表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/27

深層続き

翌朝。

森は異様なほど静まり返っていた。

鳥のさえずりがない。羽音もない。

普段なら地面の下や草むらから聞こえてくる虫の音すら、完全に消えている。

風も止まっていた。

木々の枝葉は微動だにせず、黒い霧だけが地面を這うようにゆっくりと流れている。

静かすぎる。

ただの朝の静けさではない。

森に住む生き物たちが、何かを恐れて息を潜めている、そんな静けさだった。

先を歩いていたアークが足を止めた。

鼻先を地面へ近付け、何度も匂いを嗅ぐ。

その耳がぴんと立ち、次の瞬間には低く伏せられた。

『主』

「分かってる」

俺も既に気付いていた。

風が止まっているにもかかわらず、強烈な臭いが漂ってくる。

腐った肉。濁った沼。毒草。湿った鱗。それらを無理矢理混ぜ合わせたような、鼻の奥へこびりつく不快な臭い。

一度吸い込んだだけで、喉の奥が焼けるように痛む。

「アーク、あまり吸い込むな」

『言われんでも、こんなん嗅ぎたくないですわ』

アークは鼻へ前脚を当てるような仕草をした。

その時。

森の奥から音が聞こえた。

ずるり。

ずるり。

何か重いものが、湿った地面を擦りながら進んでいる。

枝が折れる。

低木が押し潰される。

木の幹へ硬いものが触れ、がりがりと表面を削る音がする。

俺は剣の柄へ手を掛けた。

アークも姿勢を低くする。

黒い霧の向こう。太い木々の間から、巨大な影が姿を現した。

最初に見えたのは、蛇のような胴体だった。

大樹ほども太い。

全身を覆う鱗は、苔のような濃い緑色をしている。

だが、ただの大蛇ではない。

胴体の先から、何本もの長い首が伸びていた。

一つ。

二つ。

三つ。

四つ。

五つ。

五つの首。

それぞれの先に、凶悪な蛇の頭が付いている。

黄色く濁った目。

口元から突き出す長い牙。

牙の先からは緑色の液体が滴り、地面へ落ちるたびに草が黒く枯れていった。

五つの頭は、それぞれ別の方向を向いている。

一つは空を見上げ。

一つは地面の匂いを嗅ぎ。

一つは木の幹へ牙を擦り付け。

残る二つは、既にこちらを見ていた。

「ヒュドラ……」

学院の図書館で読んだ魔物図鑑。

そこに記されていた特徴と、完全に一致している。

複数の首。強力な毒。異常な再生能力。

首を切り落としても死なず、切断面を放置すれば新たな首が生える。

個体によっては、一つの首を切れば二つに増えることすらあるという。

深層に生息する魔物の中でも、特に討伐が難しい怪物。

『こいつ……』

アークが戸惑った声を上げた。

『頭ごとに考えとることが違います』

「別々なの?」

『右端の頭は腹減った』

『その隣は眠い』

『左端は、さっき食べた鹿がまずかった言うてます』

「随分余裕があるね」

『真ん中の頭は主を食いたい』

「それは余裕じゃないな」

『残りは、わいを丸呑みにしたい言うてます』

アークが一歩、俺の背後へ下がる。

「犬は美味しくないって言っておいて」

『聞く耳持ってへんです』

「耳はある?」

『そういう話ちゃいます』

五つの首が、ほとんど同時にこちらを向いた。

十個の濁った瞳が、俺とアークを捉える。

その瞬間。

中央の頭が大きく口を開いた。

「避けろ!」

緑色の液体が、勢いよく噴き出した。

俺とアークは左右へ飛ぶ。

毒液は俺たちの間を通り抜け、背後の大木へ直撃した。

じゅううううっ。

肉を焼くような音。

白い煙。

分厚い樹皮が溶け、その下の木まで黒く変色していく。

「触れたら終わりだな」

『絶対嫌ですわ、あんなん』

右端の頭が地面を這うように伸びてきた。

巨大な口。

並んだ牙。

俺は剣を抜き、噛みつきを横から弾く。

ぎんっ、と甲高い音が鳴った。

牙も硬い。

首が押し戻される。

だが、同時に横から別の頭が襲ってきた。

俺は身体を捻って避ける。

牙が外套の裾を掠めた。

布が僅かに溶ける。

毒は牙にも付着しているらしい。

「厄介だな!」

一つの首を防げば、別の首が来る。

視界に三つ入れても、残る二つが死角へ回り込む。

