深層続き
翌朝。
森は異様なほど静まり返っていた。
鳥のさえずりがない。羽音もない。
普段なら地面の下や草むらから聞こえてくる虫の音すら、完全に消えている。
風も止まっていた。
木々の枝葉は微動だにせず、黒い霧だけが地面を這うようにゆっくりと流れている。
静かすぎる。
ただの朝の静けさではない。
森に住む生き物たちが、何かを恐れて息を潜めている、そんな静けさだった。
先を歩いていたアークが足を止めた。
鼻先を地面へ近付け、何度も匂いを嗅ぐ。
その耳がぴんと立ち、次の瞬間には低く伏せられた。
『主』
「分かってる」
俺も既に気付いていた。
風が止まっているにもかかわらず、強烈な臭いが漂ってくる。
腐った肉。濁った沼。毒草。湿った鱗。それらを無理矢理混ぜ合わせたような、鼻の奥へこびりつく不快な臭い。
一度吸い込んだだけで、喉の奥が焼けるように痛む。
「アーク、あまり吸い込むな」
『言われんでも、こんなん嗅ぎたくないですわ』
アークは鼻へ前脚を当てるような仕草をした。
その時。
森の奥から音が聞こえた。
ずるり。
ずるり。
何か重いものが、湿った地面を擦りながら進んでいる。
枝が折れる。
低木が押し潰される。
木の幹へ硬いものが触れ、がりがりと表面を削る音がする。
俺は剣の柄へ手を掛けた。
アークも姿勢を低くする。
黒い霧の向こう。太い木々の間から、巨大な影が姿を現した。
最初に見えたのは、蛇のような胴体だった。
大樹ほども太い。
全身を覆う鱗は、苔のような濃い緑色をしている。
だが、ただの大蛇ではない。
胴体の先から、何本もの長い首が伸びていた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
五つの首。
それぞれの先に、凶悪な蛇の頭が付いている。
黄色く濁った目。
口元から突き出す長い牙。
牙の先からは緑色の液体が滴り、地面へ落ちるたびに草が黒く枯れていった。
五つの頭は、それぞれ別の方向を向いている。
一つは空を見上げ。
一つは地面の匂いを嗅ぎ。
一つは木の幹へ牙を擦り付け。
残る二つは、既にこちらを見ていた。
「ヒュドラ……」
学院の図書館で読んだ魔物図鑑。
そこに記されていた特徴と、完全に一致している。
複数の首。強力な毒。異常な再生能力。
首を切り落としても死なず、切断面を放置すれば新たな首が生える。
個体によっては、一つの首を切れば二つに増えることすらあるという。
深層に生息する魔物の中でも、特に討伐が難しい怪物。
『こいつ……』
アークが戸惑った声を上げた。
『頭ごとに考えとることが違います』
「別々なの?」
『右端の頭は腹減った』
『その隣は眠い』
『左端は、さっき食べた鹿がまずかった言うてます』
「随分余裕があるね」
『真ん中の頭は主を食いたい』
「それは余裕じゃないな」
『残りは、わいを丸呑みにしたい言うてます』
アークが一歩、俺の背後へ下がる。
「犬は美味しくないって言っておいて」
『聞く耳持ってへんです』
「耳はある?」
『そういう話ちゃいます』
五つの首が、ほとんど同時にこちらを向いた。
十個の濁った瞳が、俺とアークを捉える。
その瞬間。
中央の頭が大きく口を開いた。
「避けろ!」
緑色の液体が、勢いよく噴き出した。
俺とアークは左右へ飛ぶ。
毒液は俺たちの間を通り抜け、背後の大木へ直撃した。
じゅううううっ。
肉を焼くような音。
白い煙。
分厚い樹皮が溶け、その下の木まで黒く変色していく。
「触れたら終わりだな」
『絶対嫌ですわ、あんなん』
右端の頭が地面を這うように伸びてきた。
巨大な口。
並んだ牙。
俺は剣を抜き、噛みつきを横から弾く。
ぎんっ、と甲高い音が鳴った。
牙も硬い。
首が押し戻される。
だが、同時に横から別の頭が襲ってきた。
俺は身体を捻って避ける。
牙が外套の裾を掠めた。
布が僅かに溶ける。
毒は牙にも付着しているらしい。
「厄介だな!」
一つの首を防げば、別の首が来る。
視界に三つ入れても、残る二つが死角へ回り込む。
五体の魔物を同時に相手にしているようなものだ。
