魔方陣
第十四話 友
召喚術の授業以来、俺とレオン様は自然と話す機会が増えていった。
きっかけは、本当に些細なものだった。
最初のうちは授業と授業の合間に、廊下や教室で少し言葉を交わす程度だった。
「昨日の課題、難しかったな」
「魔法語の文法が、まだ覚えきれません」
「俺もだ。似たような活用が多すぎる」
「一文字違うだけで、術式の意味が反転するのが厄介ですね」
「しかも間違えた結果が、ただの不発で済むとは限らないからな」
そんな、学院の生徒なら誰とでも交わしそうな他愛のない会話。
俺は平民で、レオン様はサトゥルドス子爵家の嫡男。
身分だけを考えれば、親しくなるような間柄ではなかった。
だが、レオン様はそれをほとんど気にしていないようだった。
こちらから一歩引けば、その分だけ向こうから距離を詰めてくる。
授業中に分からない部分があれば、俺の机までやって来て教科書を覗き込み、実技の組み分けでは当然のように隣へ立った。
昼食を共にする日が増えた。
実技では二人で組むことが多くなった。
図書室では、互いに借りた本を見せ合った。
気が付けば学院の誰もが、俺とレオン様が一緒にいる姿を当たり前のように見るようになっていた。
「モーリ」
昼休み、食堂の長机に腰掛けるなり、レオン様が身を乗り出した。
「はい」
「また黒霧の森の話を聞かせてくれ」
「もちろんです」
レオン様は、良い意味で貴族らしからぬ人だった。
華やかな舞踏会や社交界の噂には、あまり興味を示さない。
どの家の令嬢が美しいだとか、誰が王都で流行の服を仕立てただとか、そういった話を振られても、曖昧に笑うだけだ。
だが、魔物や狩り、戦いや辺境の話になると途端に目を輝かせた。
「本当にトロールは三メートルもあるのか?」
「個体によりますが、大きいものはそれくらいあります」
「腕は人間の胴ほど太いと聞いた」
「だいたい合っています。棍棒を振り回されると、木が根元から折れます」
レオン様はパンを持ったまま、しばし動きを止めた。
「怖くなかったのか?」
「怖かったですよ」
「それでも戦ったのか」
「逃げられない状況でしたから」
黒霧の森では、戦いたいかどうかなど関係ない。
出会ってしまえば戦う。
逃げられるなら逃げる。
逃げられないなら殺す。
迷っている間に、こちらが殺される。
俺がそう説明すると、レオン様は恐れるどころか、ますます興味深そうに身を乗り出した。
「いいな」
「良くはありませんよ」
「いや、危険なのは分かっている。だが、俺も一度は黒霧の森へ行ってみたい」
「おすすめはしません」
「分かっている」
レオン様は冗談めかした笑みを消した。
「だから今は学院で鍛えている」
その表情は真剣だった。
サトゥルドス子爵家は、辺境伯家に仕える寄子の家柄だ。
領地は魔物が生息する森や山地に近く、ひとたび大規模な魔物の群れが現れれば、領主自ら兵を率いて討伐へ向かわなければならない。
戦が起これば、辺境伯の命に従い出陣することもある。
レオン様は卒業後、いずれ父の跡を継ぎ、領地と領民を守る立場になる。
狩りや魔物との戦いに興味を持つのは、単なる好奇心だけではないのだろう。
「領主になるのは、怖くありませんか?」
ふと、俺は尋ねた。
レオン様は少しだけ考えてから答えた。
「怖いさ」
意外なほど、あっさりした返事だった。
「俺の判断一つで、兵が死ぬかもしれない。税を上げれば領民が苦しむ。逆に下げすぎれば、魔物が現れた時に兵を動かす金がなくなる」
手の中のパンを見つめながら、静かに続ける。
「正解が最初から分かっている問題なんて、ほとんどない。それでも、誰かが決めなければならない」
「……」
「だから、できるだけ多く学んでおきたい。剣も、魔法も、領地経営も、戦術も。知らなかったでは済まされないからな」
その言葉を聞き、俺はレオン様を見る目を少し変えた。
子爵家の嫡男。
生まれた時から将来を約束された人間。
それだけを聞けば、何不自由なく生きてきたように思える。
だが実際は、生まれた時から背負うべき責任を決められた人でもある。
俺とは違う種類の重荷を背負っているのだ。
ある日の放課後。
講義を終えて教本を鞄へ入れていると、レオン様が俺の机へやって来た。
「今日は時間あるか?」
「あります」
「宿で飯でも食わないか」
「え?」
思わず聞き返した。
レオン様は不思議そうに首を傾げる。
「料理人が領地から届いた肉を焼いてくれるそうだ。俺一人では食べきれない」
「でも……」
「もちろんアークも一緒でいい」
足元で伏せていたアークの耳が、ぴんと立った。
『肉ですか?』
念話が頭へ飛び込んでくる。
『まだ何の肉かも聞いてないよ』
『肉であることが重要です』
俺は思わず苦笑した。
「ぜひ、伺います」
「決まりだな」
その日の夕方。
俺とアークは、学院の近くに借りられたレオン様の宿を訪れた。
宿と聞いていたから、貴族向けの高級宿屋の一室を想像していた。
だが、実際に案内された場所は、宿というより小さな屋敷だった。
高い塀に囲まれた敷地。
鉄製の門。
手入れされた庭。
二階建ての母屋と、使用人が暮らすための離れ。
子爵家が学院へ通う嫡男のため、一軒家を丸ごと借り切っているらしい。
門をくぐると、執事らしい初老の男性が深く頭を下げた。
「お待ちしておりました、モーリ様」
「様は付けなくて大丈夫です」
「レオン様の大切なご友人と伺っておりますので」
まだ友人と呼べるほどの関係なのだろうか。
そう思いながら隣を見ると、レオン様は何食わぬ顔で屋敷の中へ入っていく。
「ようこそ」
振り返り、楽しそうに笑った。
