6話 キリムの初陣
キリム・ブラドリーが十五歳になった。
その身体はさらに大きく成長し、今では領軍の兵士たちの中に混じっても、ひときわ目立つほどになっていた。
そんなキリムが、最近になって新しい武器を手に入れた。
戟である。
槍の穂先に、左右へ張り出した刃を備えた長柄の武器だ。
夢で見たゲームの中で、幾千もの敵をなぎ倒していた武将が使っていたものである。
キリムはその姿に憧れ、鍛冶師に何度も絵を描いて説明し、ようやく一本の戟を作ってもらったのだった。
「どうだ! バレルズ!」
訓練場で戟を構えたキリムが、得意そうに胸を張った。
「おおっ! でっかい槍だな!」
「槍じゃねえ! 戟だ!」
「何が違うんだ?」
「見ろよ、この刃! 突くだけじゃなくて斬れるし、引っ掛けることもできるんだぞ!」
キリムは戟を振り回した。
重い刃が風を切り、唸るような音を立てる。
「すげえな!」
「だろ!」
キリムは満足そうに笑った。
馬上で長い武器を扱うなら、剣よりも槍のほうが都合がいい。
さらに戟なら、突きも払いもできる。
何より格好いい。
キリムにとって、最後の理由は特に重要だった。
「で、必殺技はできたのか?」
バレルズが尋ねた。
「…………」
キリムは黙り込んだ。
「まだなのか?」
「うるせえ! 今考えてるんだよ!」
槍を使い始めてから一年。
結局、納得のいく必殺技は一つも完成していなかった。
以前の紅蓮三連斬では物足りない。
もっと派手で、もっと強くて、誰もが驚くような技が欲しい。
夢の中のゲームには、そんな技がいくらでもあった。
何十人もの敵をまとめて吹き飛ばし、巨大な怪物さえ一撃で倒してしまう。
そんな超必殺技だ。
「くそっ! 何かいい方法はねえかなあ……」
キリムは戟を肩に担ぎ、腕を組んだ。
そのとき、ふと思いついた。
「……そうだ! 母上に聞いてみよう!」
---
「母上! 相談があります!」
屋敷に戻ったキリムは、母ケイトリンの部屋を訪ねた。
「あら、キリム。どうしたの?」
「もっと頭をよくする魔法ってありませんか?」
その言葉に、ケイトリンは目を丸くした。
剣や槍の稽古ばかりしている息子が、自分から頭をよくしたいと言い出したのである。
「まあ! ようやく勉学にも興味が出てきたのね!」
「いえ、勉強じゃなくて必殺技です!」
「…………」
「今までより、もっとすごい必殺技を考えたいんです!」
ケイトリンは静かに目を閉じた。
期待した自分が間違っていたらしい。
「……それで、どうして魔法なの?」
「身体強化魔法って、筋肉を強くするじゃないですか。だったら頭も強くできるんじゃないかと思って」
「頭を強く……?」
「はい! 頭の働きを何倍にもすれば、すげえ技を思いつくんじゃないかと!」
ケイトリンは少し考え込んだ。
発想はともかく、魔法についての疑問としては悪くない。
「頭の働きがよくなるとは限りませんが、感覚を鋭くしたり、反応を速くしたりすることはできますよ」
「本当ですか!」
「ええ。ただし、普通の身体強化よりも繊細な魔力の操作が必要になります」
「俺にもできますか?」
「そうね……。少し試してみましょうか」
ケイトリンは机の上にあった小さな布袋を手に取った。
「まずは、頭に魔力を集めてごらんなさい。腕や脚を強化するときと同じですが、ほんの少しずつですよ」
「はい!」
キリムは目を閉じた。
身体強化魔法は、五年間の鍛錬でずいぶん上達している。
全身を一度に強化するだけでなく、必要な部分へ魔力を集中させることもできるようになっていた。
キリムは頭に意識を向け、ゆっくりと魔力を流し込んでいく。
しばらくすると、周囲の音が妙にはっきりと聞こえ始めた。
窓の外の鳥の声。
廊下を歩く使用人の足音。