さらに、首同士は完全に勝手に動いているわけではない。
一つが正面から注意を引き。
別の首が横へ回り。
残る首が逃げ道を塞ぐ。
思考は別々でも、狩りの動きは本能的に連携している。
『主、右!』
アークの声。
俺は反射的に右手を向けた。
三本目の首が、アークへ牙を剥いている。
念動力で横から強く引く。
首の軌道が逸れた。
巨大な牙が、アークのすぐ横の地面へ突き刺さる。
土が大きく抉れた。
『助かりました!』
「一か所に止まるな!」
『分かっとります!』
アークが木々の間を駆ける。
その後を一本の首が追いかける。
噛みつき。
アークは横へ飛んで避ける。
長い首が地面へ激突した。
だがすぐに持ち上がり、再び追ってくる。
俺は別の二本を剣と念動力で押し返しながら、状況を観察する。
普通に一本ずつ切るのは難しい。
一本切断して焼いている間に、残る首から攻撃される。
それに、ヒュドラの胴体は巨大だ。
多少首を切ったところで、本体の動きまでは止まらない。
「まず、動きを鈍らせる」
腰の袋へ手を入れる。
錬金術の授業で作った油の小瓶。
火がつきやすく、粘着性を高めたものだ。
一本。
二本。
三本。
念動力で宙へ浮かせ、一斉にヒュドラの足元へ飛ばす。
瓶が鱗と地面へぶつかり、割れた。
粘り気のある油が飛び散る。
だが、胴体が大きすぎる。
油が付着したのは一部分だけだ。
「アーク、風を!」
『任せとき!』
アークが地面を踏みしめる。
全身の毛が逆立つ。
周囲の空気が急激に動き始めた。
地面へ広がった油が、風に押されてヒュドラの胴体へ巻き上がる。
鱗の隙間。腹部。五本の首の付け根。
粘着性のある油が広範囲へ付着する。
俺は左手を前へ出した。
「燃えろ!」
火球を放つ。
油へ直撃。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
ぼうっ、と炎が一気に広がった。
ヒュドラの巨体が炎に包まれる。
五つの頭が一斉に絶叫した。
異なる声。
高い叫び。
低い咆哮。
喉を潰したような唸り。
それらが重なり、森中へ響き渡る。
巨体が暴れ、尾が木を打ち。
五本の首が炎を振り払おうと、無秩序に動き回る。
だが、倒れない。
鱗が炎を防いでいる。
表面は焼けても、致命傷には至っていない。
「やっぱり火だけじゃ無理か」
炎の中から、一つの首が飛び出してきた。
鱗の一部が焼け、片目が潰れている。
それでも動きは鈍っていない。
巨大な口が俺の左腕を狙う。
俺は剣を振るった。
首の側面へ刃が食い込む。
身体強化。
念動力で刃を加速。
一気に振り抜く。
首が落ちた。
地面へ転がった頭が、なおも口を開閉している。
切断面から血が噴き出した。
だがすぐに、肉が盛り上がり始める。
「もう再生が!」
俺は即座に火球を叩き込んだ。
切断面が炎に包まれる。
焼けた肉の臭い。
盛り上がっていた肉が黒く焦げ、動きを止めた。
「一つ!」
残り四本。
そう思った瞬間。
二本の首が同時に毒液を吐いた。
俺は地面を蹴り、木の陰へ飛び込む。
毒液が左右から迫り、木の幹へ命中する。
逃げ道を読むような攻撃。
さらに別の頭が上から噛みついてくる。
剣で受け止める。
牙と刃がぶつかる。
「くっ……!」
押し潰される。
身体強化した両脚が地面へ沈む。
横から四本目の首。
避けられない。
その首へ、鋭い風が叩きつけられた。
アークの魔法。
首が横へ吹き飛び、木の幹へ激突した。
『主、一人で全部やろうとせんといてください!』
「助かった!」
俺は牙を押し返し、後方へ跳んだ。
ヒュドラの動きは、炎でさらに激しくなっている。
怒り。
痛み。
混乱。
五本あった首の一本を失ったことで、残る頭の思考も荒れていた。
『こいつら、もうまともに考えとりません!』
「逆に動きが読みにくい!」
残る四本が、ばらばらに攻撃してくる。
毒液。
噛みつき。
頭突き。
首を鞭のように振るう攻撃。
俺は避け、弾き、念動力で軌道を逸らす。
だが、少しずつ追い詰められる。
一本の毒液を避けた直後。
別の頭が至近距離から液体を吐いた。
