魔力制御
応用魔法語の実技試験から三日後。
俺は、魔力制御の実習室にいた。
実習室は学院の地下にある。
窓はない。
石造りの壁には、幾重もの防護術式が刻まれている。
火。
風。
雷。
氷。
どの魔術が暴発しても、外へ被害が出ないように造られているらしい。
天井は高く、部屋の中央には長い石の机が並んでいた。
机の上に置かれているのは、武器でも魔石でもない。
小さな蝋燭だった。
生徒一人につき一本。
白く、細い。
指より少し長い程度の、どこにでもありそうな蝋燭である。
『ずいぶん地味ですな』
壁際に伏せているアークが、退屈そうに言った。
「魔力制御の授業だからね」
『蝋燭を燃やすだけでしょう』
「たぶん、普通には燃やさないんだよ」
俺の予想は当たった。
実習を担当する教師は、生徒たちが揃うのを確認すると、教壇の上に一本の蝋燭を置いた。
教師の名はオルフェン。
五十歳ほどの痩せた男で、声が小さい。
授業中もほとんど声を張らないため、生徒たちは自然と静かになる。
オルフェン教師は右手の人差し指を上げた。
指先に、赤い魔法語が一文字だけ浮かぶ。
次の瞬間。
蝋燭の芯に、青白い火が灯った。
火は小さい。
息を吹きかければ消えてしまいそうなほど弱い。
だが、炎はほとんど揺れていなかった。
部屋には僅かな空気の流れがある。
ほかの蝋燭の炎なら、左右へ揺れているはずだ。
教師の炎だけは、糸の先へ固定されたように動かない。
「本日の課題は、この状態を維持することです」
オルフェン教師が言った。
「火を大きくする必要はありません。明るくする必要もありません。対象を燃やす必要もありません」
教師は炎を消した。
「ただ、小さな火を出し続ける。それだけです」
生徒の一人が手を上げた。
「何秒ですか?」
「一時間」
室内がざわついた。
火を出すこと自体は難しくない。
俺も既にできる。
火の魔法語は、風より単純だ。
熱を生む。
一点へ集める。
燃焼を維持する。
だが、一時間となれば話が違う。
通常、魔術を維持すれば魔力を消費し続ける。
大きな炎なら、数分も保たない生徒がいるだろう。
小さな火であっても、出力が安定しなければ急に大きくなったり、消えたりする。
「魔力量が多い者ほど有利と思っている者がいるかもしれません」
オルフェン教師は生徒たちを見渡した。
「逆です」
数人の生徒が顔を上げた。
壁際にいたアークも耳を立てる。
「魔力が多い者は、必要以上に流しやすい。魔力量の少ない者は、少量を扱うことに慣れている」
『わいに不利な授業ですな』
アークの声が聞こえた。
「そうかもね」
俺は小さく答えた。
「何か?」
隣の女子生徒がこちらを見る。
「いや、独り言」
危ない。
前回の授業でも同じことをした。
学院にいる間は、アークへ声を出して返事をしないよう気をつけなければならない。
オルフェン教師は机の端にある砂時計を反転させた。
「始めてください」
俺は蝋燭へ向き直った。
火を生む魔法語を頭の中に描く。
術式は短い。
だが、今回は発動速度を競うわけではない。
必要なのは、最小限の魔力だけを流すこと。
俺は右手を上げ、蝋燭の芯の上へ魔法語を書いた。
赤い文字が浮かぶ。
魔力を流す。
火が灯った。
大きい。
蝋燭の火としては、明らかに大きすぎる。
芯の上で、拳ほどの炎が揺れている。
「失敗」
オルフェン教師が言った。
俺だけではない。
周囲の机でも、炎が次々に大きく燃え上がっていた。
一人の生徒は、炎を天井近くまで伸ばした。
別の生徒は、蝋燭そのものを一瞬で溶かした。
焦げた匂いが室内へ広がる。
教師は防護術式を使い、燃え上がった炎を順番に消していった。
「火を出すだけなら、魔力を押し込めばよい」
オルフェン教師が言う。
「しかし、制御とは必要な量だけを流すことです」
俺は新しい蝋燭を受け取った。
もう一度。
今度は、魔力を流す量を減らす。
体内の魔力へ意識を向ける。
これまでの魔術では、術式を完成させたあと、必要だと思う量をまとめて送り込んでいた。