そして、目の前にいる母の衣擦れの音まで。
「……おおっ!」
「どうかしら?」
「すげえ! 母上の声がいつもよりはっきり聞こえます!」
「それは普段からちゃんと聞いてほしいものね」
ケイトリンは苦笑した。
「では、これを受け取ってごらんなさい」
そう言って、小さな布袋を軽く放った。
キリムは難なく受け止めた。
「もう一度いきますよ」
今度は少し速く。
さらに、投げる方向を変えてみる。
だが、キリムはそのすべてを受け止めた。
「すげえ! 動きがよく見える!」
キリムは興奮していた。
母が手を動かす瞬間から、布袋の飛ぶ方向が分かる。
普通なら反応が遅れるような速さでも、余裕を持って手を伸ばせるのだ。
「母上! もっと速く!」
「あらあら、調子に乗らないの」
ケイトリンは笑いながら、何度か布袋を投げてやった。
そのたびにキリムは嬉しそうに受け止めた。
しかし、しばらくすると。
「……あれ?」
キリムは額を押さえた。
「どうしたの?」
「なんか、頭が重いです」
「使いすぎね。いったん魔法を止めなさい」
「はい……」
キリムが魔力を解くと、周囲の音は元に戻った。
しかし、頭の奥に鈍い疲れが残っている。
まるで一日中難しい本を読んでいたような感覚だった。
「なるほど……頭の強化って疲れるんですね」
「そうなの。身体と違って、頭は疲れに気づきにくいこともありますからね」
「じゃあ、治癒魔法を使えばいいんじゃないですか?」
「ええ。強化を止めた後なら、疲労を和らげることもできますよ」
キリムはさっそく頭に治癒魔法をかけてみた。
淡い光が広がる。
しばらくすると、頭の重さが薄れていった。
「おおっ! 治った!」
「ふふ、よかったわね」
「すごいですよ、母上! これなら何度でも使えそうです!」
「ああ、でもキリム。一つだけ気をつけなさい」
「はい?」
「治しながら強化魔法を使ってはいけませんよ。治癒の力が強くなりすぎると、魔力が暴走してしまうことがあるんですから」
「暴走?」
「ええ。身体が勝手に動いたり、魔法が止められなくなったり。とんでもないことになる場合もあるんですよ」
「へえ……」
「まあ、よほど無理な使い方をしなければ大丈夫ですけどね。魔法は自分の限界を知って使うことが大切なの」
「なるほど!」
キリムは大きくうなずいた。
強化魔法を使えば、反応が速くなる。
疲れたら治癒魔法で回復できる。
ただし、同時に使いすぎると暴走する。
つまり、暴走させなければいいのだ。
簡単な話ではないか。
「ありがとうございます、母上!」
「ふふ。どういたしまして」
ケイトリンは嬉しそうに微笑んだ。
息子が魔法の新しい使い方に興味を持ってくれたのは、母としても喜ばしいことだった。
もっとも、その息子が何を考えているのかまでは、分かっていなかった。
---
「決めたぞ、バレルズ!」
翌日、キリムは訓練場でバレルズを呼び止めた。
「何を?」
「超必殺技だ!」
「おおっ! ついにできたのか!」
「ああ! その名も、紅鬼無双!」
キリムは戟を掲げた。
「……こうきむそう?」
「そうだ! 紅い鬼が無双するって意味だ!」
「鬼ってなんだ?」
「角の生えた、すっげえ強いヤツだよ!」
「……牛?」
「違う!」
「でも、牛も角があるぞ」
「もっと恐ろしくて、強いヤツなんだよ!」
「魔物か?」
「まあ、そんな感じだ!」
バレルズはしばらく考え込んだ。
「じゃあ、紅牛無双でもよくないか?」
「よくねえよ! 俺が牛みたいじゃねーか!」
キリムは勢いよく否定した。
「いいか! 紅鬼無双だ! 絶対に間違えるなよ!」
「分かったよ、キーぼん」
バレルズはしぶしぶうなずいた。
「で、どんな技なんだ?」
「頭も身体も魔法で強化して、ものすごい速さで敵を倒すんだ!」