完全には避けきれない。
緑色の雫が、左肩へ触れた。
「ぐっ!」
服が瞬時に溶ける。
皮膚へ焼けた鉄を押し付けられたような痛み。
煙が上がった。
『主!』
「来るな!」
アークを止める。
触れれば、アークまで毒を受ける。
俺は腰の解毒薬を掴み、肩へ直接かけた。
液体が傷口へ染み込む。
今度は別の痛み。
だが、毒が広がっていく感覚は止まった。
腕は動く。
まだ戦える。
続けて魔力回復薬の蓋を歯で開け、一気に飲み干した。
苦い。
喉から腹の奥まで熱が広がる。
消耗していた魔力が僅かに戻ってくる。
『主、下がりましょう!』
アークが叫ぶ。
「無理だ!」
俺は残る四本の首を見る。
「背中を向けたら追いつかれる!」
ヒュドラの速度は、巨体から想像するより遥かに速い。
森の中を逃げても、長い首から毒液を吐かれれば危険だ。
ここで仕留めるしかない。
だが一本ずつ切る方法では、こちらが先に消耗する。
俺は残る首の動きを見る。
首はそれぞれ独立して動いている。
だが、すべて一つの胴体へつながっている。
首の根元。
そこなら、互いの距離が近い。
「アーク!」
『何です!』
「お前の風で、首を切れるか?」
アークが動きを止めた。
『風で?』
「前に木を切った時みたいに、風を細く圧縮するんだ」
アークの風魔法は強い。
『できますけど……動いとったら狙えませんで!』
「俺が止める」
『四本全部ですか!?』
「一瞬でいい!」
ヒュドラが咆哮する。
四本の首が、それぞれ別の方向から迫ってくる。
「やるぞ!」
俺は剣を地面へ突き立てた。
両手を前へ出す。
自分の中にある魔力を、念動力へ変える。
一本目。
右から迫る首を掴む。
見えない力が巻き付き、首の動きを止める。
二本目。
上から来る首を横へ引く。
三本目。
アークを狙う首を地面へ押さえ付ける。
四本目。
毒液を吐こうとした頭の口を、念動力で無理矢理閉じる。
「ぐっ……!」
頭の奥へ激痛が走った。
四本同時。
しかもヒュドラの首は、一つ一つがサイクロプスの腕ほどの力を持っている。
完全には止まらない。
首が震える。
筋肉が膨れ上がる。
俺の念動力を引き裂こうと、四方へ暴れる。
靴が地面を滑る。
鼻の奥が熱くなる。
一筋の血が流れた。
『主!』
「まだだ!」
俺は歯を食いしばる。
四本の首を、無理矢理同じ高さへ揃える。
首の付け根。
できるだけ近い位置へ集める。
一本が外側へ逃げようとする。
念動力を強める。
見えない鎖で引き戻す。
「アーク!」
『分かっとります!』
アークが俺の横へ立った。
四肢を地面へ深く踏み込む。
頭を低く下げる。
全身の毛が逆立った。
空気が震え始める。
最初は、穏やかな風だった。
地面の落ち葉が舞う。
次第に風が強くなる。
アークを中心に、周囲の空気が渦を巻く。
小石が浮かぶ。
草が根元から引き抜かれる。
木々の枝が大きくしなる。
『うううう……!』
アークが低く唸る。
風が、アークの正面へ集まっていく。
広がっていた気流が細くなる。
細く。
さらに細く。
目には見えない。
だが、魔力感知でははっきりと分かった。
風が一本の線へ圧縮されている。
空気の刃。
触れたものを押し飛ばす風ではない。
切断するためだけに研ぎ澄まされた、極薄の風。
ヒュドラも危険を感じたのか、四本の首が一斉に暴れ始めた。
「くそっ……!」
一本目が念動力を押し返す。
二本目の口が開きかける。
三本目が大きく捻れ、拘束から抜けようとする。
腕が震える。
視界が暗くなる。
これ以上は長く持たない。
「アーク、今だ!」
アークが目を見開いた。
『いっけえええええ!』
一声吠える。
圧縮されていた風が解放された。
音は、ほとんどなかった。
轟音もない。
爆発もない。
ただ、森の空気に一本の歪みが走った。
それがヒュドラへ向かって飛ぶ。
一瞬。
本当に、一瞬だった。
風の刃が四本の首の根元を通過する。
何も起きなかったように見えた。
ヒュドラの首も、そのまま俺たちへ牙を剥いている。
だが次の瞬間。
四本の首が、わずかにずれた。
