7話 兄という壁
国境での戦いから三日ほどが過ぎた。
キリムはようやく意識がはっきりするようになり、さらに数日が経つ頃には、一人で歩き回れるまでに回復していた。
身体の傷はほとんどない。腹も減るし、手足にも力が入る。だが、魔力を使おうとすると、頭の奥に鈍い疲れが残っているのが分かった。
あの戦いで何が起きたのか。
敵将を討ち取ったことは、バレルズから聞いた。戦いに勝利したことも、シャーロッテから聞かされている。
だが、肝心の敵将を倒した瞬間が、どうしても思い出せなかった。
「……変な感じだな」
天幕の外で自分の手を握ったり開いたりしていると、隣にいたバレルズが顔を向けた。
「まだ具合が悪いのか?」
「いや、身体はもう平気なんだ。でも、あんなに暴れたはずなのに、何をやったか覚えてねえ」
「オラはすぐ後ろで見てたぞ」
「そうなのか?」
「ああ。すごかった。敵の兵士が何人来ても、まるで止まらなかったんだ」
「へえ……」
「でも、オラが何度呼んでも返事をしなかった」
バレルズは自分の大盾に視線を落とした。
「あれは、ちょっと怖かったな」
キリムは黙って友人を見た。
戦場で自分が倒れたあと、バレルズが守ってくれたことは知っている。
だが、戦っている最中から声も届かなくなっていたとは思わなかった。
「……なんか悪かったな」
「いいよ。オラはお前の盾だからな」
「……そうか」
キリムはしばらく考え、それから笑った。
「じゃあ、今度はお前が呼んだら返事できるようにしねえとな!」
「それが出来てたらいいけど、結局出来なかったんだろ?」
「そうなんだよなあ」
キリムは頭をかいた。
紅鬼無双。
自分で考えた、最高に格好いい名前の必殺技だった。
敵将を討ち取るほどの威力があったことは間違いない。それなのに、使った自分自身が何も覚えていない。
これでは、せっかくの必殺技がどう決まったのか、自分でも分からない。
「何を難しい顔してるんだい、キーぼん」
振り向くと、シャーロッテが立っていた。
「隊長!」
「ずいぶん元気になったじゃないか」
「もう訓練にも戻れそうです」
「そいつは結構。けど、魔法を使うのはまだ駄目だよ」
「……はい」
キリムが渋々答えると、シャーロッテは小さく笑った。
「それより、キーぼん。戦いのあとに話したことは覚えてるかい?」
「覚えてますよ。俺一人で戦争してるんじゃない、仲間を信じろ、でしょ?」
「そうだね」
シャーロッテは頷いた。
「それで、どう思った?」
キリムは少し考えた。
「俺が倒れたあと、バレルズが守ってくれたって聞きました。隊長たちも助けに来てくれたって」
「ああ、そうだ」
「だから、次はちゃんと一緒に戦います。俺だけ先に行ったら、隊長も困るだろうし」
「分かってるじゃないか」
シャーロッテは満足そうに微笑んだ。
そして、その拳がキリムの頭に落ちた。
ゴツン!
「痛ってえ!」
「これは命令を破った分だよ」
「話が終わってから殴るんですか!」
「話を聞いてからのほうが、何で殴られたか分かるだろ?」
シャーロッテは悪びれもせずに答えた。
バレルズが横で笑いをこらえている。
「おい、バレルズ! 笑うなよ!」
「だって、オラは殴られてないからな」
「そりゃ、お前はちゃんと仕事をしたからね」
シャーロッテはバレルズの肩を叩いた。
「よく頑張ったよ、バレルズ」
「はい!」
嬉しそうに返事をする友人を見て、キリムも笑った。
シャーロッテは二人をしばらく眺めていたが、やがてキリムに向き直った。
「それと、帰ったらケイトリンにもきちんと話すんだよ」
「母上に?」
「ああ。あの魔法を教えたのはケイトリンだからね」
「……怒るかな?」
「さあねえ」
シャーロッテは楽しそうに笑った。
「生きて帰ってきたんだ。まずは喜んでくれるんじゃないかい?」
果たして母上は喜んでくれるだろうか。隊長の笑顔が、キリムにはどうにも気になった。
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それからしばらくして、領軍は帰還の途についた。
故郷までは二週間以上の道のりだったが、その間にキリムの体調もすっかり戻った。
ただし、シャーロッテから魔力の使用を制限されていたため、できることといえば身体を動かす程度である。
ようやく領地へ戻った頃には、キリムは早く戟を振りたくて仕方がなくなっていた。
帰還した領軍は、人々から大いに歓迎された。
「キリム様! お帰りなさい!」
門を守る兵士から声をかけられ、キリムは元気よく手を振った。
「おう! ただいま!」
バレルズと別れ、キリムは伯爵家の屋敷へ向かった。
その隣にはシャーロッテの姿があった。
領軍を率いた隊長として、戦いの経過と部隊の帰還を伯爵家へ報告するためである。