「おおっ!」
「疲れたら治癒魔法で回復する。これならずっと戦えるだろ!」
「すげえな!」
「だろ!」
キリムは得意そうに胸を張った。
もちろん、母に教わった注意も覚えている。
魔法を暴走させてはいけない。
そのくらい、自分でも気をつけるつもりだった。
「次の実戦が楽しみだ!」
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その頃、南方の国境では不穏な動きが続いていた。
隣国ナンセーブが、南方の大きな都市を攻略したという。
長く戦争を続けていたナンセーブは、その勝利の勢いに乗り、今度はセントーン王国の国境へ兵を進めてきたのだった。
国境の砦が襲われ、周辺の村からも住民が逃げ出している。
王国は国境守備隊の増強を決定し、各地の領軍にも出兵を命じた。
シャーロッテ率いる領軍にも、その命令が届いた。
「戦争ですか!」
報告を聞いたキリムは、思わず声を上げた。
「ああ。国境で敵軍を迎え撃つことになった」
シャーロッテの表情は厳しかった。
「相手は盗賊とは違う。訓練された兵士たちだ。あんたたちも今まで以上に気を引き締めな」
「はい!」
「バレルズ、キーぼんのことを頼むよ」
「はい! オラが守る!」
「隊長! 俺だってバレルズを守りますよ!」
「ああ、そうしておくれ。ただし、勝手に突っ込むんじゃないよ」
「分かってます!」
シャーロッテはキリムの背中に担がれた戟を見た。
「……ところで、キーぼん。その大きな武器には慣れたのかい?」
「はい! 完璧です!」
「そうかい。なら、無茶な使い方だけはしないようにね」
「はい!」
キリムは元気よく返事をした。
その頭の中には、まだ誰にも見せていない超必殺技のことがあった。
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戦場となったのは、国境近くに広がる丘陵地帯だった。
緩やかな丘と草原が続き、その間を街道が走っている。
ナンセーブ軍は国境を越え、街道沿いに陣を構えていた。
セントーン王国軍はこれを迎え撃つため、複数の領軍と国境守備隊を集結させた。
小規模とはいえ、数千人の兵士たちが向かい合っている。
キリムにとって、これほど多くの人間が戦う光景を見るのは初めてだった。
「すげえな……」
馬上から敵陣を眺め、キリムはつぶやいた。
槍を構えた兵士。
大盾を並べた歩兵。
馬にまたがる騎兵たち。
そして、風にはためく無数の軍旗。
夢で見たゲームの戦場によく似ている。
ただし、目の前の兵士たちは、画面の中の人形ではなかった。
武器を握る手に力を込め、仲間と声を掛け合いながら、戦いの始まりを待っている。
シャーロッテが兵士たちを集めた。
「いいかい。あたしらは右翼を受け持つ。隣の部隊と歩調を合わせ、敵の側面を押さえるんだ」
地図を指しながら説明を続ける。
「敵が崩れても、勝手に追撃するんじゃないよ。中央の部隊が進むのを確認してから前へ出ること」
「はい!」
「キーぼん、特にあんたには言ってるんだからね」
「分かってますって!」
「返事だけは昔から立派だねえ」
兵士たちが笑った。
しかし、その笑いも長くは続かなかった。
やがて、丘の向こうから角笛の音が響いた。
これから戦いが始まる合図である。
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戦場を見下ろす小高い丘に、一団の騎兵がいた。
その中央にいる若い男は、セントーン王国の第一王子である。
今回の国境紛争では、王都から戦況の視察に訪れていた。
第一王子は馬上から両軍の布陣を眺めていた。
「敵の数は、こちらと大差ないようだな」
