第五話:異国の貴公子の甘すぎる保護
静かに走り続けた高級セダンは、マンション群の中でも一際目を引く超高層棟の地下駐車場へ滑り込んだ。
そのまま専用のプライベートエレベーターに乗り込み、一気に最上階へ。
静寂の中でドアが開くと、そこに広がっていたのは——現代の城と見紛うばかりの圧巻の空間だった。
(な、何ここ……。天井高すぎない……!? マンションなのに階段があるし……二階建て……??)
全面ガラス張りの大窓からは、雨に煙る東京の夜景が一望できる。
伝統的な花石家の和風建築しか知らない凛にとって、そのモダンラグジュアリーな世界は完全に異次元だった。
スタイリッシュな室内には、紫檀の重厚な家具や繊細な茶器がさりげなく配されている。
オリエンタルなお香と高級アロマの混ざった心地よい香りが、ほのかに漂っていた。
「まずは湯だな。話はそれからだ。——陳媽!」
鳳龍が呼びかけると、奥の部屋から年配の女性が姿を現した。
中華風の割烹着を身につけていて、いかにも温厚そうな雰囲気だ。
「鳳龍少爺! 點解(どうされたんですか)……あらまあ!」
陳媽と呼ばれた女性は、鳳龍の隣でずぶ濡れになって固まっている凛を見るなり、あんぐりと口を開けた。
「凛に湯の用意を」
「はい、ただちに」
陳媽は日本語に切り替えると、すぐに凛のもとへ駆け寄ってくる。
「お可哀想に、こんなに濡れてしまわれて……! お嬢様、こちらへどうぞ。お召し物も下着も、すぐにお肌に合う新品をご用意いたしますからね」
「あ、あの……ありがとうございます……」
戸惑いながらも、身を案じてくれる温かい手つきに凛の警戒心が少しずつ解けていく。
陳媽に案内されたバスルームは、これまた広いジャグジー付きのジェットバスだった。
(……待って。これって現実? 私、さっきまで外で濡れねずみになっていたんじゃ……?)
頭の中は混乱の極みである。
だが、せっかくなのでとにかく温かいお湯に身を沈める。
全身の緊張と冷えが、ふっとほぐれていくようだった。
それほど長い時間入っていたわけではないのだが、風呂から上がるとすでに着替えが用意されていた。
新品の下着に、露出の少ない女性物のルームウェア。生地はとても肌触りが良い。
リビングに戻ると、鳳龍がソファーで待っていた。
その隣には、スーツ姿の男性と、温かいお茶の準備を整えた陳媽が静かに控えている。
「温まったか?」
「あ、はい……。あの、タオルや服までお借りしてしまって、すみません」
「気にすることはない。座って」
鳳龍に促され、おずおずと対面のソファーに腰を下ろす。
茶器を手にした鳳龍の佇まいは、どこを切り取っても一枚の絵のように様になっていた。
(ほんと、無駄に顔が良いわね……。じゃなくて!)
