第六話:対の印と動き出す運命
「……え、は、えええっ!?」
目の前で片膝をつき、真摯な瞳で自身を見上げてくる鳳龍。
あまりの光景に、凛の思考は完全にフリーズしてしまう。
「こ、婚約……!? あの、私たち、今日初めて会ったばかりですよね!?」
「落ち着け、阿凛」
「……っ、その呼び方……」
「すまない。気が早かったか? だが、俺の話を聞いてくれれば、きっと君は俺の提案を受け入れてくれると思う」
鳳龍は優雅な所作で立ち上がると、動揺する凛を促して再びソファーへ座らせた。
自身も対面に腰を下ろし、静かに葉を続ける。
「そう警戒しないでくれ。婚約と言っても、これは一種の契約だと思って欲しい」
「契約……婚約!?」
あり得ない申し出に、素っ頓狂な声が凛の喉から漏れる。
即座に断ろうと表情を固くした凛だったが、鳳龍の真剣な瞳に心臓が跳ねた。
「なんで……」
「突然のことで驚くとは思うが……。君自身の名で、独立した陰家籍を発行させたくはないか?」
自分の名前での陰家籍……!
「……そんなこと、できるんですか?」
「できる。君が李家の次期当主である俺の婚約者となれば、身元を保証できるからな。こう言うとなんだが、李家以上の後ろ盾はそうそうない」
「そ、それはそうかもしれませんけど……」
「君にリスクはないと思うが? 期間は……そうだな。君が学園を無事に卒業し、自立できるまでではどうだ? その間の生活費や学費もすべてこちらが持とう。君は俺の『婚約者』という立場を利用して、実家からの不当な仕打ちを跳ね返せばいい」
(条件が良過ぎる……! 頼れる身内もいない私にとって、断る理由がない……。でも、どうしてそこまで私に都合の良い提案をしてくれるの……?)
破格の提案だからこそ、凛の警戒心が再び持ち上がる。
そんな凛の戸惑いを察したように、鳳龍は自身の右腕の袖をゆっくりと捲り上げた。
そこにあったのは——先ほど車内でも目にした龍の形のアザ。
ほのかに青く輝いている。
「——! それは……あなたにも、凶印があるなんて……」
凛は思わず、自分の左腕を抱え込んだ。
この袖の下には、これまで凛を苦しめてきた真っ赤なアザがある。
不吉の証であり、日本の陰陽師の家では忌み嫌われているものだ。
「凶印……この国では、そう呼ばれているのか」
「この国ではって……あなたの国では違うの?」
「香港では、『対印』と呼ばれている」
「対……印……?」
「そうだ。李家に代々伝わる古い伝承がある。『右腕に青き印を刻みし子は、東の島国へ渡り、左腕に赤き印を持つ者を探せ。二つ揃いし時、対の運命が動き出す』とな」
「東の島国……それって、日本のこと……?」
「ああ。俺が香港から日本の覇羅野学園へ留学してきた最大の目的は、その伝承にある『赤き印の持ち主』を探すことだった」
鳳龍は静かに自身の青い印を見つめ、低く呟く。
「この青い印は、幼い頃発現したんだ。時折、強い冷気を放ち、俺の身体を内側から蝕む。……だが、図書室で君に触れた瞬間、その冷気が嘘のように和らいだんだ」
「あ……」
ハッとして、凛は自分の左手を握りしめた。
凛の赤い印もまた、幼い頃から突発的な熱を生み出し、彼女を苦しめてきた。
けれど、鳳龍に手を握られた時、あれほど辛かった熱が、すーっと心地よく引いていったのだ。
「赤と青……お互いの熱と冷気を打ち消し合っている……?」
「そうだ。詳細は俺にもまだ分からん。だが、この印を持つ者同士は、理屈を超えて強く惹かれ合い、補い合うようにできている。……この国で君を探し当てられたのは偶然ではない。運命的な引力だ」
鳳龍のまっすぐな眼差しを受け、凛の胸の奥がじんわりと熱くなる。
ずっと、不吉な『凶印』だと忌み嫌われてきた。
それが、まさかこの人と出会うための『対の印』だったなんて。