「はい。ですが、敵軍は先の戦勝で士気が高く、こちらも油断はできません」
側近の一人が答える。
「なるほど。では、我が王国軍の指揮官たちがどう戦うか、見せてもらおう」
第一王子は静かにうなずいた。
彼にとって、今回の視察は単に国境の様子を確認するためだけのものではなかった。
いずれ王国を背負う立場となるためには、軍を知り、将兵の信頼を得ることも必要になる。
王宮の中にいては分からないことが、戦場にはある。
第一王子は、再び視線を戦場へ向けた。
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最初に動いたのは、両軍の弓兵だった。
矢が空を飛び、盾に突き刺さる。
続いて歩兵たちが前進し、槍と盾がぶつかり合った。
「盾を上げな! 槍兵は前へ!」
シャーロッテの号令に従い、兵士たちが進む。
キリムとバレルズもその中にいた。
キリムは馬上で戟を振るい、迫ってきた敵兵を次々と退けていく。
バレルズは大盾を構え、キリムの側面を守った。
「キーぼん! 右だ!」
「おう!」
バレルズの盾が敵の槍を受け止める。
その隙にキリムの戟が伸び、敵兵を突き倒した。
次の敵が迫る。
キリムは戟を横に払い、その武器を弾き飛ばした。
「よし!」
「キーぼん! 前に出すぎるなよ!」
「分かってる!」
二人は声を掛け合いながら戦った。
敵軍は決して弱くなかった。
盗賊たちとは違い、兵士たちは隊列を組み、互いに援護しながら攻撃してくる。
しかし、シャーロッテの指揮は的確だった。
敵が押し寄せれば盾兵で受け止め、隙ができれば槍兵を進ませる。
弓兵が側面を牽制し、騎兵が敵の動きを制限する。
領軍は少しずつ、しかし確実に敵を押し返していた。
キリムは感心していた。
これまでの魔物や盗賊との戦いとは違う。
数千人がぶつかる戦場でも、兵士たちはそれぞれの役割を果たしていた。
そして、ふと思い出した。
――そういや、まだ試してなかったな。
あの超必殺技である。
前方では、ひときわ立派な鎧を着た敵の騎兵が、味方の歩兵たちを押し返していた。
かなりの腕前らしい。
キリムは目を輝かせた。
――よし! あいつで試してみるか!
「バレルズ!」
「なんだ?」
「新しい技を使ってみる!」
「えっ? 今か?」
「おう!」
キリムは戟を握り直した。
まずは全身に身体強化魔法を巡らせる。
続いて、頭にも魔力を集めた。
周囲の音が鮮明になり、敵兵の動きがゆっくりと見え始める。
母と試したときと同じだった。
いや、今は全身も強化している。
これなら、もっと速く動けるはずだ。
「よし! いくぞ!」
キリムは戟を高く掲げた。
「超必殺! 紅鬼無双!」
馬を駆り、前方の敵兵へ突進する。
敵の槍が迫った。
キリムはそれをかわし、戟を横に振るった。
敵兵の武器が弾き飛ばされる。
さらに馬を進め、次の敵を打ち倒した。
「すげえ!」
思わず声が漏れた。
思ったとおりだった。
敵の動きがよく見える。
身体も軽い。
戟を振るうたびに、敵が次々と倒れていく。
これなら、もっと戦える。
キリムは勢いを増していった。
だが、しばらくすると頭の奥に鈍い疲れが生まれた。
――ああ、そうだった。
母と試したときと同じだ。
頭を強化し続けると、疲れてしまう。
キリムは治癒魔法を使った。
疲労が和らぐ。
よし、まだいける。
再び戟を振るい、敵を倒す。
しかし、戦いの中で魔力の配分まで細かく考える余裕はなかった。
強化した頭が疲れる。
治癒魔法をかける。
そしてまた、強化する。
いつしか、二つの魔法は重なり合っていた。
頭の奥が熱くなる。
周囲の音が遠ざかる。
目の前の敵兵だけが、妙にはっきりと見えた。
その奥に、さらに強い敵がいる。
