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騎士団長令息キリム・ブラドリー  作者: えれごぶ


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1/12

1話 夏の雷と夢


 夏の朝だった。


 まだ日が高く昇る前の、涼しい時間。


 ブラドリー伯爵家の庭には朝露が残り、芝生を渡る風も爽やかだった。


 青空には、白い入道雲が大きく膨らんでいる。


 その庭の中央で、二人の少年が木剣を打ち合わせていた。


 どちらも鮮やかな紅い髪をしている。


 一人は十六歳。


 もう一人は十歳。


 兄のセリウム・ブラドリーと、弟のキリム・ブラドリーだった。


 カンッ!


 木剣がぶつかる。


「くっ……!」


 キリムは両手で木剣を握り、兄の剣を押し返そうと踏ん張った。


 だが、体格が違う。


 六つ年上のセリウムは、ほとんど力んだ様子もない。


 キリムがさらに力を込めた、その瞬間。


 セリウムが、すっと剣を引いた。


「うわっ」


 支えを失ったキリムの身体が前につんのめる。


 一歩。


 二歩。


 どうにか転ばずに踏みとどまったところで――。


 ぺしん。


 木剣の腹で、尻を叩かれた。


「……」


 キリムがゆっくり振り返る。


 セリウムは何事もなかったような顔で、木剣を肩に担いでいた。


 キリムは無言で尻を押さえた。


「今のは剣の勝負じゃないだろ」


「剣の勝負だぞ」


「尻を叩いただけじゃん」


「当たった」


「……」


 キリムは頬を膨らませた。


 そして何も言わずに構え直す。


 セリウムも笑いをこらえるように口元を緩め、剣を構えた。


 キリムが駆け出す。


 カンッ。


 受けられる。


 もう一度。


 カンッ。


 また受けられる。


 今度は横から。


 セリウムが半歩下がる。


 木剣は空を切った。


 キリムは勢い余って一回転しかけ、慌てて足を踏ん張った。


 その背中を、セリウムが木剣の先で軽く押す。


 ぽん。


 キリムが前につんのめった。


「……兄上」


「なんだ」


「遊んでる?」


「まさか」


 顔は真面目だった。


 だから余計に腹が立つ。


 キリムは木剣を握り直した。


「もう一回」


「いいぞ」


 ブラドリー家は、代々騎士を輩出してきた武門の家だ。


 父カルター・ブラドリーは伯爵家の当主にして、王都騎士団長。


 兄のセリウムもまた、幼いころから剣の才能を示していた。


 王都の学院で学んでいる兄は、久しぶりに帰ってきて、以前より少し背が伸びていた。


 剣も強くなっていた。


 それがキリムには、少しだけ面白くない。


 自分だって毎日剣を振っていたのだ。


 なのに、兄との差は縮まるどころか、むしろ広がっているように感じる。


 だからといって、兄が嫌いなわけではない。


 ただ。


 負けっぱなしなのは嫌だった。


「次は一本取るから」


「さっきも言ってたぞ」


「今度は本当に取る」


「じゃあ期待してる」


 セリウムが木剣を構える。


 キリムも腰を落とした。


 今度こそ。


 真正面から行っても駄目だ。


 力づくでいっても負ける。


 なら。


 キリムは地面を蹴った。


 まず上から振る。


 セリウムが受ける。


 そこまではいつもと同じ。


 だがキリムは、そのまま力を込めなかった。


 打ち合った木剣を、兄の剣に沿わせるように滑らせる。


「おっ」


 セリウムの目がわずかに見開かれた。


 キリムは、その横を抜けるように踏み込む。


 ――いける。


 そう思った。


 次の瞬間。


 セリウムの木剣が、下から跳ね上がった。


「あ」


 キリムの木剣が手を離れる。


 くるくると回りながら宙を舞い、芝生の上へ落ちた。


 ぽすっ。


 キリムはしばらく木剣を見つめていた。


 それから兄を見る。


「今の、ちょっと惜しかった?」


「ちょっとな」


 キリムの顔がぱっと明るくなる。


「じゃあ次は勝てる」


「どうしてそうなる?」


 キリムは急いで木剣を拾いに走った。


 セリウムはその背中を見ながら、呆れたように笑った。


 朝の風が庭を抜けていく。


 木々の葉がさらさらと揺れる。


 遠くでは鳥が鳴いていた。


 その向こう。


 青空に浮かんでいた入道雲は、いつの間にか大きく広がっていた。


 白かった雲の底が、少しずつ灰色に染まり始めている。


 だが二人は気づかない。


「兄上、もう一回!」


「朝飯はいいのか?」


「一本取ってから!」


「取れなかったら?」


「取るまでやる」


「母上に怒られるぞ」


 キリムの動きが一瞬止まった。


 考える。


 朝食を抜く。


 母に怒られる。


 兄に負けたまま終わる。


 数秒悩んでから、木剣を構えた。


「……もう一本だけ」


「それ、さっきも言ってたぞ」


「今度が本当に最後」


「はいはい」


 二人が向かい合う。


 セリウムが先に動いた。


 キリムも踏み込む。


 剣と剣が届く距離。


 その瞬間。


 空が白く染まった。


 音より先に、強い光が庭を照らした。


 すぐ近くの大樹へ、一本の稲妻が落ちる。


 グワラドゴラアァァン!!


