2話 魔法修行とバゲットの誕生
伯爵邸の玄関前に、王都へ向かう馬車が停まっていた。
荷物はすでに積み終わり、御者も出発を待っている。
「では、行ってくる」
カルターが妻と次男を見た。
「うん。父様も気をつけて」
「ああ。ウオドリー軍隊長には話を通してある。だが、いきなり兵たちと同じことが出来るなどとは思うなよ」
「分かってる!大丈夫だよ!」
「……本当に分かっているのか?」
カルターは、わずかに疑わしそうな目を向けた。
その横でセリウムが吹き出した。
「父上。無駄だよ。こいつ、卵を食いすぎて三日寝込んでも『もう大丈夫』って言ってたんだから」
「兄上、それはもういいだろ!」
「事実じゃないか」
「次はやらない!」
セリウムが笑う。
キリムも少しむっとしながら、それでも笑った。
雷の日から、兄は以前より少しだけ自分を気にするようになっていた。
だが額の傷はもう残っていない。
母の治癒魔法のおかげだ。
それでも、兄の中にはまだ弟を傷つけてしまったという思いが残っているらしい。
だからキリムは、なるべくいつも通りにしていた。
もっとも、意識しなくても大体いつも通りだったが。
「セリウム。そろそろ乗れ」
「はい、父上」
父に促され、セリウムが馬車へ向かう。
だが扉へ手をかけたところで振り返った。
「キリム」
「ん?」
「次に帰った時は、また相手してやる」
キリムの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!?」
「ああ」
「じゃあ、もっと大きくなって、次は兄上に勝つ!」
セリウムは一瞬黙った。
それから、声を上げて笑った。
「大きくなれば勝てると思ってるのか?」
「強くもなる!」
「欲張りだな」
「兄上だってもっと強くなるだろ?」
「当然」
「じゃあ僕ももっと強くなる!」
「なら楽しみにしてる」
セリウムが馬車に乗り込む。
カルターも続いた。
最後まで名残惜しそうだったのは、むしろ父の方だった。
「ケイトリン」
「はい」
「無理をさせるなよ」
「分かっています」
「キリム」
「なに?」
「母の言うことを聞け」
「分かってるって」
「……それから、たまには王都へ」
「あなた」
「分かっている。分かっているとも」
ケイトリンに笑われ、カルターは諦めたように扉を閉めた。
馬車がゆっくり動き出す。
「父様ー! 兄上ー!」
キリムは大きく手を振った。
窓からセリウムの手が出る。
その奥から、少し遅れてカルターの手も出た。
馬車は街道を進み、やがて見えなくなった。
少し静かになった屋敷の前で、キリムはしばらく道の先を眺めていた。
「寂しい?」
隣で母が尋ねた。
「ちょっと」
「そう」
「でも、次に兄上が帰ってくるまでに強くなる」
ケイトリンは息子の横顔を見て、ふっと笑った。
「では、その第一歩を始めましょうか」
「魔法?」
「ええ」
今度はキリムが母を見る。
さっきまでの寂しさは、もうかなり薄れていた。
「やる!」
ケイトリンが選んだ場所は、屋敷の裏にある小さな庭だった。
薬草の匂いがする。
この場所には幼い頃から何度も来たことがあるが、母が何を育てているのか、キリムはほとんど知らなかった。
興味がなかったからだ。
これまでは庭を抜けた先にある訓練場の方が、よほど大事だった。
「まずは座って」
「うん」
母と向かい合って座る。
「魔法を使う前に、自分の魔力を感じるところから始めます」
「すぐ身体を強くするんじゃないの?」
「しません」
「……そう」
「そんなに残念そうな顔をしないの」
ケイトリンは笑った。
「魔力を上手に扱えないまま身体強化を使えば、自分で自分の身体を壊すこともあります」
「そんなに危ないの?」
「魔法は何でも出来る便利な力ではありません。使い方を間違えれば危険なのは、剣と同じよ」
剣と同じ。
そう言われると、キリムも少し姿勢を正した。
「分かった」
「では目を閉じて」
言われた通りにする。
「息をゆっくり吸って。身体の中へ意識を向けるの」
風が頬を撫でた。
鳥の鳴き声が聞こえる。
最初は何も分からなかった。
血が流れていることさえ、普段は意識しない。
「分からない」
「最初はそれでいいの」
「母様はすぐ分かった?」
「いいえ。私も何日もかかりました」
「ほんと?」
「本当です」
その答えを聞いて、キリムはまた目を閉じた。
出来ないことは嫌いではない。
出来るまでやればいい。
