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狭間の星

俺は剣を抜いたが、すぐには構えなかった。相手の数が多すぎる。

正面に五体。左右にそれぞれ四体以上。後方にも複数。さらに、霧と木々の奥には姿を見せていない気配が残っている。少なく見積もっても二十体。

ここで剣を振るえば、戦闘が始まる。

一体を倒すことはできるかもしれない。アークと力を合わせれば、それ以上も可能だろう。だが全員が弓を持っている。しかも、森の中で俺たちを完全に包囲するまで、ほとんど気配を悟らせなかった者たちだ。矢を防ぎながら近付くだけでも難しい。木々の陰を移動されれば、誰を狙うべきか分からなくなる。正面から戦うのは不利だった。

『主』

アークが俺の横へ戻ってくる。

姿勢を低くし、牙を剥きながら周囲を睨んでいる。

『こいつら、まだ射る気です』

「分かるのか?」

『殺す気はあります』

アークは一度言葉を切った。

『でも、すぐ殺すつもりでもないみたいです』

「どういうことだ?」

『迷っとります』

一斉に矢を放てば、俺たちを仕留められると、向こうはそう考えているはずだ。それでも撃たない。先ほど放たれた矢も、こちらを殺すためというより反応を見るためのものだった可能性がある。

俺は周囲へ視線を巡らせた。

ケンタウロスたちは誰一人として口を開かない。呼吸すら抑えているように見える。弓を引く腕は揺れていない。矢先は正確に、俺たちの胸や頭を狙っている。

その中で正面にいる一体だけが、弓を構えていなかった。他の者より一回り大きい。人間の上半身だけでも、俺より頭一つ分は高い。馬の身体は黒く胸から前脚にかけて、灰色の模様が走っている。長い髪には白いものが混じっていた。胸元には、青い石を連ねた飾り。腰には短い剣。背には長弓を負っている。周囲のケンタウロスたちが、その男を中心に動いている。おそらく群れの長あるいは、それに近い立場なのだろう。

男は俺を見ていた。剣ではない。荷物でもない。俺の顔。目。そして胸のあたり。何かを探るように視線を動かしている。

『あいつです』

アークが小さく唸る。

『みんな、あいつの命令待っとります』

「何を考えてる?」

『分かりにくいです』

「読めない?」

『読ませへんようにしとる』

アークの耳が僅かに動いた。

『でも、驚いとります』

「俺たちを見て?」

『主を見てです』

ケンタウロスの男が、一歩前へ出た。蹄が湿った地面を踏む。他の者たちの弓が、さらに強く引かれた。

俺も剣へ魔力を流す。身体強化を全身へ薄く巡らせる。

だが男は攻撃しなかった。鼻先を僅かに上げ空気の匂いを嗅ぐような仕草をする。

その表情が僅かに変わった。驚き、疑い、そして何かを確信したような顔。

男は小さく呟いた。

「――狭間の星か」

声は低かった。独り言に近い。だが俺には、はっきりと聞こえた。意味も理解できた。

「……今、何と言った?」

ケンタウロスの男の目が細くなった。他の者たちには俺の言葉が通じなかったらしい。反応はない。だが目の前の男だけは明らかに俺の言葉を理解していた。なぜなら俺が話したのは。

この国で使われている言葉ではない。古代語だった。ケンタウロスの男が呟いた言葉も、同じものだった。

「狭間の星とは、どういう意味だ」

今度は一語ずつはっきりと古代語で尋ねる。

男の表情が変わった。目が僅かに見開かれる。初めてはっきりとした動揺が見えた。

周囲のケンタウロスたちも男の変化に気付いたらしい。互いに視線を交わす。弓を引く力がほんの僅かに緩んだ。

「古き言葉を理解するのか」

男が古代語で尋ねた。

「読める。話すのは、まだ慣れていない」

「人の子が」

男は俺の言葉を確かめるように。

ゆっくりと繰り返した。

「古き言葉を」

「学院で学んだ」

正確には学院で古代語そのものを教わったわけではない。だが今は細かく説明する必要はない。

「先に質問へ答えてくれ」

俺は剣を下げなかった。

「狭間の星とは何だ」

男はすぐには答えなかった。

俺の顔を見つめる。目の奥。さらにその向こうまで覗き込もうとしているような視線だった。

アークが、俺の前へ半歩出る。

『主を見過ぎです』

「大丈夫だ」

『大丈夫ちゃうかったら、噛みますで』

「今は待て」

ケンタウロスの男がアークへ視線を移した。

「風を纏う獣」

『何やと?』

アークには意味が分からない。

俺は翻訳しなかった。

今伝えれば余計に話がややこしくなりそうだった。

「狭間の星」

男が再び言う。

「それは、最も青き星と最も赤き星が交わる時に生じる」

「星が交わる?」

「二つの光が重なり、その境に、どちらにも属さぬ星が現れる」

「それが狭間の星?」

「ああ」

「青い星と赤い星は、何を意味する」

「我らは知らぬ」

「知らない?」

「古き歌に、そう残されているだけだ」

男の口調には嘘をついている様子はなかった。少なくとも知っていることを、すべて話しているわけではないかもしれない。だが星の意味そのものは本当に理解していないように見えた。