「隊長、母上にはもう報告が届いてるんですよね?」
「ああ。戦いが終わってから伝令を出してるよ」
「……俺のことも?」
「もちろんさ。敵将を討ち取ったことも、三日間も寝込んだこともね」
「そっちもかあ……」
キリムが渋い顔をすると、シャーロッテは愉快そうに笑った。
「当たり前だろ。伯爵領を守る夫人だし、あんたの母親なんだから」
やがて屋敷に到着すると、玄関ではケイトリンが待っていた。
「母上! ただいま戻りました!」
「お帰りなさい、キリム」
ケイトリンはほっとしたように微笑んだ。
「伝令から報告は聞いていたけれど、元気な顔を見るまでは心配だったわ」
そう言って、近づいてきた息子の顔をじっと見上げた。
十五歳になったキリムは、すでに母よりもずっと背が高い。
肩幅も広くなり、腕も太くなった。
けれど、ケイトリンにとっては、何年たっても自分の息子だ。
「……本当に怪我はないの?」
「大丈夫! どこも痛くありません!」
「そう。それならよかったわ」
ケイトリンはキリムの頬に手を添えた。
そのまま額へ指を移し、そっと魔力を流す。
キリムは慣れた様子で目を閉じた。
「……なるほど」
「どうですか、母上?」
「今は問題なさそうね。ただ、魔力の通りが少し乱れているわ。しばらく無理はしないこと」
「はい!」
元気よく答えた息子を見て、ケイトリンはもう一度微笑んだ。
その後、シャーロッテから戦いの詳しい報告を受けたケイトリンは、改めてキリムへ向き直った。
「それにしても、ずいぶん活躍したそうじゃない。敵の将軍を討ち取ったんですって?」
「そうなんだ! 俺の紅鬼無双で――」
「その魔力暴走について、お話があるのだけれど」
ケイトリンの声は穏やかだった。
キリムの笑顔が止まった。
「……隊長から聞いた?」
「ええ、詳しくね」
後ろを振り返る。
シャーロッテは知らん顔をしていた。
「キリム。私があなたに頭部の強化魔法を教えたとき、何と言ったか覚えている?」
「……強化と治癒を一緒に使うと、魔法が暴走するかもしれないって」
「そうね。覚えていたのね」
「はい」
「それなのに、戦場で使ってしまったの?」
キリムは言葉に詰まった。
「……最初は大丈夫だったんです」
やがて、ぽつりと答えた。
「頭を強化すると、敵の動きがよく見えました。戟も思ったとおりに動かせたし、これならどんな相手にも勝てると思って」
キリムは拳を握った。
「でも、途中から頭が痛くなってきて。それで、治癒魔法を使えばもっと戦えると思ったんです」
「それで?」
「……そこからは、よく覚えてません」
ケイトリンは静かに息を吐いた。
「そうでしょうね」
彼女は息子の額に、もう一度手を当てた。
「魔力で頭の働きを強めるのは、とても繊細なことなの。疲れたからといって、同じ場所へ強い治癒魔法を重ねれば、魔力の働きが乱れることもあるわ」
「はい……」
「しかも、あなたはそれを戦いの最中に続けたのでしょう?」
「はい……」
「自分の意思で魔法を止められなくなったら、どうするつもりだったの?」
キリムは答えられなかった。
実際に、止められなくなったのだ。
それでも敵を倒し続けていたという事実が、今になって少し恐ろしく思えた。
「キリム」
ケイトリンの声が、わずかに震えた。
「三日間、まともに目を覚まさなかったと聞いたとき、私がどれほど心配したか分かる?」
「……母上」
「帰ってこなかったら、どうしようと思ったわ」
キリムは母の顔を見た。
その目に浮かんでいるものを見て、自然と頭が下がった。
「……ごめんなさい」
ケイトリンはしばらく黙っていた。
それから息子を抱き寄せた。
大きくなった身体を、腕いっぱいに抱きしめる。
「……本当に、無事でよかった」
キリムは少し照れくさそうにしながらも、そのまま母に抱かれていた。
しばらくして、ケイトリンが身体を離した。
「さて」
声の調子が変わった。
「それとこれとは別です」
「……え?」
「キリム、ちょっと屈んでくれる?」
「はい?」
言われたとおりに頭を下げると、ケイトリンは軽く拳を握った。
ポコッ。
「……母上?」
「心配させた罰です」
ケイトリンはそう言って、息子の頭を撫でた。
拳骨など、まるで痛くなかった。
けれど、目の前にいる母の顔を見ると、キリムは何も言えなくなった。
「ごめんなさい、母上」
「ええ。もう二度と、無茶はしないでね」
「はい」
ケイトリンは小さく頷いた。
隣ではシャーロッテが声を出して笑っていた。
「はっはっは! よかったじゃないか、キーぼん。二人から一発ずつで済んで!」
「隊長まで……」
「だからね、キリム」
ケイトリンが呼ぶと、キリムはすぐに姿勢を正した。
「今後、あの魔力暴走を起こすような技は使ってはいけません」