五体の魔物を同時に相手にしているようなものだ。

さらに、首同士は完全に勝手に動いているわけではない。

一つが正面から注意を引き。

別の首が横へ回り。

残る首が逃げ道を塞ぐ。

思考は別々でも、狩りの動きは本能的に連携している。

『主、右!』

アークの声。

俺は反射的に右手を向けた。

三本目の首が、アークへ牙を剥いている。

念動力で横から強く引く。

首の軌道が逸れた。

巨大な牙が、アークのすぐ横の地面へ突き刺さる。

土が大きく抉れた。

『助かりました!』

「一か所に止まるな!」

『分かっとります!』

アークが木々の間を駆ける。

その後を一本の首が追いかける。

噛みつき。

アークは横へ飛んで避ける。

長い首が地面へ激突した。

だがすぐに持ち上がり、再び追ってくる。

俺は別の二本を剣と念動力で押し返しながら、状況を観察する。

普通に一本ずつ切るのは難しい。

一本切断して焼いている間に、残る首から攻撃される。

それに、ヒュドラの胴体は巨大だ。

多少首を切ったところで、本体の動きまでは止まらない。

「まず、動きを鈍らせる」

腰の袋へ手を入れる。

錬金術の授業で作った油の小瓶。

火がつきやすく、粘着性を高めたものだ。

一本。

二本。

三本。

念動力で宙へ浮かせ、一斉にヒュドラの足元へ飛ばす。

瓶が鱗と地面へぶつかり、割れた。

粘り気のある油が飛び散る。

だが、胴体が大きすぎる。

油が付着したのは一部分だけだ。

「アーク、風を!」

『任せとき!』

アークが地面を踏みしめる。

全身の毛が逆立つ。

周囲の空気が急激に動き始めた。

地面へ広がった油が、風に押されてヒュドラの胴体へ巻き上がる。

鱗の隙間。腹部。五本の首の付け根。

粘着性のある油が広範囲へ付着する。

俺は左手を前へ出した。

「燃えろ!」

火球を放つ。

油へ直撃。

一瞬の静寂。

次の瞬間。

ぼうっ、と炎が一気に広がった。

ヒュドラの巨体が炎に包まれる。

五つの頭が一斉に絶叫した。

異なる声。

高い叫び。

低い咆哮。

喉を潰したような唸り。

それらが重なり、森中へ響き渡る。

巨体が暴れ、尾が木を打ち。

五本の首が炎を振り払おうと、無秩序に動き回る。

だが、倒れない。

鱗が炎を防いでいる。

表面は焼けても、致命傷には至っていない。

「やっぱり火だけじゃ無理か」

炎の中から、一つの首が飛び出してきた。

鱗の一部が焼け、片目が潰れている。

それでも動きは鈍っていない。

巨大な口が俺の左腕を狙う。

俺は剣を振るった。

首の側面へ刃が食い込む。

身体強化。

念動力で刃を加速。

一気に振り抜く。

首が落ちた。

地面へ転がった頭が、なおも口を開閉している。

切断面から血が噴き出した。

だがすぐに、肉が盛り上がり始める。

「もう再生が!」

俺は即座に火球を叩き込んだ。

切断面が炎に包まれる。

焼けた肉の臭い。

盛り上がっていた肉が黒く焦げ、動きを止めた。

「一つ!」

残り四本。

そう思った瞬間。

二本の首が同時に毒液を吐いた。

俺は地面を蹴り、木の陰へ飛び込む。

毒液が左右から迫り、木の幹へ命中する。

逃げ道を読むような攻撃。

さらに別の頭が上から噛みついてくる。

剣で受け止める。

牙と刃がぶつかる。

「くっ……!」

押し潰される。

身体強化した両脚が地面へ沈む。

横から四本目の首。

避けられない。

その首へ、鋭い風が叩きつけられた。

アークの魔法。

首が横へ吹き飛び、木の幹へ激突した。

『主、一人で全部やろうとせんといてください!』

「助かった!」

俺は牙を押し返し、後方へ跳んだ。

ヒュドラの動きは、炎でさらに激しくなっている。

怒り。

痛み。

混乱。

五本あった首の一本を失ったことで、残る頭の思考も荒れていた。

『こいつら、もうまともに考えとりません!』

「逆に動きが読みにくい!」

残る四本が、ばらばらに攻撃してくる。

毒液。

噛みつき。

頭突き。

首を鞭のように振るう攻撃。

俺は避け、弾き、念動力で軌道を逸らす。

だが、少しずつ追い詰められる。

一本の毒液を避けた直後。

別の頭が至近距離から液体を吐いた。

