中層再び
長期休暇の初日。
俺とアークは夜明けとともに領都を出た。
背中には大きな荷袋。
中には干し肉、黒パン、塩、薬、解毒薬、水袋、縄、簡易天幕、素材袋、鍋、それからアークがどうしても必要だと言い張った網が入っている。
鍋は一つだけだ。
アークは出発の直前まで、もう一つ持っていくべきだと訴えていた。
『主。まだ間に合いますで』
街の門へ向かう石畳の上で、アークが俺の荷袋を見上げた。
「何が?」
『鍋を増やすことです』
「増やさないよ」
『川に大きな魚がおったら困りますで』
「切ってから煮ればいいでしょ」
『丸ごと煮た方が旨味が逃げません』
「誰から聞いたの、それ」
『宿の料理人が言うとりました』
いつの間に話を聞いていたのだろう。
念話を使えることは隠しているため、アークが料理人と会話したわけではない。
おそらく厨房の近くで寝たふりをしながら、料理人たちの話を盗み聞きしていたのだ。
「どちらにしても鍋は一つ」
『残念ですな』
「修業に行くんだからね」
『食事も大切な修業です』
「便利な言葉だな」
門の前には、既に何人かの商人や狩人が並んでいた。
「次」
門兵に呼ばれ、俺は通行証と狩人証を渡した。
門兵は狩人証を確認し、続いて学院章を見る。
「休暇初日から狩りか」
「学費がかかるので」
「学生も大変だな」
「ええ、まあ」
実際、目的の半分は金ではない。
学院で学んだ魔術を試すためだ。
だが、わざわざ説明する必要もない。
俺は笑顔で通行証を受け取った。
門を抜け、街道を歩く。
畑の向こうには、黒い森が広がっていた。
黒霧の森。
この世界へ来てから、俺とアークが何度も足を運んだ場所だ。
ゴブリン。
コボルト。
オーク。
オーガ。
ジャイアントスパイダー。
そしてトロール。
学院で学ぶ以前から、俺たちは中層で何度も魔物と戦ってきた。
地図に記録されていない獣道を歩き、縄張りを見分け、魔物の臭いから種類と数を判断する。
俺たちにとって黒霧の森は、未知の場所であると同時に、慣れ親しんだ狩り場でもあった。
だからこそ、今回は都合がいい。
これまで何度も戦った相手に、学院で学んだ魔術がどこまで通用するのか。
以前の戦い方と比べれば、その違いをはっきり確かめられる。
森へ入ると、空気が変わった。
高い木々が日光を遮り、頭上には薄暗い緑の天井が広がる。
湿った土。
苔。
腐葉土。
木の樹液。
獣の糞。
そして、街の周辺より遥かに濃い魔力。
俺は歩きながら念動力を広げた。
周囲の木々。
草の陰。
地面の凹凸。
小動物。
空気中に漂う魔力。
学院で魔力制御を学ぶ以前は、周囲の魔力を力任せに引き寄せていた。
今は違う。
魔力の流れを感じる。
薄く。
途切れないように。
必要以上に集めず、一定の量を自分の周囲へ保つ。
『もう訓練しとるんですか』
「歩きながらできることはやっておこうと思って」
『疲れませんか』
「集中力は使うけど、森に慣れるまではこのくらいでいい」
『魔物がおったら?』
「周囲の魔力を維持したまま戦う」
『いきなり実戦ですな』
「そのために来たんだからね」
浅層では、必要のない戦闘を避けた。
街道へ向かっていたゴブリンの一団だけは、旅人を襲う可能性があるため倒した。
俺は風の刃を使った。
一匹目は首を狙ったが、刃が下へずれ、肩から胸を斜めに切り裂いた。
二匹目は首の横を掠めた。
三匹目でようやく首に当たったものの、骨を完全には切断できなかった。
魔術は発動する。
威力も十分にある。
だが、命中精度と速度が足りない。
頭の中に完成した術式を描いても、魔法語を書き終えるまでには数秒かかる。
止まっている標的なら問題ない。
こちらに気づいていない魔物にも使える。