――あいつだ。
キリムがそう思った瞬間、意識は途切れた。
---
「キーぼん?」
バレルズが声をかけた。
しかし、返事はなかった。
次の瞬間、キリムが飛び出した。
「お、おい!」
戟を構えたキリムが、猛烈な勢いで敵陣へ突っ込んでいく。
先ほどまでの動きとは、まるで違っていた。
馬を駆り、敵の槍をかわし、戟を振るう。
一撃ごとに敵兵が倒れ、隊列が崩れていった。
「なんだ、あいつは!」
「止めろ!」
敵兵たちが槍を構える。
しかし、キリムは止まらない。
戟を一閃させ、突き出された槍を弾き飛ばした。
敵兵がひるんだ隙に突進し、隊列を突き破る。
そして、その先にいた騎兵へ向かっていった。
重い鎧に身を包んだ騎兵が剣を振り下ろす。
キリムはその一撃をかわし、戟の刃を引っ掛けるように振るった。
騎兵が馬上から叩き落とされる。
周囲の敵兵が悲鳴を上げた。
だが、キリムは倒した相手には目もくれなかった。
少し離れた場所に、別の騎兵がいた。
さらに腕の立つ相手だった。
キリムは即座に馬首を向けた。
「キーぼん! そっちじゃない!」
バレルズが叫ぶ。
返事はない。
「おい! 待てって!」
キリムはまったく聞いていなかった。
敵を見つける。
向かっていく。
倒す。
そして、次の敵を探す。
それだけだった。
より強い敵を見つければ、そちらへ向かう。
目の前の敵が倒れれば、別の敵へ突進する。
そこに軍隊としての判断はなかった。
---
「何をやってるんだい、あの馬鹿は!」
後方で指揮を執っていたシャーロッテが怒鳴った。
「キーぼん! 戻りな!」
しかし、キリムは止まらない。
敵の隊列を突き破り、さらに奥へと進んでいく。
「バレルズ! あの馬鹿を止めるんだよ!」
「無理だよ! 全然話を聞かないんだ!」
「なんだって!」
シャーロッテはキリムの様子を見つめた。
異常だった。
あの動きは、普段のキリムではない。
強化魔法を使っていることは分かる。
だが、それだけでは説明できない速さと力だった。
しかも、周囲の状況をまったく確認していない。
敵の強い兵士を見つけるたび、そちらへ進路を変えている。
「……まさか」
シャーロッテの顔色が変わった。
以前、ケイトリンから聞いたことがあった。
身体強化と治癒の魔力が干渉し、制御を失うことがあるという話だ。
「あの大馬鹿!」
シャーロッテは拳を握りしめた。
「騎兵! 右へ回り込みな! キーぼんの側面を守るんだよ!」
すぐさま指示を飛ばす。
「弓兵は前へ! 敵の増援を近づけるんじゃない!」
兵士たちが慌ただしく動き始めた。
キリムが敵陣を突き崩したことで、ナンセーブ軍の隊列は乱れていた。
だが、それに味方が巻き込まれれば、こちらの陣形まで崩れてしまう。
しかも、隣の部隊はまだ前進していない。
予定よりも早く突出したキリムの周囲には、大きな隙が生まれつつあった。
「まったく! 隣の部隊と歩調を合わせろと言っただろうが!」
怒鳴っても、キリムには届かない。
シャーロッテは歯を食いしばった。
止められないなら、守るしかない。
「歩兵は前進! 崩れた敵の隊列を押さえな! ただし深追いするんじゃないよ!」
命令が次々と飛ぶ。
キリムが勝手に開いた穴を、シャーロッテは必死に広げ、味方の進路へと変えていった。
---
「キーぼん! 待てって!」
バレルズは必死だった。
馬を駆り、大盾を抱え、キリムの後を追いかける。
だが、キリムは敵を見つけるたびに進路を変えてしまう。
右へ。
左へ。
そしてまた右へ。
「そっちは敵が多すぎるぞ!」
返事はない。
キリムの戟が振るわれ、敵兵たちが次々と倒れていく。
その背後から、槍を構えた敵兵が迫った。
「危ない!」
バレルズが馬を寄せ、盾を突き出した。
ガンッ!