完全には避けきれない。

緑色の雫が、左肩へ触れた。

「ぐっ!」

服が瞬時に溶ける。

皮膚へ焼けた鉄を押し付けられたような痛み。

煙が上がった。

『主!』

「来るな!」

アークを止める。

触れれば、アークまで毒を受ける。

俺は腰の解毒薬を掴み、肩へ直接かけた。

液体が傷口へ染み込む。

今度は別の痛み。

だが、毒が広がっていく感覚は止まった。

腕は動く。

まだ戦える。

続けて魔力回復薬の蓋を歯で開け、一気に飲み干した。

苦い。

喉から腹の奥まで熱が広がる。

消耗していた魔力が僅かに戻ってくる。

『主、下がりましょう!』

アークが叫ぶ。

「無理だ!」

俺は残る四本の首を見る。

「背中を向けたら追いつかれる!」

ヒュドラの速度は、巨体から想像するより遥かに速い。

森の中を逃げても、長い首から毒液を吐かれれば危険だ。

ここで仕留めるしかない。

だが一本ずつ切る方法では、こちらが先に消耗する。

俺は残る首の動きを見る。

首はそれぞれ独立して動いている。

だが、すべて一つの胴体へつながっている。

首の根元。

そこなら、互いの距離が近い。

「アーク!」

『何です!』

「お前の風で、首を切れるか?」

アークが動きを止めた。

『風で?』

「前に木を切った時みたいに、風を細く圧縮するんだ」

アークの風魔法は強い。

『できますけど……動いとったら狙えませんで!』

「俺が止める」

『四本全部ですか!?』

「一瞬でいい!」

ヒュドラが咆哮する。

四本の首が、それぞれ別の方向から迫ってくる。

「やるぞ!」

俺は剣を地面へ突き立てた。

両手を前へ出す。

自分の中にある魔力を、念動力へ変える。

一本目。

右から迫る首を掴む。

見えない力が巻き付き、首の動きを止める。

二本目。

上から来る首を横へ引く。

三本目。

アークを狙う首を地面へ押さえ付ける。

四本目。

毒液を吐こうとした頭の口を、念動力で無理矢理閉じる。

「ぐっ……!」

頭の奥へ激痛が走った。

四本同時。

しかもヒュドラの首は、一つ一つがサイクロプスの腕ほどの力を持っている。

完全には止まらない。

首が震える。

筋肉が膨れ上がる。

俺の念動力を引き裂こうと、四方へ暴れる。

靴が地面を滑る。

鼻の奥が熱くなる。

一筋の血が流れた。

『主!』

「まだだ!」

俺は歯を食いしばる。

四本の首を、無理矢理同じ高さへ揃える。

首の付け根。

できるだけ近い位置へ集める。

一本が外側へ逃げようとする。

念動力を強める。

見えない鎖で引き戻す。

「アーク!」

『分かっとります!』

アークが俺の横へ立った。

四肢を地面へ深く踏み込む。

頭を低く下げる。

全身の毛が逆立った。

空気が震え始める。

最初は、穏やかな風だった。

地面の落ち葉が舞う。

次第に風が強くなる。

アークを中心に、周囲の空気が渦を巻く。

小石が浮かぶ。

草が根元から引き抜かれる。

木々の枝が大きくしなる。

『うううう……!』

アークが低く唸る。

風が、アークの正面へ集まっていく。

広がっていた気流が細くなる。

細く。

さらに細く。

目には見えない。

だが、魔力感知でははっきりと分かった。

風が一本の線へ圧縮されている。

空気の刃。

触れたものを押し飛ばす風ではない。

切断するためだけに研ぎ澄まされた、極薄の風。

ヒュドラも危険を感じたのか、四本の首が一斉に暴れ始めた。

「くそっ……!」

一本目が念動力を押し返す。

二本目の口が開きかける。

三本目が大きく捻れ、拘束から抜けようとする。

腕が震える。

視界が暗くなる。

これ以上は長く持たない。

「アーク、今だ!」

アークが目を見開いた。

『いっけえええええ!』

一声吠える。

圧縮されていた風が解放された。

音は、ほとんどなかった。

轟音もない。

爆発もない。

ただ、森の空気に一本の歪みが走った。

それがヒュドラへ向かって飛ぶ。

一瞬。

本当に、一瞬だった。

風の刃が四本の首の根元を通過する。

何も起きなかったように見えた。

ヒュドラの首も、そのまま俺たちへ牙を剥いている。

だが次の瞬間。