「今日は遠慮しないで食べてくれ」
食堂へ案内されると、大きなテーブルいっぱいに料理が並べられていた。
表面を香草で覆われた肉の塊。
根菜と豆を柔らかく煮込んだ料理。
焼きたての白いパン。
乳の香りが濃いスープ。
香ばしく焼かれた川魚。
蜂蜜をかけた果物。
村の祝い事でも、これほど多くの料理が並ぶことはなかった。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
「領地から届いた食材が多い」
レオン様が自分の席へ腰掛ける。
「口に合うといいが」
「十分すぎます」
俺の横では、アークが落ち着かない様子で尻尾を振っていた。
肉を見る。
レオン様を見る。
また肉を見る。
『主』
『何?』
『わいの席はどこです?』
『床だよ』
『客人に対する扱いが雑ですな』
『犬だからね』
そんなことを話していると、食堂の奥の扉が開いた。
料理長らしい初老の男性が、二人の使用人と共に大皿を運んでくる。
皿の上には、人間の胴ほどもある巨大な肉の塊が載っていた。
太い骨が一本通った、丸ごとの後脚だ。
焼き上げられた表面から肉汁が滴り、香草と脂の濃厚な匂いが食堂へ広がる。
アークの耳が、これ以上ないほど真っ直ぐに立った。
「こちらは、グレーボアの後脚でございます」
料理長が説明する。
「低温で長く火を通した後、表面を炙っております」
「それは全部、アークに」
レオン様が何でもないことのように言った。
「わふ?」
アークの口から、間の抜けた声が漏れた。
俺も目を見開く。
「レオン様、それは多すぎるのでは」
「黒霧の森でモーリと共に戦ってきた功労者だろう」
レオン様はアークを見て笑う。
「今日は存分に食べてもらおう」
アークは巨大な後脚と俺の顔を何度も見比べた。
『……ええんですか?』
『レオン様がいいと言っているからね』
『全部?』
『たぶん』
『骨も?』
『喉に詰まらせないなら』
アークは身を低くした。
『いただきます!』
次の瞬間、獲物へ襲いかかる狼のような勢いで肉へ飛びついた。
大きく口を開け、表面の肉を豪快に噛み千切る。
一口。
二口。
三口。
噛むたびに肉汁が飛び、長い毛の先へ脂が付着した。
やがて、ばきり、と太い音が鳴った。
「骨まで噛むのか」
レオン様が目を丸くする。
アークは返事もせず、夢中で食べ続けていた。
料理人たちは最初こそ驚いていたが、あまりに見事な食べっぷりに、次第に笑い始めた。
「気持ちの良い食べっぷりですな」
「料理人としては、ここまで喜ばれると嬉しいものです」
「はっはっは!」
レオン様も腹を抱えて笑っている。
『うまい!』
アークの歓喜の声が、俺の頭の中へ響き渡る。
『主!』
『何?』
『この豚、最高です!』
『豚じゃなくてグレーボアね』
『名前なんてどうでもええです!』
「ゆっくり食べなさい」
『無理です!』
結局、アークは人の胴ほどもあった後脚を、骨一本残さず平らげた。
食べ終える頃には腹が大きく膨らみ、満足そうに床へ横たわっていた。
『この家、ええ家ですな』
その日以来、グレーボアはアークの大好物になった。
そして数日後。
今度は俺が、大きな包みを抱えてレオン様の宿を訪れた。
応接室へ通され、向かい合って座る。
「今日はお返しです」
「気を遣わなくてもいいのに」
「いえ。俺がそうしたいんです」
包みを机の上へ置き、布を開く。
中から現れたのは、深い緑色の光を宿した拳大の魔石だった。
表面は磨いていない。
それでも内部から淡い光が揺らめき、部屋の天井へ緑色の影を映している。
レオン様の表情が変わった。
「これは……」
「黒霧の森で倒したオーガから採れた魔石です」
「オーガ?」
レオン様は恐る恐る魔石を持ち上げた。
両手で重さを確かめ、光へ透かす。
「これほど大きな物を、本当に受け取っていいのか?」
「はい」
「売れば相当な金になるぞ」
「持っていても使い道がありませんから」
俺はもう一つの包みを差し出した。
「それと、こちらも」
布を解く。
現れたのは一本の弓だった。
漆黒の弓身。
獣の腱を幾重にも撚り合わせた弦。
握りには、滑り止めとして魔物の革を丁寧に巻いてある。
黒霧の森で手に入れた角と腱を削って作ったものだ。
「黒霧の森で倒した魔物の腱と角を使っています」
「市販の弓より丈夫ですよ」
レオン様は魔石を机へ置き、弓を受け取った。
弓身を確かめるように指でなぞる。
続いて、ゆっくりと弦を引いた。
ぎり、と張り詰めた音が部屋へ響く。
「……すごい」
レオン様は弦を戻し、今度は構えを変えてもう一度引いた。
「力を込めても弓身がぶれない。それに、反発が均一だ」
「角の癖を合わせるのに苦労しました」
「これを自分で作ったのか?」
「村では普通でしたから」
「普通ではない」
レオン様は苦笑し、弓を大切そうに抱えた。
「こんな贈り物をもらったのは初めてだ」
「気に入ってもらえたなら良かったです」
「大切に使う」
そう言ったレオン様の顔は、子爵家の嫡男ではなく、新しい玩具を手にした少年のようだった。
それからも、俺たちの交流は続いた。
魔法の話。
領地の話。
狩りの話。
学院生活。
食事を共にし、図書室で本を読み、放課後には訓練場へ向かった。
話題は尽きなかった。
ある日の実技訓練。
レオン様が正面の的へ片手を向ける。
手の前へ赤い火が集まる。
拳大の火球が形作られ、勢いよく射出された。
だが、的へ届く前に輪郭が歪んだ。
火球は空中で崩れ、半分ほどの大きさになってから的へ当たる。
ぼふっ、と鈍い音が鳴った。
威力は明らかに足りない。