今回は違う。
糸のように細く。
一滴ずつ。
魔力を切らさず、しかし増やしすぎない。
火が灯る。
先ほどよりは小さい。
だが、まだ大きい。
炎は指二本分ほどの高さがある。
周囲を見れば、同じ程度の炎を作っている生徒が多かった。
中には、既に教師の見本に近い小さな火を灯している者もいる。
その多くは、幼い頃から魔術を学んでいる貴族の生徒だった。
俺は炎をさらに小さくしようとした。
魔力を絞る。
炎が縮む。
もう少し。
赤い火が青く変わる。
さらに細くする。
消えた。
「今のは六十七秒です」
オルフェン教師が言った。
「最初としては悪くありません」
一時間には程遠い。
俺は蝋燭の芯を見つめた。
強い魔術を使う方が簡単だった。
魔力を増やせば、威力は上がる。
火球は大きくなる。
風は強くなる。
だが、弱くするには、常に量を測り続けなければならない。
多ければ炎が大きくなる。
少なければ消える。
『主。肩に力が入っとりますで』
アークの念話が届く。
俺は返事をせず、ゆっくり息を吐いた。
肩を下げる。
指先へ意識を集中しすぎない。
魔力を無理に絞ろうとするのではなく、細い流れを維持する。
もう一度、術式を作る。
火が灯る。
今度は、最初から小さい。
炎が僅かに揺れる。
俺はそれを見つめ続けた。
一分。
二分。
三分。
途中で炎が膨らみそうになる。
魔力を減らす。
今度は消えかける。
少し増やす。
呼吸と同じだった。
吸う。
吐く。
増やす。
減らす。
完全に一定にするのではない。
変化に合わせて調整し続ける。
十分を超えた頃。
額に汗が滲んだ。
魔力の消費は少ない。
疲れているのは身体ではなく、集中力だった。
炎から目を離せない。
気を抜けば大きくなる。
考えすぎれば消える。
十五分。
二十分。
周囲で炎が次々に消えていく。
蝋燭を溶かした者。
集中が切れた者。
魔力を使いすぎた者。
俺の炎も、徐々に揺れが大きくなっていた。
二十八分を超えたところで、炎が一瞬だけ膨らんだ。
慌てて魔力を減らす。
減らしすぎた。
炎が消えた。
俺は机へ両手をついた。
「二十八分十六秒」
オルフェン教師が記録する。
「次は、急激に調整しないように」
「はい」
「炎が大きくなったからといって、魔力を一気に減らせば消えます」
分かっている。
頭では。
だが、失敗しそうになると、どうしても大きく動かしてしまう。
教師は俺の隣に立った。
「あなたは、戦闘経験がありますね」
「狩人をしています」
「魔術を?」
「いえ、主に剣で」
念動力については言わない。
学院では、これまで剣と身体能力で魔物を倒してきたことにしている。
実際に剣も使える。
すべてが嘘というわけではない。
「戦闘では、判断を大きくしがちです」
オルフェン教師が言った。
「敵が来れば避ける。攻撃されれば防ぐ。好機があれば強く打つ」
「はい」
「ですが、魔力制御では、小さな変化を小さく直す必要があります」
教師は俺の蝋燭へ指を向けた。
「火が僅かに大きくなったなら、魔力も僅かに減らす。それだけです」
「分かりました」
「理解することと、できることは別ですが」
「練習します」
「そうしてください」
オルフェン教師は次の生徒のもとへ移った。
授業終了まで、俺は何度も試した。
三十一分。
二十四分。
三十五分。
最後の一回では、四十分を超えた。
一時間には届かなかった。
だが、最初よりは炎が安定している。
授業が終わる頃には、頭の奥が鈍く痛んでいた。
『主、随分疲れとりますな』
学院を出たあと、アークが言った。
「魔力はほとんど減ってないんだけどね」
『ずっと火を見つめとりましたからな』
「戦う方が楽かも」
『オークは、一時間も同じところに立っとりませんからな』
「そういう問題かな」
『わいなら簡単ですで』
「本当に?」
『火を小さく出すだけでしょう』
「宿で試してみようか」
『ええですとも』
アークは自信満々だった。
俺は何も言わなかった。