四本の首が、わずかにずれた。

切断面から細い血の線が走る。

そして。

ずるり。

四本の首が、同時に胴体から滑り落ちた。

巨大な頭部が次々と地面へ落下する。

一つ。

二つ。

三つ。

四つ。

重い音が森へ響く。

遅れて、首の付け根から血が噴き上がった。

「やった……!」

俺は念動力を解除した。

全身から力が抜け、片膝をつく。

だが、まだ終わっていない。

俺は念動力を解除した。

全身から力が抜け、片膝をつく。

だが、まだ終わっていない。

四本の首を失った切断面が、不気味に蠢いている。

盛り上がった肉が波打ち。

赤黒い筋肉の隙間から、白い骨のようなものが伸び始める。

新たな首を作ろうとしていた。

「やっぱり再生するか……!」

アークはその場へへたり込んでいた。

舌を大きく出し、肩で息をしている。

今の一撃で、ほとんどすべての魔力を使い切ったのだろう。

『主……あとは任せましたで……』

「十分だ。休んでろ」

俺は地面へ突き立てていた剣を引き抜いた。

ヒュドラの切断面は四つ。

それぞれが別々に肉を盛り上げ、新しい首を形成しようとしている。

放置すれば、数秒もしないうちに再生が始まる。

俺は左手を前へ突き出した。

体内に残っている魔力を集める。

既に念動力の使い過ぎで、頭の奥が激しく痛んでいた。

魔力回復薬を飲んだとはいえ、余裕があるわけではない。

それでも、ここで止めなければならない。

「燃えろ!」

掌から炎が噴き出した。

最初の切断面へ直撃する。

ぼうっ、と赤い炎が広がった。

血が沸騰し。

肉が焼け。

盛り上がっていた再生組織が黒く焦げていく。

ヒュドラの胴体が大きく跳ねた。

首を失っているにもかかわらず、腹の底から響くような低い音を発する。

俺は炎を止めない。

再生しようとする肉が完全に炭化するまで焼き続ける。

一つ目。

蠢きが止まる。

すぐに腕を横へ振る。

炎が二つ目の切断面へ移った。

火力を高める。

ヒュドラの血は粘り気が強く、普通の炎では簡単に燃え広がらない。

だから一点へ集中させる。

表面だけではない。

肉の奥へ熱を送り込むように、炎を細く絞る。

じゅううううっ。

湿った肉が焼ける音。

鼻を突く悪臭。

白い煙が立ち上る。

「まだだ……!」

二つ目の再生が止まる。

続いて三つ目。

そして四つ目。

俺は順番に切断面へ炎を叩き込んだ。

再生組織は焼かれるたびに激しく蠢き、炎から逃れるように肉を縮ませる。

だが逃がさない。

念動力で炎の向きを調整し、切断面全体を包み込む。

肉。

血管。

骨。

再生の中心となっている組織。

すべてを焼く。

最後の切断面が黒く焦げた瞬間。

新しい首を作ろうとしていた動きが、完全に止まった。

「これで……再生はできないはずだ」

俺が炎を消すと、四つの切断面から黒い煙が上がった。

焦げた肉の臭いが森へ充満する。

『臭いですな……』

アークが地面へ伏せたまま鼻を鳴らす。

「我慢して」

『わい、鼻ええんですよ』

「今だけは同情する」

だが、ヒュドラはまだ死んでいなかった。

四本すべての首を失い。

切断面を焼かれ。

それでも巨大な胴体は激しく暴れ続けている。

太い尾が地面を打つ。

轟音。

土と石が弾け飛ぶ。

近くにあった倒木が、軽々と宙へ跳ね上がった。

四肢が無秩序に動き、地面へ深い爪痕を刻む。

「アーク、離れろ!」

『言われんでも!』

アークがふらつきながら木の陰へ走る。

俺も後方へ下がろうとした。

その時。

ヒュドラの尾が大きく横へ振られた。

地面すれすれ。

広範囲を薙ぎ払う一撃。

速い。

避けきれない。

俺は反射的に念動力を地面へ向けた。

「上がれ!」

見えない力で自分の身体を押し上げる。

地面が遠ざかる。

直後。

ヒュドラの尾が足元を通過した。

凄まじい風圧。

背後の木々がまとめてへし折られる。

幹が裂け。

枝が舞い。

森の一部が丸ごとなぎ倒された。

俺は空中で身体を捻った。

眼下には、首を失ったヒュドラの巨大な背中。

そのまま鱗の上へ着地する。

炎で熱せられた鱗から、靴底を通して熱が伝わってきた。

長く留まることはできない。