そういうところは、夢を見る前から変わっていなかった。
しばらくして。
背中に母の手が触れた。
「少しだけ、私の魔力を流します」
「うん」
「違いを覚えて」
温かいものが入ってきた。
熱ではない。
水でもない。
けれど確かに何かが、自分の中を通っている。
「あ」
「感じた?」
「これ?」
「そう」
ケイトリンの声が少し嬉しそうになる。
「その感覚を、自分の中から探してみて」
母の魔力が消える。
もう一度、自分の内側へ意識を向ける。
先ほどまでは何もないように思えた。
けれど、一度知った後なら違った。
「……ある」
「どこ?」
「胸の下……いや、腹の上?」
「場所は人によって感じ方が違います。そのまま、ゆっくり動かしてみて」
キリムは眉間に皺を寄せた。
右肩へ。
腕へ。
手へ。
思ったようには動かない。
それでも何度か繰り返すうち、わずかな温かさが指先まで届いた。
「行った!」
思わず目を開ける。
「母様、今、手まで行った!」
「ええ」
ケイトリンは、自分のことのように嬉しそうに笑っていた。
「上手よ、キリム」
「これをいっぱい腕に集めたら――」
「今日はここまで」
「まだ何もしてない!」
「十分しました」
「身体強化は?」
「まだです」
「ちょっとだけ」
「明日」
「母様」
「明日です」
魔法を教えてくれる母は、思っていたより手強かった。
それからキリムは、毎日母と魔力を扱う練習をした。
ただ流す。
腕へ。
脚へ。
胸へ。
頭へ。
力を込めれば速く動くわけではない。
むしろ力んだ時ほど、魔力は妙なところで詰まった。
剣を振るにも、地面を蹴るにも、身体の動かし方がある。
魔力は、それとは少し違った。
キリムは何度も失敗した。
そして何度も繰り返した。
ケイトリンは、それを横で見ていた。
剣を握っていない息子が、これほど長い間、ひとつのことへ真剣に取り組んでいる。
それだけでも不思議だった。
それが、自分の教えられる魔法なのだ。
つい顔が緩む。
「母様?」
「何でもありません」
「笑ってた」
「気のせいです」
「そう?」
「続けましょう」
数日後。
ようやく身体強化の初歩を教えてもらえる日が来た。
「今日は右脚だけです」
「両足じゃないの?」
「右脚だけです」
「腕は?」
「右脚だけです」
キリムは黙った。
母には勝てない。
「魔力を筋肉に押し込むのではありません。動きを助けるように流して」
「助ける……」
「そう。そのまま立ってみて」
右脚へ意識を集中する。
立つ。
違和感はない。
「軽く跳んでみて」
膝を曲げた。
地面を蹴る。
「おっ?」
身体が、いつもより軽く浮いた。
ほんの少しだけ。
けれどキリムには十分だった。
着地すると、すぐに母を見る。
「今の!」
「ええ」
「高かった!」
「少しだけね」
「もう一回!」
「初めて身体強化は使ったのです。一度休んでから」
「全然疲れてない!」
「魔力は疲れてから休むものではありません」
キリムは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
今まで知らなかった力が、自分の身体の中に本当にある。
その事実だけで、胸が高鳴った。
治癒魔法を教えることになったのは、それからさらに数日後だった。
庭で練習していたキリムが、突き出た木の枝で手の甲を浅く擦った。
「母様、これも魔法で治せる?」
「そのくらいなら」
ケイトリンが手を取る。
「せっかくだから、自分でやってみますか?」
「僕が?」
「ええ。ただし治癒魔法は少し特殊です」
ケイトリンは傷を見ながら言った。
「魔法の中でも、治癒には向き不向きが強く出ます。努力すれば誰でも同じように使えるものではありません」
「でも母様は使えるよ」
「私は適性がありましたから」
「じゃあ僕も使える?」
「それは、やってみないと分かりません」
魔法の適性は、親子だから必ず受け継がれるものではない。
ただし、まったく関係がないわけでもない。
親や祖父母に治癒魔法を使える者がいる家では、同じ適性を持つ子が生まれることも比較的多い。
それでも、兄のセリウムには治癒の適性はなかった。
ケイトリンも、次男にまでそれを期待したことはない。
「傷を見て」
「うん」
「身体は今も、自分で治ろうとしています」
「勝手に?」
「ええ。治癒魔法は、その働きを魔力で手伝うの」
キリムは傷を見つめた。
魔力を右手へ集める。