だが、戦闘中に動く相手を狙うとなれば難しかった。
アークは違う。
目の前へ魔法語を浮かべ、ほとんど間を置かずに風の刃を放つ。
しかも、すべて首へ命中した。
『主。まだ遅いですな』
「分かってるよ」
『書いとる間に敵が動きます』
「だから、その分だけ先を狙う」
『もっと早く書いた方が簡単やないですか』
「簡単に言うね」
『わいは書かんでも使えますで』
「ずるい」
『才能ですな』
その日は、浅層で動く標的を狙う練習を続けた。
コボルト。
ゴブリン。
毒蛙。
飛びかかってくる大鼠。
念動力で動きを止めれば簡単に倒せる。
だが、なるべく使わない。
学院で習った魔術だけを使う状況を想定する。
人前で戦う場合、念動力を見せるわけにはいかないからだ。
夕方には浅層の奥へ到着した。
そこで一晩野営し、翌朝から中層へ向かった。
森の景色は少しずつ変化していく。
木々はさらに太くなり、枝葉の隙間から落ちる光は少ない。
地面を覆う苔も厚い。
浅層では頻繁に聞こえていた鳥の声が減り、代わりに遠くから大型の魔物が木を折る音が響く。
魔力も濃くなった。
空気そのものが重く感じられる。
『中層ですな』
アークが鼻先を上げる。
「久しぶりだね」
『学院へ入ってからも来ましたで』
「日帰りできる範囲だけだったでしょ」
『今日は奥まで行けますな』
「まずは、前にトロールを倒した岩場まで」
『またおるとええですな』
「トロールを探しに来たわけじゃないよ」
『魔術を試すにはちょうどええ相手でしょう』
それは俺も考えていた。
トロールは強い。
皮膚は厚く、筋肉も硬い。
腕を切り落としても、時間が経てば再生する。
だが、俺たちは既に何度も戦っている。
動き方も分かっている。
初めて出会った頃のような恐怖はない。
厄介ではあるが、対処法の分かっている魔物だ。
「遭遇したら、まず魔術だけで戦ってみよう」
『念動力は使わんのですか』
「危なくなるまでは使わない」
『主の風の刃では、皮膚で止まりそうですな』
「だから試すんだよ」
『わいなら切れますで』
「全力で木まで切らないでよ」
『分かっとります』
「魔石を砕かない」
『分かっとりますで』
「俺を巻き込まない」
『注文が多いですな』
「前に岩ごと吹き飛ばされたからね」
『あれは岩が脆かったんです』
「普通の岩だったよ」
昼を少し過ぎた頃。
俺たちは、以前トロールと戦ったことのある岩場へ到着した。
地面から大きな灰色の岩がいくつも突き出し、その間を細い獣道が通っている。
周囲の木々は少なく、戦うには悪くない場所だ。
見通しがよく、トロールの巨体でも動ける。
だからこそ、この周辺を縄張りにする個体が多い。
岩の表面には、古い傷跡が残っていた。
太い棍棒で殴られた跡。
爪で削られた溝。
以前の戦いで、俺が念動力を使って飛ばした岩がぶつかった跡もある。
『懐かしいですな』
アークが傷ついた岩の匂いを嗅ぐ。
俺は岩場の周囲へ念動力を広げた。
地面。
木の陰。
岩の隙間。
大型の生物は感じない。
アークも鼻を動かしている。
『今はおりませんな』
「休憩しようか」
俺たちは岩陰へ荷物を下ろした。
水を飲み、干し肉を齧る。
アークには少し多めに渡した。
『硬いですな』
「保存食だからね」
『煮込みましょう』
「昼休みに鍋は出さないよ」
『鍋を二つ持ってくれば、一つを昼用にできました』
「使い道は同じでしょ」
食事を終えたあと、俺たちは動く標的を使った訓練を始めた。
俺が念動力で枝を浮かせる。
一定の速度で左右へ動かす。
アークが風の刃で切る。
最初は太い枝。
次に細い枝。
最後には、地面へ落ちる木の葉を狙わせた。
アークの精度は高かった。