「ええっ!」
思わず声が上がった。
「でも、敵将も倒せるほど強いんですよ!」
「自分で制御できないのでしょう?」
「それは……」
「強い魔法でも、使った本人が倒れてしまっては意味がありません。まして、周りの人まで危険にさらすようではね」
キリムは口を閉じた。
バレルズの盾が頭に浮かんだ。
もし、あいつがいなかったら。
自分が死んでいたかもしれないし、バレルズも危なかったかもしれない。
「……分かりました」
キリムは渋々頷いた。
「もう使いません」
「約束よ」
「はい、母上」
ケイトリンはようやく満足そうに微笑んだ。
シャーロッテも腕を組んで頷いている。
そしてケイトリンは呆れたようにつぶやいた。
「まったく誰に似たのかしら。こんなに無茶ばかりして」
「お前によく似た息子だよ」
シャーロッテが、間髪を入れずに答えた。
ケイトリンの動きが止まった。
「……シャーロッテ?」
「いやあ、昔を思い出すねえ」
「何のことかしら?」
「忘れたのかい?」
シャーロッテはニヤニヤしていた。
ケイトリンはにっこりと笑った。
「シャーロッテ。少しお話があるのだけれど」
「おっと、そうだった。あたしはまだ用事があったんだ」
シャーロッテは慌てて踵を返した。
「じゃあね、キーぼん! ゆっくり休みなよ!」
「は、はい。隊長、お疲れさまでした!」
逃げるように去っていくシャーロッテを見送り、キリムは首を傾げた。
「母上も昔、無茶したんですか?」
「さあ、どうだったかしら」
「隊長、何か知ってそうだったけど」
「昔のことよ。それより、キリム」
「はい?」
「お父様にも、きちんとご報告するのですよ」
キリムは少しだけ表情を曇らせた。
シャーロッテ、ケイトリン。
これで二人から拳骨をもらってしまった。
父カルターまで加わったら、どうなってしまうのだろう。
「……父上も怒ってますか?」
「どうかしらね。あなたの活躍を聞いて、とても喜んでいたけれど」
「本当ですか!」
「ええ。それはもう、手紙を読むのが大変なくらい」
ケイトリンはくすりと笑った。
「でも、無茶をしたことについては、私も伝えてありますからね」
「……そうですか」
キリムは頭を撫でた。
父の拳骨は、母やシャーロッテのものより、ずっと痛そうだった。
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それから数日後。
屋敷の庭には、久しぶりに戟を振るうキリムの姿があった。
大きな刃を備えた長柄の武器が、風を切って動く。
突き、薙ぎ、払い、そして石突きでの打撃。
剣とは違い、長い間合いを生かして戦える戟は、今のキリムによく馴染んでいた。
もちろん、魔法は使っていない。
使わなくても、十分な力と速さがある。
キリムは何度か戟を振ったあと、ふと手を止めた。
頭に浮かんだのは、国境での戦いだった。
自分が敵将を討ち取ったことは間違いない。
だが、その瞬間の記憶はない。
どうやって間合いを詰め、どんな攻撃で倒したのかも分からなかった。
「……せっかく倒したのになあ」
キリムは残念そうにつぶやいた。
相手がどんな技を使ったのか、どれほど強かったのか。そんなことさえ思い出せない。
勝ったのに、戦いのことを何も語れない。
それがどうにも悔しかった。
「やっぱり、ちゃんと自分で戦わねえとな」
戟を構え直す。
今度は少しゆっくりと、刃の動きを確かめながら振った。
そのときだった。
屋敷の方から、聞き慣れた声が響いた。
「キリム!」
キリムの手が止まる。
振り返ると、庭へ続く道に、大柄な男が立っていた。
「父上!」
カルター・ブラドリー。
王国騎士団長であり、キリムが何よりも尊敬する父だった。
「おお、キリム! 元気そうじゃないか!」
「父上! お帰りなさい!」
キリムは戟を置いて駆け寄った。
カルターは両腕を広げ、飛び込んできた息子を力強く抱きしめた。
「はっはっは! ますます立派になったな!」
「父上こそ、お元気そうで!」
「うむ! それにしても、まさかお前が敵将を討ち取るとはな!」
カルターは息子の肩を叩いた。
その顔には、隠しきれない喜びが浮かんでいる。
「よくやったぞ、キリム!」
「ありがとうございます、父上!」
尊敬する父から褒められ、キリムの胸がいっぱいになった。
母やシャーロッテに叱られたことも、今だけはすっかり頭から消えていた。
「父上ばかりじゃないよ。僕も話を聞いて驚いた」
カルターの後ろから、穏やかな声がした。
キリムは顔を上げた。
そこに立っていたのは、兄セリウムだった。
「兄上!」
「久しぶりだね、キリム」
セリウムは微笑んだ。
「ずいぶん逞しくなったじゃないか」
「へへっ! 兄上がいない間も、ずっと鍛えてましたから!」
「そのようだね」