切断面から細い血の線が走る。
そして。
ずるり。
四本の首が、同時に胴体から滑り落ちた。
巨大な頭部が次々と地面へ落下する。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
重い音が森へ響く。
遅れて、首の付け根から血が噴き上がった。
「やった……!」
俺は念動力を解除した。
全身から力が抜け、片膝をつく。
だが、まだ終わっていない。
俺は念動力を解除した。
全身から力が抜け、片膝をつく。
だが、まだ終わっていない。
四本の首を失った切断面が、不気味に蠢いている。
盛り上がった肉が波打ち。
赤黒い筋肉の隙間から、白い骨のようなものが伸び始める。
新たな首を作ろうとしていた。
「やっぱり再生するか……!」
アークはその場へへたり込んでいた。
舌を大きく出し、肩で息をしている。
今の一撃で、ほとんどすべての魔力を使い切ったのだろう。
『主……あとは任せましたで……』
「十分だ。休んでろ」
俺は地面へ突き立てていた剣を引き抜いた。
ヒュドラの切断面は四つ。
それぞれが別々に肉を盛り上げ、新しい首を形成しようとしている。
放置すれば、数秒もしないうちに再生が始まる。
俺は左手を前へ突き出した。
体内に残っている魔力を集める。
既に念動力の使い過ぎで、頭の奥が激しく痛んでいた。
魔力回復薬を飲んだとはいえ、余裕があるわけではない。
それでも、ここで止めなければならない。
「燃えろ!」
掌から炎が噴き出した。
最初の切断面へ直撃する。
ぼうっ、と赤い炎が広がった。
血が沸騰し。
肉が焼け。
盛り上がっていた再生組織が黒く焦げていく。
ヒュドラの胴体が大きく跳ねた。
首を失っているにもかかわらず、腹の底から響くような低い音を発する。
俺は炎を止めない。
再生しようとする肉が完全に炭化するまで焼き続ける。
一つ目。
蠢きが止まる。
すぐに腕を横へ振る。
炎が二つ目の切断面へ移った。
火力を高める。
ヒュドラの血は粘り気が強く、普通の炎では簡単に燃え広がらない。
だから一点へ集中させる。
表面だけではない。
肉の奥へ熱を送り込むように、炎を細く絞る。
じゅううううっ。
湿った肉が焼ける音。
鼻を突く悪臭。
白い煙が立ち上る。
「まだだ……!」
二つ目の再生が止まる。
続いて三つ目。
そして四つ目。
俺は順番に切断面へ炎を叩き込んだ。
再生組織は焼かれるたびに激しく蠢き、炎から逃れるように肉を縮ませる。
だが逃がさない。
念動力で炎の向きを調整し、切断面全体を包み込む。
肉。
血管。
骨。
再生の中心となっている組織。
すべてを焼く。
最後の切断面が黒く焦げた瞬間。
新しい首を作ろうとしていた動きが、完全に止まった。
「これで……再生はできないはずだ」
俺が炎を消すと、四つの切断面から黒い煙が上がった。
焦げた肉の臭いが森へ充満する。
『臭いですな……』
アークが地面へ伏せたまま鼻を鳴らす。
「我慢して」
『わい、鼻ええんですよ』
「今だけは同情する」
だが、ヒュドラはまだ死んでいなかった。
四本すべての首を失い。
切断面を焼かれ。
それでも巨大な胴体は激しく暴れ続けている。
太い尾が地面を打つ。
轟音。
土と石が弾け飛ぶ。
近くにあった倒木が、軽々と宙へ跳ね上がった。
四肢が無秩序に動き、地面へ深い爪痕を刻む。
「アーク、離れろ!」
『言われんでも!』
アークがふらつきながら木の陰へ走る。
俺も後方へ下がろうとした。
その時。
ヒュドラの尾が大きく横へ振られた。
地面すれすれ。
広範囲を薙ぎ払う一撃。
速い。
避けきれない。
俺は反射的に念動力を地面へ向けた。
「上がれ!」
見えない力で自分の身体を押し上げる。
地面が遠ざかる。
直後。
ヒュドラの尾が足元を通過した。
凄まじい風圧。
背後の木々がまとめてへし折られる。
幹が裂け。
枝が舞い。
森の一部が丸ごとなぎ倒された。
俺は空中で身体を捻った。
眼下には、首を失ったヒュドラの巨大な背中。
そのまま鱗の上へ着地する。
炎で熱せられた鱗から、靴底を通して熱が伝わってきた。