たぶん、簡単にはいかない。
宿へ戻ると、俺は机の上を片づけた。
紙。
教本。
魔石。
インク。
燃えそうな物はすべて棚へ移す。
念のため、窓も開ける。
水を入れた桶も用意した。
アークはその様子を見て、呆れたように尻尾を振った。
『大げさですな』
「前に壁を焦がしたからね」
『あれは光の術でした』
「今日は火でしょ」
『小さな火です』
「だから怖いんだよ」
俺は机の中央へ蝋燭を置いた。
アークは椅子へ前足をかけ、蝋燭を覗き込む。
『これを一時間ですな』
「最初は一分でいいよ」
『主は、わいを舐めとりますな』
「犬だからね」
『そういう意味やありません』
アークは机の前へ座り直した。
犬は人間のように指で魔法語を書けない。
アークの場合、頭の中で術式を組み立て、魔力によって直接文字を浮かべる。
それがどうしてできるのか、俺にも分からない。
学院の教本では、無詠唱術式や無描画術式は高度な技法として書かれている。
アークは特別な訓練を受けることなく、自然に使っていた。
膨大な魔力。
鋭い感覚。
文字や図形を一度見れば覚える記憶力。
魔術に関しては、俺より遥かに才能がある。
ただし。
『始めますで』
アークの前へ、赤い魔法語が浮かんだ。
火を生む。
蝋燭へ灯す。
魔力が流れる。
次の瞬間。
炎が天井へ届いた。
「うわっ!」
俺は即座に念動力を使った。
炎を横へ押し潰す。
空気を断ち、火を消す。
同時に蝋燭を机から浮かせ、水桶へ落とした。
ジュッという音。
白い煙が立ち上る。
机の表面が黒く焦げていた。
俺は天井を見る。
煤がついている。
「小さな火って言ったよね?」
『小さくしたつもりです』
「どこが?」
『普段なら、もっと大きくできますで』
「比較対象がおかしいよ」
『魔力を減らしたんですがな』
「どのくらい?」
『十分の一ほど』
「もっと減らして」
『これ以上ですか』
「学院で使ったのは、たぶん今の百分の一以下だよ」
アークが蝋燭を見た。
水桶の中で、半分ほど溶けている。
『百分の一』
「最低でも」
『消えてしまいませんか』
「普通は、そのくらいでちょうどいいんだよ」
俺は新しい蝋燭を机へ置いた。
アークは納得していない顔だった。
『火は大きい方が明るいですで』
「今日は明るくする授業じゃない」
『肉を焼くなら、大きい方が早いです』
「肉を焼く訓練でもない」
『火を小さくして、何の役に立つんです』
「魔力を細かく制御できれば、風の刃も細くできる」
アークの耳が動いた。
「オークの首だけ切れる」
『なるほど』
「素材を傷つけない」
『重要ですな』
「魔石も砕かない」
『すぐに練習しましょう』
効果は抜群だった。
アークは蝋燭へ向き直った。
今度は慎重に魔力を流す。
赤い文字が浮かぶ。
火が灯る。
先ほどよりは小さい。
それでも、炎は俺の拳ほどあった。
「まだ大きい」
『これでも減らしましたで』
「さらに半分」
炎が少し縮む。
「もう半分」
さらに縮む。
「もう半分」
『まだですか』
「まだ」
『魔力を出しとる感じがしませんで』
「それでいいんだよ」
アークが魔力を絞る。
炎は、ようやく指ほどの大きさになった。
「そのくらい」
『弱すぎませんか』
「蝋燭だからね」
『風が吹いたら消えますで』
「消えないように保つのが訓練」
アークは火を見つめた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
炎は安定している。
俺より上手い。
そう思った直後。
宿の外で荷車が通った。
窓から風が入り、炎が僅かに揺れる。
アークは反射的に魔力を増やした。
炎が一気に膨らんだ。
俺は慌てて念動力で押さえ込む。
「増やしすぎ!」
『消えそうやったんです!』
「少し増やせばいいんだよ!」
『少し増やしました!』
「アークの少しは大きいの!」
炎を消す。
また机に焦げ跡が増えた。
『難しいですな』
「やっと分かった?」
『敵を吹き飛ばす方が簡単です』