枝ならほとんど外さない。
木の葉は何度か失敗したが、風の刃を細くし、周囲を傷つけずに切ることができている。
「威力は?」
『かなり抑えとります』
「もっと下げられる?」
『できますが、枝を切れんかもしれませんで』
「切れなくなる直前を覚えるんだよ」
『面倒ですな』
「素材を傷つけないため」
『重要ですな』
今度は交代した。
アークが風で枝を動かし、俺が風の刃を放つ。
俺は魔法語を書かなければならない。
術式を描いている間にも、枝は動き続ける。
完成。
発動。
風の刃が飛ぶ。
枝の後ろを通過した。
『遅いですな』
「分かってる」
『もっと先を狙ってください』
「一定の速度で動かしてよ」
『実戦では速さが変わりますで』
「段階があるの」
『主は真面目ですな』
二度目。
枝の進行方向へ少し先回りして狙う。
命中。
ただし、端を掠めただけで切断できない。
三度目。
今度は中央へ当たった。
枝が二つに切れた。
「できた」
『三回もかかりましたな』
「最初としては悪くないよ」
『わいは一回でした』
「アークと比べないで」
そのとき。
アークの耳が突然立った。
尻尾の動きが止まる。
鼻先を北へ向けた。
『主』
「何?」
『来ますで』
俺は浮かせていた枝を下ろした。
「何が?」
アークは数回、短く鼻を鳴らした。
『トロールですな』
「何匹?」
『一匹。まだ少し遠いです』
俺も念動力を広げる。
岩場の北側。
木々の向こう。
重い足音。
地面を踏む振動。
枝が押し退けられる音。
大きな身体。
二本足。
アークの言う通り、トロールだ。
俺は立ち上がった。
心臓は落ち着いている。
初めて出会った魔物ではない。
これまでにも、中層で何度も倒してきた。
トロールは大きく、力も強い。
皮膚は分厚く、多少の傷ならすぐに塞がる。
だが、首をはねれば死ぬ。
これまでの戦いでは、俺が念動力でトロールの身体を地面へ叩き倒し、動けなくなったところへ剣を振り下ろしていた。
今回は違う。
剣を使わず、学院で覚えた風魔術だけで首を落とせるか試す。
「アーク」
『はい』
「最初は俺がやる」
『承知しました』
「危なくなったら頼むよ」
『最初からわいがやった方が早いんと違いますか』
「それじゃ訓練にならないでしょ」
『主の魔術が効かんことを確認する訓練ですか』
「やる前から決めないでよ」
アークの周囲へ、淡い青色の魔力が集まった。
風が身体を包み、白黒の毛が揺れる。
足元の落ち葉が、円を描くように外側へ押し退けられた。
木々の間から、大きな影が現れる。
森トロール。
身長は三メートルを超えている。
長い腕。太い脚。緑がかった灰色の皮膚。
身体には古い傷跡がいくつも残っていた。
右手には、根元から折った木を持っている。
以前戦った個体より少し大きい。
だが、珍しいほどではない。
トロールは岩場へ踏み込むと、俺たちを見つけた。
鼻を鳴らす。
大きな口が開く。
黄色い歯。腐った肉の臭い。耳を打つ咆哮。
俺とアークは動かなかった。
『いつものやつですな』
「そうだね」
『わいが右へ回ります』
「いや、そこで見てて」
『主一人でやるんですか』
「一発だけ試す」
トロールが地面を蹴った。
巨体に似合わず速い。
大きく振り上げた棍棒を、俺へ向かって叩きつける。
俺は念動力で身体を横へ押し出した。
足が地面から僅かに浮く。
直後、棍棒が地面へ激突した。
轟音。
土と砕けた石が飛び散る。
俺は着地と同時に、風の刃の術式を書き始めた。
風を集める。
圧縮する。
薄い刃へ変える。
対象へ放つ。
トロールが棍棒を持ち上げる。
こちらへ顔を向ける。
まだ術式は完成していない。
七秒。
やはり長い。
トロールが左腕を伸ばす。