「またか……」
レオン様が右腕を下ろし、眉を寄せる。
「発動までは問題ない。それなのに、放った途端に形が崩れる」
「もう一度見せてもらえますか?」
「分かるのか?」
「たぶん」
レオン様が構え直す。
俺は魔力感知を使い、体内を巡る魔力へ意識を向けた。
胸の奥から流れ出した魔力は、肩を通り、腕へ向かう。
だが右肩へ差しかかったところで、流れがわずかに乱れていた。
「待ってください」
俺は少し迷った後、彼の右肩を指した。
「肩です」
「肩?」
「右肩に力が入りすぎています」
「魔力が腕へ流れる途中で、ここに引っかかっています。流れが渦を巻いて、そのまま火球へ伝わっているんです」
レオン様は何度か肩を回した。
「自分では分からないな」
「剣を振る時の癖が残っているのかもしれません」
「なるほど」
「一度、腕を前へ出そうとせず、肩から力を抜いてください。魔力だけを手の先へ流すつもりで」
レオン様は深く息を吸った。
ゆっくりと吐く。
肩がわずかに下がった。
再び魔力が胸から腕へ流れ始める。
今度は乱れない。
先ほどより一回り大きな火球が生まれた。
赤く揺らめく表面は崩れず、中心には白い光が見える。
レオン様が腕を伸ばす。
火球が放たれた。
一直線に飛ぶ。
轟音。
的の中央が吹き飛び、焦げた木片が訓練場へ散らばった。
「できた!」
レオン様が思わず声を上げる。
すぐに俺を振り返った。
「今のは、今までで一番良かった!」
「肩の流れも乱れていませんでした」
「ありがとう、モーリ!」
「いえ。俺は見えたものを言っただけです」
「それができる人間が少ないんだ」
その日から、放課後になると二人で訓練することが増えた。
レオン様は人一倍努力家だった。
同じ術を何十回失敗しても、声を荒らげることはない。
一度休み、失敗した理由を考え、また試す。
腕が上がらなくなるまで剣を振り、魔力が空になるまで術式を繰り返す。
「子爵家を継ぐ以上、戦えなければ領民を守れない」
休憩中、地面へ座ったレオン様が呟いた。
「剣だけでは足りない」
水筒の水を飲み、汗を拭う。
「攻撃魔法も、治癒魔法も、どちらも修めたい」
「両方ですか?」
「ああ。敵を倒す力だけあっても、傷付いた兵を救えなければ意味がない」
その言葉には強い覚悟があった。
俺もできる限り協力した。
魔力の流れを見て助言した。
余計な魔力消費を抑える呼吸法を教えた。
黒霧の森で身につけた、実戦での魔法の使い方を伝えた。
逆に俺は、レオン様から軍隊の動かし方や領地経営について教わった。
兵糧が尽きれば、どれほど強い兵も戦えないこと。
街道を整備すれば商人が増え、税収が伸びること。
魔物を狩りすぎれば森の均衡が崩れ、逆に危険な魔物が入り込むこと。
俺の知らない世界を、レオン様は多く知っていた。
互いに持っていないものを教え合う。
その時間が、俺は嫌いではなかった。
ある日の帰り道。
夕暮れの学院を並んで歩いていると、レオン様が不意に足を止めた。
「モーリ」
「はい」
「お前と話していると、不思議と時間を忘れる」
「俺もです」
レオン様は少し笑った。
だが、すぐには歩き出さなかった。
何か言いにくいことがあるらしい。
「最初は、黒霧の森の話が面白くて話しかけただけだった」
「はい」
「珍しい平民がいると思った。魔物に詳しくて、妙に落ち着いていて、教師より魔力を見るのが上手い」
レオン様は小さく笑い、視線を前へ戻した。
「だが、今は違う」
少し照れくさそうに頬を掻く。
「身分も、家柄も関係なく、お前と話すのが楽しい」
そこで一度言葉を切り、俺へ向き直った。
「友人になってくれ」
俺は思わず立ち止まった。
サトゥルドス子爵家の嫡男。
いずれ領地を継ぎ、多くの人間の上に立つ者。
身分だけを見れば、俺とは比べ物にならない。
そんな人が俺へ真っ直ぐ手を差し出している。
打算も、命令もない。
ただ一人の人間として、友人になってほしいと言っている。
俺は、その手を強く握った。
「もちろんです」
一度息を吸い、言い直す。
「レオン」
レオンは一瞬、目を見開いた。
「俺も、友達だと思っています」
数秒の沈黙。
そしてレオンは、堪えきれなくなったように笑い出した。
「ははは!」
「な、何?」
「今、初めて呼び捨てにしたな」
「あっ」
「その方がいい」
握った手へ力がこもる。
「友なら敬語もいらん」
「……努力する」
「期待している」
横ではアークが満足そうに尻尾を振っていた。
『ようやくですな』
『何が?』
『主、ずっと友達やと思っとったくせに、いつまでもレオン様、レオン様と堅苦しかったですやん』
『聞こえてたの?』
『全部聞こえてました』
『黙ってて』
『照れ屋ですなあ』
俺が睨むと、アークは何も知らない犬の顔をして前を向いた。
こうして、レオンは俺にとって、この世界で初めてできた同年代の友人となった。
召喚術の授業から、およそ三か月が過ぎた。
学院生活にもすっかり慣れ、季節は初夏を迎えていた。
強かった春の風は穏やかになり、街路樹には濃い緑の葉が茂っている。
そして、待ちに待った長期休暇が始まった。
朝早く、学院の正門前。
まだ通りを歩く人もまばらな時間だった。
「待たせたな」
荷馬車の横で、レオンが片手を上げる。
今日は濃緑色の旅装束を身に着けていた。
腰には細身の剣。背中には、俺が贈った漆黒の弓。
手入れが行き届いているのか、朝日を受けた弓身が滑らかに輝いていた。
「おはよう、レオン」
「おう」
「その弓、使ってくれているんだ」
「当然だろう。今までの物より手に馴染む」