「なぜ俺を、狭間の星だと思った」

「匂いだ」

「匂い?」

男が鼻先を僅かに動かす。

「この森の者ではない」

「俺は人間だ」

「そういう意味ではない」

男の視線が俺の胸へ向けられる。

「その肉は、この地に属している」

次に俺の顔。頭。さらにその奥、魂を見ようとするように。

「だが、その内にあるものは。遠き空の匂いを持つ」

胸の奥が強く脈打った。遠き空。この世界ではない場所。地球。こいつは俺が異世界から来たことを感じ取っている。正確な事情までは知らなくても少なくとも俺がこの世界の人間ではないことを何らかの方法で見抜いている。

「その歌では、狭間の星は何をする」

「扉を開く」

「何の扉だ」

男は森の奥へ顔を向けた。俺たちが進もうとしていた方向へ。

「石の眠る場所へ行け」

「石の眠る場所?」

「古き民が残したものだ」

「遺跡か」

男は小さく頷いた。

「森のさらに奥にある」

やはり。

古代の地図に記された印。それと関係している。

「そこに行けば、狭間の星の意味が分かるのか」

「すべてではない」

「では、何が分かる」

「お前が扉を開く者か」

男はそう言った。

「あるいは」

僅かな間。

「ただ、星の影を持つだけの者か」

「扉を開けば、何が起きる」

「我らは知らぬ」

「入ったことはないのか?」

「我らのための場所ではない」

男の言葉には明確な拒絶があった。恐れているのか、禁じられているのか。あるいは本当に、自分たちには使えないのか。

「場所を教えてくれ」

俺が言うと周囲のケンタウロスたちが再びざわめいた。何体かが男へ古代語ではない言葉で呼びかける。俺には意味が分からない。

アークが耳を動かした。

『止めとります』

「何を?」

『遺跡の場所教えるんを』

「他には?」

『人間を奥へ入れるな』

『森が荒れる』

『狭間の星か分からん』

声がいくつも重なっているらしい。

『あと』

アークが一瞬黙る。

「何だ?」

『殺したほうがええ言うてるやつもおります』

「それは聞きたくなかったな」

ケンタウロスの男が片手を上げた。周囲の声が止まる。弓を構えた者たちは男の指示を待つ。

静寂。

男は長い間俺を見つめていた。

「森は」

やがてゆっくり口を開く。

「訪れる者を選ぶ」

「俺は選ばれた?」

「それは、石が決める」

男は腰に付けていた革袋へ手を入れた。

中から細い木片を取り出す。表面には。いくつかの線が刻まれている。簡単なものではあるが川、岩、木などいくつかの目印が示されていた。

男が木片をこちらへ投げる。

俺は手で受け取った。

「ここから、日の昇る方角へ進め」

「東か」

「半日ほど進めば、二つに割れた黒い岩がある」

木片の中央。

二本の線で示された場所を指す。

「そこから水の流れを探し。上流へ向かえ」

「川を遡るんだな」

「白き幹の大樹を越え、赤き苔の地を抜ければ。石の眠る場所へ至る」

「遺跡の中には何がある」

「それを確かめるために行くのだろう」

「危険は?」

「森の奥に、安全な場所などない」

「遺跡そのものの危険を聞いている」

男は一瞬だけ考えるような表情をした。

「石は眠っている」

「起こしたら?」

「知らぬ」

正直なのか、無責任なのか判断に困る答えだった。

「もう一つ聞きたい」

俺は木片を握る。

「なぜ、俺を助ける」

「助けてはいない」

「道を教えている」

「我らが教えずとも。お前は探す」

否定できない。古代遺跡がある可能性も分かっていた。時間はかかっても森を探し続けただろう。

「ならば」

男が続ける。

「余計な場所を踏み荒らされるより。進むべき場所へ進ませる」

「森を守るためか」

「ああ」

「俺が遺跡で何かを起こしたら?」

「その時は」

周囲のケンタウロスたちが一斉に弓を引き直した。

「我らが、お前を止める」

脅しではない、事実を伝えているだけ。そんな声だった。

俺は周囲を見回した。

二十を超える弓。

冷たい視線。

この森の中で彼らから逃げ切るのは難しい。

「覚えておく」

「覚えるだけでは足りぬ」

「止められるようなことはしない」

男は俺の言葉を聞いても安心した様子を見せなかった。

「人の子は、皆そう言う」

「違いない」

俺が答えると男は僅かに口元を緩めた。

笑ったのかもしれない。

「名前を聞いてもいいか」

男へ尋ねる。

「名は必要ない」

「また会うかもしれない」

「その時に、まだ必要だと思えば尋ねよ」

「今聞いてるんだけど」

男は答えなかった。

身体の向きを変える。

背後にいたケンタウロスたちも。

弓を下ろした。

「待ってくれ」

男の動きが止まる。

「青い星と赤い星は、どこにある」

男は。

ゆっくりと空を見上げた。

森の枝葉。その隙間。僅かに見える空。

「一つは、遥か遠く」

そして。

俺へ目を向ける。

「一つは、すぐ近くにある」

「それは――」

最後まで聞く前に男は森の奥へ歩き始めた。

「さらに奥の遺跡へ行くがよい」

古代語で静かに告げる。

「石が、お前を認めるなら。求めるものの一端を見るだろう」

蹄が地面を踏む。

一体。

また一体。