セリウムの視線が、庭に置かれた戟へ向かった。
「今は、あれを使っているのかい?」
「はい! 剣も使いますけど、今は戟のほうが得意なんです!」
「そうか。あとで見せてもらおうかな」
「もちろんです!」
キリムは嬉しそうに笑った。
国境での戦いも、新しく覚えた武器の扱いも、兄に話したいことは山ほどある。
そして何より、今の自分の力が兄にどこまで通じるのか。
それを試してみたくて仕方がなかった。
「まあ、あなた! セリウムも!」
屋敷からケイトリンが顔を出した。
「お帰りなさい。二人とも無事に着いてよかったわ」
「ただいま、ケイトリン!」
カルターが笑いながら妻へ歩み寄った。
セリウムも母のもとへ進み、丁寧に頭を下げる。
「ただいま戻りました、母上」
「お帰りなさい、セリウム。本当に久しぶりね」
ケイトリンは息子の顔をじっと見つめた。
「あなたも、ずいぶん大人になったのね」
「もう二十一ですから」
「そうね。何年も会わないでいると、驚いてしまうわ」
その言葉に、セリウムは申し訳なさそうに微笑んだ。
「すみません、母上」
「いいのよ。元気でいてくれたなら」
カルターはそんな妻と長男を眺め、満足そうに頷いた。
「さて、せっかく揃ったのだ。しばらくは家族でゆっくり過ごそうではないか!」
キリムも笑顔で頷いた。
久しぶりに、ブラドリー家の四人が顔を揃えたのだった。
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その日の夕食は、いつもよりずいぶん賑やかなものになった。
久しぶりに帰郷したセリウムの王都での暮らしや、キリムの領軍での生活。話題は尽きず、食事が終わっても四人は席を離れようとしなかった。
「それにしても、キリムが敵将を討ち取るとはなあ!」
カルターはすこぶる上機嫌だった。
「王都で報告を聞いたときは、耳を疑ったぞ! 十五歳で敵将を討つなど、そうそうできることではない!」
「ありがとうございます、父上!」
「しかし、シャーロッテからの報告には、勝手に隊から飛び出したとも書かれていたな」
「……はい」
キリムは思わず背筋を伸ばした。
カルターは息子をしばらく見つめ、それから大きく頷いた。
「自分の強さを過信してはならん。お前を助けるために、仲間が危険を冒したことは忘れるなよ」
「はい。隊長にも、きつく叱られました」
「ならばよし!」
カルターは豪快に笑った。
「ともかく、よくやった! 父として誇らしいぞ!」
「はい!」
父の笑顔につられるように、キリムも笑った。
「それにしても、立派になったものねえ」
ケイトリンは兄弟を交互に眺めながら、しみじみと言った。
「セリウムも、もう二十一歳でしょう? そろそろ結婚のことも考えないとね」
「おっ、そうだな!」
カルターが大きく頷く。
「これまで何度か縁談もあったというのに、お前は剣だの近衛の仕事だのと言って、断ってばかりだったからな」
「すみません、父上」
セリウムは苦笑した。
「剣の修行も、近衛での仕事も、ようやく面白くなってきたところだったので」
「まったく。あなたたち兄弟は、剣のこととなると……」
ケイトリンが呆れたように息を吐く。
その横でキリムが頷いた。
「分かる! 剣も面白いから!」
「キリム。別に褒めているわけではありませんよ」
「……はい、母上」
家族の笑い声が広がった。
そんな中、セリウムが少し姿勢を正した。
「実は、父上、母上。今日はその関係でお話があります」
「ほう?」
「僕にも、婚約を申し込みたいと思っている女性がいるんです」
「まあ!」
ケイトリンの顔が明るくなった。
「本当なの、セリウム!」
「はい」
「なんだ! それなら早く言わんか!」
カルターも嬉しそうに身を乗り出した。
「それで、どこの令嬢だ?」
「ハイリー・ビットーリ伯爵令嬢です」
「……ハイリー?」
カルターが一瞬、目を丸くした。
「あのじゃじゃ馬娘か」
「父上!」
セリウムは少し不満そうな顔をした。
「快活なだけですよ。何か問題でもありますか?」
「いや、ビットーリ伯爵か……家格は問題ないが……」
カルターは顎に手を当てた。
「……まあ良い。お前が選んだ相手だ。まずは話を進めてみるといい」
「ありがとうございます、父上」
セリウムはほっとしたように微笑んだ。
キリムは兄の顔を見ていた。
父や母と話しているときとは、少し違う表情だった。
「兄上、そのハイリー様って、そんなに強いんですか?」
「……どうしてそう思うんだい?」
「父上がじゃじゃ馬って言ってたから」
セリウムが吹き出した。
「ははっ! そういう意味じゃないよ、キリム」
「そうなんですか?」
「ああ。でも、気の強いところはあるかな」
「へえ!」
キリムは感心したように頷いた。
