剣を布で拭いている。
「来たか」
「お願いします」
店主は、返事の代わりに剣を鞘ごと差し出した。
受け取って抜く。
以前よりも、刃が細く光っていた。
大きな刃こぼれは消えている。
歪みも見た目では分からない。
柄の革も巻き直され、握った時の緩さがなくなっていた。
「試せ」
店主が言う。
俺は、剣を両手で持つ。
店の中で大きく振るわけにはいかない。
軽く構えを変える。
手首を返し剣先を上下させる。
修繕前にあった振った後に僅かに遅れてついてくるような違和感が消えていた。
「直っています」
「完全ではない」
店主は、作業台へ肘を置く。
「一度歪んだ鋼は、真っ直ぐに戻しても内部に負担が残る」
「すぐ折れますか?」
「普通に使えば、まだ長く使える。ただ、新しい剣と同じつもりで無茶はするな」
「予備にします」
「それがいい」
古い剣を鞘へ戻す。
新しく買った剣は腰へ。
古い剣は、背負い袋の側面へ固定する。
柄が肩より少し上に出るように。
走っても揺れすぎず必要ならすぐ引き抜ける位置。
店主が、固定の仕方を確認する。
「紐が一本足りん」
「これでは駄目ですか?」
「走れば左右に振られる」
店主は、棚から短い革紐を取り出した。
鞘の中ほどと袋の留め具を結ぶ。
「これでいい」
「ありがとうございます」
「代金に入っている」
「細かいですね」
「途中で剣を落として戻ってこられるよりましだ」
『肉も落とさんように固定してください』
アークが、俺の荷物を見上げる。
「干し肉は袋の中だよ」
『すぐ出せる場所に』
「敵が出た時より取り出しやすく?」
『当然です』
「駄目」
店主は、アークの視線の先を見た。
「犬の餌も持っていくのか」
「本人は人間と同じ食事を望んでいますけど」
『肉だけでええです』
「犬用の干し肉です」
『言い方が悪いですな』
店主は、鼻で笑った。
「出るのか」
「今日、ダリスティを発ちます」
「サトゥルドス子爵領だったな」
「はい」
「徒歩か?」
「そのつもりです」
店主は、俺の新しい剣へ目を向ける。
「刃は毎晩確認しろ」
「分かっています」
「戦場へ着いてからでは遅い」
「まだ戦場へ行くと決まったわけじゃありません」
「そうか」
店主はそれ以上何も言わなかったが否定もしなかった。
町の武器屋は貴族の詳しい事情を知らない。
それでも誰がどれだけの武器を買いどの方角へ向かうのか目にしている。
戦争というものは正式な布告よりも先に鉄の売れ方、穀物の値段、兵の移動、そうしたものへ姿を現すのかもしれない。
「無事に戻ってきます」
俺は言う。
店主は、作業台へ置かれた別の剣を手に取った。
「帰ってきたら、そいつの手入れを持ってこい」
「はい」
「刃こぼれの一つもなしで戻ったら、腕が上がったと認めてやる」
「使わなかった可能性は?」
「そのほうがいい」
店主は、そう言った。
俺は頭を下げ武器屋を出た。
宿へ戻る前に食料を買う。
保存の利く黒パン。
硬い乾燥肉。
燻製肉。
干した果物。
塩。
少量の茶葉。
アーク用には味付けの薄い干し肉を多めに用意した。
『多め言うても少ないです』
「袋一つ全部アークのだよ」
『途中でなくなります』
「一日で食べなければね」
『一日分やないんです?』
「五日分」
アークが、立ち止まった。
『主』
「何?」
『わいを餓死させる気ですか』
「普段の食事も別に食べるよ」
『先に言うてください』
「保存食だけで五日分だよ」
『なら安心です』
「さっきから食べ物の心配しかしてないね」
『旅で一番大事です』
「水も大事だよ」
『肉からも水分取れます』
「それだけじゃ足りないよ」
食料を揃え。
宿へ戻る。
部屋の床へすべての荷物を広げた。
一つずつ確認する。
新しい剣。
修繕した予備の剣。
短剣。
外套。
雨具。
毛布。
水袋。
食料。
薬。
魔力回復薬。
剣の手入れ道具。
小さな鍋。
木の器。
紐。
針と糸。
地図。
狩人証。
硬貨。
毛布は、俺とアークが一緒に使える大きさ。
「アークの分」
俺は、小さな袋を別にする。
干し肉。
軟膏。
布。
飲み水用の折り畳める革皿。
足裏を傷めた時に巻く布。
アークが鼻を近付ける。
『肉の袋、これです?』
「そう」
『持ちます』
「どうやって?」
『首から下げます』
「歩くたび顔に当たるよ」
『気になりません』
「匂いがずっとするよ」
『最高ですな』
「絶対途中で破るから駄目」
『信用ないです』
「肉に関してはね」
『普段は?』
「普段もそこそこ」
『ひどい主です』
荷物を背負う。
重さを確認する。
歩ける。
走ることもできる。
ただし長く移動すれば肩へ負担はかかる。
俺は念動力を弱く使う。
長時間維持するならごく小さな力で十分だった。
『便利ですな』
アークが言う。
「荷物全部を浮かせるよりはね」
『わいも浮かせてください』
「自分で歩いて」
『疲れた時に』
「その時は考える」
『約束ですで』
「考えるだけだよ」
宿代を支払い部屋を出る。
宿の主人が俺の荷物を見た。
「もう発つのか」
「世話になりました」
「戻ってきたばかりじゃないか」
「知り合いに呼ばれました」
「また黒霧の森ではないんだな」
「違います」
主人は俺の腰の剣と背負い袋へ固定した予備の剣を見る。
「物騒な呼び出しだ」
「そうかもしれません」
「プラモナスガーンか?」
俺は、少し驚いた。
「どうして分かったんですか」
「今、武器を持って東へ行く者は大体そっちだ」
やはり。
町の者も気付いている。
「街道に兵が多いらしい」
主人が続ける。
「関所も検査が厳しくなったそうだ」
「何か始まっているんでしょうか」
「始まっていないから、皆怖がっている」
「始まっていないから?」
「始まれば、何が起きたか分かる」
主人は入り口の扉を開けながら言った。
「今は、誰も本当のことを知らない。噂だけが先に走っている」
「無事に帰ってこい」
「はい」
「犬もな」
『アークです』
「アークもです」
宿を出る。
ダリスティの東門へ向かう。
朝の大通りには普段より兵の姿が多かった。
ダリスティの兵だけではない。
見慣れない紋章を付けた者もいる。
四頭の馬。その後ろを進む荷車。
荷車には木箱と布で覆われた長い物。槍か弓か、武器だろう。
道の端では二人の商人が小声で話している。
「また東へ武器だ」
「銀山の件だろう」
「声を落とせ」
俺たちが近付くと二人は口を閉じた。
視線だけが俺の剣へ向けられる。
アークが小さく鼻を鳴らす。
『皆、怯えとります』
「分かるの?」
『考えがうるさいです』
「どんな?」
『戦になる。逃げる。物が高くなる。兵に取られる。そんな感じです』
人が多い場所ではアークの思考を読む力にも負担が掛かるらしい。
強い恐怖、怒り、殺意。そうした思考は自分から読もうとしなくても耳元で叫ばれるように届く。
黒霧の森では魔物の殺意が役立った。
だが町ではただ疲れるだけだ。
俺は、アークの頭を軽く撫でる。
「門を出れば少し静かになるよ」
『肉のこと考えて耐えます』
「それで静かになる?」
『他人の声より、わいの肉への思いが勝ちます』
「強いね」