俺はすぐに背中を蹴り、反対側へ飛び降りた。

地面へ着地すると同時に転がり、ヒュドラから距離を取る。

荒い呼吸。

痛む左肩。

念動力の使い過ぎで脈打つ頭。

残っている魔力も僅かだった。

隣ではアークも地面へ腹をつけ、舌を出している。

ヒュドラの胴体は、しばらく激しく痙攣していた。

尾が二度。

三度。

地面を叩く。

そのたびに周囲が揺れた。

だが、次第に動きが弱くなっていく。

四肢から力が抜ける。

尾が地面へ落ちた。

最後に胴体が一度だけ大きく震え。

それきり動かなくなった。

森へ静けさが戻る。

俺は剣を構えたまま、しばらく様子を見た。

十秒。

二十秒。

三十秒。

ヒュドラは動かない。

焼いた切断面にも、再生の兆候はなかった。

「終わった……か?」

『ほんまに死んだんですか?』

アークが息を切らしながら言う。

「たぶん」

『またそれですか』

「全部の首を切って、切断面も焼いた」

『でもヒュドラですやん』

「……確かに」

俺は少し考えた。

もう一度左手を上げる。

『まだやるんです?』

「念のため」

残っている魔力を絞り出す。

今度は切断面だけではない。

ヒュドラの胴体へ向け、広範囲に炎を放つ。

ぼうっ。

赤い炎が鱗の上へ広がった。

鱗の隙間へ入り込み。

残っていた油へ燃え移り。

ヒュドラの胴体全体を包み込んでいく。

先ほどより火力は弱い。

それでも、死んだふりをしているなら反応するはずだ。

だがヒュドラは動かなかった。

尾も。

四肢も。

腹部も。

完全に沈黙している。

『やりすぎちゃいます?』

「ヒュドラだからね」

『それもそうですな』

俺は炎を消し、その場へ座り込んだ。

もう立っているのも辛かった。

身体から力が抜ける。

アークも隣へ歩いてきて、そのまま地面へ倒れ込んだ。

『疲れましたわ』

「すごかったよ」

『何がです?』

「今の風魔法」

俺は地面へ転がる四つの頭を見る。

切断面は驚くほど滑らかだった。

剣で切ったものとは違う。

巨大な首を四本同時に。

まるで薄い紙を切るように断ち切っている。

「俺の剣より切れてた」

『当然です』

アークが少しだけ顔を上げる。

『わい、風魔法の天才ですから』

「さっきまで無理って言ってたけど」

『謙遜です』

「撃った後、動けなくなってるけど」

『全力出したからです』

「次からは、もう少し加減を覚えよう」

『主にだけは言われたくありませんわ』

「どういう意味?」

『主も、いっつも全部使い切るやないですか』

否定しようとした。

だが頭痛と、ほとんど空になった魔力を考え、何も言えなかった。

『ほら、黙った』

「今回は必要だった」

『わいも必要やったんです』

「そうだね」

アークが起き上がり、煙を上げるヒュドラを見つめる。

『でも、首飛ばすんは気持ちよかったですな』

「怖いこと言うね」

『主がいつもやっとることですやん』

「俺はそんなに首を飛ばしてない」

『オーガ、グリフォン、ヒュドラ』

「数えなくていいよ」

アークは満足そうに尻尾を一度だけ振った。

全力の風魔法。

その威力は、俺が想像していた以上だった。

吹き飛ばすだけではない。

圧縮し、薄く研ぎ澄ませれば、巨大な魔物の首すら一撃で切断できる。

ただし、魔力の消耗も激しい。

単独では狙いを定めることも難しい。

今回成功したのは、俺が首を拘束し、アークが攻撃へ集中できたからだ。

俺の念動力。

アークの風。

どちらか一方だけでは、ヒュドラを倒せなかったかもしれない。

「連携技だな」

『何です、それ』

「俺が動きを止めて、アークが首を切る」

『ええですな』

アークは少し考えた。

『名前つけましょう』

「いらないよ」

『“疾風首ちょんぱ”とか』

「絶対嫌だ」

『分かりやすいやないですか』

「格好悪すぎる」

『ほな、“四連首ちょんぱ”』

「もっと嫌だ」

『主、注文多いですな』

俺は苦笑しながら、煙を上げるヒュドラを見つめた。

深層の魔物は強い。

一瞬の判断を誤れば、命を落とす。

だが、アークと力を合わせれば戦える。

一人では届かない敵にも、二人なら届く。