凛はコホンと小さく咳払いをして、居住まいを正した。
「あの……そろそろ説明していただけますか? 車の中で見せていただいた、その腕のアザのことも……」
「ああ、順を追って説明する。だがその前に、花石家をなぜ追い出されたのか聞いてもいいか?」
尋ねられ、凛はうっと言葉を詰まらせた。
初対面に近い相手に、自分のみすぼらしい身の上を語るのは、想像以上に惨めで勇気がいること
だった。
そんな凛の躊躇を察したのか、横から陳媽が優しく声をかけてきた。
「少爺、まずは何か召し上がられては? お嬢様の顔色が良くありません。食飽飯,先有力氣做嘢
(お腹を満たさなければ力も出ませんよ)! 難しいお話は、少し何かお腹に入れられて、落ち着いてからのほうが良いですよ」
「ああ……それもそうだな。悪かった、凛」
「そんな、とんでもないです」
食卓へ移動すると、すぐにお粥の小鉢と種々の薬味が用意された。
出来立ての点心も数種類並ぶ。
「お嬢様、どうぞお召し上がりください。温かいものを食べると、心も落ち着きますよ」
「あ……ありがとうございます……」
レンゲでお粥を一口運ぶ。
優しい出汁の香りがふわりと鼻腔をついた。
緊張で強張っていたお腹がじんわりとほどけていく。
そういえば、お昼も食べていなかったことに今さらながら気がついた。
鳳龍も、もう一人の男性も点心をつまんで、なんとなくリラックスした雰囲気になった。
「ふふっ」
「……どうした?」
「ごめんなさい。知らない人達に囲まれて、点心を食べているのが不思議過ぎて……」
「それもそうだな」
「なんだかおかしくなっちゃって」
「何度も言うな。俺まで笑ってしまうだろう」
言いながら、鳳龍も口角を緩めている。
非日常もいいところだが、今日は色々とありすぎて、段々と感覚が麻痺してきてしまう。
「あの……そちらの方は……」
「きちんと紹介していなかったな。こちらは李家の専属弁護士を務めている張だ。陳媽も李家の使用人で、身の回りのことをしてくれている」
「そうなんですね」
「はじめまして、凛様。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私のことは日本読みで張とお呼びください」
張弁護士はまだ若く、二十代くらいだろう。
眼鏡の奥の瞳は理知的な印象だ。
「は、はじめまして……。その、様付けにされると恐縮してしまうんですが……」
「申し訳ありません。では、お嬢様とお呼びしますね」
「えっと……お嬢様呼びも恥ずかしいんですけど……」
「では、小凜とお呼びしても? 日本語でいう『ちゃん付け』のようなものですが」
「駄目だ」
張弁護士を即座に遮る鳳龍に、えっと皆が視線を集める。
「小凜とか阿凛とかは駄目だ。俺がそう呼ぶつもりなんだから。張は様付けでも何でも良いだろう」
「まあまあ少爺。你吃醋嗎?(焼きもちですか?)」
「靜啲(静かにしろ)。余計なことを言うな」
広東語で交わされるやり取りの意味は分からないものの、少し顔を背ける鳳龍がなんとなく新鮮だった。
「『氷の貴公子』が子供っぽい……?」
「お嬢様、何ですか、その『氷の貴公子』って?」
陳媽と張に、鳳龍の学園での異名だと告げると二人とも吹き出すのを堪えている。
「いえ、私は少爺がこんな小さな頃から仕えておりますので……とてもお嬢様には聞かせられないような悪ふざけをしていた時分も知っておりますのでね、ふふふふっ」
「おい、勘弁してくれ」
ひとしきり皆で笑い合う。
その場の温かい雰囲気に背中を押されたのかもしれない。
(——こんなに笑い合うなんて、いつぶりかしら。見ず知らずの相手を信用して、話してもいい……の……? いつもの私なら、絶対にこんなこと……)
けれど、今日一日でボロボロになった心は、差し出された優しさに抗うだけの余力を失っていた。
「あの……私、実家から追い出されてしまったんです」
「追放、か」
鳳龍は、静かに目を細めた。
張は手元のタブレットに手際よくメモを書き留めている。
「詳しく聞かせてみろ。いったいどういうことだ」
「はい……」
こうなったら仕方ないと、全て話すことにした。
幼い頃から家族に冷遇されていたこと。