兄が選んだ女性なのだから、きっと大した人物なのだろう。
「母上にもお願いがあるんです」
セリウムは改めてケイトリンへ向き直った。
「正式に婚約の話を進める前に、一度王都へ来て、ハイリーに会っていただけませんか?」
「ええ、もちろんよ」
ケイトリンは嬉しそうに答えた。
「でも、王都の社交からはもう五年も離れてしまっているから、少し心配ね」
「母上なら大丈夫ですよ」
「ありがとう、セリウム」
ケイトリンは微笑み、それからちらりとキリムを見た。
キリムはすぐに母の視線に気づいた。
「母上、俺は一人でも大丈夫ですよ」
「あら」
「もう十五歳ですし、領軍には隊長やバレルズがいますから。母上は王都に行ってきてください!」
少し胸を張って答える息子を見て、ケイトリンは笑った。
「そうね。あなたも、もう子供ではないものね」
「うむ。だがキリム」
カルターが口を挟んだ。
「お前も王都へ来てもらうことになるぞ」
「……はい?」
キリムが父を見た。
「俺もですか?」
「ああ。実は先ほどの戦功に関して、もう一つ話がある」
カルターは傍らに置いていた書状を取り上げた。
「今回、敵将を討ち取ったお前の功績が、王国軍でも高く評価された。軍閥を取りまとめておられるアーミッド侯爵閣下が、お前を将軍位に推薦してくださったのだ。そして、その推薦が認められたのだ。」
「……将軍!」
キリムが目を見開いた。
「そうだ。将軍位のうち、最も下の位ではあるがな。十五歳のお前にとっては、破格の処遇だぞ」
「俺が……将軍に!」
「うむ!」
「本当ですか、父上!」
キリムは勢いよく立ち上がった。
「やった! 俺が将軍だ!」
「キリム、椅子が倒れるわよ」
「あっ、すみません、母上!」
キリムは慌てて椅子を直した。
だが、嬉しさは隠しようがなかった。
将軍。
領軍では隊長の指揮に従ってきた自分が、いつかは兵を率いる立場になる。
しかも、それが思っていたよりずっと早く訪れたのだ。
「父上! それなら、次の戦には俺も兵を率いて出られるんですか!」
「まあ、落ち着け。話は最後まで聞きなさい」
カルターは笑いながら、息子を座らせた。
「今回認められたのは、暫定的な将軍位だ。正式な任官には、条件が付けられている」
「条件ですか?」
「ああ。アーミッド侯爵閣下の父君であり、王国軍部の頂点に立つアーミッド軍務卿閣下からのお達しだ」
軍務卿。
その名を聞いたキリムは、自然と背筋を伸ばした。
領軍で五年間を過ごしてきた彼にとって、軍務卿がどれほど高い地位にある人物なのかは、よく分かっていた。
「正式な将軍位を得るためには、王都の王立学園を卒業すること。それが条件だ」
「…………」
キリムは父の顔を見つめた。
「……王立学園?」
「そうだ」
「……あの、貴族のための学園ですよね?」
「うむ」
「……俺が?」
「そうだ」
しばらく沈黙が続いた。
「父上!」
とうとうキリムが声を上げた。
「俺は軍人になりたいんです! 学園なんかに行ってたら、戦場に出られないじゃないですか!」
「それはそうだろうな」
「だったら、将軍になるためには領軍で鍛えていたほうが……!」
「キリム」
カルターの声が、少し低くなった。
キリムは口を閉じた。
「これは軍務卿閣下から示された、正式任官の条件だ。単にお前を学園へ送りたいという話ではない」
「……はい」
「将軍ともなれば、王国の貴族たちと交渉し、軍をまとめなければならん。戦場で武器を振るうだけでは務まらんのだ」
キリムは唇を結んだ。
頭では分かる。
だが、どうにも納得できなかった。
やっと戦場に立ち、実際に軍隊の戦いというものを知ったところなのだ。
これからもっと経験を積みたい。
シャーロッテのもとで、もっと軍のことを学びたい。
それなのに、今度は貴族のための学園だという。
「……何年、通うんですか?」
「十六歳で入学して二年間だ」
「二年も……」
キリムは天井を見上げた。
長い。
あまりにも長い。
だが、目の前には軍務卿の名を記した書状がある。
父の気まぐれでもなければ、母の勧めでもない。
自分が軍人として進むために与えられた命令なのだ。
キリムは大きく息を吐いた。
「……分かりました」
「うむ」
「王都の王立学園へ行きます。軍務卿閣下のご命令ですから」
カルターは満足そうに頷いた。
「よく言った。それでこそ我が息子だ!」
「でも父上」
「なんだ?」
「二年間、鍛錬までやめろとは書いてありませんよね?」
「はっはっは! もちろんだとも!」
「だったら大丈夫です! 学園に行っても、しっかり鍛えます!」
キリムは力強く拳を握った。
「二年たったら、必ず立派な将軍になってみせます!」
「その意気だ!」
カルターは嬉しそうに笑った。
セリウムも弟を見て微笑んでいる。