そのことを、今回の戦いがはっきりと教えてくれた。


十分に休息を取ってから、俺たちはヒュドラの素材を採取することにした。

とはいえ、死体へ直接近付くつもりはない。

ヒュドラは死んでいる。

五本すべての首を失い、切断面を炎で焼かれた。

既に再生の兆候もない。

それでも、その身体には強力な毒が残っている。

牙の先から滴っただけで草木を枯らし、大木の幹さえ溶かした毒だ。

素手で触れるのは論外。

手袋を使ったとしても、鱗や血液に毒が付着していれば安全とは言えない。

『主、近付くんです?』

アークがヒュドラの死体から大きく距離を取りながら尋ねる。

「近付かないよ」

『ほな、どうやって取るんです?』

「こうする」

俺は焼け焦げた地面へ腰を下ろしたまま、右手をヒュドラへ向けた。

念動力を広げる。

見えない力が、ヒュドラの死体を包み込んでいく。

最初に調べるのは首の付け根だ。

魔力感知を併用し、鱗と肉の下を探る。

濁った魔力の塊。

一つ。

二つ。

三つ。

四つ。

そして、最初に俺が切断した首にも一つ。

合計五つの反応があった。

「やっぱり、首ごとに魔石がある」

『頭ごとに考えとったからちゃいます?』

「可能性はあるね」

ヒュドラは一つの胴体を持ちながら、それぞれの首が別々の思考を持っていた。

そして、それぞれの首の付け根に独立した魔石が存在する。

もしかすると、ヒュドラという魔物は、単純に頭が複数ある生物ではないのかもしれない。

複数の生命が、一つの胴体を共有している。

そんな構造に近い可能性もある。

「まずは魔石からだな」

俺は鞘から剣を抜いた。

ただし、手には持たない。

念動力で宙へ浮かせる。

血の付いた刃が、俺の正面からゆっくりとヒュドラへ向かって飛んでいく。

『器用なことしますな』

「毒へ近付くより安全だからね」

浮かせた剣を、最初の首の付け根へ当てる。

そのまま念動力で刃を動かし、焦げた鱗の隙間へ差し込んだ。

硬い鱗。

分厚い皮。

焼けた筋肉。

手で扱う時とは違い、刃から伝わってくる感触はない。

その代わり、魔力感知で内部の構造を探りながら、慎重に切り進める。

刃が魔石へ当たらないよう、周囲の肉だけを切り離す。

一本の剣だけでは細かな作業が難しい。

俺は荷物から解体用の短剣と小型の鉤を取り出し、それらも念動力で浮かせた。

三つの道具が宙を移動する。

剣で大きく切り開き。

短剣で魔石の周囲の組織を剥がし。

鉤で切り離した肉を持ち上げる。

やがて、濁った緑色の魔石が露出した。

「見つけた」

念動力で魔石だけを掴む。

周囲の肉から、ゆっくりと引き剥がした。

べり、と粘ついた音がする。

魔石が宙へ浮かび上がった。

表面には血と体液が付着している。

当然、直接手では触れない。

あらかじめ地面へ置いておいた金属製の容器へ水を注ぎ、その中へ魔石を沈める。

念動力で水を回転させ、表面の汚れを洗い落とす。

一度目の水はすぐに濁った。

俺は容器ごと離れた場所へ動かし、汚れた水を穴へ捨てる。

新しい水でもう一度洗浄する。

それから乾いた布を宙へ浮かせ、魔石を包み込むようにして水分を拭き取った。

「一つ目」

綺麗になった魔石を、魔力遮断用の箱へ収める。

箱の蓋も念動力で閉じた。

同じ作業を、残る四本の首にも繰り返す。

鱗を切る。

皮膚と筋肉を開く。

魔石の位置を探る。

周囲の組織を切り離す。

摘出。

洗浄。

乾燥。

収納。

五つ目を箱へ収めた頃には、簡単な作業にもかかわらず額へ汗が滲んでいた。

念動力で重い物を持ち上げること自体は難しくない。

だが、複数の道具を同時に動かし、魔石を傷付けないよう細かな力加減を続けるのは、想像以上に神経を使う。

『主、顔怖いですで』

「集中してるだけだよ」

『悪い研究者の顔になっとります』

「どんな顔だよ」

箱の中には五つの魔石が並んでいた。

大きさと形は似ている。

だが内部を流れる魔力には、僅かな違いがあった。

水属性。

毒属性。

再生に関わると思われる生命属性。

三つの性質が複雑に絡み合っている。

それぞれの配分も少しずつ異なっていた。

「調べる価値はありそうだ」

『売ったら高いんちゃいます?』