俺は念動力で後ろへ滑るように下がった。
太い指先が、外套の前を通過する。
さらに距離を取る。
トロールが追ってくる。
俺は後退しながら魔法語を書き続けた。
最後の文字が空中へ浮かぶ。
術式が完成する。
「できた」
トロールは正面にいる。
首も見えている。
動き回る相手ではあるが、狙えない距離ではない。
俺は風の刃を可能な限り薄くした。
魔力を増やしすぎない。
広げない。
一点へ集める。
学院で何度も練習した通りに、術式へ魔力を流す。
「発動」
風の刃が放たれた。
透明な空気の線が、岩場を真っ直ぐ走る。
狙いは首。
風の刃は、トロールの喉元へ正確に命中した。
乾いた音が響く。
トロールの頭が僅かに後ろへ揺れた。
だが、それだけだった。
血は出ない。
傷も見えない。
首の皮膚に、白い線すら残っていなかった。
「……効いてない」
『言うた通りですな』
トロールが怒りの咆哮を上げた。
今の攻撃は、痛みすら与えていないらしい。
棍棒を両手で握り、俺へ向かって突進してくる。
『交代ですか』
「お願い」
『承知しました』
アークが一歩、前へ出た。
目の前へ淡い青色の魔法語が浮かぶ。
俺が数秒かけて書いたものと、同じ風の術式。
風を集める。
圧縮する。
刃へ変える。
だが、集まる魔力の密度がまるで違った。
大きいわけではない。
むしろ、アークの前に生まれた風の刃は、俺のものより細い。
薄い。
目を離せば見失いそうなほど細く圧縮されている。
それでも、肌が痛くなるほどの鋭さを感じた。
周囲の落ち葉は動かない。
草も揺れない。
風はすべて、一本の刃の中へ閉じ込められている。
トロールが棍棒を振り上げた。
アークは動かない。
『主』
「何?」
『よう見といてください』
次の瞬間。
青白い線が走った。
音は、ほとんどなかった。
トロールは棍棒を振り上げた姿勢のまま、二歩進んだ。
俺は首を見る。
何も起きていないように見えた。
だが、三歩目を踏み出した瞬間。
頭部が横へずれた。
太い首から離れ、地面へ落ちる。
鈍い音。
緑色の血が、切断面から噴き上がった。
首を失った巨体は、そのまま数歩進んだ。
振り上げられた棍棒が手から落ちる。
身体が前へ傾く。
地面が揺れた。
トロールの巨体が、岩場へ倒れ込んだ。
頭部は少し離れた場所を転がり、岩へぶつかって止まった。
一撃だった。
皮膚。
筋肉。
骨。
すべてを抵抗なく通過している。
傷口は、剣で切ったときよりも滑らかだった。
『首ちょんぱですな』
アークが得意そうに言った。
「……同じ魔術だよね?」
『同じですで』
「俺のは傷一つつかなかったけど」
『主のは風が散っとりました』
「一応、圧縮したつもりなんだけど」
『つもりでは切れませんで』
「厳しいな」
『わいの刃は、全部の風が同じところを通ります』
アークは前足を上げ、空中へ細い線を引くように動かした。
『主のは、刃に見えても中で風が暴れとります。右へ行ったり、左へ行ったりしとるから、当たった瞬間に広がるんです』
「刃の形を作るだけじゃ駄目なのか」
『形だけでは駄目ですな』
外側を薄く見せても、内部の魔力が同じ方向へ流れていなければ、対象へ当たった瞬間に力が分散する。
俺の風の刃は、見た目だけなら刃になっていた。
だが、中身は細かな風の塊を無理に押し込んだだけだったのだろう。
アークのものは違う。
すべての魔力が同じ方向を向いている。
ぶつかり合わない。
外へ逃げない。
だから、あれほど細くしても威力が落ちない。
むしろ、狭い一点へ力が集中する。
「どうやって揃えてるの?」
『こう、シュッとですな』
「全然分からない」
『風に、あっちへ行けと言うんです』
「魔法語で?」