 轟音。


 大地まで揺れたような音だった。


 キリムの身体が固まった。


 目を大きく見開いたまま、一歩も動かない。


 怖いと思うより先に、身体が動かなくなっていた。


 あまりにも突然で。


 あまりにも近かった。


「キリムッ!!」


 セリウムの顔から余裕が消える。


 だが、すでに木剣は振り出されていた。


 止めようとしても間に合わない。


 振り抜かれた木剣が――。


 キリムの額へ。


 パッカーン。


 キリムはそのまま意識を失った。



 * * *



 意識を失ったキリムは、夢を見ていた。


 とある男が送った、一生の夢を。


 それは、キリムとはまったく異なる世界で暮らした男の記憶だった。


 親と暮らし、同じ年頃の子供たちと過ごした少年時代。


 学校へ通い、友人と遊び、大人になった。


 そして家を出てからは、ずっと一人で暮らした。


 男は一日の半分ほどを働き、残った時間の多くを『ゲーム』という遊びに費やした。


 結婚はしなかった。


 子供も作らなかった。


 最期まで、一人だった。


 それが良い人生なのか、悪い人生なのか。


 寂しいことなのか、自由なことなのか。


 十歳のキリムには、まだ判断がつかない。


 ただ一つ、分かったことがある。


 男は、楽しそうだった。


 男にとって『ゲーム』とは、ただ遊ぶだけのものではなかった。


 気に入ったゲームがあれば、その世界の歴史や設定まで調べた。


 同じ遊びを好む者たちと語り合った。


 新しい遊び方を知れば試し、知らないことがあれば調べた。


 少し老いて、自分で長時間遊ぶことが難しくなってからは、他人がゲームをする姿を眺めて楽しんだ。


 剣も魔法も無い世界で、男は剣と魔法の世界に生きていた。



 * * *



「……くっ、オレは……僕は……」


 意識を取り戻したキリムは、ベッドの上で頭を抱えた。


 額には分厚い包帯が巻かれている。


 頭の中には、自分のものではない記憶が残っていた。


 男が何十年も生きた記憶。


 喜んだこと。


 腹を立てたこと。


 失敗したこと。


 後悔したこと。


 それらすべてを見たはずなのに。


 まだ十歳のキリムの頭には、『ゲーム』の光景ばかりが妙にはっきりと残っていた。


 剣とは無縁の人生だった男は、ゲームの中では様々な武器を使い、数えきれないほどの敵と戦っていた。


 例えば。


 自分の背丈ほどもある大剣を担ぎ、あるいは両手に一振りずつ剣を持ち、空を飛ぶ竜のような巨大な怪物を追い回すゲーム。


 例えば。


 短剣や袖に隠した刃を使い、街や屋敷へ忍び込み、人や悪魔を気づかれぬまま仕留めるゲーム。


 例えば。


 剣や槍を振るい、一人で何十人、何百人もの兵士を薙ぎ倒し、戦場を駆け回るゲーム。


 例えば。


 カタナと呼ばれる片刃の剣を持ち、相手との間合いを測り、たった一撃で勝敗が決まるゲーム。


 他にも。


 国を作るゲーム。


 軍を率いるゲーム。


 魔法使いになるゲーム。


 銃を撃つゲーム。


 車を走らせるゲーム。


 時には、女の子になって男たちと恋をするゲームまで遊んでいた。


 そのすべてが参考になるわけではない。


 巨大な怪物など見たこともない。


 一人で何百人も倒せるはずもない。


 人間が屋根から屋根へ飛び移ることすら、かなり怪しい。


 それでも。


 父と同じ騎士団を目指し、毎日剣を振っているキリムには、その光景がひどく鮮やかに思えた。


 構え方。


 間合い。


 武器の使い分け。


 力ではなく、速さや技術で相手を倒す姿。


 男が何十年も生きて得た、もっと大切な何かもあったはずなのに。


 まだぼんやりとする意識の中で。


 なぜか、そんなものばかりがキリムの胸に残っていた。


 その時。


 扉の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。


「キリムッ! 目を覚ましたのね!」


 勢いよく扉が開いた。


 飛び込んできたのは母のケイトリンだった。


 いつも綺麗に整えられている髪は少し乱れ、目元も赤い。