敵の槍が大盾にぶつかる。
「ぐおっ!」
重い衝撃に、バレルズの身体が揺れた。
それでも盾を離さない。
キリムは振り返りもしなかった。
目の前の敵を倒すと、また別の敵へ向かっていく。
「だから待てって!」
バレルズは必死に馬を走らせた。
もう何度、敵の攻撃を盾で防いだか分からない。
腕が痺れ、肩が痛む。
だが、キリムの背中を守れるのは自分だ。
少なくとも、バレルズはそう思っていた。
「キーぼん! あとで絶対に文句言ってやるからな!」
その声も、キリムには届かなかった。
---
丘の上では、第一王子が戦況を見つめていた。
「……なんだ、あれは」
思わず身を乗り出した。
敵陣の中を、一騎の若武者が駆け抜けている。
燃えるような赤髪。
巨大な戟。
そして、信じられないほどの速さ。
その若武者が駆け抜けるたび、敵の隊列が崩れていく。
敵の騎兵が迎え撃っても、止められない。
槍兵が囲もうとしても、その間を突き破ってしまう。
「あの者は何者だ?」
「はっ! あの軍旗はブラドリー伯爵領軍のものです。赤髪の若武者となれば、キリム・ブラドリーかと!」
「ブラドリー……騎士団長の息子か!」
第一王子は目を見開いた。
赤い影が、敵陣を横切る。
その後を味方の兵士たちが進み、崩れた敵軍を押し返していく。
遠くから見れば、それは一人の英雄が軍勢を率いているかのような光景だった。
「なんという武勇だ……」
第一王子は思わず感嘆の声を漏らした。
「あの赤髪……まるで稲妻が敵陣を切り裂いてるようですな」
側近の一人が呟く。
「そうだ! 紅い轟雷のようではではないか!」
側近たちも、目の前の光景に息を呑んだ。
こうして、後にキリム・ブラドリーを象徴することになる異名が生まれた。
もっとも、その頃。
「キーぼん! だからそっちじゃないって言ってるだろ!」
「誰かあの馬鹿を止めな!」
現場は、それどころではなかった。
---
敵左翼の奥に、ひときわ華やかな鎧をまとった騎兵がいた。
金色の装飾を施した兜。
鮮やかな外套。
その周囲には大勢の兵士が集まり、軍旗を掲げていた。
敵左翼を指揮する将軍である。
「何だ、あの赤髪は!」
将軍は迫ってくるキリムを見て、剣を抜いた。
「たった一騎だ! 囲んで討ち取れ!」
兵士たちが槍を構える。
だが、キリムは止まらなかった。
目の前にいる敵の中で、最も強い気配。
それが、華美な鎧をまとった将軍だった。
キリムは一気に距離を詰めた。
「止めろ!」
槍兵たちが穂先を突き出す。
キリムの戟が振るわれ、槍が弾き飛ばされた。
その勢いのまま、馬を駆る。
将軍が剣を構えた。
「小僧が!」
鋭い斬撃が迫る。
キリムは身体を傾けてかわし、戟を横に振るった。
金属のぶつかる音が響く。
将軍の剣が弾かれた。
「なっ!」
驚愕する将軍へ、キリムの戟が突き出された。
将軍は右腕でその一撃を受け止めた。
しかし、キリムは戟を引かず、そのまま横へ振り払った。
将軍は馬上から崩れ落ちた。
「将軍!」
「将軍が討たれたぞ!」
周囲の兵士たちが叫ぶ。
だが、まだ戦いは終わっていなかった。
将軍を失ったとはいえ、周囲には大勢の敵兵が残っている。
彼らはキリムを取り囲もうと動き始めた。
そのときだった。
キリムの身体が、ふらりと傾いた。
全身を巡っていた魔力が、急速に失われていく。