「俺もそう思った」
俺たちは新しい蝋燭を立てた。
三本目。
今度は窓を閉めた。
アークが火を灯す。
大きくなる。
消す。
四本目。
火を小さくする。
小さくしすぎて消える。
五本目。
一分維持。
途中で炎が揺れ、大きくなる。
六本目。
二分。
七本目。
三分。
アークは次第に無口になっていった。
普段なら、失敗するたびに言い訳をする。
今日は何も言わない。
蝋燭の火だけを見つめている。
耳は前へ向き、尻尾も動かない。
本気になっている。
八本目。
炎は小さい。
青白く、真っ直ぐ伸びている。
一分。
二分。
五分。
アークの魔力は膨大だ。
それをほんの僅かだけ流し続ける。
大きな川から、一滴ずつ水を取り出すようなものだろう。
俺とは難しさの種類が違う。
俺は必要な量を維持することが難しい。
アークは、そもそも必要な量まで減らすことが難しい。
十分。
炎が僅かに大きくなる。
アークはすぐに魔力を減らした。
炎が縮む。
だが、消えない。
『どうです』
「いい感じ」
『話しかけんでください。集中が切れます』
「そっちから聞いたんでしょ」
『返事をしなくても分かります』
「無理言わないでよ」
十五分。
二十分。
アークの呼吸がゆっくりになる。
魔力はまだ十分に残っている。
問題は集中力だ。
二十七分を超えたところで、廊下から扉を叩く音がした。
「お客さん、夕食を運びましたよ」
宿の主人の声だった。
アークの耳が動く。
炎が一瞬膨らむ。
「集中して」
『肉ですかな』
「今は火」
『夕食が冷めますで』
「あとで食べればいい」
『肉は温かいうちに食べるべきです』
「消したら失敗だよ」
扉の外から、また声がする。
「今日は鹿肉の煮込みですよ」
アークの目が扉へ向いた。
炎が消えた。
静寂。
俺は砂時計を見る。
「二十八分四十秒」
『惜しかったですな』
「鹿肉に負けたね」
『仕方ありません。鹿肉ですから』
アークはすぐに扉へ向かった。
「訓練は?」
『食後に続けます』
「本当に?」
『腹が減っては魔術は使えませんで』
「魔力は余ってるでしょ」
『心の魔力が足りません』
「何それ」
アークは前足で扉を掻いた。
俺は仕方なく扉を開けた。
翌日から、蝋燭の訓練が日課になった。
俺は朝、学院へ行く前に十分。
宿へ戻ってから一時間。
アークも隣で同じ訓練をする。
最初の数日は失敗が続いた。
炎が大きくなる。
消える。
蝋燭が溶ける。
机を焦がす。
宿の主人から、火の扱いには気をつけるよう注意された。
俺たちは机の上へ鉄板を敷いた。
水桶を二つ置いた。
窓には濡らした布を掛けた。
そのうち、失敗は少なくなった。
俺は四十分を超えた。
五十分。
五十五分。
そして、授業開始から十二日後。
学院の実習室で、俺の蝋燭は一時間燃え続けた。
炎は小さい。
途中で何度も揺れた。
大きくもなった。
消えそうにもなった。
だが、そのたびに僅かずつ魔力を調整した。
砂時計の最後の砂が落ちる。
オルフェン教師が蝋燭を確認した。
「合格です」
俺は息を吐いた。
手は震えていない。
魔力も半分以上残っている。
それでも、全身が重かった。
「魔力の消費量は少ない」
オルフェン教師が言った。
「ただし、後半は火が不安定でした」
「はい」
「次の課題では、炎を見ないで維持してもらいます」
「見ないで?」
「視覚に頼りすぎています」
教師は俺の横へ立ち、掌で炎を隠した。
蝋燭の火が見えなくなる。
「魔力の流れだけを感じて調整してください」
「難しそうですね」
「だから授業で行います」
オルフェン教師は蝋燭の火を消した。
「実戦中、術式だけを見続けることはできません」
敵を見る。
足元を見る。
仲間を見る。
周囲の魔力を見る。
その状態で、複数の術を維持する。
一つの火すら見なければ保てないのなら、結界や身体強化を維持したまま戦うことはできない。
「魔力制御とは、魔力を小さくする技術だけではありません」
教師は生徒たちへ向き直った。