「母様?」


「三日よ。三日も目を覚まさなかったのよ!」


「三日!?」


 そんなに眠っていたのか。


 驚くキリムを、ケイトリンは強く抱き締めた。


「よかった……本当に……」


 母の身体が小さく震えている。


 そこでようやく、自分がどれだけ心配をかけたのかキリムにも分かった。


「……ごめん、母様」


「謝らなくていいの。あなたは悪くないのだから」


 ケイトリンはキリムの額に巻かれた包帯をそっと解いた。


「傷は治していたのに、いつまでたっても目を覚まさないから……」


 額には、薄い傷跡だけが残っていた。


 ケイトリンがそこへ手をかざすと、淡い光が灯る。


 治癒魔法。


 キリムにとっては、生まれた時から当たり前に見てきた母の魔法だった。


 だが今は違う。


「おお……」


「どうしたの?」


「母様、それ、魔法だよね?」


「……ええ?」


 ケイトリンが怪訝な顔をする。


「何を今さら」


「いや、その……すごいなと思って」


 夢の中の男が暮らしていた世界には、魔法などなかった。


 炎を出すことも、傷を光で治すこともできない。


 なのに男は、ゲームの中では何度も魔法を使っていた。


 火を放ち、雷を落とし、傷を癒やし、身体を強化した。


 その『ゲームの中にしかなかったもの』が、今、母の手から本当に出ている。


「母様」


「なあに?」


「魔法、教えて」


 ケイトリンの動きが止まった。


「……今、なんて?」


「僕も魔法を勉強したい」


「キリムが?」


「うん」


「魔法を?」


「そうだけど?」


 母の目がみるみる潤んでいった。


「まあ……!」


「母様?」


「まあまあまあ!」


 再び抱き締められる。


 今度は先ほどより強かった。


「ちょっ、苦しい!」


「あなたが! あなたが魔法に興味を!」


「興味ある! あるから離して!」


 ブラドリー家は武門の家である。


 夫カルターは剣。


 長男セリウムも剣。


 次男キリムは、もっと剣。


 治癒術師であるケイトリンが魔法の話をしても、男三人は感心こそするものの、すぐに剣や騎士の話へ戻ってしまう。


 少しだけ。


 本当に少しだけ、寂しかった。


 そんな次男が、初めて自分から魔法を教えてほしいと言った。


「何から知りたい? 属性魔法? 治癒魔法? まず魔力を感じるところからかしら?」


「身体を強くする魔法ってある?」


「……え?」


「速くなったり、力が強くなったり」


「ええ、身体強化なら――」


「修行の疲れを早く取る魔法は?」


「治癒魔法の応用で――」


「じゃあ訓練して限界になったところで治したら、また訓練できる?」


「…………」


「あと剣に炎をつけたり――」


「キリム」


「なに?」


「……結局、剣なのね」


 ケイトリンは少しだけ遠い目をした。



 * * *



 その日の夕食には家族全員が揃った。


 父カルター。


 母ケイトリン。


 兄セリウム。


 そしてキリム。


 まだ安静にしていろと言われているキリムだけは、いつもより少ない食事を前にしている。


 セリウムは先ほどから、ちらちらとキリムの額を見ていた。


「兄上」


「なんだ?」


「そんなに見なくても傷はもうないよ」


「……そうか」


「母様が治してくれたし」


「ああ」


 それでも兄の表情は晴れない。


 キリムは少し考えた。


「次はちゃんと避けるよ」


「そういう問題じゃない!」


 父カルターが豪快に笑った。


「はっはっは! 元気なら何よりだ!」


「父上!」


「事故だ、セリウム。いつまでも気に病んでも仕方あるまい」


「でも俺が打ったのは事実です」


「だから、次は僕が避けるって」


「お前は黙ってろ!」


「なんで!?」


 いつもの兄弟のやり取りに、ケイトリンも小さく笑った。


 食卓に、ようやくいつもの空気が戻ってきた。


「それでね」


 キリムは思い出したように口を開いた。


「寝てる間、夢を見たんだ」


「夢?」


 父が尋ねる。