戟を握る手から力が抜けた。
馬上で姿勢を保つことさえできなくなる。
そして、キリムもそのまま地面へと崩れ落ちた。
---
「キーぼん!」
バレルズが叫んだ。
慌てて馬を寄せ、飛び降りる。
キリムは地面に倒れ、動かない。
「おい! キーぼん!」
肩を揺さぶっても返事はなかった。
その周囲では、敵兵たちが武器を構えている。
「今だ! 討ち取れ!」
将軍を失った敵兵たちが、一斉に押し寄せてきた。
バレルズはキリムの前に立った。
大盾を構え、腰を落とす。
「不動の城壁!」
ガンッ!
敵の槍が盾にぶつかった。
さらに剣が振り下ろされる。
バレルズは歯を食いしばり、攻撃を受け止めた。
「ぐうっ!」
重い衝撃が腕に伝わる。
足が地面を滑った。
だが、退くわけにはいかなかった。
背後には、動けなくなったキリムがいる。
「キーぼん! 起きろって!」
返事はない。
また槍が突き出された。
バレルズは盾を傾け、その穂先を逸らした。
次の攻撃が迫る。
腕が痺れる。
息が荒くなる。
それでもバレルズは盾を構え続けた。
キリムは強い。
自分よりずっと強い。
いつも前に出て、敵を倒してくれる。
だからこそ、今度は自分の番だった。
「キーぼんには、指一本触れさせねえぞ!」
バレルズが吠えた。
---
「バレルズ!」
シャーロッテの声が響いた。
領軍の騎兵と歩兵が、敵の隊列を押し分けて駆けつけてきた。
「盾兵、前へ! 弓兵は周囲を押さえな!」
兵士たちが一斉に動く。
盾が並び、槍が突き出された。
敵兵たちは次々と押し返されていく。
シャーロッテは馬を降り、キリムの側へ駆け寄った。
「キーぼん!」
地面に倒れた少年の顔は青白かった。
しかし、呼吸はある。大きな傷も見当たらない。
幸い命に別状はなさそうだった。
「……まったく!」
シャーロッテは唇を噛んだ。
怒鳴りつけたいことは山ほどあった。
だが、今はそれどころではない。
「バレルズ! よく守ったね!」
「隊長! キーぼんが動かないんだ!」
「分かってる! すぐに運ぶよ!」
シャーロッテは周囲を見渡した。
倒れた敵将。
その軍旗。
そして、まだ抵抗を続ける敵兵たち。
ここで退けば、せっかく崩した敵左翼が立ち直ってしまう。
「旗を掲げな!」
シャーロッテが命じた。
「我が軍の旗を、この場所に立てるんだよ!」
「はっ!」
兵士が軍旗を掲げた。
大きな旗が風を受け、戦場の上にはためく。
「敵将は討ち取った! この場所は我らセントーン王国軍が押さえた!」
シャーロッテの声が響いた。
領軍の兵士たちが歓声を上げる。
旗を見た後方の部隊も、前進を始めた。
一方、将軍を失ったナンセーブ軍の左翼は大きく動揺していた。
指揮官は討たれ、その場所には敵の軍旗が立っている。
周囲からはセントーン軍の兵士たちが押し寄せてくる。
やがて、左翼の兵士たちは少しずつ後退を始めた。
その動きは敵本陣にも伝わり、ナンセーブ軍は戦線を維持することを諦めた。
撤退を告げる角笛が響く。
ナンセーブ軍は、国境の向こうへと兵を引き始めた。
---
シャーロッテは、遠ざかっていく敵兵たちを見つめていた。
勝った。
少なくとも、この国境での戦いには勝利したのだ。
だが、その勝利のきっかけとなった少年は、今も地面に横たわっている。
無茶苦茶な戦い方だった。
敵を見つけては突進し、次々と打ち倒す。