長く留まることはできない。
俺はすぐに背中を蹴り、反対側へ飛び降りた。
地面へ着地すると同時に転がり、ヒュドラから距離を取る。
荒い呼吸。
痛む左肩。
念動力の使い過ぎで脈打つ頭。
残っている魔力も僅かだった。
隣ではアークも地面へ腹をつけ、舌を出している。
ヒュドラの胴体は、しばらく激しく痙攣していた。
尾が二度。
三度。
地面を叩く。
そのたびに周囲が揺れた。
だが、次第に動きが弱くなっていく。
四肢から力が抜ける。
尾が地面へ落ちた。
最後に胴体が一度だけ大きく震え。
それきり動かなくなった。
森へ静けさが戻る。
俺は剣を構えたまま、しばらく様子を見た。
十秒。
二十秒。
三十秒。
ヒュドラは動かない。
焼いた切断面にも、再生の兆候はなかった。
「終わった……か?」
『ほんまに死んだんですか?』
アークが息を切らしながら言う。
「たぶん」
『またそれですか』
「全部の首を切って、切断面も焼いた」
『でもヒュドラですやん』
「……確かに」
俺は少し考えた。
もう一度左手を上げる。
『まだやるんです?』
「念のため」
残っている魔力を絞り出す。
今度は切断面だけではない。
ヒュドラの胴体へ向け、広範囲に炎を放つ。
ぼうっ。
赤い炎が鱗の上へ広がった。
鱗の隙間へ入り込み。
残っていた油へ燃え移り。
ヒュドラの胴体全体を包み込んでいく。
先ほどより火力は弱い。
それでも、死んだふりをしているなら反応するはずだ。
だがヒュドラは動かなかった。
尾も。
四肢も。
腹部も。
完全に沈黙している。
『やりすぎちゃいます?』
「ヒュドラだからね」
『それもそうですな』
俺は炎を消し、その場へ座り込んだ。
もう立っているのも辛かった。
身体から力が抜ける。
アークも隣へ歩いてきて、そのまま地面へ倒れ込んだ。
『疲れましたわ』
「すごかったよ」
『何がです?』
「今の風魔法」
俺は地面へ転がる四つの頭を見る。
切断面は驚くほど滑らかだった。
剣で切ったものとは違う。
巨大な首を四本同時に。
まるで薄い紙を切るように断ち切っている。
「俺の剣より切れてた」
『当然です』
アークが少しだけ顔を上げる。
『わい、風魔法の天才ですから』
「さっきまで無理って言ってたけど」
『謙遜です』
「撃った後、動けなくなってるけど」
『全力出したからです』
「次からは、もう少し加減を覚えよう」
『主にだけは言われたくありませんわ』
「どういう意味?」
『主も、いっつも全部使い切るやないですか』
否定しようとした。
だが頭痛と、ほとんど空になった魔力を考え、何も言えなかった。
『ほら、黙った』
「今回は必要だった」
『わいも必要やったんです』
「そうだね」
アークが起き上がり、煙を上げるヒュドラを見つめる。
『でも、首飛ばすんは気持ちよかったですな』
「怖いこと言うね」
『主がいつもやっとることですやん』
「俺はそんなに首を飛ばしてない」
『オーガ、グリフォン、ヒュドラ』
「数えなくていいよ」
アークは満足そうに尻尾を一度だけ振った。
全力の風魔法。
その威力は、俺が想像していた以上だった。
吹き飛ばすだけではない。
圧縮し、薄く研ぎ澄ませれば、巨大な魔物の首すら一撃で切断できる。
ただし、魔力の消耗も激しい。
単独では狙いを定めることも難しい。
今回成功したのは、俺が首を拘束し、アークが攻撃へ集中できたからだ。
俺の念動力。
アークの風。
どちらか一方だけでは、ヒュドラを倒せなかったかもしれない。
「連携技だな」
『何です、それ』
「俺が動きを止めて、アークが首を切る」
『ええですな』
アークは少し考えた。
『名前つけましょう』
「いらないよ」
『“疾風首ちょんぱ”とか』
「絶対嫌だ」
『分かりやすいやないですか』
「格好悪すぎる」
『ほな、“四連首ちょんぱ”』
「もっと嫌だ」
『主、注文多いですな』
俺は苦笑しながら、煙を上げるヒュドラを見つめた。
深層の魔物は強い。
一瞬の判断を誤れば、命を落とす。
だが、アークと力を合わせれば戦える。
一人では届かない敵にも、二人なら届く。