「意識を向け続けなくても、一定の状態を保つ技術です」
俺はその言葉を覚えた。
意識を向け続けなくても、一定の状態を保つ。
念動力にも使えるかもしれない。
これまで、複数の物を動かすときは、一つずつ意識を向けていた。
岩。
剣。
枝。
魔石。
同時に動かせる数は増えた。
それでも、すべてを常に考え続けなければならない。
一部を自動的に維持できれば、さらに多くの物を操れる。
もちろん、学院では試せない。
念動力を見せるわけにはいかない。
次に黒霧の森へ行ったとき、試すことにした。
宿へ戻ると、アークが机の上で蝋燭の火を維持していた。
俺が扉を開けても、こちらを見ない。
炎は小さい。
僅かに揺れているが、大きさは変わらない。
俺は音を立てないように荷物を置いた。
机の横へ座る。
アークの前には砂時計がある。
残りの砂は少ない。
『話しかけんでください』
「念話なら集中は切れないの?」
『少し切れます』
「じゃあ、黙ってる」
『今、話しかけましたな』
「ごめん」
『またです』
俺は口を閉じた。
最後の砂が落ちる。
アークは火を消した。
『一時間です』
「おめでとう」
『簡単でしたな』
「最初に天井まで燃やしたのは誰だっけ」
『昔の話です』
「二週間前だよ」
『犬の時間では昔です』
「便利だね、それ」
アークは得意そうに尻尾を振った。
『これで風の刃も細くできますで』
「たぶんね」
『黒霧の森で試しましょう』
「もうすぐ長期休暇だから、そのときにね」
『オークの首だけを切ります』
「最初は木で試して」
『木は動きませんで』
「動く的も用意するよ」
『主が枝を投げるんですか』
「念動力で動かす」
『それでは、主の訓練にもなりますな』
「そういうこと」
魔力制御。
風の刃。
動く標的。
念動力による複数操作。
黒霧の森で試したいことは増えていた。
休暇までは、あと十日。
その間にも授業は続く。
魔法語。
魔物学。
召喚術。
古代語。
学ぶことは多い。
それでも、以前ほど苦痛には感じなかった。
学院で覚えたことが、森で役に立つ。
森で失敗したことを、学院で学び直す。
知識と実戦が、少しずつ繋がり始めていた。
『主』
「何?」
『休暇中は、毎日森へ行くんですか』
「そのつもりだよ」
『宿へ帰らず、森で泊まりますか』
「数日はね」
『肉を多めに持っていきましょう』
「現地で狩るんじゃなかったの?」
『訓練中に獲物が見つからんこともありますで』
「保存食で我慢して」
『干し肉ですか』
「そう」
『硬いですな』
「長持ちするからね」
『煮込めば柔らかくなります』
「鍋も持っていく?」
『当然です』
「荷物が増えるよ」
『主が浮かせればええでしょう』
確かに、念動力があれば重さは大きな問題ではない。
だが、人のいる場所で荷物を浮かせるわけにはいかない。
街を出て、周囲に誰もいなくなってから使う必要がある。
「森に入ってからね」
『大きい鍋にしましょう』
「二人分なのに?」
『獲物が大きいかもしれませんで』
「オーガを鍋に入れる気?」
『食べません』
「そこは即答なんだ」
『オーガは臭そうですからな』
「食べるかどうかの基準、味なんだね」
『大事なことです』
アークは蝋燭を前足で端へ寄せた。
その動きは慎重だった。
以前なら、机から落としていたかもしれない。
魔術だけではない。
前足の力加減まで、少し上手くなっている気がする。
俺は机の上へ、黒霧の森の地図を広げた。
何度も折り畳んで持ち歩いたため、紙の端は擦れ、ところどころに泥や血の染みが残っている。
地図には、俺たちが実際に歩いた道を自分で書き足していた。
コボルトの縄張り。
オークが水を飲みに集まる沼。
オーガと遭遇した谷。
ジャイアントスパイダーの巣が密集する林。
浅層だけではない。
地図の中央には、中層へ入るためにいつも使っている道がある。
そこから先にも、俺たちが確認した範囲だけなら、いくつもの印がついていた。
トロールの縄張り。
オーガの群れが移動する獣道。