「ここじゃない世界の男の夢だよ」


 三人の視線が集まった。


 子供の話す夢など荒唐無稽なものがほとんどだ。


 それでも三人はキリムの話に耳を傾けた。


 キリムは覚えていることを、そのまま話した。


 剣も魔法もない世界。


 鉄の箱が道を走り、大きな乗り物が空を飛ぶ。


 遠く離れた相手とも話ができる。


 そして男は、その世界でずっと『ゲーム』という遊びをしていた。


「ゲームの中では、大きい怪物を倒したり、軍を率いたり、国を作ったりしてた。剣だけじゃなくて、槍とか斧とか、弓とか銃とか、色んな武器を使って」


「じゅう?」


「遠くから攻撃する……すごい弓みたいなもの?」


「なるほど。分からん」


 父は早々に理解を諦めた。


「その男は強かったのか?」


「本人はたぶん弱い」


「弱いのか」


「でもゲームの中ではめちゃくちゃ強かった」


「ますます分からんな」


「僕もそう思う」


 キリムは笑った。


 ただ、その夢が普通の夢ではないことは分かっていた。


 男が何を好きだったか。


 どんなゲームをしていたか。


 どんな時に怒り、笑い、悔しがったか。


 何十年分もの記憶が、自分の中に残っている。


「だから、ちょっと色々試してみたいんだ」


「色々?」


「うん。強くなる方法」


 セリウムが眉をひそめる。


「結局そこなのか」


「だって、出来そうなこといっぱいあるし」


「……まあ、お前らしいけど、ほどほどにな」



 * * *



 数日後。


 ようやくベッドから出ることを許されたキリムは、早速、夢で得た知識を試し始めた。


 まずは自分自身を知る。


 ゲームでは基本である。


 自室の鏡の前に立った。


「ステータス」


 何も起きない。


「ステータス、オープン」


 何も起きない。


「メニュー!」


 やはり何も起きない。


 キリムは腕を組んだ。


「……発音か?」


 もう一度。


「スティータァス!」


 通りがかったメイドが静かに扉を閉めた。


 次は武器である。


 これまでのキリムにとって、武器といえば剣だった。


 父も剣。


 兄も剣。


 騎士も剣。


 だから強くなるなら、剣を振ればいいと思っていた。


 だが夢の男は違った。


 大剣。


 双剣。


 槍。


 斧。


 短剣。


 弓。


 刀。


 暗器。


 ゲームによっては、盾だけで敵を殴り倒していたことすらある。


 キリムは屋敷の武器庫へ足を踏み入れた瞬間、今までとはまったく違う場所を見るように目を輝かせた。


「これが槍か……」


「そうですよ?」


 武器庫を管理する騎士が怪訝な顔をする。


 今までキリムが槍に興味を示したことなどない。


「長いな」


「槍ですから」


「剣より遠くから攻撃できる」


「まあ、そうですね」


「それって強くない?」


「使い方次第でしょう」


 次に斧を手に取ろうとする。


「重そうだ」


「重いです」


「その分、一撃が強そう」


「坊ちゃまにはまだ早いです」


 今度は短剣。


「これ二本持ったら攻撃回数も二倍になる?」


「難しいですね」


「なんで?」


「腕は二本しかありませんので」


「二本あるから二倍になるじゃん」


「そういう簡単なものではありません」


 そして奥に置かれた巨大な両手剣を見つけた。


 キリムの目が輝く。


「でかい!」


「はい」


「重い!」


「はい」


「絶対強い!」


「結局そこですか」


 騎士はため息を吐いた。


「持ってみていい?」


「危ないから駄目です」


「ちょっとだけ」


「駄目です」


「見るだけ」


「今見ています」


「じゃあ触るだけ」


「駄目です」


「まだ十歳だから?」


「はい」


「十一歳なら?」


「駄目です」


「十二歳」


「まだ駄目です」


「十三」


「……お戻りください」


 夢の知識を得て、キリムは武器に対する視野を大きく広げた。


 だが。


 大きくて重い武器を見れば、とりあえず強そうだと思うところは何も変わっていなかった。