そのことを、今回の戦いがはっきりと教えてくれた。
十分に休息を取ってから、俺たちはヒュドラの素材を採取することにした。
とはいえ、死体へ直接近付くつもりはない。
ヒュドラは死んでいる。
五本すべての首を失い、切断面を炎で焼かれた。
既に再生の兆候もない。
それでも、その身体には強力な毒が残っている。
牙の先から滴っただけで草木を枯らし、大木の幹さえ溶かした毒だ。
素手で触れるのは論外。
手袋を使ったとしても、鱗や血液に毒が付着していれば安全とは言えない。
『主、近付くんです?』
アークがヒュドラの死体から大きく距離を取りながら尋ねる。
「近付かないよ」
『ほな、どうやって取るんです?』
「こうする」
俺は焼け焦げた地面へ腰を下ろしたまま、右手をヒュドラへ向けた。
念動力を広げる。
見えない力が、ヒュドラの死体を包み込んでいく。
最初に調べるのは首の付け根だ。
魔力感知を併用し、鱗と肉の下を探る。
濁った魔力の塊。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
そして、最初に俺が切断した首にも一つ。
合計五つの反応があった。
「やっぱり、首ごとに魔石がある」
『頭ごとに考えとったからちゃいます?』
「可能性はあるね」
ヒュドラは一つの胴体を持ちながら、それぞれの首が別々の思考を持っていた。
そして、それぞれの首の付け根に独立した魔石が存在する。
もしかすると、ヒュドラという魔物は、単純に頭が複数ある生物ではないのかもしれない。
複数の生命が、一つの胴体を共有している。
そんな構造に近い可能性もある。
「まずは魔石からだな」
俺は鞘から剣を抜いた。
ただし、手には持たない。
念動力で宙へ浮かせる。
血の付いた刃が、俺の正面からゆっくりとヒュドラへ向かって飛んでいく。
『器用なことしますな』
「毒へ近付くより安全だからね」
浮かせた剣を、最初の首の付け根へ当てる。
そのまま念動力で刃を動かし、焦げた鱗の隙間へ差し込んだ。
硬い鱗。
分厚い皮。
焼けた筋肉。
手で扱う時とは違い、刃から伝わってくる感触はない。
その代わり、魔力感知で内部の構造を探りながら、慎重に切り進める。
刃が魔石へ当たらないよう、周囲の肉だけを切り離す。
一本の剣だけでは細かな作業が難しい。
俺は荷物から解体用の短剣と小型の鉤を取り出し、それらも念動力で浮かせた。
三つの道具が宙を移動する。
剣で大きく切り開き。
短剣で魔石の周囲の組織を剥がし。
鉤で切り離した肉を持ち上げる。
やがて、濁った緑色の魔石が露出した。
「見つけた」
念動力で魔石だけを掴む。
周囲の肉から、ゆっくりと引き剥がした。
べり、と粘ついた音がする。
魔石が宙へ浮かび上がった。
表面には血と体液が付着している。
当然、直接手では触れない。
あらかじめ地面へ置いておいた金属製の容器へ水を注ぎ、その中へ魔石を沈める。
念動力で水を回転させ、表面の汚れを洗い落とす。
一度目の水はすぐに濁った。
俺は容器ごと離れた場所へ動かし、汚れた水を穴へ捨てる。
新しい水でもう一度洗浄する。
それから乾いた布を宙へ浮かせ、魔石を包み込むようにして水分を拭き取った。
「一つ目」
綺麗になった魔石を、魔力遮断用の箱へ収める。
箱の蓋も念動力で閉じた。
同じ作業を、残る四本の首にも繰り返す。
鱗を切る。
皮膚と筋肉を開く。
魔石の位置を探る。
周囲の組織を切り離す。
摘出。
洗浄。
乾燥。
収納。
五つ目を箱へ収めた頃には、簡単な作業にもかかわらず額へ汗が滲んでいた。
念動力で重い物を持ち上げること自体は難しくない。
だが、複数の道具を同時に動かし、魔石を傷付けないよう細かな力加減を続けるのは、想像以上に神経を使う。
『主、顔怖いですで』
「集中してるだけだよ」
『悪い研究者の顔になっとります』
「どんな顔だよ」
箱の中には五つの魔石が並んでいた。
大きさと形は似ている。
だが内部を流れる魔力には、僅かな違いがあった。
水属性。
毒属性。
再生に関わると思われる生命属性。
三つの性質が複雑に絡み合っている。