毒沼。
崩れやすい斜面。
ただし、中層の奥へ進むほど、地図は空白になっていく。
「今回は、ここまで行こうと思う」
俺は中層の奥にある川を指した。
以前トロールと戦った岩場より、さらに半日ほど奥へ進んだ場所だ。
川の存在は、狩人ギルドで手に入れた古い地図にも記されている。
しかし、その周辺について詳しい記録はない。
川の先に何がいるのか。
どのような地形が広がっているのか。
俺たちはまだ知らなかった。
『前にトロールと戦った場所より奥ですな』
「そうだね」
『今度もおりますかな』
「可能性はあると思う」
『強い魔物がおるとええですな』
「訓練相手を探しに行くわけじゃないよ」
『修業するんでしょう』
「修業はする。でも、わざわざ危険な魔物へ喧嘩を売る必要はない」
『向こうから来たら倒しますな』
「逃げられないならね」
『逃げる必要がありますか』
「あるよ」
『わいら、前より強くなっとりますで』
「強くなったからこそ、慎重になるんだよ」
アークは納得していない様子で地図を見つめた。
今では魔術を覚えた。
離れた場所から風を放てる。
魔物の動きを読み、俺と連携して戦うこともできる。
それでも、危険を恐れない性格だけは変わっていない。
『中層へ行くのは久しぶりですな』
「学院に入ってからは、長くても数日しか森へ来られなかったからね」
『浅層の魔物では、風の刃の練習になりませんで』
「ゴブリンやコボルトでも練習にはなるよ」
『脆すぎます』
「力加減を覚える訓練なんだから、脆い方がいいんだよ」
『弱すぎて、失敗しても違いが分かりません』
「上半身が消えたら失敗だって分かるでしょ」
『倒せております』
「素材が残ってない」
『魔石さえ無事なら問題ありませんで』
「その魔石まで砕いたことがあるよね」
アークは顔を逸らした。
『昔の話ですな』
「そんなに昔じゃないよ」
『犬の時間では昔です』
また都合のいいことを言っている。
俺は中層を示す線へ指を滑らせた。
今回の目的は、単に強い魔物を倒すことではない。
学院で学んだ魔術を実戦で試す。
風の刃。
火術。
そして、魔力を細く一定に流し続ける技術。
アークには、魔術の威力を抑える訓練が必要だった。
俺はそれに加え、念動力を使いながら魔術を維持する訓練をする。
念動力で複数の物体を動かしながら、別の魔術を発動する。
周囲の魔力を集めながら、身体強化を保つ。
視界の外へ念動力を伸ばし、魔物の動きを探る。
学院では試せない。
念動力を人前で見せるわけにはいかないからだ。
黒霧の森なら、他人の目を気にする必要は少ない。
特に中層まで入れば、ほかの狩人と遭遇する可能性はほとんどない。
「川の周辺で二、三日修業する」
『魔物がおらんかったらどうします』
「その方が落ち着いて訓練できる」
『面白くありませんな』
「修業に面白さを求めないでよ」
『魔物を倒した方が、金も稼げますで』
「依頼になってない魔物を倒しても、魔石と素材だけだよ」
『肉もあります』
「食べられる魔物ならね」
『トロールは無理ですな』
「絶対に食べないでよ」
『あれは臭いがきつすぎます』
「食べたことあるみたいに言わないで」
『匂いで分かります』
アークは地図へ鼻を近づけた。
川の流れを追うように、青い線の上を見つめている。
『この川、以前見た支流と繋がっとるんですか』
「たぶんね」
以前、トロールと戦った岩場の近くにも、小さな流れがあった。
水は北から南へ流れていた。
今回向かう川は、その上流にあたる可能性がある。
「水場には魔物が集まりやすい」
『狩りには向いとりますな』
「警戒もしやすい。足跡や糞が残るから、周辺に何がいるか分かる」
『魚もおります』
「まだ魚の話をするの?」
『大事ですで』
アークは前足で川の印を押さえた。
『網を持っていきましょう』
「修業しに行くんだよね?」
『食料の確保も修業です』
「便利な言葉だな」
『森で何日も過ごすなら、保存食だけでは足りませんで』