「それなら、僕たちも王都で会えるね」
「はい、兄上!」
「ただし、学園には剣の稽古以外にも、いろいろあるよ」
「……いろいろ?」
「歴史や法律、礼儀作法。それから舞踏もね」
「……舞踏?」
キリムの眉間に皺が寄った。
「それって、戦場で役に立つんですか?」
セリウムが笑い、ケイトリンも口元を押さえた。
「キリム。将軍になるのでしょう? 貴族の方々とお付き合いすることも、大切なお仕事なのよ」
「……そういうものですか」
キリムは腕を組んだ。
どうにも先が思いやられる。
将軍になれると喜んだはずなのに、いつの間にか学園へ通う話になっている。
だが、軍務卿の命令である以上、逃げるわけにはいかなかった。
---
家族の話が一段落した頃、セリウムがキリムに声をかけた。
「ところでキリム。領地で五年間、ずっと鍛えていたんだろう?」
「はい!」
「だったら、どれくらい強くなったのか見せてもらおうかな」
キリムの顔がぱっと明るくなった。
「兄上! 相手をしてくれるんですか!」
「もちろん。僕も楽しみにしていたんだ」
「やります!」
返事は即答だった。
先ほどまでの学園への不満など、吹き飛んでしまったらしい。
そんな弟を見て、セリウムは楽しそうに笑った。
「じゃあ、明日。庭でやろう」
「はい!」
カルターが大きく笑った。
「はっはっは! こいつは俺も見てみたいな!」
「あなた。怪我だけはさせないでくださいね」
ケイトリンが釘を刺す。
「うむ、分かっているとも!」
もっとも、カルター自身が誰よりも楽しそうだった。
---
翌日。
ブラドリー家の庭で、二人の兄弟が向かい合っていた。
キリムの手には木剣。
対するセリウムも、同じ木剣を構えている。
「それじゃあ、始めようか。雲も出てないみたいだしね」
「…はい!」
キリムは大きく息を吸った。
五年前、何度挑んでも勝てなかった兄。
あれから毎日、身体を鍛えてきた。
魔物と戦い、盗賊と戦い、ついには戦場にも立った。
今なら、きっと。
「行きます!」
キリムが地面を蹴った。
「紅蓮三連斬!」
上段からの一撃。
素早く切り返して横薙ぎ。
そして、最後に下から上へと斬り上げる。
五年間、何度となく繰り返してきた三連続の攻撃。
カンッ! カンッ! カンッ!
三度、乾いた音が響いた。
セリウムはほとんどその場を動かず、すべてを防いでいた。
「……えっ?」
キリムが目を丸くした。
「いい技だね」
セリウムは微笑んだ。
「だけど、もう少し工夫が必要かな」
返す木剣が、キリムの肩を軽く叩いた。
「一本」
「……くそっ!」
キリムは飛び退いた。
バレルズにも防がれたことのある技だ。
兄に通じないことも、考えていなかったわけではない。
だが、こうも簡単に防がれるとは思わなかった。
「もう一度お願いします!」
「いいよ」
再び木剣を構える。
今度は技に頼らず、力と速さで押し込もうとした。
だが、振り下ろせばかわされ、横へ薙げば受け流される。
踏み込んだところで、逆に懐へ入られた。
気がつけば、セリウムの木剣が胸元に触れていた。
「……まただ」
キリムが悔しそうにつぶやく。
セリウムは木剣を下ろし、弟の身体を眺めた。
「本当に強くなったね、キリム」
「でも、兄上には全然当たりません」
「力も速さも大したものだよ。ただ、今のお前には、少し剣が窮屈そうだ」
「……分かりますか?」
「うん。肩も胸もずいぶん逞しくなったからね。昔と同じように剣を振ろうとして、身体が邪魔になっているところがある」
キリムは自分の胸元を見下ろした。
確かに、細かな剣の動きには、以前よりやりづらさを感じていた。
「だから最近は、戟を使ってるんです」
「ああ、昨日振り回していたアレか」
「はい! ちょっと待っててください!」
キリムは庭の端へ駆けていった。
戻ってきた手には、木製の長柄武器が握られている。
「戦場でもこれで!」
「へえ……」
セリウムが興味深そうに眺めた。
「大きな武器だね」
「俺には、こっちのほうが合ってるみたいなんです!」
「そうか。じゃあ、そちらの腕前も見せてもらおうかな」
「はい!」
キリムは戟を構えた。
剣とは違う。
長い柄を使い、身体全体で振り回せる。
腕の太さも、背中の力も、存分に使える武器だった。
「行きます!」
キリムが踏み込んだ。
鋭い突きが、セリウムへ伸びる。
セリウムは横へかわした。
だが、キリムはすぐに戟を引き戻し、そのまま大きく薙ぎ払った。
「おっと!」
セリウムが後ろへ跳んだ。
さらに踏み込む。
突き、払い、振り下ろし。
今度はセリウムも、先ほどのようにその場で受け続けるわけにはいかなかった。
「ほう!」
見守っていたカルターが声を上げる。
「セリウムを下がらせるとはな」
キリムの顔が明るくなった。
(いける!)