 ならば、次は身体を作る。


 夢の男の記憶によると、強い身体を作るには食事が大切らしい。


 特にタンパク質。


 細かい理屈は覚えていない。


 ただ、


 肉。


 卵。


 たぶんこの二つを食べればいい。


「料理長!」


「どうされました、坊ちゃま」


「茹で卵をくれ!」


「……夕食ならもう少しですが」


「今すぐ必要なんだ!」


「何個ほど?」


 キリムは考える。


 たくさん食べれば、その分だけ身体も大きくなる。


 ゲームでも回復薬を一個使うより十個使った方がたくさん回復する。


「十個!」


「十個!?」


「やっぱり十五!」


「一人で食べるんですか!? 無理ですよ!」


 料理長に止められた結果、茹で卵を六個だけ出してもらった。


 キリムは全部食べた。


 まだいける。


 鶏肉も食べた。


 夕食も普通に食べた。


 さらに食後、厨房へ戻って残っていた卵を三個食べた。


 その夜。


「……母様」


「どうしたの?」


「お腹痛い」


「でしょうね」


 翌日。


 キリムは再びベッドにいた。


 雷で三日眠ったばかりだというのに、今度は食べ過ぎで腹を壊した。


「僕、強くなるはずだったのに……」


「まず普通にご飯を食べなさい」


 母に怒られた。


 完全に腹の調子が戻るまで、さらに三日かかった。


「キリム、お前は何をやっているんだ……」


 セリウムが呆れた顔で言った。


「身体を大きくしようと思ったんだよ」


「だからって卵をそんなに食う奴がいるか!」


「夢の男はタンパク質が大事だって」


「限度というものを知らないのか?」


「知らなかった」


「今、知ったな」


「うん」


 キリムは素直に頷いた。


 セリウムはため息を吐いた。


 雷の日から、胸の奥に引っかかっていたものが少しだけ軽くなる。


 弟は頭を打って、三日も目を覚まさなかった。


 その後は急に魔法に興味を持ち、剣以外の武器を眺め、知らない言葉を使うようになった。


 もしかすると。


 自分の木剣で、弟を別人にしてしまったのではないか。


 そんな不安すらあった。


「兄上」


「なんだ?」


「腹治ったら、また稽古しよう!」


「嫌だ」


「なんで!?」


「まだ大人しくしてろ!」


「もう治ったって!」


「また倒れたら今度こそ母上に俺が怒られる!」


「関係なくない!?」


「あるだろ!」


 セリウムは思わず笑った。


 妙な知識は増えた。


 色々なことを考えるようにもなった。


 だが。


 負けたら悔しがり、強くなりたがり、すぐ無茶をする。


 やっぱり弟は弟だった。



 * * *



 それから数日後。


 夕食には再び家族全員が揃った。


 父カルターは、週末には王都へ戻る予定だった。


 休暇中のセリウムも一緒に王都へ向かい、その後は学院の寮へ戻る。


 そして当然、キリムも両親と共に王都のタウンハウスへ戻る。


 そのつもりだった。


 カルターには、王都で進めたい話がいくつかあった。


 キリムと同じ年頃の第二王子ツヴァイクとの顔合わせ。


 武門のブラドリー家と王家との関係を考えれば、次男のキリムが第二王子と親しくしておくことは悪い話ではない。


 少し先には縁談の話もある。


 まだ十歳ではあるが、貴族の子としては珍しいことでもなかった。


 だからカルターの中では、キリムが王都へ戻ることなど、ほとんど決まった予定だった。


「父様」


「うむ?」


「お願いがあります」


 カルターが息子を見る。


「僕、このまま領地に残りたい」


 カルターの手が止まった。


「王都へ戻らないということか?」


「うん」


「何のために?」


「領軍のところで鍛えたい」


 キリムは真っ直ぐ父を見る。


「剣だけじゃなくて、槍も弓も、馬も覚えたい。兵士がどうやって戦うのかも知りたい。夢のゲームを見て思ったんだ。強いやつって、ただ剣を振ってるだけじゃなかった」


「ふむ」


「それに――」


 キリムは少しだけ言葉を止めた。


「僕は父様みたいな騎士になりたい」