ケンタウロスたちが木々の間へ入っていく。

あれほど多くいたにもかかわらずほとんど音を立てない。

枝を揺らさず霧の中へ溶けるように姿を消していく。

最後まで残っていた二体も弓を下ろしたまま、後退する。

やがて魔力感知にあった反応も一つずつ遠ざかった。

森に静寂が戻った。

俺は剣を構えたまましばらく動かなかった。

アークも周囲を警戒し続けている。

『行きました?』

「たぶん」

『たぶんは嫌です』

「確かめる?」

『追いかけるんは、もっと嫌です』

「じゃあ、しばらく待とう」

俺たちはその場からすぐには動かなかった。

五分。

十分。

風が戻る。葉が揺れる。遠くで鳥が鳴く。虫の音も聞こえ始めた。周囲の気配はない。

ようやく俺は剣を鞘へ戻した。

アークも身体を起こす。

『殺されるか思いましたわ』

「俺も」

『ほんまです?』

「二十体以上いたんだぞ」

『主、たまに数の差を気にせんでしょう』

「さすがに気にするよ」

『ちょっと安心しました』

俺は地面へ置いていた荷物を拾う。

そしてケンタウロスから受け取った木片を改めて確認した。簡単な地図。それでも目印ははっきりしている。二つに割れた黒い岩。川。白い大樹。赤い苔。その先石の眠る場所。

『行くんです?』

「ここまで来て、行かない理由がある?」

『罠かもしれませんで』

「そうだね」

『殺す気のやつもおったんでしょう』

「いたらしいね」

『ほな、帰りません?』

「でも、古代語を話した」

『それが何です?』

「古代語を今も使っている者がいた」

俺はケンタウロスが消えた方向を見る。

「それに。俺がこの世界の人間じゃないことを、知っているようだった」

『魂の匂い言うてましたな』

「アークには分からない?」

アークが。

俺の周囲を一周する。鼻を近付け何度も匂いを嗅ぐ。

『汗と土と血の臭いです』

「魂は?」

『分かりません』

「そうか」

『風呂入ったほうがええんは分かります』

「森の中だから仕方ないだろ」

『わいも臭いです?』

「少し」

『失礼ですな』

「アークが先に言ったんだろ」

アークは不満そうに鼻を鳴らした。だがすぐに木片の地図へ視線を向ける。

『狭間の星』

「ああ」

『主のことなんです?』

「分からない」

『青い星と赤い星が交わったら生まれる』

「そう言ってた」

『主、星から生まれたんです?』

「人間から生まれたよ」

『ほな違いますな』

「そう単純な意味じゃないだろ」

『分かりにくい言い方するほうが悪いです』

「古い歌らしいからね」

彼方より来た者。

この世界の外から来た俺。

狭間の星。

扉を開く者。

古代遺跡。

別々に存在していたものが少しずつ一つへつながり始めている。まだ何の形なのかは見えない。だがこの先に俺が探している答えがある、そんな予感がした。

俺は木片を荷物へ収める。

「行こう」

『ほんまに行くんですな』

「一日かかるらしい」

『帰るんにも一日かかりますで』

「食料はある」

『そういう問題ちゃいます』

「危険なら戻るよ」

『また言うてますな』

「今回は本当に」

『それも何回も聞きました』

俺は歩き出した。

日の昇る方角。森のさらに奥。ケンタウロスが示した石の眠る場所へ向かって。

アークはしばらくその場に立ち。

俺の背中を見ていた。

『主』

「何?」

『置いていかんといてください』

「置いていかないよ」

『先に行かんといていう意味です』

「分かった」

俺は足を止める。

アークが追いつく。

横へ並ぶ。

『一緒に行きますで』

「ああ」

『危なくなったら逃げますからな』

「分かってる」

『主もです』

「努力する」

『戻る言うてください』

「戻るよ」

『絶対です?』

俺はすぐには答えなかった。

それを見たアークがじっと俺を見上げる。

「絶対に戻る」

ようやく答えるとアークは満足したように一度だけ尻尾を振った。

俺たちは並び黒い霧の向こうへ歩き出した。


それから俺たちは、さらに一日をかけて森の奥へ進んだ。

ケンタウロスから渡された木片に刻まれていたのは、地図と呼ぶにはあまりにも簡素なものだった。曲がりくねった一本の線。途中に刻まれた、いくつかの印。二つに割れた岩。川。白い幹の大樹。そして、目的地と思われる四角い記号。距離も方角も正確には記されていない。ケンタウロスから聞いた言葉と、実際の地形を照らし合わせながら進むしかなかった。

森の中では、太陽の位置すら当てにならない。枝葉が幾重にも重なり、空の大半を覆っている。時折、木々の隙間から細い光が差し込む。だが、それも風で枝が揺れるたびに位置を変えた。

俺は方位を確かめる道具を取り出し、進む方向を確認した。

「東はこっちだ」

『ほんまに合っとります?』

「道具が壊れてなければ」

『急に不安になる言い方やめてください』

アークが地面の匂いを嗅ぎながら、俺の横を歩く。

ケンタウロスたちが去った痕跡は、ほとんど残っていなかった。あれだけの数がいたにもかかわらず、蹄の跡すら見つからない。落ち葉も踏み荒らされておらず枝が折れた形跡もない。まるで、最初から森の一部だったものが、一時的に俺たちの前へ姿を現したようだった。