兄が下がっている。
あの兄が、自分の攻撃を避けている。
キリムはさらに踏み込んだ。
だが、そのときだった。
セリウムがふっと姿勢を低くした。
戟がセリウムの頭上を通り過ぎる。
次の瞬間、長い柄の内側へ入り込まれていた。
「しまっ――」
トン。
木剣が、キリムの胸元を叩いた。
「……一本」
セリウムは穏やかに笑っていた。
キリムはしばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと戟を下ろした。
「……兄上、強すぎません?」
「そうかな?」
「そうですよ!」
思わず声が大きくなった。
「俺、五年間ずっと鍛えてたんですよ! なのに、一本も取れねえなんて!」
「僕も五年間、遊んでいたわけじゃないからね」
セリウムは涼しい顔で答えた。
キリムは悔しそうに口を尖らせたが、やがて笑った。
「……そうですよね!」
兄は昔から、自分よりずっと強かった。
そして自分が鍛えている間も、兄は王都で剣を磨き続けていたのだ。
「でも、まだ終わりじゃありません!」
「おや?」
キリムは戟を握り直した。
「魔法があります!」
「キリム」
すぐにケイトリンの声が飛んできた。
「身体の強化は構いません。でも、魔力暴走を起こしたときのような使い方は駄目ですよ」
「……はい、母上」
キリムは少し残念そうに答えた。
セリウムが興味深そうに母を見る。
「例の魔力暴走ですか?」
「そう。戦場で意識を失った原因になったものよ」
「なるほど……」
セリウムは少し考え、キリムへ向き直った。
「キリム。そのときのことは覚えているのかい?」
「いいえ。途中から全然」
「そうか」
「敵将を倒したらしいんですけど、どうやって倒したのかも分からないんです」
キリムは悔しそうに戟を見下ろした。
「せっかく強い相手と戦えたのに、何も覚えてないなんて……」
セリウムは弟をしばらく見つめていた。
「……母上。少しだけ、試せませんか?」
「セリウム?」
「危険なのは分かっています。ただ、僕もキリムがどんな状態になったのか、気になります」
ケイトリンはすぐには答えなかった。
「魔力暴走は、本人の意思で止められなくなることがあるのよ」
「はい。だから、母上と父上に立ち会っていただきたいんです」
カルターも頷いた。
「うむ。何かあれば、俺たちで止めよう」
ケイトリンは困ったように眉を寄せた。
「……シャーロッテにも確認したいわね。あの子の暴走を間近で見ていたのは、あの人だから」
結局、その日の稽古はそこまでとなった。
そして翌日、シャーロッテが伯爵家へ呼ばれることになった。
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「……またあれを使わせるって?」
翌日、庭に現れたシャーロッテは、呆れた顔でケイトリンを見た。
「本気かい?」
「ええ。ただし、ほんの短い時間だけよ。無理に続けさせるつもりはないわ」
「……あんた、本当に分かって言ってるんだろうね?」
「ええ。だからこそ、私が見ておきたいの」
シャーロッテはしばらくケイトリンを見つめ、ため息をついた。
「まったく。親子揃って無茶なことを考えるねえ」
「あなたにだけは言われたくないわ」
ケイトリンが笑顔で答えた。
シャーロッテは肩をすくめる。
「分かったよ。あたしも見ておくさ。少しでもおかしくなったら、すぐに止めるからね」
「ありがとう」
キリムは二人の話を聞きながら、胸を躍らせていた。
母に禁じられた必殺技。
あの紅鬼無双を、もう一度試せるのだ。
しかも、相手は兄セリウム。
これ以上の相手はいなかった。
「キリム」
ケイトリンが呼んだ。
「今回は特別です。危険だと思ったら、すぐに中止します。魔力を使い切るようなことは、絶対にしてはいけません」
「はい!」
「それと、許可なく治癒魔法を重ねないこと。いいですね?」
「分かりました!」
キリムは力強く頷いた。
セリウムが木剣を構える。
「準備はいいかい?」
「はい、兄上!」
キリムも戟を構えた。
身体に魔力を巡らせる。
腕へ、脚へ、そして頭へ。
見慣れた庭の景色が、少しずつ変わっていく。
風に揺れる木の葉。
兄の剣先。
足元の小さな動き。
それらが、いつもよりはっきりと見えた。
「行きます!」
キリムが地面を蹴った。
速い。
昨日とは比べものにならない速さだった。
戟がセリウムへ伸びる。
カンッ!
木剣が柄を弾いた。
だが、キリムはすぐに次の攻撃へ移る。
突き。
横薙ぎ。
大きく踏み込んで、さらに振り下ろす。
セリウムが下がった。
「……なるほど!」
兄の顔に、初めてはっきりとした驚きが浮かんだ。
キリムの胸が高鳴る。
見える。
兄の剣が、今までよりずっとよく見える。
次にどう動くかも、何となく分かる。
(これなら!)
さらに攻める。
だが、セリウムはなかなか崩れなかった。
避け、受け流し、時にはわずかな動きでキリムの攻撃を外してしまう。
そのうち、頭の奥に熱がこもり始めた。
強化を続けているせいだ。
あの戦場と同じ感覚。
だが、今度は無理をしてはいけない。
そう思った瞬間、セリウムの木剣が目の前に迫った。
「っ!」
キリムはとっさにかわした。
もっと速く。
もっと強く。
兄の動きに追いつきたい。
その思いに引っ張られるように、魔力が頭へ集中した。
そして、自然に治癒魔法を使っていた。
もっと鋭く。
もっと…
「キリム!」
ケイトリンの声がした。
「そこまで!」
だが、キリムは返事をしなかった。
代わりに、猛烈な勢いで戟が振り下ろされた。
セリウムが大きく跳び退く。
地面に戟の先が突き刺さり、土が跳ね上がった。
「……!」
セリウムの表情が変わった。
キリムの目から、先ほどまでの生き生きとした光が消えていた。
呼びかけても答えない。
ただ、目の前にいる兄を追い、攻撃を繰り返す。
横薙ぎ。
突き。
振り下ろし。
その速さは、先ほどまでの比ではなかった。
「セリウム!」
ケイトリンが叫んだ。
「分かっています!」
セリウムは短く答えた。
キリムの戟が迫る。
速い。
まともに受ければ、木剣ごと吹き飛ばされるだろう。
セリウムは剣を引き、大きく横へ跳んだ。
キリムが追う。
その瞬間、セリウムは急に足を止めた。
キリムの戟が振り下ろされる。
だが、そこにはもうセリウムはいなかった。
わずかに身体をひねり、攻撃を外したのだ。
キリムの戟が地面を打つ。
セリウムは一歩踏み込み、木剣で柄を押さえた。
さらに、足を払う。
ドサッ!