レオンは背中の弓を軽く叩き、俺の横にいるアークを見る。
「アークも元気そうだな」
『もちろんですわ』
アークは尻尾を大きく振った。
もちろん、レオンには普通の犬の鳴き声にしか聞こえない。
「父上も母上も楽しみにしている」
「本当に泊めてもらっていいのか?」
「何を今さら」
レオンは笑った。
「俺が招待したんだ。客室も用意させてある」
「でも、子爵家の屋敷だろ」
「そうだが?」
「緊張するよ」
「父上はお前の話を聞いて、一度会ってみたいと言っていた」
「俺の話?」
「黒霧の森で育った狩人。魔物の素材で弓を作り、学院では教師が見抜けない魔力の乱れまで見つける」
「ずいぶん大げさに伝えてない?」
「事実しか言っていない」
俺は小さく息を吐いた。
村長ですら、子爵と直接言葉を交わす機会など滅多にない。
その屋敷へ友人として招かれ、泊めてもらう。
少し前まで想像もしていなかったことだ。
『主、今から緊張しとるんですか?』
『するよ』
『肉のことだけ考えたらええです』
『アークと一緒にしないで』
「出発するか」
レオンが荷馬車へ乗り込む。
「うん」
俺とアークも続いた。
御者が手綱を鳴らす。
荷馬車はゆっくりと動き出し、学院のある領都を後にした。
南へ続く街道を進む。
最初は平らな石畳だった道も、都市を離れるにつれて固く踏み固められた土の道へ変わった。
左右には広大な麦畑が広がる。
青みの残る穂が風に揺れ、まるで緑色の波が大地を流れているようだった。
農民たちが畑で働き、時折こちらへ手を振る。
さらに進むと、牧場が増えてきた。
柵の向こうでは牛や羊が草を食み、丘の上を山羊が駆けている。
空は高く、道は穏やかだった。
黒霧の森では決して味わえない、のどかな旅だ。
「サトゥルドス子爵領は、ここから歩いて二日ほどだ」
レオンが荷台の縁へ背を預ける。
「思ったより近いね」
「辺境伯領の北側だからな。領都とも比較的行き来しやすい」
「王都へ向かう街道も通っているんだよね」
「ああ。交易は盛んだ。穀物と家畜、それに森で採れる薬草を売っている」
「魔物は?」
「山側には出る。ただ、黒霧の森ほどではない」
レオンは少し笑った。
「お前にとっては、散歩みたいなものかもしれないな」
「油断できる森なんてないよ」
旅の間も話は尽きなかった。
学院での出来事。
最近覚えた魔法。
領地の税。
軍隊の編成。
黒霧の森に棲む魔物。
昼になると街道脇へ荷馬車を止め、木陰で休んだ。
固いパンへ干し肉を挟み、薄めた果実酒を飲む。
アークには干し肉を多めに渡した。
「そういえば」
食事を終えた頃、レオンが思い出したように口を開いた。
「前から気になっていたんだが」
「何?」
「黒霧の森で、一番危険だった魔物は何だった?」
「単体ならトロールかな」
「やっぱり」
「でも、一番怖かったのは別だよ」
レオンが身を乗り出す。
「何だ?」
「群れになったダスクウルフ」
「狼か?」
「うん。一匹なら問題ない」
俺は地面から細い枝を拾い、土の上へ簡単な図を描いた。
中央に一つ丸を描く。
「これが俺」
その正面へ一つ。
左右へ二つ。
後方にも丸を描く。
「最初に姿を見せるのは一匹だけ。そいつが正面から注意を引く」
「囮か」
「そう。その間に左右へ回り込まれる。追い払おうと前へ出れば、後ろから別の個体が来る」
「かなり統率されているな」
「二十匹を超える群れは、下手な人間より賢いよ」
レオンは土の図を真剣に見つめていた。
「気付けば囲まれている」
俺は枝で中央の丸を囲んだ。
「正面の敵だけ見ていると死ぬ。だから森では、目だけで戦わない」
「耳か?」
「耳も。葉が擦れる音、枝を踏む音、呼吸、足音。それに臭いと風向き」
「全部使うのか」
「使えるものは全部使う」
レオンは深く頷いた。
「軍隊も同じだな」
今度はレオンが枝を受け取り、俺の描いた丸の横へ線を引いた。
「正面の敵だけを見て前進すれば、横から騎兵に突かれる。逆に伏兵を恐れて動かなければ、弓で削られる」
「実戦は教科書通りにはいかないね」
「ああ。だから面白く、恐ろしい」
二日目の夕方。
緩やかな丘を越えた瞬間だった。
「見えてきた」
レオンが前方を指差す。
遠くに石壁で囲まれた街が見えた。
王都や辺境伯領の領都ほど大きくはない。
それでも、俺が育った村とは比べものにならない規模だった。
街の中央には、周囲の建物より一段高い石造りの館が建っている。
その外側には畑が広がり、さらに遠くには深い森と低い山々が続いていた。
「ここがサトゥルドス子爵領の領都ガレポアだ」
街門へ近付くと、門番がレオンの姿を認めて姿勢を正した。
「レオン様、お帰りなさいませ!」
「ああ。変わりはないか?」
「問題ございません!」
門をくぐる。
大通りには商人の荷車が並び、店先では野菜や布、干し肉、農具などが売られていた。
住民たちが次々とレオンへ気付く。
「坊ちゃん、お帰りなさい!」
「レオン様!」
「学院はどうでした?」
「皆、ただいま」
レオンは荷馬車から身を乗り出し、一人ひとりへ笑顔で手を振った。
老人には体調を尋ね、子供には学校へ通っているかと声をかける。
名前を知っている者も多いようだった。
俺はその様子を少し意外に思いながら眺めた。
貴族と領民。
もっと距離があるものだと思っていた。
だが少なくとも、この街ではレオンは領主の息子であると同時に、住民たちが成長を見守ってきた一人の少年でもあるらしい。
やがて荷馬車は、領都の中心に建つ子爵邸へ到着した。
三階建ての石造りの館。
広い庭園。
来客用の馬車置き場。
高い塀と鉄門。