それぞれの配分も少しずつ異なっていた。
「調べる価値はありそうだ」
『売ったら高いんちゃいます?』
「研究してから考える」
『売る気ない顔ですな』
「貴重な資料だからね」
『やっぱり悪い研究者ですやん』
魔石の次は、毒腺だ。
魔物図鑑に記載されていた位置を思い出す。
毒腺は牙の根元から首の側面にかけて存在する。
ただし、少しでも傷付ければ中の毒が漏れ出す。
念動力での作業なら身体へ毒がかかる危険は低い。
だが道具へ付着した毒が飛び散る可能性はある。
俺は周囲から平らな石を集め、念動力で簡易的な壁を作った。
死体と俺たちの間へ、何枚もの石を重ねる。
作業場所を囲み、毒液が飛んでもこちらまで届かないようにする。
さらにアークを離れた大木の陰へ移動させた。
『わい、見張っときます』
「絶対に近付くなよ」
『言われんでも嫌ですわ』
再び短剣を浮かせる。
今度は首の側面へ刃を入れた。
皮膚を浅く切る。
その下にある筋肉を少しずつ開いていく。
魔力感知で位置を確かめながら、毒腺そのものへ刃を触れさせないよう慎重に周囲を切り離す。
袋状の器官が見えた。
濁った緑色。
薄い膜の内側で、粘り気のある液体が揺れている。
「これか」
念動力で毒腺を直接掴むのは危険だ。
力を入れすぎれば破裂する。
俺は何本もの細い糸を取り出した。
それらを宙へ浮かせ、毒腺へつながる管の周囲へ巻き付ける。
一つ。
二つ。
入口と出口の両方を固く縛る。
毒液が漏れないことを確認してから、その外側を短剣で切断した。
毒腺が肉から離れる。
念動力で、ゆっくりと持ち上げる。
少しでも揺らせば、中の液体が袋を圧迫する。
動かす速度を落とす。
事前に用意しておいた厚いガラス容器の中へ、毒腺を静かに降ろした。
容器の底には柔らかい布を重ねてある。
毒腺が直接ガラスへぶつからないためだ。
蓋を浮かせる。
容器の上へ重ね。
ゆっくりと閉じる。
さらに蝋を炎で溶かし、念動力で蓋の隙間へ流し込んだ。
一周。
二周。
毒液が絶対に漏れないよう、何重にも封をする。
最後に容器全体を革袋へ入れ、さらに木箱へ収めた。
「これで大丈夫だろう」
『ほんまです?』
「たぶん」
『怖いこと言わんといてください』
「絶対とは言えないから、アークはその箱に近付くなよ」
『捨てて帰りません?』
「貴重な素材だよ」
『命より貴重なんです?』
「漏れなければ安全だから」
『その“漏れなければ”が怖いんですわ』
続いて鱗を採取する。
状態の良いものを選び、念動力で短剣を鱗の根元へ差し込む。
一枚ずつ、皮膚から剥がしていく。
分厚く、硬い。
一枚だけでも小さな盾ほどの大きさがある。
表面には毒液が付着している可能性があるため、魔石と同じように念動力で洗浄した。
水で流し。
薬液へ浸し。
最後に弱い炎を当てて乾燥させる。
牙も同様だった。
根元の肉を念動力で切り開き、鉤を使って引き抜く。
牙を抜いた瞬間、内部から僅かに毒液が滲んだ。
俺はすぐに念動力で液体を球状に集める。
地面へ落ちる前に金属容器へ移し、蓋を閉めた。
一滴たりとも周囲へ飛ばさない。
「危なかった」
『主、楽しんでません?』
「練習になるからね」
『毒液の処理を練習にせんといてください』
「念動力の精密操作にはちょうどいい」
『失敗した時の被害が大きすぎますわ』
血液も採取する。
切断された首の血は、既に土や灰が混ざっている。
研究には使いにくい。
そこで、焼けていない胴体部分へ細い金属管を念動力で差し込んだ。
血管を探り当て。
容器の口へ管の反対側を向ける。
念動力で内部の血液だけをゆっくり押し出す。
黒に近い赤色の液体が、管を通って瓶へ流れ込んだ。
必要なのは少量だけだ。
容器の三分の一ほど採取したところで止める。
管を抜き。
瓶の蓋を閉じ。
毒腺と同じように蝋で密封した。
すべての素材を採取し終えた後、使用した剣や短剣、鉤、金属管を一か所へ集める。
どれにもヒュドラの血や毒が付着している可能性がある。
水だけで洗うのは危険だ。
俺は念動力で道具を宙へ浮かせ、炎魔法を放った。