『あいつら、ほんまにおったんです?』

「アークも見ただろ」

『見ましたけど』

アークが後ろを振り返る。そこに、ケンタウロスの姿はない。

『急に出てきて、急に消えましたやん』

「森に慣れてるんだろ」

『二十匹もおって足音せんの、ずるいです』

「匹って数えるのは失礼じゃないか?」

『ほな二十人?』

「人間ではないけど、知性はあるから、それでいいと思う」

『わいは一匹です?』

「アークは一人」

『よろしい』

そう答えると、アークは満足そうに尻尾を振った。

最初の目印である、二つに割れた黒い岩を見つけたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

高さは俺の三倍ほどの黒い岩が、中央から真っ二つに裂けている。

自然に割れたにしては、切断面が妙に滑らかだった。

俺は近付いて表面を確認した。

苔の生えていない切断面。長い時間、雨風に晒されているはずなのに、凹凸がほとんどない巨大な刃物で切り裂いたように見える。あるいは魔法。

「ここで合ってる」

俺は木片へ刻まれた印と、目の前の岩を見比べた。

『次は川でしたな』

「ああ。ここから水の音を探す」

アークが耳を動かした。鼻を持ち上げる。少しの間、周囲へ意識を向ける。

『あっちです』

アークが右前方を向いた。

俺には何も聞こえない。だが、アークの聴覚は俺より遥かに鋭い。

その案内に従って進むと、やがて微かな水音が聞こえてきた。

木々の間を抜けた先に幅の狭い川が流れていた。

水は澄んでいる。小さな魚のような影が、水中を素早く横切った。

ケンタウロスの言葉では、この川を上流へ向かう。川沿いは、それまで歩いてきた森より進みやすかった。木の根や藪は少ないが別の危険があった。

『主、止まってください』

アークが川へ近付こうとした俺の前へ出た。

「何かいる?」

『水の中』

水面を見る。何も見えない。

魔力感知を広げる。

川底。

岩と岩の隙間。

そこに細長い魔力の反応がいくつもあった。

俺が意識を集中させた瞬間。

川底に見えていた一本の水草が動いた。いや水草ではない。透明に近い身体を持つ、蛇のような魔物だった。岩の隙間から、こちらを見上げている。

一匹ではない。

「水は汲まないほうがいいな」

『飲んだら腹の中から噛まれますで』

「そこまで小さくないだろ」

『ほな、顔に食いつきます』

「どっちにしても嫌だな」

持ってきた水袋には、まだ余裕がある。

無理に川へ近付く必要はない。

俺たちは水辺から少し離れた場所を歩いた。

日が傾き始めた頃、森の奥に、白いものが見えた。

最初は霧の中へ差し込んだ光だと思った。だが近付くにつれて、その正体が木であることが分かった。

白い幹。樹皮だけではない。枝も根も幹の内側から、淡い光を放っている。周囲の木々より遥かに大きく、何人もの人間が手をつないでも、幹を囲めないだろう。

枝は空を覆い、葉は薄い銀色。風が吹くたび葉の表面が光を反射した。

「白き幹の大樹」

『地図どおりですな』

「この先に赤い苔があるはずだ」

俺は大樹の根元へ目を向けた。

そこで足が止まる。

根と根の間に大量の骨が積み重なっていた。

小さな動物。

大型の獣。

魔物。

その中には明らかに人間のものと思われる頭蓋骨も混ざっている。

『ここで休みます?』

「休まない」

『わいもそう思います』

「意見が合ったね」

『ここで寝たら、朝には骨の仲間入りしそうです』

木そのものが危険なのか、この場所を巣としている魔物がいるのか判断できない。

俺たちは白い大樹から離れた。

空が暗くなる前に、野営できる場所を探す。

大きな岩が重なり、三方を塞いでいる場所を見つけた。

背後から襲われる危険は少ない。

魔物除けの薬を周囲へ撒く。

火は焚かなかった。

深層で火を使えば遠くからでも居場所を知らせることになる。

冷たい保存食を食べる。

アークにはグリフォンから採取しておいた肉を少しだけ与えた。

『焼いたほうが美味いです』

「煙が出る」

