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夜出かけて朝方帰り、昼過ぎに起きる生活にはすぐ慣れた。
胡桃沢にとっては、朝早く起きることの方がずっと難しい。
とりあえず毎日は穏やかに過ぎていく。なんの問題もない。全ては順調である。
店は違えど一度やったことのあるバイトだからだいたいの流れはわかったし、細かいことを覚えてしまえばあとは特に苦労もなかった。本当は駄目なんだけどねと言いつつ、帰りぎわ店長が廃棄の弁当をくれるため食事にも困っていない。この間、最初の給料も出た。振り込まれた金を、胡桃沢は本日パチンコにつぎこんだ。のめりこむのはよくないとわかっていながらも、こればっかりはやめられない。
バイトが決まってから一ヶ月ほどで、空気はずいぶん冷たくなった。吹くのは木枯らし、冬が近い。しかし今、懐はめずらしくあたたかい。
パチンコで大もうけしたのだ。
あまり玉と交換した景品を手に提げて、いつもの道をほくほくと歩いてゆく。
勝つときは勝つもんだ、と思いつつ、くわえていた煙草を指に挟んで煙を吐き出すと、後ろから誰かの軽快な足音が聞こえた。薄い橙の光が射す夕暮れの道に、長い影が迫っている。
「胡桃沢さん」
名前を呼ばれて振り向くと、もうすぐ後ろに月臣がいた。学校帰りであるらしく、制服姿だ。走っていたのに、息も切れていない。
よう、と胡桃沢は軽い調子で言ってからにこりと笑った。
「今日もしっかり勉強してきたか?」
他愛ない問いかけに、月臣は「うん」と素直にうなずく。
どちらかが言い出したわけでもないのに、足は自然と公園に向かった。
習慣みたいなものだ。
昔のように家に遊びにくることはなくなったが、会えばいつも何くれとなく話をする。そうするのに、公園のベンチは都合がいい。
木でできた古いベンチに腰を下ろすなり、月臣はめずらしくそわそわと口を開いた。妙に深刻そうな目をこちらに向けて。
「胡桃沢さん、売春とかしてないよね」
思いも寄らなかったその言葉に、胡桃沢は瞠目した。次いで「は!?」という声が飛び出し、くわえていた煙草が腿に落ちた。煙草を吸っていたことを忘れるくらいに驚いた。
わたた、と落ちた煙草を慌てて拾い、傍らの灰皿に押しつける。どこも焦げたりはしなかったが、ジーンズに灰が散ってしまった。それを払ってから、胡桃沢はやっと月臣の問いに答えた。
「バカ、そんなことするわけねえだろ」
すると、月臣はホッとしたように表情をゆるめた。冗談ではなかったらしい。
なんで売春なんて発想が出てくるんだ……と考えさし、しかしすぐにはたと思い出した。
前にここで、身売りがどうとかという話をちらっとしたような気がする。ただの軽口だったのに、真に受けたのか。
たちまち口元に笑みが浮かぶ。やっぱりまだ子どもだ、と思いつつ、胡桃沢は景品の入った袋を探り、中からキャラメルの箱を取り出した。
「食いな」
差し出した箱を素直に受け取り、月臣は「ありがとう」と言った。にこ、と笑った顔は、記憶の中にある彼よりもずいぶん大人びて見える。実際、彼は育ったのだ。ものすごい勢いで。
さっそく外側のビニールをかそこそと剥ぎ、月臣は一粒口に含んだ。頬が、四角くふくらんでいる。
胡桃沢は再び袋をさぐり、今度はチョコレートを取り出した。
「こっちは陽菜の分。持って帰れよ」
差し出した箱を、今度はすぐ受け取らず、月臣は何か考えるようにじっと眺めていた。短い沈黙のあとで、彼はゆっくりと口を開いた。
「胡桃沢さんがあげた方がよろこぶと思うけど」
月臣はどこか言いづらそうだ。だけど、誰にもらったって一緒だろう。
なんで、と胡桃沢は思い、それを口にしようとした。が、言葉が漏れる前に彼が公園の入り口の方へ視線を向けたから、つられるようにそちらへと目をやった。
沈みかけている日の光が、それでもちくりとまぶしく視神経を刺激する。目を眇めて見つめると、そこに陽菜が立っているのがわかった。
噂をすれば影、というやつか。
彼女もまた学校帰りなのだろう。セーラー服の裾が、ひらひらと風に揺れている。
「またパチンコ?」