これまでとは違う。
強くするのではない。
治ろうとしている身体を助ける。
母に言われた通り、ゆっくりと魔力を流す。
しばらく何も起きなかった。
「……難しい」
「焦らなくていいわ」
もう一度。
今度は先ほどより力を抜く。
すると。
傷の周りが、ほんのわずかに温かくなった。
「母様」
ケイトリンが息を止めた。
浅い傷の赤みが薄くなっている。
完全に消えたわけではない。
傷口が閉じたと呼ぶにも小さすぎる変化だった。
それでも。
「……もう一度やってみて」
母の声が少し違った。
「うん」
キリムが再び魔力を流す。
今度はケイトリンも間違いないと分かった。
治癒魔法だ。
「キリム」
「なに?」
「あなた、治癒の適性があります」
「母様みたいに?」
「ええ」
ケイトリンの顔が、ゆっくりとほころんだ。
「母様と同じです」
そう言う声が少し震えていた。
キリムが魔法に興味を持ってくれただけでも嬉しかった。
同じ魔力について話せることも。
一緒に練習できることも。
それなのに。
この子には、自分と同じ力まであった。
「母様?」
「あら、ごめんなさい」
ケイトリンは目元を指で拭った。
「嬉しくて」
「そんなに?」
「そんなにです」
キリムには、まだその重みがよく分からない。
だから傷を見て、素直に思ったことを口にした。
「じゃあこれ、もっと上手くなったら自分で怪我を治せる?」
「ええ。小さなものからね」
「だったら訓練で怪我しても――」
「キリム」
母の声で、続きは飲み込んだ。
「……治して続けられる、は駄目?」
「駄目です」
「やっぱり?」
「治癒魔法は、怪我をしていい理由ではありません」
ケイトリンは息子の手を包んだ。
「身体は傷つけば疲れます。治癒にも魔力が必要です。どんな傷でも元通りに出来るわけでもありません」
「うん」
「自分で治せるようになっても、無茶をしていいとは思わないこと」
「分かった」
今度は、キリムも素直に頷いた。
ケイトリンはそれを見て微笑む。
「でも、とても上手でしたよ」
「ほんと?」
「ええ」
「じゃあ明日はもっとやる!」
「少しずつです」
「分かってる!」
返事だけは立派だった。
魔法の訓練を始めてから、キリムは以前よりよく腹を空かせるようになった。
身体を動かす。
魔力を使う。
また身体を動かす。
当然と言えば当然だった。
「もっと食べたい」
昼食の席で、キリムが言った。
ケイトリンが息子の皿を見る。
「十分食べていますよ」
「もっと大きくなりたい」
「だからといって卵を十個食べるのは駄目です」
「もうやらないって」
「本当に?」
「……たぶん」
「キリム」
「やらない!」
ケイトリンは小さくため息をついた。
「身体を作るなら、一つのものだけをたくさん食べても駄目です。肉も、卵も、野菜も、穀物も。色々なものを食べないと」
「肉と卵はいっぱい?」
「適量です」
「倍は?」
「適量です」
キリムは難しい顔をした。
夢の男も似たようなことを言っていた。
タンパク質。
炭水化物。
野菜。
何か色々。
その時、ひとつの食べ物を思い出した。
「母様」
「なあに?」
「全部、パンに挟めばいいんじゃない?」
「全部?」
「肉と卵と野菜」
「サンドイッチ?」
「似てる。でももっと細長いパンを使う」
キリムは手で長さを示した。
「これくらい」
「ずいぶん長いのね」
「横から開いて、肉とか野菜をいっぱい入れるんだ。夢の男が食べてた」
「へえ……」
ケイトリンが興味を示した。
キリムは勢いづく。
「鶏肉いっぱい!」
「ええ」
「卵も!」
「ええ」
「肉は倍で!」
「それは駄目です」
「なんで!」
「野菜もきちんと入れます」
「じゃあ野菜も入れるから肉を倍に」
「交渉しないの」
その日の午後。
厨房で試作が始まった。
細長く焼いたパンに切れ目を入れる。
鶏肉。
卵。
葉野菜。
他にもいくつかの野菜を並べていく。
キリムは隣で真剣に見ていた。
「肉、もう少し」
「坊ちゃま、十分ございます」
「まだ入る」
「入りません」
「押せば」
「押しません」
料理長が淡々と答える。
その横でケイトリンは、別の方向に考え始めていた。
「野菜がこれだけでは少ないわね」
「母様?」
「色が偏っています。赤いものも欲しいわ」
料理長が別の野菜を用意する。
「それから味を整えるものも必要ですね」
「塩?」
「それだけでは飽きるでしょう。酸味のあるものや、香草を使ったソースもいいかもしれません」