『魔法語を書く前ですな』
アークにとって、魔法は文字を組み立てる作業ではないらしい。
先に風の動きを感じる。
どう流れるべきかを決める。
その完成した感覚へ、魔法語を重ねている。
俺は逆だ。
魔法語を完成させ、その指示に従って風を集めている。
術式が先。
風の感覚は後。
その違いが、威力の差になっているのかもしれない。
『主』
「何?」
『これで、わいの勝ちですな』
「何の勝負?」
『どちらがトロールの首を切れるかです』
「そんな勝負、始めた覚えはないよ」
『主は切れませんでした』
「事実だけど、言い方が腹立つな」
『わいは一撃でした』
「それも分かってる」
『圧勝ですな』
アークは尻尾を大きく振った。
「でも、威力は抑えられてたね」
俺はトロールの後ろを見る。
風の刃は首だけを通過している。
その先にある木にも、岩にも傷はない。
以前のアークなら、トロールの首だけでなく、背後の木までまとめて切り倒していたはずだ。
『当然です』
「学院の訓練前なら、後ろの岩も切れてたと思う」
『あの頃のわいは、少し力加減が苦手でしたな』
「少し?」
『ほんの少しです』
「壁を何度も壊したよね」
『壁が脆かったんです』
「岩も切ったよね」
『岩も脆かったんです』
「今回は?」
『わいが上手くなりました』
そこは素直に認めるらしい。
だが、実際その通りだった。
今の風の刃は、トロールの首を切断するだけの威力を持ちながら、その外側へ力を漏らしていない。
細く。
鋭く。
必要な範囲だけを切る。
蝋燭の火を小さく保つ訓練が、そのまま風の刃の制御にも繋がっている。
俺も魔力を減らすことは覚えた。
だが、減らした魔力を効率よく使う技術が足りていない。
俺の魔術は弱い。
正確には、込めた魔力を威力へ変換できていない。
トロールの首に傷一つつかなかったのが、その証拠だ。
「もう一度練習しないとな」
『次のトロールで試しますか』
「そう何匹も出てこないでしょ」
『探しましょう』
「トロール狩りが目的じゃないよ」
『主の訓練になりますで』
「まずは枝で練習する」
『枝とトロールでは硬さが違います』
「いきなりトロールで試す方がおかしいの」
『実戦が一番です』
「失敗したら殴られるよ」
『わいが首を切ればええです』
「それだと、俺の緊張感がなくなるでしょ」
『殴られる前に切るから安心してください』
「安心しすぎるのも訓練にならないんだよ」
俺は倒れたトロールへ近づいた。
念動力を薄く広げ、身体の状態を確かめる。
手足はまだ小さく痙攣している。
だが、首を失った身体が再び立ち上がることはない。
これまで倒してきた個体と同じだった。
トロールは傷を塞ぐ力を持っている。
しかし、切り離された頭と身体が繋がることはない。
だから、首を落とせば終わる。
アークの風の刃は、それを一撃でやってのけた。
「解体しようか」
『魔石ですな』
「今回はアークが胸を切ってみて」
『首と同じように切ればええですか』
「魔石まで真っ二つにしないでよ」
『注文が難しいですな』
「首を一撃で落とせるなら、皮膚だけ切る方が簡単でしょ」
『力を弱めすぎる方が難しいんです』
アークはトロールの胸へ向き直った。
目の前へ、再び青い魔法語が浮かぶ。
先ほどよりも遥かに弱い風。
細い刃が飛び、胸の皮膚へ一本の線を刻む。
深さは指一本分ほど。
筋肉の表面で止まっている。
魔石には届いていない。
「上手い」
『当然です』
「首を切ったときより難しかった?」
『かなり』
「弱くする方が?」
『強く切るだけなら簡単です。途中で止めるのが難しいですな』
学院での訓練は、まさにそのためにある。
強い魔術を使うだけなら、アークは最初からできた。