近づいてきて早々、陽菜は厳しい声で言った。よほどパチンコが嫌いなのか、形のいい眉が片方ひくりと上がっている。
「今日は勝ったんだよー。ほら、お前も食え」
不機嫌そうな陽菜に、胡桃沢は軽快な口調で言った。今日は彼女の言葉なんて耳に入らないくらい気分がいい。
チョコレートの箱を差し出すと、陽菜はそれを凝視し、それから胡桃沢のとなりに目を向けた。そこでは、彼女の兄である月臣が新しいキャラメルを口に含んでいる。彼女は兄を見てひどく不愉快そうな顔をした。
「いらない!」
つんとそっぽを向いて、陽菜は言った。なんでそんなに不機嫌なのか、胡桃沢にはわからない。わからないながらも、思春期の女の子なんてみんなこんなものなのだろう、とのんきに推察する。
「パチンコ道楽もいい加減にしたほうがいいんじゃない?」
こちらへ向き直ったかと思うと、陽菜はまるで大人の女のような口をきいた。それが少しおかしくて、胡桃沢は口元をむずむずさせる。
「楽しいからいいの」
笑いまじりに言ったら、陽菜はさっと冷たい眼差しをくれた。
「そんなんだから、彼女に逃げられるのよ」
きつい。うぐ、と思った。
彼女に逃げられたことはとっくに遠い過去になり、別にもうひきずってもいないのだが、小娘にそういったことを言われたという事実に少々うちのめされたのだ。彼女は自分をへこませるツボを心得ているんじゃないだろうかと疑ってしまいそうになる。
「お前ー、そういうこと言うなよもう、傷つくだろ」
よれよれになりながら言うと、陽菜はまたもやぷいっと顔をそむけ、そのままパタパタ走り去ってしまった。一体何をしにきたのかさっぱりわからない。
「なんなんだ、お前の妹は」
昔はかわいかったのに、とがっくり肩を落としながらつぶやくと、月臣は真面目な口調で返事をした。
「陽菜は、胡桃沢さんのことが好きなんじゃないかな」
「は!?」
反射的に素っ頓狂な声を上げ、胡桃沢はがくりと垂れていた首を上げて月臣を見た。冗談でも言っているのかと思ったのだが、彼の横顔は声と同じく真面目である。
「それはないだろ」
彼に合わせて、胡桃沢もごく真面目に答えた。そうするしかない。
はぐらかしたわけではなく、本当にそう思う。十も年の違う女の子にそういう感情を持たれているというのは、どうにも想像しづらかった。ただでさえ、彼女はいつもああいう態度なのだ。かわいく擦り寄ってくるというのならまだしも、にわかには信じがたい。
しかし、月臣はきっぱりと言った。
「あるよ。おれにはわかるんだ」
妙に自信がありそうな口ぶりである。どうしてだか知らないけれど、彼は確信しているらしい。
こういうことを、以前にも聞いたな、と胡桃沢は考えた。そしてすぐに、ああ水族館に行ったときだ、と思い至った。
あのときも、似たようなことを言っていた。
おれには陽菜の考えてることがわかるし、陽菜にはおれ考えてることがよくわかるんだ。すごく不思議なんだけど。
そうだ、確か彼はそう言ったのだった。今よりも妹とよく似ていた顔で。色違いのスニーカーを履いて。
「陽菜のこと嫌い?」
問いかけと共に向けられた顔は、あの頃よりずいぶん男らしくなっている。胡桃沢は一瞬ひるみ、それからすぐにため息を吐き出した。
「好きも嫌いもあるか。おれはロリコンじゃない」
正直な気持ちである。いくらなんでも、あんな子どもを女だと思って見たことは一度もない。
月臣は、いかにも純粋そうな目でこちらを見つめている。
「もう十四だよ」
「十四才の中学生女子を好きだと言う男は立派なロリコンだろ」
月臣はゆっくりまばたきしている。よくよく見ると、睫毛が長い。彼はベンチの背にゆったりと体を預け、キャラメルを口に入れた。前に向き直ったその顔は、どこかつまらなそう。やがて彼は、表情とは反対に納得したような口調でつぶやいた。
「そっか。十八才未満の女とやったらつかまるんだもんね」
胡桃沢は瞠目した。月臣の口から、「やる」なんていう言葉が出るとは思わなかったのだ。
いや、男なんだから別にそれくらいどうということはないはずなのだけれど。
戸惑ってしまうのは、彼を子どもの頃から知っているせいだろうか。それとも、まだ性的なこととは程遠い子どもだと思っていたからだろうか。