『風で流します』

「匂いは消せないだろ」

『わいの腹の中へ入れたら消えます』

「焼いてる間に寄ってくるんだよ」

『難しいですな』

アークは不満そうにしながらも。

生の肉を残さず食べた。

その夜俺たちは交代で眠った。

アークが眠っている間、俺は剣を膝へ置き暗い森を見つめる。

何かが歩く音。

枝が擦れる音。

遠くから聞こえる鳴き声。

時折。魔力感知の端を大きな何かが通り過ぎる。こちらへ近付いてはこない。

魔物除けの薬が効いているのかそれとももっと大きな獲物を追っているのか分からない。

深層では何も起きていない時間でさえ、安心できなかった。

朝になると俺たちは早々に野営地を片付けた。

白い大樹を越えさらに森の奥へ進む。

しばらく歩くと地面の色が変わり始めた。

辺り一面地面を覆っている赤い苔。

鮮やかな赤ではない。黒に近い。

『これ、踏んでも大丈夫です?』

「確認する」

俺は落ちていた枝を念動力で持ち上げ。

苔の上へ落とした。

何も起こらない。

枝を押し付ける。

苔が僅かに収縮した。

生き物が身を縮めるような動き。

しばらくすると苔に触れていた枝の先端から、白い煙が上がり始めた。表面が溶けている。

「駄目だな」

『踏まんでよかったです』

苔の範囲は広い。

迂回できるかどうかも分からない。

俺は周囲に転がっている石を、念動力で持ち上げた。

一つ。

二つ。

三つ。

赤い苔の上へ並べる。足場を作る。

石へ足を乗せる。

苔へ触れないよう、次の石へ移る。

アークも俺の後へ続く。

途中一つの石が沈んだ。赤い苔が石の表面へ這い上がるように広がる。

『これ、苔ちゃいますやろ』

「動いてるな」

『早う行きましょう』

俺たちは急いで苔の地帯を抜けた。

最後の石から地面へ飛び移る。

振り返る。

苔は石をゆっくりと覆い始めていた。

数分もすれば石全体が赤く染まるだろう。

「帰りは別の道を探したほうがいい」

『帰れるんです?』

「帰るよ」

『主の帰るは、信用薄いです』

「今回は本当に帰る」

『それも聞き飽きましたな』

赤い苔を越えた先、森の様子が変わった。木々の密度が薄くなる。空が見える。地面には苔ではなく背の低い草が広がっている。そしてその草の向こうに灰色の石が見えた。

規則正しく積み重なった形。

自然にできたものではない。

「……あった」

俺は足を止めた。

『遺跡です?』

「ああ」

森の奥の人が足を踏み入れない場所。そこに石造りの建物が残っていた。

完全な形ではない。壁の一部は崩れている。屋根は消失していた。入口と思われる場所も、上部が崩れ落ち石が散乱している。

それでも基礎、壁、柱と建物の形は確認できる。

石組みは精緻だった。石と石の間には、刃先すら差し込めそうにない。接着剤のようなものは使われていない。ただ。石の形そのものを合わせ積み重ねている。

長い年月、風雨、植物の根に晒されながら今も崩れず残っていた。

『古いですな』

「どれくらい前のものか、想像もつかない」

壁の隙間から木が生えている。

太い根が石組みを押し広げ一部を崩していた。

建物の内側にも草、苔、小さな花、低い木と森が少しずつ遺跡を飲み込んでいる。

俺は崩れた入口へ近付いた。

アークが先に鼻を動かす。

『中に大きいのはおりません』

「小さいのは?」

『鼠みたいなのがおります』

「魔物?」

『腹減った、しか考えとりません』

「普通の動物かもしれないな」

俺は剣を抜いたまま遺跡へ入った。

足元には崩れた石、落ち葉、長年積もった土。壁には蔦が張り付いている。

文字らしきものが見えた。

俺は念動力で蔦を剥がす。

石壁へ刻まれていたのは古代語だった。

「間違いない」

『何て書いとるんです?』

「欠けてる。全部は読めない」

残っている部分を指で追う。

星。

位置。

観測。

境界。

接続。

それぞれの言葉は読める。

だが。

文章の大半が失われている。

何のために作られた施設なのか正確には判断できない。ただ星と空間。その二つに関係する場所らしい。