「研究してから考える」

『売る気ない顔ですな』

「貴重な資料だからね」

『やっぱり悪い研究者ですやん』

魔石の次は、毒腺だ。

魔物図鑑に記載されていた位置を思い出す。

毒腺は牙の根元から首の側面にかけて存在する。

ただし、少しでも傷付ければ中の毒が漏れ出す。

念動力での作業なら身体へ毒がかかる危険は低い。

だが道具へ付着した毒が飛び散る可能性はある。

俺は周囲から平らな石を集め、念動力で簡易的な壁を作った。

死体と俺たちの間へ、何枚もの石を重ねる。

作業場所を囲み、毒液が飛んでもこちらまで届かないようにする。

さらにアークを離れた大木の陰へ移動させた。

『わい、見張っときます』

「絶対に近付くなよ」

『言われんでも嫌ですわ』

再び短剣を浮かせる。

今度は首の側面へ刃を入れた。

皮膚を浅く切る。

その下にある筋肉を少しずつ開いていく。

魔力感知で位置を確かめながら、毒腺そのものへ刃を触れさせないよう慎重に周囲を切り離す。

袋状の器官が見えた。

濁った緑色。

薄い膜の内側で、粘り気のある液体が揺れている。

「これか」

念動力で毒腺を直接掴むのは危険だ。

力を入れすぎれば破裂する。

俺は何本もの細い糸を取り出した。

それらを宙へ浮かせ、毒腺へつながる管の周囲へ巻き付ける。

一つ。

二つ。

入口と出口の両方を固く縛る。

毒液が漏れないことを確認してから、その外側を短剣で切断した。

毒腺が肉から離れる。

念動力で、ゆっくりと持ち上げる。

少しでも揺らせば、中の液体が袋を圧迫する。

動かす速度を落とす。

事前に用意しておいた厚いガラス容器の中へ、毒腺を静かに降ろした。

容器の底には柔らかい布を重ねてある。

毒腺が直接ガラスへぶつからないためだ。

蓋を浮かせる。

容器の上へ重ね。

ゆっくりと閉じる。

さらに蝋を炎で溶かし、念動力で蓋の隙間へ流し込んだ。

一周。

二周。

毒液が絶対に漏れないよう、何重にも封をする。

最後に容器全体を革袋へ入れ、さらに木箱へ収めた。

「これで大丈夫だろう」

『ほんまです?』

「たぶん」

『怖いこと言わんといてください』

「絶対とは言えないから、アークはその箱に近付くなよ」

『捨てて帰りません?』

「貴重な素材だよ」

『命より貴重なんです?』

「漏れなければ安全だから」

『その“漏れなければ”が怖いんですわ』

続いて鱗を採取する。

状態の良いものを選び、念動力で短剣を鱗の根元へ差し込む。

一枚ずつ、皮膚から剥がしていく。

分厚く、硬い。

一枚だけでも小さな盾ほどの大きさがある。

表面には毒液が付着している可能性があるため、魔石と同じように念動力で洗浄した。

水で流し。

薬液へ浸し。

最後に弱い炎を当てて乾燥させる。

牙も同様だった。

根元の肉を念動力で切り開き、鉤を使って引き抜く。

牙を抜いた瞬間、内部から僅かに毒液が滲んだ。

俺はすぐに念動力で液体を球状に集める。

地面へ落ちる前に金属容器へ移し、蓋を閉めた。

一滴たりとも周囲へ飛ばさない。

「危なかった」

『主、楽しんでません?』

「練習になるからね」

『毒液の処理を練習にせんといてください』

「念動力の精密操作にはちょうどいい」

『失敗した時の被害が大きすぎますわ』

血液も採取する。

切断された首の血は、既に土や灰が混ざっている。

研究には使いにくい。

そこで、焼けていない胴体部分へ細い金属管を念動力で差し込んだ。

血管を探り当て。

容器の口へ管の反対側を向ける。

念動力で内部の血液だけをゆっくり押し出す。

黒に近い赤色の液体が、管を通って瓶へ流れ込んだ。

必要なのは少量だけだ。

容器の三分の一ほど採取したところで止める。

管を抜き。

瓶の蓋を閉じ。

毒腺と同じように蝋で密封した。

すべての素材を採取し終えた後、使用した剣や短剣、鉤、金属管を一か所へ集める。

どれにもヒュドラの血や毒が付着している可能性がある。

水だけで洗うのは危険だ。

俺は念動力で道具を宙へ浮かせ、炎魔法を放った。

刃が赤くなる直前まで熱する。

毒を焼き。

付着した血肉を炭化させる。

その後、水で冷却し、もう一度薬液で洗浄した。