「俺にとっても、君の存在は不可欠だ。だから……俺の側にいてほしい」
偽りの婚約。
けれど、そこには確かな温もりと、凛を必要としてくれる強い言葉があった。
行くあてを失い、世界から見捨てられたと思っていた自分に、この人は手を差し伸べてくれたのだ。
「……分かりました。私で力になれるなら……その『契約婚約』、お受けします」
凛が意を決して頷くと、鳳龍が見せたのは、今日一番の柔らかい笑みだった。
「感謝する、阿凛」
(眩しっ……。国宝級の微笑みじゃない)
思わず顔を背けてしまう凛だったが、ハッと口に手を当てた。
「あの……でも、本当に私でいいのでしょうか。それに、あなたのご両親に了解を取らなくても……?」
「案ずることはない。両親は俺が対印の相手を見つけることを切望している」
「でも、やっぱり……」
「口を開けば見合いをしろと煩かったしな。小凛が防波堤になってくれると助かるんだが」
「……それは、納得できる理由ですね」
香港の政財界の頂点に君臨する大財閥『李氏グループ』。
その根幹たる李家は、数千年の歴史を誇る中国道術と風水術の正統な後継者であり、香港陰陽省にも多大な影響力を持つ陰陽師界の絶対的重鎮だ。
島国である日本の陰陽道などとは、歴史の深さもスケールも根本から桁が違う。
そんな雲の上の名門の「次期当主」である彼の婚約者になれば、花石家など束になっても逆らえるはずがない。
「そんなに心配なら、今もう報告してしまおう」
「えっ」
鳳龍はスマートフォンを取り出し、画面を操作し始めた。
スピーカーモードにされた画面には『媽咪(母さん)』の文字。
『喂?(もしもし?)』
『鳳龍? あなたから連絡してくるなんて珍しいわね。何かあったの?』
スピーカーから聞こえてきたのは、優雅で上品な女性の声。
香港にいる鳳龍の母親らしい。
鳳龍は流暢な広東語で短く状況を説明する。
「——というわけで、運命の『赤き印』の持ち主が見つかった。彼女と婚約する」
『まあ……! 本当なの!? 鳳龍、ついに見つけたのね!』
「ああ。ここにいるが……話すか?」
水を向けられ、思いっきり首を振る凛。
だが、鳳龍の母親はすぐに日本語に切り替えてきた。
『そこにいるですって!? ちょっと電話を変わりなさい!』
ひっ、と凛の喉からおかしな音が出る。
だが、予想に反して鳳龍の母は歓喜していた。
たどたどしくも気品のある日本語がスピーカーホンから流れ出てくる。
『……あ、もしもし? 聞こえるかしら!?』
「えっ、あ、はい! は、はじめまして……っ。あの、花石凛と申します」
『はじめまして、凛さん! 鳳龍の母です。ああ、本当にあったのね、運命の出会いが……! 冷たくて素っ気ないうちの息子が、ご迷惑をかけていませんか?』
「い、いえ! そんなこと……! すごく助けていただいていて……」
『よかったわぁ。今すぐ日本に飛んでいってあなたを抱きしめたいくらいよ! 可愛いお洋服もドレスもジュエリーも、たくさん送るから待っていてね! 鳳龍をよろしく頼みますね、私の可愛いお嫁さん!』
「お、お嫁……っ!?」
「媽咪、そろそろ切るぞ。小凛が混乱している」
『あら、照れちゃって! 凛さん、近いうちに必ずお会いしましょうね!』
プチッと電話が切れると、再び静寂が戻ってきた。
(えええ……!? めちゃくちゃ歓迎ムードだし、日本語お上手だし、勢いがすごすぎる……!!)
冷徹な『氷の貴公子』のイメージとは真逆の、あまりにも賑やかで温かい香港の義母(仮)の反応に、凛は口をぽかんと開けてしまうのだった。
こうして、どん底にいた凛の人生は、異国の御曹司との「契約婚約」によって、激動のスピードで走り始めた。
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