「おお」
「チーズも合うのでは?」
「母様、それいい!」
「それから身体を作るなら乳製品は別にも摂った方が……」
ケイトリンが考え込む。
「果物も必要ですね」
「入れるの?」
「いえ、食後に」
「パンの話じゃなかった?」
「それと魔法の練習をした日は甘いものも少しくらい」
「デザート?」
「ええ。疲れているでしょう?」
「母様」
「何?」
「すごく豪華になってない?」
「身体を作るのですから当然です」
「奥様」
料理長が静かに声を挟んだ。
「何でしょう?」
「それ以上は、量的にパンに挟めません」
厨房が静かになった。
ケイトリンは目の前に並んだ材料を見る。
鶏肉。
卵。
何種類もの野菜。
チーズ。
いくつものソース。
その横には果物と菓子まで置かれ始めていた。
「……そうね」
ようやく気付いたらしい。
キリムは料理長を少し尊敬した。
結局、パンに挟むものは料理長によって現実的な量に整理された。
鶏肉と卵。
野菜。
好みに合わせて数種類のソース。
チーズは希望があれば加える。
果物と菓子は別。
完成したそれを、キリムは両手で持った。
一口かじる。
「おいしい!」
顔が輝く。
「母様、これいい!」
「そう?」
「肉も卵も野菜も一緒に食べれる!」
「野菜だけでも食べなさい」
「それに手で持てる!」
もう一口。
「これなら鍛錬の休憩中にも食べられる!」
「鍛錬中は鍛錬に集中なさい」
「休憩中って言った!」
「あら、そうでしたね」
ケイトリンは笑った。
そして、ふとパンを見る。
「……休憩中でも」
「うん?」
「外で食べられるのね」
「食べられるよ」
「お皿も、匙もいらない」
「うん」
「…………」
「母様?」
ケイトリンの目が、何かを考える時のものに変わった。
「領軍の方にも便利なのではないかしら」
「兵士にも?」
「訓練の合間に食べられますし、遠くへ出る時にも持って行けます」
料理長も頷く。
「冷めても食べられるよう工夫すれば、使い道はありそうです」
「では少し多めに作って、試していただきましょう」
「おお!」
キリムも喜んだ。
だがケイトリンは、もう次のことを考えていた。
「領軍へ定期的に用意するとなれば、鶏肉と卵がかなり必要になりますね」
「はい」
「今の仕入れだけでは足りないかもしれません」
「……そうですな」
「でしたら領内で飼育数を増やせないかしら」
キリムが母を見る。
「鶏を?」
「ええ。卵も安定します」
「いっぱい食べられる?」
「適量です」
「ちぇっ」
「野菜も種類を揃えたいわね。季節ごとに使えるものを変えれば、同じものばかりになりませんし」
「奥様」
「はい?」
「まずは領軍へ試すだけでは?」
「そうでした」
ケイトリンは頷いた。
一度は。
だが、すぐに続けた。
「でも、多く作るようになれば余る日も出ますね」
料理長が黙る。
「捨てるのはもったいないでしょう?」
「……はい」
「町の人にも売れないかしら」
「母様?」
「農作業をする人にも便利でしょうし、職人の昼食にもよさそうです。朝、家で食べる時間がない人もいるでしょう?」
「母様」
「具をいくつか用意して選べるようにしたら、それぞれ好きなものを――」
「母様!」
「なあに?」
「僕、腹が減った時に食べるものが欲しかっただけなんだけど」
「ええ」
「なんで町で売る話になってるの?」
ケイトリンは少し考えた。
「せっかく良いものを作るなら、皆で食べた方がいいでしょう?」
「……そういうもの?」
キリムは料理長を見る。
料理長は答えなかった。
ただ、少し困ったように笑っていた。
「それに」
まだ終わっていなかった。
「鶏を増やすなら、その世話をする人も必要ですね。卵を集めて、肉を加工して、パンを焼く人も――」
「奥様」
「はい?」
「まずは明日の試食分を作りましょう」
「……そうね」
料理長が止めなければ、明日にでも新しい農場が出来そうな勢いだった。
キリムは残ったパンを頬張った。
夢の中の男が知っていた食べ物を、一つ思い出しただけ。
自分はもっと食べたかっただけ。
なのに母の頭の中では、どういうわけか領地全体の話になり始めている。
魔法については、まだ母の方がずっと上だった。
どうやら話を大きくすることについても、当分勝てそうになかった。
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