いつの頃からか、毎日大量の霊符書きを押し付けられており、その功績をすべて彩香に奪われて
いたこと。
そして昼間、許嫁であった覇土山聡から一方的に婚約破棄を言い渡され、それを契機に「役立た
ず」として花石家から完全に追い出されたこと。
「さらに……あの人たちは、私を『除籍』すると言っていました」
「除籍だと!」
「はい……」
これから待っているお先真っ暗な未来を思い出し、胸がギュッと締め付けられる。
目の前がぐらりと歪むと、後ろから陳媽が肩を支えてくれた。
「お嬢様、顔色がお悪く……! 少爺、除籍とはそんなにも重大なことなのですか?」
「ああ」
「陰陽師の家系において除籍とは、土御門省が管理する『陰家籍』から名前を抹消されることを意味しますからね」
張も神妙な面持ちで頷く。
「陰家籍?」
李家に仕えているといっても、陳媽は陰陽師の社会にはさほど明るくないらしい。
張は分かりやすく説明を足した。
「陰家籍というのは、一般の戸籍とは別に管理されていて、言うなれば陰陽師としての血統証明そのものにあたります。除籍されるというのは、陰陽師の世界においては『社会的な死』と同義なのです」
「まあ! なんて非道な……!」
「凛、家を追い出されたらどこへ行くつもりだったんだ?」
「……陰家籍さえあれば、学園の寮に入ろうかと思っていました。そこで自立の準備を整えようかと……」
「当然の判断だな」
本来なら、覇羅野学園を卒業すればそのまま土御門省や術者連合会などの機関で働く道がある。
仮に花石家から勘当されたとしても、陰家籍に名さえ残っていれば学園からの生活補助も出る。
寮に入って自立することだってできたはずなのだ。
実際、突然変異で霊力が発現した一般家庭出身の生徒たちだって、個人で陰家籍を取得し、奨学
金を得ながら寮生活で逞しく暮らしているのだから。
だが、除籍されるとなると話は別だ。
学園を退学させられ、その道は完全に閉ざされてしまう。
それどころか、まともな職に就くことすら難しくなる。
陰陽師の社会において、家から除籍された者は『無能力者』か『危険な野良術者』としてしか扱われないからだ。
後ろ盾を失った人間が、社会の底辺へと叩き落とされるのは目に見えていた。
「……だから、あの人たちが私を除籍してしまったら……私はもう、この世界で生きていく場所がなくなってしまうんです」
俯き、ギュッと膝の上の服を掴む。
「……お祖母様の筆も、燃やされてしまいました」
「見せてみろ」
風呂敷包みから黒焦げになった赤天尾の筆を取り出すと、皆一様に息を呑んだ。
「なんて酷い……」
陳媽は目元を拭い、痛ましそうに涙ぐんでいる。
「……これは俺が預かっていいか?」
「え? でも……」
「心配するな。悪いようにはしない」
「……分かりました」
凛が頷くと、鳳龍は恭しい手つきで筆を受け取った。
焼け焦げた筆をじっと見つめながら、鳳龍は低く呟いた。
「……どこまでも、救いようのない愚行だな」
呟きと共に、鳳龍が傍らに控える張に視線を飛ばす。
「張。今の話、聞いていたな?」
「はい。すべて記録いたしました」
張弁護士は、タブレットを操作しながら静かに頷いた。
「対の印をお持ちの方を虐げ、あまつさえ除籍しようとは……到底看過できませんね」
「ああ。至急、事実確認を。必要な手配は任せる」
「承知いたしました。では私はこれで」
張は深々と一礼すると、そのまま帰ってしまった。
陳媽も「別室におりますので、何かあればいつでも声をかけてください」と言い残してリビングを退出した。
急に静まり返り、広い空間で改めて二人きりになると、心臓が跳ねるような緊張感が走る。
「あの……本当に色々とありがとうございました。私、その……」
これ以上長居して迷惑をかけるわけにはいかないと、立ち上がりかけた凛の手首を、鳳龍がそっと捕まえる。
「二度と手放す気はないと、言ったと思うが」
「…………!」
鳳龍はソファーから立ち上がり、凛の目の前で優雅に片膝をついた。
目線がぴったりと重なる。
「凛」
「は、はい……?」
「俺と婚約する気はあるか?」
「……え、は、えええっ!?」
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