キリムの巨体が地面に転がった。
戟が手から離れる。
「そこまで!」
勝負を見守っていたカルターの声が響いた。
セリウムの木剣が、弟の喉元で止まった。
倒れた身体が、なおも起き上がろうとする。
「キリム!」
ケイトリンが駆け寄り、キリムの額に手を当てた。
その手から魔力が流れ込む。
ケイトリンは目を閉じ、しばらく集中していたが、やがてキリムの身体から力が抜けた。
「……もう大丈夫よ」
キリムは何度か瞬きをした。
「……あれ?」
目の前には兄の木剣。
そして、自分は地面に倒れている。
「……負けた?」
「ああ」
セリウムが頷いた。
「僕の勝ちだ」
「……くっそお!」
キリムは拳を握りしめた。
だが、すぐに動きが止まった。
「……あれ?」
「どうした?」
「……どうやって負けたんですか?」
セリウムは木剣を下ろした。
「覚えていないのかい?」
「……はい」
キリムはがっくりと肩を落とした。
「またかよ……」
セリウムはそんな弟を見て、小さく笑った。
「キリム。お前の速さは大したものだったよ」
「……本当ですか?」
「ああ。正面から受け止めるのは無理だった」
「じゃあ、どうやって……」
「簡単だよ」
セリウムは木剣を構え、右へ一歩動いてみせた。
「僕が右へ行くと、お前も右へ来た」
今度は左へ動く。
「左へ行けば、左へ来る」
「……はい」
「だから、追いかけてくるところを避けただけさ」
キリムは兄の動きを目で追った。
セリウムは、もう一度木剣を振る真似をした。
「お前はものすごく速く動ける。でも、どこへ動くかを決めていたのは僕だったんだ」
「……あ」
キリムは目を見開いた。
何かが、頭の中でつながった。
夢で見た、別の世界のゲーム。
強敵が追い詰められたとき、突然動きが速くなり、猛烈な攻撃を繰り返すことがあった。
発狂モード。
最初は手も足も出ないほど恐ろしい。
だが、何度も戦って動きの癖を覚えると、急に倒しやすくなる。
(……俺、あれになってたのか)
キリムは何とも言えない顔になった。
強くなったつもりが、ただ暴れ回る敵になっていたとは。
「だからね、キリム」
セリウムが微笑んだ。
「意識がなければ、弱いよ」
キリムはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
確かに、どんなに速くても、相手の動きに振り回されるだけでは勝てない。
それに、何より悔しいのは、自分がどう戦ったのか覚えていないことだった。
「……兄上」
「何だい?」
「もう一回、お願いします」
セリウムが目を丸くした。
「まだやるのかい?」
「はい!」
キリムは勢いよく立ち上がった。
「今度は魔法なしで! ちゃんと自分で考えて戦います!」
セリウムはしばらく弟を見つめ、それから楽しそうに笑った。
「……いいよ。でも、少し休んでからにしよう」
「はい!」
ケイトリンがようやく安堵の息を吐いた。
「まったく、もう……。今後は魔力暴走を起こすような使い方は絶対に禁止ですからね」
「はい、母上!」
今度はキリムも素直に頷いた。
シャーロッテが腕を組み、呆れたように笑った。
「やれやれ。ようやく分かったようだね、キーぼん」
「はい、隊長!」
「それならよし!」
カルターが大きな声で笑った。
「はっはっは! それにしても、二人とも見事だったぞ!」
「あなたは少し静かにしてください!」
ケイトリンに叱られ、カルターはますます楽しそうに笑った。
そんな家族を見て、キリムも笑った。
五年間。
領軍で鍛え、実際に戦場にも立った。
それでも、兄にはまだ勝てない。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
むしろ、次はどう戦おうかと考えるだけで、胸が躍る。
キリムは地面に落ちた戟を拾い上げた。
今度は、どんな攻撃で勝つか。
どうやって兄の剣をかわすか。
そんなことを、自分の頭で考えながら。
「兄上! 次こそ一本取りますからね!」
「楽しみにしているよ、キリム」
セリウムは穏やかに笑った。
キリムも笑い返した。
王都の学園へ行くことは、まだ少し気に入らない。
だが、軍人として生きるためには、必要なことなのだろう。
それなら、やるしかない。
学園で何を学ぶのかは、まだよく分からないけれど。
少なくとも、鍛錬をやめるつもりだけはなかった。