村の家々とは比べ物にならないほど立派だった。
門をくぐると、玄関前に執事や使用人たちが整列していた。
「お帰りなさいませ、レオン様」
「ああ、ただいま」
先頭に立つ老執事が俺へ視線を向ける。
「こちらがお客様でしょうか」
「学院の友人だ。モーリという」
レオンは少し胸を張るように言った。
「滞在中は、俺と同じ客人として扱ってくれ」
「かしこまりました」
執事は俺へ深く一礼する。
「ようこそサトゥルドス子爵家へ、モーリ様」
「お部屋は既にご用意しております」
「よろしくお願いします」
屋敷へ案内された。
磨き上げられた石の床。
壁に飾られた風景画や、歴代当主と思われる肖像画。
天井から下がる魔道具の照明。
窓の向こうには、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。
使用人たちは忙しく働いているが、足音一つ立てない。
俺は、自分の靴についた土が妙に気になった。
「父上は?」
レオンが執事へ尋ねる。
「領内視察へ出られております。明日の夕方まではお戻りになられません」
「そうか」
レオンは軽く頷いた。
俺は内心で少し安心した。
子爵本人へ会う覚悟はしていたが、到着直後から顔を合わせずに済むのならありがたい。
「父上は忙しい人だからな」
レオンが俺の表情を見て笑う。
「挨拶は帰ってきてからで十分だ。それまでは気楽に過ごしてくれ」
「この屋敷で気楽にするのは難しそうだよ」
「すぐ慣れる」
客室へ案内され、荷物を置いた。
部屋には大きな寝台、机、衣装棚まで用意されている。
アーク用なのか、床には厚い敷物と水の入った器も置かれていた。
『ええ部屋ですな』
アークが敷物へ前脚を載せる。
『わい、今日からここで暮らしてもええです』
「だめ』
『即答ですか』
しばらく休み、旅の埃を落とした頃だった。
扉が叩かれ、レオンが顔を覗かせた。
「モーリ。見せたいものがある」
「何?」
「父上には内緒だ」
レオンの口元には、悪戯を思いついた子供のような笑みが浮かんでいる。
「え?」
「声を抑えろ。こっちだ」
屋敷の裏手へ回る。
庭園を抜け、普通の馬がいる厩舎をさらに越える。
そこには、頑丈な石造りの建物があった。
馬小屋にしては壁が厚すぎる。
窓は小さく、扉には金属の補強が施され、左右には武装した見張りまで立っていた。
門番がレオンを見ると、姿勢を正して敬礼する。
「レオン様」
「少しだけ中を見る」
門番はわずかに迷った。
「旦那様の許可は……」
「俺が責任を持つ」
「……承知しました」
何重もの錠が外される。
重い扉が、ゆっくりと内側へ開いた。
冷たい空気と、乾いた藁の匂いが流れてくる。
その瞬間。
「……!」
俺は思わず息を呑んだ。
五頭の白馬がいた。
いや。
ただの馬ではない。
肩甲骨の辺りから、巨大な純白の翼が生えている。
二メートルを超える体高。
力強く盛り上がった胸。
雪のような白毛。
折り畳まれた翼は、それだけで人一人を覆い隠せるほど大きい。
一頭が身じろぎし、翼をわずかに広げる。
ばさり、と空気が押し出され、厩舎の中へ風が走った。
「ペガサスだ」
レオンが声を潜める。
「全部で五頭。サトゥルドス家で代々育てている」
俺は言葉を失った。
本で名前だけは知っていた。
白い馬の姿を持ち、翼で空を駆ける希少な魔獣。
だが実物は、挿絵から想像していたものよりはるかに大きく、力強かった。
「すごい……」
「綺麗だろ」
「うん。想像以上だ」
一頭がこちらへ歩いてきた。
蹄が石床を打つたび、硬い音が響く。
黄金色の瞳。
長い睫毛。
整った頭部。
神獣という言葉が、そのまま形になったような姿だった。
「触っても?」
「急に動かなければ大丈夫だ」
俺は手のひらを見せながら、ゆっくり近付いた。
ペガサスは鼻先を寄せ、俺の匂いを確かめる。
温かな息が手のひらへ当たった。
しばらく見つめ合った後、ペガサスは静かに頭を俺の肩へ預けてきた。
想像以上に重い。
「気に入られたみたいだな」
レオンが笑う。
俺は白い首筋を撫でた。
毛は柔らかいが、その下には太い筋肉がある。
「こんなに大人しいんだ」
「人にはな」
レオンの声が少し低くなった。
「戦場では別物だ」
その言葉で、空気が変わった。
レオンは周囲を見回した。
見張りや世話役が十分離れていることを確認し、声をさらに潜める。
「本当は、これはあまり他人へ見せるものじゃない」
「ペガサスが貴重だから?」
「それもある。だが、一番の理由は違う」
レオンは一頭の首筋へ手を置いた。
「戦術兵器だからだ」
俺は改めて、目の前のペガサスを見上げた。
「普通の騎馬突撃は、地面を走ってくる」
レオンが説明する。
「兵は馬防柵を置き、槍を並べれば迎え撃てる。だが、ペガサスはその上を越えられる」
「飛んで?」
「ああ。ただし、長く空を飛ぶために使うわけじゃない」
レオンは翼の付け根を撫でる。
「騎士を乗せ、鎧を着せ、低空を一気に飛ぶ。敵の槍列を越えたところで急降下し、その勢いのまま地上を突進する」
「この大きさで……」
「ああ」
目の前の体重。
翼が生み出す加速。
そこへ鎧と騎士の重量が加わる。
その巨体が空から落ち、そのまま歩兵の列へ突っ込む。
想像しただけで恐ろしい。
「歩兵は上と前を同時に守れない。隊列へ一頭が突っ込むだけで、何人も吹き飛ぶ。並んで突撃すれば、戦線に穴が開く」
「そこへ騎士団を入れるのか」
「そうだ。それだけで戦況が変わる」
レオンは真剣な顔で続けた。
「だから、どの家も保有数を秘密にしている。うちに五頭いることも、本来なら外部の人間へ知られてはいけない」