必要なのは、対象に合わせて威力を変えること。
ゴブリンならゴブリン。
トロールならトロール。
皮膚だけを切るなら、そこまで。
首を落とすなら、骨まで。
必要な分だけ魔力を使い、余計な場所を傷つけない。
俺は念動力で傷口を左右へ広げた。
アークが筋肉と腱を風で切る。
胸骨の隙間を開き、暗い緑色の魔石を取り出した。
傷はない。
「綺麗だね」
『首を切ったわいの取り分ですな』
「二人で見つけたトロールでしょ」
『倒したのはわいです』
「俺も風の刃を当てたよ」
『効果なしでしたな』
「確認したことに意味がある」
『何も傷つけておりません』
「トロールに俺の魔術が通じないって分かった」
『それで報酬がもらえるんですか』
「研究費」
『便利な言葉ですな』
アークは素材袋を見つめた。
『七対三です』
「何が?」
『魔石の取り分です』
「またその話?」
『今回は完全にわいが倒しました』
「じゃあ、魔石はアークのものにする?」
『ええんですか』
「売るのも、宿代を払うのも、肉を買うのもアークがやるなら」
アークは黙った。
『五対五でええです』
「急に譲ったね」
『共同財産ですからな』
「都合がいいな」
俺は魔石を布で包み、素材袋へ入れた。
今日の戦いで分かったことは明確だった。
俺の風の刃は、トロールには通じない。
命中しても傷一つつけられなかった。
アークの風の刃は、同じトロールの首を一撃で切断した。
魔力の量だけが違うのではない。
風を揃える技術。
圧縮する技術。
力を漏らさず一点へ伝える技術。
俺には、それが足りていない。
「アーク」
『何です』
「あとで風の流れを見せて」
『見えませんで』
「感じ方を教えて」
『シュッとするんです』
「それ以外の説明で」
『全部の風に、同じ方向へ行けと言います』
「それを詳しく」
『詳しく言うても、同じ方向です』
「先が長そうだな」
『主は頭で考えすぎですな』
「魔法なんだから考えるでしょ」
『風は文字を読む前から吹いとりますで』
アークはそう言って、鼻先を上げた。
木々の間を風が抜ける。
葉が揺れる。
俺の頬を撫で、岩場の向こうへ流れていく。
魔法語がなくても、風は動いている。
アークはそれを感じ、流れを揃えている。
俺は術式によって、無理に風を動かそうとしている。
その違いを理解できれば、俺の風の刃も少しは変わるかもしれない。
倒れたトロールの首は、滑らかな断面を見せていた。
同じ魔法。
同じ標的。
俺は効果なし。
アークは一撃で首ちょんぱ。
実力の差としては、これ以上なく分かりやすい結果だった。
解体を終える頃には、日が傾き始めていた。
俺は地図を広げる。
現在地は中層の岩場。
目的地の川までは、ここからさらに半日以上かかる。
今から進めば、日が暮れる前に野営地を探さなければならない。
「今日はこの近くで泊まろう」
『まだ進めますで』
「トロールと戦ったあとだからね」
『魔力は余っとります』
「俺は少し疲れたよ」
魔力そのものは半分以上残っている。
だが、魔法語を書きながら動くことに慣れていない。
身体強化を維持し、敵の動きを見て、術式を組み立てる。
これまでの戦いとは違う種類の集中力を使った。
念動力なら、考えた瞬間に力を加えられる。
魔術には準備が必要だ。
その代わり、念動力にはない性質を持たせられる。
火。
風。
いずれ召喚術を学べば、空間や世界そのものにも干渉できるのかもしれない。
「今日の戦いで、課題も分かった」
『主の風の刃が弱いことですな』
「それもあるけど、魔法語を書くのが遅い」
『毎日練習ですな』
「歩きながら書けるようにしないと」
『走りながらも必要です』
「段階を踏ませてよ」