「ケンタウロスが言ってたことと関係がありそうだ」

『青い星と赤い星です?』

「そうかもしれない」

俺たちは遺跡の奥へ進んだ。

最初の部屋には何も残っていない。壁際には石の台があり何かを置いていたような窪みがある。

次の部屋は床の中央が陥没している。

さらに奥の細い通路の左右の壁には古代文字が帯のように刻まれている。

一部は読める。

研究。

観測者。

記録。

接続開始。

意味の通る文章にはならない。だが学院の図書館で見た文献より状態が良い文字もある。

俺は紙を取り出し読める部分だけを書き写した。

『全部調べるんです?』

「できるだけ」

『日ぃ暮れますで』

「奥を確認してから戻る」

『その“戻る”、信じてええんです?』

「今日は遺跡を見つけただけでも十分だよ」

さらに奥へ進む。

やがてこれまでより広い部屋へ出た。

四角い空間。壁は三方だけ残っている。天井はない。上から夕方の光が差し込んでいる。

部屋の中には一見すれば何も残っていない。だが足を踏み入れた瞬間魔力感知へ僅かな反応があった。

「何かある」

『魔物です?』

「違う。魔法陣だ」

俺は荷物を下ろした。

床へ積もった落ち葉を念動力で持ち上げ、部屋の外へ移動させる。

次に柔らかい土。小石。枯れた枝。草を退ける。

アークも前脚で土を掻こうとした。

「アークは触らないで」

『手伝いますで』

「爪で魔法陣を傷付けるかもしれない」

『そんな雑に掘りません』

「薬瓶を割ったことがあるだろ」

『あれは昔の話です』

「数か月前だよ」

『昔です』

アークには、部屋の入口を見張ってもらう。

俺は掃除を続けた。

土を取り除くほど床へ刻まれた線が現れる。

円。そしてその外側にさらに大きな円。二つの円をつなぐ直線。古代文字。小さな紋様。

直径は五メートルほど。

学院で再現した転送魔法陣より遥かに大きく複雑だった。

一文字ずつ線を傷付けないよう、丁寧に汚れを落とす。

完全に姿を現すまでかなりの時間がかかった。

俺は魔法陣の全体を見下ろした。

外周にはいくつもの古代文字。

火。

水。

風。

土。

光。

闇。

雷。

毒。

生命。

空間。

星。

境界。

一部は俺にも意味が分からない。

中心には。

二つの円が重なったような紋様。

その間に小さな星が刻まれている。

「狭間の星……」

『同じものです?』

「分からない。でも、似てる」

青い星と。

赤い星。

二つの星が交わった時。

その狭間に生じる星。

ケンタウロスの言葉を思い出す。

魔法陣の中央にある紋様は。

まさに二つの円が重なりその間に星が存在しているように見えた。

「起動できるか、試してみる」

『大丈夫です?』

「少量だけ魔力を流す」

『急にどっか飛びません?』

「それなら魔法陣が動いたことになる」

『主だけ飛んだら困ります』

「アークも一緒に入る?」

『失敗したらどうなるんです?』

「分からない」

『外から見ときます』

「どっちなんだよ」

俺は魔法陣の外周へしゃがみ込んだ。

掌を床へ近付ける。

直接触れず魔力だけを流す。

微かな光。

最初の古代文字。

淡く輝く。

そこから。

魔力が溝に沿って進む。

二つ目。

三つ目。

火。

風。

土。

文字が順番に点灯する。だが魔力が外周の四分の一ほどまで進んだところで突然光が消えた。

何も起こらない。風も。振動も。空間の歪みもない。

「動かない」

『壊れとります?』

「待って」

もう一度今度は魔力感知を魔法陣全体へ広げながら流す。

最初の文字。

俺の魔力を受け取り僅かに反応する。

次の文字。

その次。

そして。

先ほど止まった場所。

そこへ魔力が流れ込んだ瞬間何かへ弾かれた。

通路が詰まっているのではない。文字そのものが俺の魔力を受け付けていない。

「属性が違うのか」

『何です?』

「この魔法陣は、同じ魔力を全体へ流す構造じゃない」

俺は光が止まった文字を指した。