胡桃沢の胸ににじんだ動揺も知らず、月臣はさらに続けた。
「思うんだけど、十八才未満の子どもの方が大人をやった場合はどうなるんだろう?」
「え?」
とっさに反応できなかった。しかしすぐにその驚くべき言葉を胸の内で反芻し、胡桃沢は顎を撫でた。
「えーと…どうなんだろ。とりあえず無理やりは犯罪だからやめとけよ」
それくらいしか言えることがない。
なんでこんな話になっているんだ、としっかり頭がついてきていない胡桃沢に、月臣はさらに畳みかける。
「合意の上だったら?」
彼はぱっと振り返り、まっすぐにこちらの目をのぞきこんだ。
そのまなざしにひるみ、胡桃沢は逃げるように目線をつま先に落とした。
一体どういう答えを返すべきなんだろう。
年上の彼女でもいるんだろうか。
思考が落ちつき、動揺がしだいにおさまってきた。考えてみたら、うろたえる方がおかしい。
「さあ…。でもまあ、女のほうが立場悪くなるよな、たぶん」
そう答えると、月臣は間髪を入れずに問うた。
「相手が男だったら?」
「え?」
質問の意味がうまく理解できず、とっさに月臣の方を振り返った。そのときにはもう目の前に濃い影が目の前に落ちていた。月臣の顔が、驚くほど近くにあったのだ。
澄んだ目に、夕日の色がきらりと映っている。その様子に一瞬見とれ、それからなぜか体がすくんだ。おそろしいものを目の当たりにしているときのように。
どうしてこんな、近く。
頭が回らず、ぼうっとした。月臣の顔が、さらに近づく。後ずさる暇もない。
状況を把握するより先に、唇にやわらかなものが触れた。なんだ、と考える間すらない。胡桃沢は何がなんだかわからず、ただ固まったように間近にある彼のまぶたを見つめている。
甘ったるい、キャラメルのにおいがした。
やわらかな感触が去っていったのは、それを感じたときだった。
顔を離した月臣は、目元にやわらかな表情を浮かべている。 彼は、ぺろりと下唇を舐めた。唇を這う舌が、妙に赤く濡れて見えた。
「煙草の味がする」
その言葉に、胡桃沢は再び頭がぼんやりとかすむのを感じた。
なんだって、と問い返すだけのゆとりがない。
なにがなんだか。わかるのにわからない。いや、わかりたくないと言うべきか。
「寒くなってきたね。帰ろうか」
月臣はにっこりと笑った。ひとなつっこそうに。普段と変わらない顔で。
「あ、うん…」
胡桃沢はぼんやりつぶやいた。そうするしかなかった。
のろのろと立ち上がるが、足元がなんだか覚束ない。混乱している。ひそやかに。
今のは夢か? 白昼夢? いや、だけどそんな夢。中学生男子にキスされるなんてこと、どうして思い浮かべる必要がある。
現実、夢、と互い違いに胡桃沢は考えた。となりを歩く月臣は、何もなかったような顔をしている。涼しげだ。
やっぱり何もなかったのか。ふとそう考えた。そうかもしれない、と思いかける。ああ、でも、キャラメルのにおいが。今もここに残っている。打ち消しようもなく。
「胡桃沢さん」
アパートの前まで歩き、さあお別れだというときになって、月臣はこちらを振り向いた。
どき、と大きく心臓が鳴る。
彼は目元に笑みを浮かべていた。見慣れた顔のはずなのに、それは今まで見たこともないような表情であるように思えた。
夢かうつつか、まだうまく処理できずにいる胡桃沢に、月臣は一歩近づいて言った。
「今度は舌入れさせてね」
ひそやかな声で、あれは現実ですよというように。
言葉が出ない。ただ、月臣の顔をじっと見つめた。
夕焼けの中に立つ彼の頬まで、薄い橙色に染まっている。冷たい風が、彼のやわらかな髪を揺らす。
こいつのことを、子どもの頃から知っているんだよな、と自分に問うた。
改めて考えるまでもない。知っているはずだ。間違いない。
だけど目の前にいる彼は、まるで知らない男のよう。一瞬にして、知らないひとになってしまった。
にこ、と笑って月臣は自分の家の方へ足を向けた。さよなら、と彼は言ったけれど、答えることができなかった。
中学生の男だぞ、と思う。しかし胸はどうしようもなく掻き乱されている。
胡桃沢は、急激な勢いで彼を意識することを余儀なくされた。
<終>