「それを俺に見せていいの?」
「良くはないだろうな」
あっさりと答え、レオンは少し照れくさそうに笑った。
「だが、友達だから見せた」
「……」
「お前なら、誰にも話さないだろ」
俺はペガサスから手を離し、レオンを見た。
これは単なる珍しい魔獣の見学ではない。
子爵家の軍事機密。
それを見せるということは、俺を信頼しているという意思表示なのだ。
「もちろん」
俺ははっきり答えた。
「誰にも話さない。約束する」
「ああ。信じている」
その時だった。
俺の後ろに隠れていたアークが、恐る恐る顔を出した。
『でっかい鳥ですな……』
『鳥じゃないよ』
『羽ありますやん』
『馬だって』
『飛ぶ馬……』
アークは納得できない様子で首を傾げる。
一方のペガサスも、見慣れない犬へ興味を持ったらしい。
ゆっくり首を下げ、鼻先をアークへ近付ける。
アークは一歩後ずさった。
『主』
『何?』
『食われません?』
『草食だと思うよ』
『思う、ですか?』
ペガサスが鼻を鳴らす。
温かな息で、アークの顔の毛が一斉に後ろへ流れた。
『うわっ』
アークは驚いて尻餅をつく。
レオンが声を押し殺して笑った。
やがてアークも立ち上がり、負けじとペガサスの鼻先を嗅ぐ。
一頭と一匹は、しばらく互いを観察した。
やがて敵意がないと分かったのか、ペガサスが静かに鼻を鳴らし、アークも小さく尻尾を振った。
「気が合ったみたいだな」
「たぶんね」
『こいつ、わいより態度でかいですな』
『実際に大きいからね』
厩舎を出る頃には、空が橙色に染まり始めていた。
「明日は屋敷の北にある森へ行こう」
レオンが言う。
「狩りをする」
「ペガサスに乗って?」
「それは駄目だ。父上に本気で叱られる」
「残念」
「普通の馬で行く。それでも楽しめるさ」
そして、少し声を弾ませた。
「その次の日、いよいよ古代遺跡へ向かう」
古代文明の遺跡。
失われた知識。
召喚術の痕跡。
俺の胸が、わずかに高鳴った。
この旅で何かが見つかる。
そんな予感がしていた。
翌朝。
雲一つない青空が広がっていた。
朝食を終えた俺たちは、屋敷の北に広がる森へ向かった。
同行するのは俺とレオン、それにアーク。
ただし、獲物を運ぶための従者と馬車が、少し離れて後ろをついてきている。
レオンは濃緑色の狩猟服を身にまとっていた。
腰には細身の剣。
背中には、俺が贈った黒い弓。
羽根飾りのついた帽子まで被り、その姿は物語に出てくる貴族の狩人そのものだった。
対して俺は、動きやすい革の服に、使い慣れた剣を腰へ差しているだけだ。
「ずいぶん本格的だね」
「狩りは貴族の嗜みだからな」
レオンは弓の位置を直しながら言った。
「獲物を仕留めるだけではない。弓の腕、馬の扱い、森での振る舞い。すべてを見られる」
「大変だ」
「今日は客も父上もいない。気楽なものだ」
森へ入ると、空気が変わった。
枝葉の間から差し込む木漏れ日が、地面に斑模様を作っている。
風が吹くたび、葉が重なり合って柔らかな音を立てた。
鳥の声。
虫の羽音。
遠くを流れる小川のせせらぎ。
黒霧の森とはまるで違う。
あの森では、静けさは危険の兆候だった。
どこから魔物が現れるか分からず、常に周囲へ意識を張り巡らせていなければならない。
だが、この森は穏やかだった。
危険な魔物は定期的に討伐され、街に近い区域は子爵家の狩猟地として管理されているらしい。
レオンは慣れた様子で森を進む。
時折馬を止め、地面へ降りて足跡を調べた。
「これは鹿だ」
落ち葉の上に残った蹄の跡を指す。
「まだ新しい。朝方に通ったんだろう」
少し離れた場所の土を見る。
「こっちは兎だ。二、三匹いる」
「足跡だけで分かるの?」
「幼い頃から父上と森へ入っていたからな」
レオンは少し得意そうに笑った。
「六歳で初めて弓を持たされ、八歳で兎を仕留めた」
「六歳?」
「貴族の子供なら珍しくない」
俺は改めてレオンの背中を見る。
学院で魔法を学ぶ姿しか知らなかった。
だが、ここは彼の領地だ。
森の歩き方も、獲物の追い方も、幼い頃から身につけている。
しばらく進んだところで、レオンが左手を上げた。
全員が止まる。
俺も馬から降り、足音を殺した。
前方五十メートルほど。
木々の隙間から、一頭の角鹿が見えた。
立派な枝角。
茶色い毛並み。
鹿はまだこちらに気付かず、低木の葉を食んでいる。
レオンは音を立てずに弓を下ろした。
矢筒から一本抜き、弦へ番える。
動作の一つ一つが滑らかだった。
焦りがない。
弓を持ち上げる。
ゆっくりと弦を引く。
呼吸を整える。
森の音へ溶け込むように静かだった。
鹿が顔を上げる。
耳が動く。
その瞬間。
弦が鳴った。
ヒュッ――。
矢は木々の間を一直線に抜け、鹿の胸へ吸い込まれた。
鹿は大きく跳ねた。
二歩。
三歩。
それだけ駆けた後、静かに地面へ倒れる。
レオンはすぐに弓を下ろし、獲物へ近付いた。
首元へ手を当てる。
既に息はない。
矢は心臓を正確に射抜いていた。
「見事だ」
思わず口から漏れた。
従者が角鹿を丁寧に馬車へ運ぶ。
その様子を見ながら、俺はレオンの狩り方に感心していた。
静かに追い。
狙いを定め。
一矢で仕留める。
無駄な血を流さず、獲物への敬意すら感じさせる。
貴族の鷹狩りのような、洗練された狩猟だった。
その時。
アークの耳が、ぴくりと動いた。
『主』
それまで穏やかだった声が低くなる。
『右です』
俺もわずかに遅れて気配を感じた。
茂みの奥で、太い枝が折れる。
地面を掻く音。
荒い鼻息。
『来ます!』
茂みが爆発するように弾けた。