刃が赤くなる直前まで熱する。
毒を焼き。
付着した血肉を炭化させる。
その後、水で冷却し、もう一度薬液で洗浄した。
最後まで、道具にも素材にも直接手を触れない。
『便利ですな、念動力』
「こういう時は特にね」
採取した素材を確認する。
五つの魔石。
毒腺。
鱗。
牙。
血液。
どれも錬金術の素材として高い価値を持っている。
特にヒュドラの毒は、極めて強力だ。
そのまま使えば恐ろしい毒物になる。
一方で、成分を正しく分析し、毒性を弱める方法を見つけられれば、強力な解毒薬の材料にもなる。
毒を知ることは、毒を防ぐことにつながる。
学院の設備があれば、詳しく調べられるだろう。
「これ以上は持てないな」
素材を詰めた荷物は、既にかなりの重量になっていた。
サイクロプスの魔石と素材。
グリフォンの魔石と羽根。
ヒュドラの魔石、鱗、牙、毒腺、血液。
この三体だけでも、十分すぎる収穫だ。
俺は荷袋そのものも念動力で浮かせてみた。
ふわりと地面から持ち上がる。
『それで運ぶんです?』
「できなくはないけど、ずっと浮かせると魔力を使い続ける」
『ほな、主が背負ってください』
「アークの荷物もあるよ」
『わいのは羽根だけですやん』
「自分の荷物は自分で持つ」
『素材は全部念動力で取ったのに、荷物は自力なんですか?』
「魔力は温存しないといけないからね」
『世知辛いですな』
俺は荷物を背負い、周囲を見回した。
焼け焦げた地面。
薙ぎ倒された木々。
五つの首を失ったヒュドラの死体。
黒霧の森の深層へ入ってから、まだ数日しか経っていない。
それにもかかわらず。
サイクロプス。
グリフォン。
ヒュドラ。
強力な魔物と立て続けに戦っている。
どの戦いも、一歩間違えば死んでいた。
「そろそろ帰るべきかもしれないな」
俺が呟くと、アークの耳が勢いよく立った。
『帰るんですか!?』
「そのつもりだけど」
『帰りましょう! 今すぐ帰りましょう!』
「急に元気になったね」
『肉が、わいを待っとります!』
「命を大事にする話じゃなかったの?」
『肉を食べるには、生きて帰らなあきません』
「間違ってはいないね」
十分な素材を得た。
深層の魔物との戦闘経験も積めた。
アークとの新しい連携も見つかった。
これ以上、危険を冒す必要はない。
そう考えていた。
その時だった。
先を歩いていたアークが、突然足を止めた。
耳を立てる。
鼻を動かす。
そして、ゆっくりと周囲を見回した。
『主』
その声には、先ほどまでの軽さがなかった。
「どうした?」
『囲まれてます』
俺は荷物を地面へ下ろした。
すぐに剣へ手を掛ける。
「何匹?」
『十……』
アークは目を細め、木々の奥へ意識を向けた。
『いや、もっとです』
森は静かだった。
姿は見えない。
足音もない。
魔物の息遣いすら聞こえない。
だが、よく見れば木々の隙間で何かが動いている。
右。
左。
後方。
複数の気配。
それも、俺たちを中心に一定の距離を保ちながら配置されていた。
『こいつら、今までの魔物と違います』
「どう違う?」
『声を出さんようにしとる』
『物音も立てんように、ゆっくり動いとります』
『それと……』
アークの身体が低く沈む。
『誰かの合図を待ってます』
その瞬間。
風を切り裂く音がした。
「伏せろ!」
俺はアークを念動力で横へ弾き、自分も地面へ飛び込んだ。
一本の矢が頭上を通過する。
背後の木の幹へ深く突き刺さった。
続けて。
二本。
三本。
四本。
異なる方向から矢が飛んでくる。
俺は念動力を広げ、矢の軌道を逸らした。
金属の矢尻が木へ当たり。
地面へ突き刺さり。
硬い音を立てて転がる。
「弓を使う魔物……」
黒霧の向こう。
木々の間から、ゆっくりと影が現れた。
人間の上半身。
馬の下半身。
手には長弓。
背中には矢筒。
一体ではない。
右から。
左から。
後方から。
次々と姿を現す。
十体。
十五体。
さらに奥にも気配がある。
ケンタウロス。
深層で暮らす、知性ある魔物の群れ。
そのすべてが弓を構え、矢先を俺とアークへ向けていた。