『トロールは待ってくれませんで』
アークは岩場の周囲を歩き、野営に使えそうな場所を探し始めた。
少し離れたところに、岩が風を遮る窪地がある。
周囲には大型の魔物の新しい痕跡もない。
今夜はそこで休むことにした。
荷物を運ぶ。
簡易天幕を張る。
アークが枯れ枝を集め、俺が火術で焚き火をつける。
小さな火を一定に保つ。
鍋へ水と干し肉、豆を入れた。
『魚は?』
「川には明日着くよ」
『明日は魚ですな』
「捕れたらね」
『捕ります』
「修業が目的だからね」
『魚を捕りながら風の制御を練習できます』
「また便利な理屈を作ったね」
煮込みができるまで、俺は今日の戦いを振り返った。
風の刃はトロールの皮膚を切れた。
しかし、首や関節を一撃で切断するには足りない。
威力を増やすのではなく、刃をさらに薄くする必要がある。
火術は有効だった。
これまで松明や油を使っていた場面で、離れた場所から傷口を焼ける。
身体強化も問題なく使えた。
ただし、術式を書く間に無防備になる。
今回はアークが注意を引いてくれた。
一人なら、距離を取るか、念動力で相手の動きを止めなければならない。
人前で念動力を使えない状況を考えるなら、魔法語を書く速度を上げる必要がある。
俺たちは何度もトロールと戦ってきた。
今日倒した個体も、特別に強かったわけではない。
これまでと同じ中層のトロール。
動きも、再生力も、弱点も知っている相手だった。
それでも、今日の戦いには意味があった。
初めて魔術を使ってトロールを倒した。
剣も牙も使わず、念動力で身体を直接押さえつけることもなく。
学院で学んだ技術だけで、慣れた敵を倒せた。
以前と同じ相手だからこそ、自分たちが変わったことが分かる。
明日は、この岩場を越えて川へ向かう。
その途中には、さらに強い魔物がいるかもしれない。
今度はトロールのように、戦い方を知っている相手とは限らない。
俺は焚き火へ薪を一本加えた。
炎が僅かに大きくなる。
すぐに魔力を調整し、元の大きさへ戻す。
「アーク」
『何です』
「明日からは、もっと奥へ行くよ」
『望むところですな』
「知らない魔物が出たら、最初は観察する」
『戦って確かめた方が早いです』
「危なかったら逃げる」
『分かっとります』
学院で身につけた魔術が、中層でも通用することは分かった。
だが、これは始まりにすぎない。
俺たちの目的地は、さらに奥にある川。
そこで数日間、魔力制御と魔術の訓練を行う。
そして、いつかは古代遺跡へ向かう。
その場所で何が待っていても生き残れるよう、俺たちはもっと強くならなければならない。
焚き火の向こうで、アークの耳が僅かに動いた。
『主』
「今度は何?」
『明日の魚ですが、焼くのと煮るの、どちらがええですかな』
「まだ捕まえてもいないよ」
『先に決めといた方が、すぐ料理できますで』
「両方やれば?」
アークの目が輝いた。
『やはり鍋を二つ持ってくるべきでしたな』
「その話はもう終わり」
中層の夜に、アークの不満そうな鼻息が響いた。
翌朝。
まだ霧の残る森を、俺とアークは歩いていた。
昨日戦った岩場は、もうかなり後ろだ。
木々はさらに太くなり、幹を二人で抱えても腕が回らないほどになっている。
地面には人が踏み固めたような獣道もない。
完全な中層の奥。
人の気配は消え、聞こえるのは風と魔物の鳴き声だけだった。
『魔力が濃くなっとりますな』
アークが鼻を鳴らす。
「息苦しいくらいだね」
『ここら辺まで来る狩人は少ないです』
「だから魔物も多い」
俺は念動力を周囲へ広げた。
半径五十メートル。
木の裏。
岩陰。
地面の振動。
何もいない。
そう思った瞬間だった。
アークの耳がぴくりと動く。