巨大なグレーボアが飛び出す。
体長は二メートル近い。
口元から突き出た牙。
血走った目。
角鹿の血の匂いに興奮したのか、こちらへ一直線に突進してくる。
「下がれ!」
レオンが弓を構えようとする。
だが、距離が近すぎる。
矢を番え、引き絞る時間はない。
従者たちが武器へ手を伸ばすより先に、俺は一歩前へ出た。
腰の剣を抜く。
グレーボアの巨体が目前へ迫る。
牙が下から突き上げられる。
俺は半歩だけ横へずれた。
同時に念動力で剣身を加速させる。
一閃。
銀色の軌跡が、グレーボアの首を通り抜けた。
次の瞬間。
巨大な頭部が宙を舞った。
胴体だけが勢いのまま数歩進み、地面へ倒れる。
土が跳ねる。
切断面から血が噴き出し、落ち葉を緑に染めた。
森へ静寂が戻る。
俺は剣を振り、付着した血を払った。
レオンは弓を構えた姿勢のまま、目を見開いている。
「……速い」
「急に出てきたからね」
「いや、そういう話ではない」
レオンは弓を下ろし、切断された首と俺を見比べた。
「剣を抜いたのが見えたと思ったら、もう首が落ちていた」
「黒霧の森では、弓を構える時間がないことも多い」
俺は剣を鞘へ戻した。
「近付かれたら、その場で殺すしかない」
レオンはしばらく呆然としていたが、やがて苦笑した。
レオンの狩りは、一矢で美しく仕留める貴族の狩猟。
俺の狩りは、襲われる前に一瞬で首を落とす黒霧の森の生存術。
同じ獲物を狩る技でありながら、その在り方はまるで違う。
「学院では分からなかった」
レオンが感心したように呟く。
「モーリは、森に入ると別人になるな」
「森が俺の庭だったからね」
『主は森では化け物ですわ』
横からアークの念話が飛んでくる。
「褒めてないよね、それ」
『もちろん褒めてます』
アークは楽しそうに尻尾を振った。
その直後、鼻をひくつかせ、倒れたグレーボアへ視線を向ける。
『ところで主』
『何?』
『あれ、持って帰ります?』
『持って帰るよ』
『後脚、わいの分ですか?』
『全部は駄目』
『一本だけ』
『料理長に聞いて』
『交渉してきます!』
アークはまだ屋敷へ戻ってすらいないのに、勝手に尻尾を振り始めた。
レオンがその様子を見て笑う。
「アークは、もう食べることしか考えていないみたいだな」
「たぶん、グレーボアの後脚を期待してる」
「なら料理長に言っておこう。今日の獲物はアークの働きでも見つけられたからな」
『レオン!』
聞こえないと分かっていながら、アークは嬉しそうにレオンへ飛びついた。
その後も俺たちは森を進み、兎や鳥を数羽仕留めた。
レオンは弓で。
俺は必要な時だけ剣を使った。
夕方、獲物を積んだ馬車と共に屋敷へ戻る。
その日の夕食で、アークの前には約束通りグレーボアの後脚が一本置かれた。
『やっぱりこの家、最高ですわ』
幸福そうに肉へ齧りつくアークを眺めながら、俺とレオンは翌日の予定について話した。
目的地は、子爵領に残る古代遺跡。
サトゥルドス家が何代にもわたり、少しずつ発掘を続けている場所。
学院の召喚術の講義以来、俺がずっと気にしていた場所だった。
翌朝。
森には薄い朝靄が残っていた。
古代遺跡は子爵邸から離れているため、夜明け前に屋敷を出た。
俺とレオン、アーク。
護衛の兵。
発掘を担当する作業員たち。
道具や食料を積んだ荷馬車。
総勢二十名を超える一団だった。
街道から外れ、森の中の細い道を進む。
道は長年使われているらしく、荷馬車が通れる幅だけ木々が切り払われていた。
途中には古びた石柱がいくつも倒れている。
表面には苔が生え、何が刻まれていたのかも分からない。
「昔は、この辺りにも町があったらしい」
馬上でレオンが言う。
「町?」
「ああ。古代文明の時代には、今より多くの人間が暮らしていたそうだ」
「どうして滅びたの?」
「分からない。大戦があったとも、魔力災害が起きたとも言われている」
やがて木々の間から、巨大な石壁が見えた。
最初は自然の岩に見えた。
近付くにつれ、それが人の手で積まれた建造物だと分かる。
半分以上が土へ埋まり、上部には太い木の根が絡みついている。
折れた石柱。
崩れた壁。
地中へ続く暗い通路。
遺跡というより、大地に飲み込まれた城のようだった。
既に何度も発掘が行われているらしく、入口付近には作業小屋や道具置き場が建っていた。
俺たちが到着すると、先に来ていた作業員たちが一斉に頭を下げる。
「おはようございます、レオン様!」
「ああ。今日も頼む」
レオンは馬から降り、発掘責任者らしい大柄な男へ声をかける。
「昨日報告があった区画は?」
「こちらです。床らしき石面が出ておりますが、かなり広いようでして」
案内されたのは、遺跡の奥にある半地下の空間だった。
天井の一部が崩れ、隙間から朝日が差し込んでいる。
足元には土砂が厚く堆積し、石造りの壁が途中まで埋まっていた。
「今日は、この床の周辺を慎重に掘り進めてくれ」
レオンが指示する。
「つるはしは石面から離れた場所だけだ。遺物が見えたら、すぐに木べらと刷毛へ切り替えろ」
「承知しました!」
作業員たちは慣れた様子で持ち場へ散った。
硬い土をつるはしで崩す者。
スコップで土砂を運ぶ者。
土の中に異物がないか確認する者。
一見単純な作業に見えるが、その動きには明確な役割分担があった。
「祖父の代から発掘へ関わっている者もいる」
レオンが説明する。
「遺跡を壊さず掘る技術は、俺たちよりずっと上だ」
作業員が表面を確認し、遺物がないと判断した区画。
護衛兵と作業員が縄をかけ、皆で岩を引き上げる。
アークは鼻を地面へ近付け、周囲を歩いていた。