味方の位置も、軍の進路も、何も考えていない。
軍人としては失格だった。
しかし――。
敵の槍をかわし、戟を振るい、騎兵を打ち倒す。
その姿は、あまりにも圧倒的だった。
キリムが進めば、敵は崩れる。
どれほど強い兵士が立ちはだかっても、止めることができない。
自分は、あの少年を止めなければならなかった。
それなのに。
戦場を駆け抜ける赤髪の若武者に、一瞬だけ見入ってしまったのだ。
――まるで、かつて夢見た英雄のようだった。
10歳から自分が鍛えた少年。
武器を持たせては走らせ、何度も叱りつけた、あの生意気なキーぼん。
その少年が今、敵将を討ち取って倒れている。
シャーロッテは深く息を吐いた。
英雄だなどと、馬鹿なことを考えたものだ。
この少年は、自分の意思で止まることさえできなかった。
それを守るために、バレルズは傷だらけになり、兵士たちも危険を冒した。
決して褒められた戦い方ではない。
それでも。
あの戦いぶりを、忘れることはできそうになかった。
「……本当に、とんでもない子だよ」
シャーロッテは小さくつぶやいた。
---
「……ううっ」
キリムが薄く目を開けた。
「キーぼん!」
バレルズが顔を覗き込んでいる。
「……バレルズ? あれ、俺……」
「よかった! 気がついたんだな!」
キリムはゆっくりと周囲を見渡した。
戦場には、もう敵兵の姿がほとんど見えなかった。
「……戦争は? どうなった?」
「敵は退いてる! もう大丈夫だ!」
「……そうか」
キリムは安心したように息を吐いた。
しかし、すぐに何かを思い出したように顔を上げた。
「……俺、ちゃんと戦えたのか?」
「まったく、この大馬鹿者!」
そこへシャーロッテが歩み寄ってきた。
「隊長……」
「自分がどれだけ無茶をしたか、分かってるのかい?」
「……すみません。でも、俺……」
キリムは身体を起こそうとした。
「まだ戦いが続いているなら、俺も……」
「寝てな!」
シャーロッテはキリムの肩を押さえた。
「あんた一人で戦争してるんじゃないんだよ。少しは仲間を信じな」
「……はい」
シャーロッテは大きくため息をついた。
「まったく、余裕のない男はモテないぞ、キーぼん」
「……え?」
「戦いは勝ったよ。あんたのおかげもあってね」
その言葉を聞いて、キリムは嬉しそうに笑った。
「……よっしゃ」
そして、そのまま再び意識を失った。
「キーぼん!」
バレルズが慌てて身体を抱え直す。
シャーロッテもすぐに駆け寄った。
「手当て役! こっちへ来な!」
兵士たちが駆けつける。
キリムは目を閉じたまま、動かなかった。
シャーロッテはその顔を見下ろした。
十五歳。
まだ、たった十五歳の少年だ。
「……まったく、とんでもない子だよ」
その声には、怒りとも感嘆ともつかないものが混じっていた。
こうして、キリム・ブラドリーの初陣は終わった。
王国軍は勝利し、国境へ侵入したナンセーブ軍を退けた。
そして、この戦いを視察していた第一王子の言葉から、赤髪の若武者には一つの異名が広まっていくことになる。
――紅い轟雷。
しかし、その本人はというと。
自分がどれほどの戦果を挙げたのかも知らぬまま、深い眠りについていたのである。
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