『止まってください』
俺も足を止めた。
鼻を鳴らしたアークが、低い声で言う。
『一匹やないです』
「何匹?」
『五……いや、六匹ですな』
俺も念動力をさらに広げた。
地面を伝わる重い振動。
一本ではない。
二本。
三本。
次々と伝わってくる。
巨大な足音。
しかも、こちらを囲むように動いている。
「群れか」
『珍しいですな』
普通、トロールは単独で行動する。
だが、餌場が重なれば数匹集まることもある。
俺たちは運悪く、その集団の縄張りへ踏み込んでしまったらしい。
木々の向こうから、一体。
右側から二体。
後方から二体。
正面には、他より一回り大きな個体。
合計六体。
全員が太い棍棒を持っている。
『主』
「うん」
『逃げますか』
俺は少し考えた。
昨日までなら迷わず逃げていた。
だが今は違う。
「いや、やれる」
アークが嬉しそうに尻尾を振る。
『待っとりました』
六体のトロールが一斉に咆哮した。
森中の鳥が飛び立つ。
地面が震える。
「右三体は任せる!」
『左三体も倒してええですか』
「全部倒す気?」
『当然です』
先頭のトロールが突進してきた。
棍棒が唸る。
俺は念動力で身体を横へ滑らせる。
空振り。
そのまま風魔法を放つ。
狙うのは首ではない。
目だ。
風が砂と落ち葉を巻き上げる。
トロールが目を閉じた。
その隙に懐へ飛び込む。
念動力で剣を加速。
銀色の刃が一閃する。
首が飛んだ。
緑色の血が噴き上がる。
身体が崩れ落ちる。
「一体!」
だが休む暇はない。
二体目が棍棒を横薙ぎに振る。
俺は念動力で剣を引き寄せながら後退。
三体目まで距離を詰めてきた。
囲まれる。
「アーク!」
『任しといてください!』
風が唸った。
青白い線が三本。
ほとんど見えない。
次の瞬間。
右側にいたトロール三体の首が同時に滑った。
一拍遅れて頭部が地面へ落ちる。
身体だけが数歩歩き、そのまま倒れた。
『三匹です』
「速い!」
『まだおりますで』
残る二体が怒り狂って突進してくる。
一体は俺へ。
もう一体はアークへ。
俺は風魔法を放つ。
首ではない。
膝。
風そのものでは切れない。
だが一瞬だけ脚が止まる。
その瞬間を逃さない。
念動力で身体を前へ押し出す。
剣が首へ吸い込まれた。
斬撃。
首が宙を舞う。
四体目。
「あと一体!」
最後のトロールは仲間が瞬殺されたことを理解したのか、一歩後ろへ下がった。
『逃がしませんで』
アークの前へ魔法語が浮かぶ。
細い。
細すぎて見失うほどの風の刃。
放たれた。
音もなく首を通過する。
トロールは何が起こったか分からないまま二歩歩き、
頭だけが落ちた。
沈黙。
森に風だけが流れる。
六体。
戦闘時間は一分もなかった。
俺は剣についた血を振り払った。
「終わったね」
『ちょっと物足りませんな』
「俺は二体」
『わいは四体です』
「数えるの早いね」
『ちゃんと見とりました』
俺は苦笑する。
「まだ風魔法だけじゃ倒せない」
『でも昨日より速かったです』
「風で隙を作って、念動力で踏み込む」
昨日までは念動力だけで距離を詰めていた。
今日は風魔法を組み合わせた。
目を潰し。
膝を止め。
ほんの一瞬だけ動きを鈍らせる。
その一瞬で剣を届かせる。
風だけでは首は切れない。
だが、剣へ繋げる補助としては十分だった。
『さて』
「何?」
『六匹分の魔石です』
「解体が大変だね」
『今日は晩御飯が豪華になりますな』
「結局そこなんだ」
『大事なことです』
俺たちは顔を見合わせ、同時に笑った。
中層の奥。
昨日までなら一体でも慎重に戦っていた相手。
そのトロールの群れを、今は押し返せる。
学院で学んだことは、確実に俺たちを強くしていた。