『主』
『何か分かる?』
『土と石の匂いばっかりです』
『役に立たないね』
『まだ何も言うてませんやん』
しばらくすると、アークが一か所で立ち止まった。
『ここ、空洞あります』
俺は作業員へ伝えた。
慎重に掘ると、土の中から小さな壺が現れた。
表面には青い線で鳥のような模様が描かれている。
少し離れた場所からは、石の皿。
金属製の匙。
割れた水差し。
生活用品らしい遺物が次々と見つかった。
「ここは居住区だったのかもしれないな」
レオンが壺を眺める。
「遺跡というより、本当に町だったんだ」
昼前。
古びた木箱が見つかった。
木そのものは腐りかけていたが、表面に薄い魔法膜が残っている。
作業員が慎重に蓋を外す。
中には十冊ほどの本が収められていた。
革表紙。
黄ばんだ紙。
見たことのない文字。
長い年月を経ているにもかかわらず、保存状態は驚くほど良かった。
「古代文字だ」
レオンが息を呑む。
俺も一冊へ手を伸ばしかけた。
だが、途中で止める。
これは子爵領で発見された物。
所有者はサトゥルドス子爵家だ。
「レオン」
「何だ?」
「この本を、転写させてもらえないかな」
「持って帰りたいのか?」
「原本を持ち出すつもりはない。内容だけ写したい」
レオンは少し考えるように本を見下ろした。
やがて、あっさりと頷く。
「構わない」
「本当に?」
「ああ。見つかった物を研究してもらうのも、遺跡を発掘する目的の一つだ。原本さえ領地で保管するなら、好きなだけ写せばいい」
「ありがとう」
胸の奥が高鳴る。
古代文字。
失われた魔法。
この中に召喚術に関する記述があるかもしれない。
地球へ戻るための手掛かりが、ほんの一行でも残されているかもしれない。
だが、その期待を表へ出すことはできない。
俺が異世界から来たことを知っているのは、アークだけだ。
午後も作業は続いた。
俺は魔法で土を取り除き、作業員たちが残った土を刷毛で払う。
昼を少し過ぎた頃。
一人の作業員が突然声を上げた。
「レオン様!」
全員の手が止まる。
「こちらへ! 床に何か刻まれています!」
俺たちは声のした場所へ駆け寄った。
土の中から、滑らかな黒い石面が覗いている。
その表面に、一本の細い溝が刻まれていた。
自然にできた亀裂ではない。
幅も深さも均一だ。
「周囲を掘ってくれ」
レオンがすぐに指示する。
「ただし、石面へ刃を当てるな」
「はい!」
作業員が木べらで土を削る。
別の者が刷毛で砂を払う。
俺は少し離れた場所の土だけを魔法で持ち上げた。
石の表面が少しずつ広がっていく。
一本だった溝は、緩やかに曲がっていた。
やがて円の一部が現れる。
さらにその内側から、別の線が出る。
三角形。
四角形。
複数の円。
そして、文字。
「……魔法陣?」
誰かが呟いた。
その言葉を境に、作業場の空気が変わった。
作業員たちも、護衛兵も、手元の石面へ目を奪われている。
「まだ全体が見えていない」
レオンは興奮を抑えるように言った。
「周囲を慎重に掘り進めろ」
発掘が再開される。
土が取り除かれるたび、魔法陣は際限なく広がっていった。
幾重にも重なる円。
複雑に交差する線。
見たことのない魔法文字。
現代の魔法陣にある、単純な魔力の入口や属性指定とは比べものにならない。
一つの文字の周囲へ別の文字が配置され、それらをさらに細い線が結んでいる。
文字というより、巨大な機械の部品を見ているようだった。
夕方近く。
最後の土が払われた。
誰も言葉を発しなかった。
直径二十メートル近い巨大な魔法陣。
それが、遺跡の床一面へ刻まれていた。
円の外周だけでも、数千文字はある。
内側には何層もの術式があり、中心には人が一人立てるほどの小さな円が描かれている。
現代で使われる魔法陣とは、規模も複雑さも何もかもが違った。
「こんなの……」
レオンが掠れた声で呟く。
「学院の教師でも読める者はいないだろう」
俺は魔法陣の縁へしゃがみ込んだ。
表面の砂を指で払う。
そこに刻まれた文字は、当然ながら読めない。
それなのに。
目で追っていると、胸の奥に奇妙な感覚が広がった。
懐かしい。
そんなはずはない。
この世界の古代文字を見たのは初めてだ。
地球のどの言語にも似ていない。
それでも、長い間忘れていた何かを目の前へ差し出されたような感覚があった。
「モーリ?」
レオンの声で我に返る。
「どうした?」
「……いや」
俺は指を石面から離した。
「気のせいだ」
違和感は、すぐに薄れていった。
だが完全には消えない。
魔法陣の奥から、こちらを見られているような。
あるいは。
俺がここへ来ることを、ずっと待っていたような。
そんな考えが頭をよぎる。
馬鹿げている。
何千年も前の魔法陣が、俺を知っているはずがない。
「この魔法陣も写そう」
俺は立ち上がった。
「学院へ持ち帰れば、何か分かるかもしれない」
「そうだな」
レオンは頷き、作業員たちへ向き直る。
「今日の発掘はここまでだ!」
声が遺跡の中へ響く。
「魔法陣の周囲に柵を立てろ。許可なく誰も中へ入れないように!」
「承知しました!」
作業員たちが動き始める。
木の杭が打ち込まれ、縄が張られていく。
夕日が崩れた天井の隙間から差し込み、巨大な魔法陣を赤く染めていた。
何千年もの間、土の下で眠り続けていた古代の術式。
それが今、再び人の目に触れた。
俺はその場を離れながら、一度だけ振り返った。
赤い光の中で、無数の文字が影を落としている。
その中心にある小さな円が。
まるで俺へ、ここへ立てと誘っているように見えた。