最後まで、道具にも素材にも直接手を触れない。

『便利ですな、念動力』

「こういう時は特にね」

採取した素材を確認する。

五つの魔石。

毒腺。

鱗。

牙。

血液。

どれも錬金術の素材として高い価値を持っている。

特にヒュドラの毒は、極めて強力だ。

そのまま使えば恐ろしい毒物になる。

一方で、成分を正しく分析し、毒性を弱める方法を見つけられれば、強力な解毒薬の材料にもなる。

毒を知ることは、毒を防ぐことにつながる。

学院の設備があれば、詳しく調べられるだろう。

「これ以上は持てないな」

素材を詰めた荷物は、既にかなりの重量になっていた。

サイクロプスの魔石と素材。

グリフォンの魔石と羽根。

ヒュドラの魔石、鱗、牙、毒腺、血液。

この三体だけでも、十分すぎる収穫だ。

俺は荷袋そのものも念動力で浮かせてみた。

ふわりと地面から持ち上がる。

『それで運ぶんです?』

「できなくはないけど、ずっと浮かせると魔力を使い続ける」

『ほな、主が背負ってください』

「アークの荷物もあるよ」

『わいのは羽根だけですやん』

「自分の荷物は自分で持つ」

『素材は全部念動力で取ったのに、荷物は自力なんですか?』

「魔力は温存しないといけないからね」

『世知辛いですな』

俺は荷物を背負い、周囲を見回した。

焼け焦げた地面。

薙ぎ倒された木々。

五つの首を失ったヒュドラの死体。

黒霧の森の深層へ入ってから、まだ数日しか経っていない。

それにもかかわらず。

サイクロプス。

グリフォン。

ヒュドラ。

強力な魔物と立て続けに戦っている。

どの戦いも、一歩間違えば死んでいた。

「そろそろ帰るべきかもしれないな」

俺が呟くと、アークの耳が勢いよく立った。

『帰るんですか!?』

「そのつもりだけど」

『帰りましょう! 今すぐ帰りましょう!』

「急に元気になったね」

『肉が、わいを待っとります!』

「命を大事にする話じゃなかったの?」

『肉を食べるには、生きて帰らなあきません』

「間違ってはいないね」

十分な素材を得た。

深層の魔物との戦闘経験も積めた。

アークとの新しい連携も見つかった。

これ以上、危険を冒す必要はない。

そう考えていた。


その時だった。

先を歩いていたアークが、突然足を止めた。

耳を立てる。

鼻を動かす。

そして、ゆっくりと周囲を見回した。

『主』

その声には、先ほどまでの軽さがなかった。

「どうした?」

『囲まれてます』

俺は荷物を地面へ下ろした。

すぐに剣へ手を掛ける。

「何匹?」

『十……』

アークは目を細め、木々の奥へ意識を向けた。

『いや、もっとです』

森は静かだった。

姿は見えない。

足音もない。

魔物の息遣いすら聞こえない。

だが、よく見れば木々の隙間で何かが動いている。

右。

左。

後方。

複数の気配。

それも、俺たちを中心に一定の距離を保ちながら配置されていた。

『こいつら、今までの魔物と違います』

「どう違う?」

『声を出さんようにしとる』

『物音も立てんように、ゆっくり動いとります』

『それと……』

アークの身体が低く沈む。

『誰かの合図を待ってます』

その瞬間。

風を切り裂く音がした。

「伏せろ!」

俺はアークを念動力で横へ弾き、自分も地面へ飛び込んだ。

一本の矢が頭上を通過する。

背後の木の幹へ深く突き刺さった。

続けて。

二本。

三本。

四本。

異なる方向から矢が飛んでくる。

俺は念動力を広げ、矢の軌道を逸らした。

金属の矢尻が木へ当たり。

地面へ突き刺さり。

硬い音を立てて転がる。

「弓を使う魔物……」

黒霧の向こう。

木々の間から、ゆっくりと影が現れた。

人間の上半身。

馬の下半身。

手には長弓。

背中には矢筒。

一体ではない。

右から。

左から。

後方から。

次々と姿を現す。

十体。

十五体。

さらに奥にも気配がある。

ケンタウロス。

深層で暮らす、知性ある魔物の群れ。

そのすべてが弓を構え、矢先を俺とアークへ向けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