 カルターの片眉が上がる。


「小さい頃、王都で父様が騎士団を率いてるところを見たの、覚えてる」


 磨かれた鎧。


 整然と進む騎士たち。


 その先頭を馬に乗って進む父。


 沿道からは大きな歓声が上がっていた。


 まだ幼かったキリムは、母の手を握りながら、父の姿をずっと目で追っていた。


「あの時から、ずっと父様みたいになりたかった」


 夢の中で、数え切れないほどの英雄を見た。


 勇者。


 将軍。


 国王。


 世界を救った男たち。


 だが、キリムが憧れた英雄は最初から父だった。


「だから、もっと色んなことを知って、もっと強くなりたい」


 カルターは黙った。


 王都へ戻れば、第二王子と引き合わせるつもりだった。


 貴族として考えれば、その方がいいのかもしれない。


 だが。


 騎士として。


 自分に憧れて、自ら兵の中へ入って学びたいと言う息子を止めることができるだろうか。


 そして父親として。


 少しだけ。


 本当に少しだけ、困った。


 まだ十歳だ。


 もうしばらく自分の近くに置いておきたい。


「……よし」


 それでもカルターは笑った。


「分かった」


「本当!?」


「ああ。ウオドリー軍隊長に話をしておこう」


「やった!」


「ただし、遊びではないぞ」


「分かってる!」


「兵士の訓練に入るなら、伯爵家の息子だからと泣きついても助けんぞ」


「泣かない!」


 嬉しそうに笑う息子を見て、カルターも笑った。


 王都で第二王子と出会うはずだったキリムは、伯爵領に残ることになった。


「では、私も残ります」


「……ん?」


 今度はカルターが固まった。


 ケイトリンが、さも当然のように言う。


「キリムはまだ十歳です。それに」


 少し嬉しそうに次男を見る。


「魔法を教えてほしいと言ってくれましたから」


「母様!」


「次は食べ過ぎないことも教えないといけませんし」


「それはもう覚えた!」


「どうかしら?」


「覚えたって!」


 カルターは妻を見る。


「つまり……ケイトリンも領地に?」


「ええ」


 キリムを見る。


「キリムも?」


「うん!」


 最後にセリウムを見る。


「では、王都へ戻るのは」


「父上と私だけですね」


「…………そうか」


 先ほどまでの騎士団長の威厳が、少しだけ萎んだ。


 キリムが横目で父を見る。


「父様、寂しい?」


「馬鹿を言うな」


 即答だった。


「私は王都騎士団長だぞ」


「それ、関係ある?」


「ある」


「ないと思うけど」


「ある」


 カルターは肉を切った。


 必要以上に力が入っている。


「……ケイトリン」


「はい?」


「たまには王都へ戻ってこい」


「もちろんですわ」


「キリムもだ」


「うん」


「……王都の騎士団も見せてやる」


 キリムの顔がぱっと輝いた。


「本当!?」


「ああ」


「やった!」


 息子の嬉しそうな顔を見て、カルターも満足そうに頷いた。


「父上」


「なんだ?」


「王都に戻ったら二人だね」


「……そうだな」


「静かになるね」


「セリウム」


「なに?」


「お前は学院の寮に戻るんだったな」


「あ」


「…………」


 カルターは黙った。


 王都のタウンハウスへ戻るのは。


 自分一人だった。


「……ケイトリン」


「はい?」


「やはり月に一度くらいは来られないか?」


「ふふ。考えておきますわ」


 母が笑う。


 兄も笑う。


 キリムも笑った。


 夢の中の男が、どんな人生を歩んだのか。


 その記憶がこれから自分をどう変えていくのか。


 まだキリムには分からない。


 けれど。


 父は父で。


 母は母で。


 兄は兄だった。


 そして自分は、キリム・ブラドリーだ。


 強くなって。


 いつか父のような騎士になる。


 その夢だけは、雷に打たれる前と何ひとつ変わっていなかった。


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