「一つ一つの文字に、対応する属性がある」

最初の文字には。

火属性の痕跡。

その次は土。

風。

水。

それぞれの古代文字へ。

元々異なる属性の魔力が蓄えられていた。

長い年月。

魔法陣が使われず魔力の供給もなかった。その結果文字の中に残っていた魔力が完全に失われている。

「魔法陣が壊れてるわけじゃない」

『ほな、直せます?』

「可能性はある」

俺は。

古代文字の横にある、小さな窪みを確認した。

円形で拳より少し小さい。その底には粉状になった何かが残っている。

指で触れず念動力で僅かに浮かせる。

砕けた魔石の残骸だ。

「ここに魔石が入ってた」

『魔石を置いたら動くんです?』

「文字に対応した属性の魔石が必要だ」

一つの文字。

一つの窪み。

すべてに魔石が必要なわけではない。

いくつかの文字は。

線を通じて一つの魔石から魔力を受け取る構造になっている。

それでも。

必要な魔石の数は多い。

俺は魔法陣を一周した。一つずつ確認する。

「火属性が二つ」

「水が一つ」

「風が二つ」

「土が三つ」

これらの魔石は十分にある。

「雷」

持っていない。

「光」

持っていない。

「闇」

持っていない。

さらに。

俺にも判別できない文字が二つ。

それぞれ。

異なる魔力の痕跡を持っている。

一つは。

空間が僅かに歪むような感覚。空間属性だろうか

もう一つは。

触れているはずなのにそこに存在しないような奇妙な反応。

「今のままじゃ動かせない」

『持っとる魔石、全部置いてみます?』

「適当に置くのは危険だ」

『爆発します?』

「可能性はある」

『ほな、やめましょう』

「それに」

俺は魔法陣の中心を見る。

「仮に途中まで動いたとして、すべての文字へ魔力が行き渡らなければ。何が起きるか分からない」

転送先の指定に失敗しリンゴが石壁へ埋まったことがある。

あれは小型の転送魔法陣だった。

運んだものもただのリンゴ。

だがこの魔法陣が世界を越えるためのものなら失敗した時の危険は比較にならない。

身体の一部だけが転送される。何もない空間へ飛ばされる。魔法陣の内部ごと消滅する。どれもあり得ないとは言えない。

「一度帰る」

『えっ』

アークが。

驚いたようにこちらを見る。

「どうした?」

『主が自分から帰る言うた』

「必要な魔石がないからね」

『ちょっと感動しましたわ』

「俺を何だと思ってるんだ」

『動くか分からん魔法陣に、とりあえず魔力流す人です』

「少量だっただろ」

『動いたらどうするつもりやったんです?』

「その時考える」

『やっぱり帰りましょう』

魔法陣を起動させるためにはそれぞれの古代文字に対応した属性の魔石が必要だ。

俺は紙を広げた。魔法陣全体を写し取る。

直径。

円の数。

線の位置。

古代文字。

魔石を入れる窪み。

一枚の紙では足りない。

魔法陣をいくつかの区画に分け。

それぞれを書き写す。

外周。

中周。

内周。

中心部。

すべてに番号を付けた。

次に。

魔力感知で確認した属性を記録する。

火。

水。

風。

土。

雷。

光。

闇。

空間。

不明。

判別できない二つの文字については魔力の感覚をできる限り詳しく文章へ残した。

さらに壁へ刻まれている古代語も写し取る。

星位。

境界。

接続。

観測。

座標。

遠隔。

固定。

そして。

魔法陣の中央にある。

狭間という文字。

『まだ終わりません?』

部屋の入口で伏せていたアークが。

大きく欠伸をする。

「もう少し」

『主のもう少しは長いです』

「魔石の位置だけ確認したら終わる」

『さっきも同じこと言うてました』

「記録が不完全だと、またここへ確認しに来ないといけない」

『また来るんでしょう?』

「来るけど、危険な森を何度も往復する必要はない」

『一回でも十分危険です』

日が沈み始める頃ようやく記録を終えた。

魔法陣へ魔力を流したことで。

何か変化が起きていないか、最後に確認する。