「狩った魔物の肉があるでしょ」
『毎回食べられる魔物に会えるとは限りません』
「魚も捕れるとは限らないよ」
『網がなければ、魚がおっても捕れません』
それは正しい。
俺は持ち物の一覧へ網を書き足した。
鍋。
干し肉。
塩。
水袋。
薬。
解毒薬。
火打ち石。
縄。
予備の剣。
素材袋。
地図。
簡易天幕。
そして網。
『鍋は大きい方ですな』
「普通のでいいよ」
『魚が多く捕れたら入りませんで』
「全部一度に煮る必要はないでしょ」
『トロールが出たら、鍋を盾にできます』
「穴が開くよ」
『では、二つ持っていきましょう』
「持っていかない」
『主が念動力で運べば軽いですで』
「街を出るまでは自分で背負わないといけないんだよ」
人前で荷物を浮かせることはできない。
俺の念動力は秘密だ。
学院の教師にも、生徒にも、ギルドの職員にも話していない。
昔から身体強化に似た能力を持ち、多少重い物を運べる。
周囲には、その程度に思わせている。
中層でトロールを倒したと報告したときも、罠と火を使ったと説明した。
嘘ではない。
念動力を使ったことを隠しただけだ。
『では、街を出てから浮かせましょう』
「だから荷物を増やさないで」
『肉を多めに持つためです』
「現地調達するんじゃなかったの?」
『魚が捕れんかったときのためですな』
「干し肉でいいでしょ」
『硬いです』
「煮れば柔らかくなるよ」
『大きい鍋が必要ですな』
話が一周している。
俺は持ち物の一覧をアークから遠ざけた。
「鍋は一つ。網も一つ。それ以上はなし」
『交渉の余地は?』
「ない」
『残念ですな』
そう言いながらも、アークの尻尾は動いていた。
久しぶりに長く森へ入れることが楽しみなのだろう。
俺も同じだった。
学院で過ごす日々に不満があるわけではない。
魔法語。
魔力制御。
召喚術。
古代語。
地球へ帰るためには、どれも必要な知識だ。
だが、机に向かっているだけでは、自分がどれだけ成長したのか分からない。
魔物を前にしたとき、本当に魔法語を書けるのか。
攻撃を避けながら、魔術を維持できるのか。
アークは、風の刃を必要な強さに抑えられるのか。
俺は念動力と魔術を同時に使えるのか。
試すには、黒霧の森が最も適している。
以前、俺たちは中層でトロールと戦った。
あの頃は、学院で魔術を学ぶ前だった。
俺は念動力だけを頼りにし、アークは牙と身体能力だけで戦った。
今は違う。
俺は魔法語を使える。
アークは魔術を覚えた。
戦い方も増えた。
だからこそ、以前と同じ場所を歩けば、自分たちの成長が分かるはずだ。
「まずは、前にトロールと戦った岩場へ行こう」
『そこから川へ向かいますか』
「うん。岩場までの道で、魔術を使いながら進む」
『魔物がおれば倒す』
「必要ならね」
『トロールがおれば?』
「種類と数を確認する」
『一匹なら倒しますな』
「勝手に決めないで」
『二匹でもいけますで』
「数の問題じゃないよ」
『三匹は少し多いですな』
「だから戦う前提で話さないで」
『主も、本当は戦いたいんでしょう』
俺は返事をしなかった。
アークがこちらを見る。
『図星ですな』
「成長を確かめたいだけだよ」
『同じことです』
「違う」
『では、トロールがおっても逃げますか』
俺は少し考えた。
以前と同じ森トロールが一匹。
周囲に別の魔物はいない。
逃げ道も確保できる。
その条件なら。
「……訓練になると思う」
『やはり戦うんやないですか』
アークは得意そうに尻尾を振った。
「危険だと思ったらすぐ逃げるからね」
『分かっとります』
「俺が撤退と言ったら、すぐに戻る」
『分かっとりますで』
俺は地図を畳んだ。
長期休暇。
黒霧の森の中層。
かつてトロールと戦った岩場。
その先にある、まだ見たことのない川。
初めて使う風の刃。
魔力制御の実践。
念動力と魔術の同時使用。
俺たちが学院で身につけたものが、本当に中層の魔物へ通用するのか。
確かめる機会が、もうすぐやってくる。