発熱。魔力の暴走。空間の歪みどれもない。

文字へ流れ込んだ魔力も既に消えている。

俺は魔法陣の周囲へ。

取り除いた土を戻さなかった。

次に来た時。

また最初から掃除する必要をなくすためだ。

ただし外から簡単に見つからないよう。

部屋の入口へ倒れていた石材、枝、蔦を移動させた。

遠くから見れば崩れた壁にしか見えない。

遺跡を出る前、俺はもう一度奥の部屋を振り返った。

ケンタウロスが言った石の眠る場所。

その言葉どおり魔法陣は眠っている。

壊れているわけではない。必要な魔力を失い目を覚ます時を待っている。

対応する属性魔石を揃えれば再び動く可能性がある。

そして魔法陣の中央に刻まれていた狭間という文字。

あれが何を意味しているのか。

「次は起動させる」

『何が起こるか分からんのに?』

「だから調べるんだよ」

『何が起こるか調べるために、何か起こすんですな』

「そういうことになるね」

『やっぱり、主は主ですわ』

「どういう意味だよ」

アークは答えず先に歩き始めた。

俺も遺跡に背を向ける。

必要な魔石を集める。

属性を判別できなかった文字を調べる。

魔法陣を安全に起動する方法を考える。

やるべきことは多い。

だが学院の図書館で何も見つからない文献を読み続けていた時とは違う。

今は目の前に道がある。

危険で何が待っているのか分からない道。

それでも進むことはできる。


黒霧の森を出るまでには三日を要した。

遺跡へ向かう時に通った赤い苔の地帯は避けた。別の道を探し大きく迂回した。その結果行きより時間がかかった。

深層では戦わずに済む魔物はできるだけ避けた。

持ち帰るべきものは既に十分にある。

サイクロプスの魔石。牙。腱。皮。

グリフォンの複合属性魔石。翼から採取した羽根。鉤爪。

それ以外にも途中で倒した魔物からいくつかの素材を採取している。

これ以上無理に魔物を狩る必要はない。


夜、遠くから何かがこちらを追ってくる気配を感じた。

俺たちは火を消し、荷物をまとめ暗闇の中を移動した。

アークの鼻と耳そして俺の魔力感知。この二つを頼りに足音を立てず移動した。追跡していた何かは姿を見せなかった。だが夜が明けるまで一定の距離から離れなかった。

『まだおる?』

「いる」

『何です?』

「分からない」

『考えは?』

『食う』

「それだけ?」

『食う』

『待つ』

『弱る』

「知能はあるな」

正面から襲わず俺たちが疲れるのを待っている。どの程度の強さか分からず。数も分からない。戦うべきではない。

俺たちは休息を短くし移動を続けた。

中層に近付くと追跡していた気配は消えた。自分の縄張りから離れたくなかったのかもしれない。あるいは中層まで追う必要がないと判断したのか。最後まで姿を見ることはなかった。

森の外縁部へ入ると人の痕跡が増えた。木へ刻まれた目印。薬草を採取した跡。焚き火。狩人の足跡。それらを見ただけでようやく人間の領域へ戻ってきたと感じる。

そして木々の隙間から広い空が見えた。

黒霧の森の外。

草原。

街道。

『出ましたな』

アークが。

大きく息を吐いた。

森の中でも呼吸はしていたはずだがようやく胸いっぱいに空気を吸えたような顔をしている。

「出たね」

『生きて帰りました』

「ああ」

『肉も持って帰りました』

「大事なのはそっち?」

『両方大事です』

アークは草の上へ寝転がった。背中を地面へ擦り付ける。

森の土。血。泥。毛へ付いた汚れが草へ落ちる。

「宿へ戻ったら洗うからね」

アークの動きが止まった。

『今、聞こえませんでした』

「洗うよ」

『疲れとります』

「だから洗って寝る」

『先に寝ます』

「汚れたまま寝台へ乗せないよ」

『ほな床で寝ます』

「宿の床も汚すだろ」

『森へ戻ります?』

「風呂から逃げるために深層へ戻るな」

俺たちはダリスティへ向かった。

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