第四話:雨の中の再会
ぽつり、と額に冷たいものが当たった。
見上げれば、いつの間にか暗雲が空を覆い尽くし、ポツポツと大粒の雨が降り始めている。
ついていない時は、とことんついていないものだ。
(傘もないわ……コンビニで買おうかしら……。いえ、そんなことよりこれからどうするか考えなきゃ)
凛は胸に抱いた風呂敷包みを、雨から庇うように持ち直す。
中には大したものは入っていなかった。
大方、離れにあるものを適当に入れておけと静江が使用人に命じたのだろう。
中身は制服の替えのシャツや下着といった細々したものばかりだった。
多少の現金が入っていたのはせめてもの救いだったが。
焼け残りのお祖母様の筆は、ハンカチに包んで一緒にしまっておいた。
そうこうしているうちに雨足はあっという間に強まり、凛の制服を容赦なく濡らしていく。
(これからどうしよう。除籍手続きが受理されたら、学園の寮にも入れない。と言うより、今夜の宿すら怪しいわね……)
一瞬、胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みに襲われた。
実家に未練なんてない。あの父親にも、継母にも、義理の妹にも。
けれど——お祖母様とほんのひとときを過ごしたあの離れの匂いや、温かな思い出まで全部泥足で踏みにじられたことが、じわじわと悔しさとなって押し寄せてくる。
(……泣かない。あんな人たちのために涙一滴流すのも勿体ないもの)
ギュッと唇を噛み締め、前を向いて歩き出そうとした——その時だった。
バサバサッ、と激しい羽音が頭上で響いた。
「な、何……!?」
見上げると、激しい雨をものともせず、一羽の大きな黒烏が電柱の上から舞い降りてきた。
ただのカラスではない。
その羽の縁はうっすらと蒼白い光を帯びており、瞳はまるで精巧な瑠璃玉のように澄んでいる。
(式神……!? あの時の……)
カラスは凛の頭上をぐるりと一巡すると、すっと旋回して路地の先へと飛んでいった。
そして、少し離れた街灯の下で止まり、振り返って凛をじっと見つめて「カー」と小さく鳴く。
「……ついて来いってこと?」
怪しみつつも、今の凛には行くあてもない。
意を決してカラスの後を追って路地を抜けると、人気のない駐車場に行き着く。
通り一本隔てた先は大きな幹線道路のはずだ。車が行き交う音と雨の音が交じる。
雨の煙る視界の向こうに、一際異彩を放つ漆黒の高級セダンが静かに佇んでいた。
流線型の美しい車体。
窓ガラスは深くスモークがかかっており、中の様子は窺えない。
カラスはその車のサイドミラーの上にちょこんと乗り、凛に向かって翼を羽ばたかせた。
(高級車に……カラスの式神。これってどういう状況なのかしら)
凛が警戒して足を止めたその瞬間、カチリと音を立てて、後部座席のドアが滑らかに開いた。
中から出てきたのは——あまりにもこの雨の日の路地裏にはそぐわない、洗練された男だった。
「……見つけた」
低い、それでいて優しげな声。
雨に濡れる街灯に照らし出されたのは、端正な顔立ちと、黒曜石の瞳。
昼休みの図書室で凛の手首を掴んだ男——李鳳龍だった。
「……あなたは……。どうしてここに……? 見つけたって、どういうこと……?」
「質問に答えている暇はない。ずぶ濡れだろう。こちらへ来い」
鳳龍は溜息をひとつ吐くと、一切の躊躇なく車内へと凛を導こうとする。
その手が、凛の手首を優しく掴んだ時。
——ひやっとした、心地よい冷気が皮膚を伝わってくる。
(あ……熱が……)
先ほどから、凛の体内の熱はじわじわと上がりかけていた。
雨に打たれて冷えているはずの身体なのに、だ。
きっと、追放された怒りとストレスからだろう。
その熱が、彼の手に触れられた瞬間、スーッと引いていく。
図書室の時と同じだ。
この男の冷気が、凛の暴走しがちな霊力を完璧に鎮めてくれる。
「ちょっと、あの……っ!」
驚いて手を引こうとする凛の抵抗など意に介さず、鳳龍は強い力で凛の体を車内へ引き寄せた。
否応なしに高級レザーのシートに腰掛けさせられ——次の瞬間、パタンとドアが閉まる。
途端に激しい雨の音が遮断され、車内は静寂と高級なアロマの香りに包まれた。
「偉」
鳳龍が短く声をかけると、黒いスーツを着た運転手が、運転席からバックミラー越しに頷いた。
「拿,鳳龍少爺(どうぞ、鳳龍坊ちゃん)」
運転手が手際よく厚手の高級タオルを差し出すと、鳳龍が凛の濡れた頭をふわりと包み込んだ。
フワフワで、とても心地よい香りがする。
鳳龍が運転手と二言、三言、滑らかな広東語で短い指示を交わすと、静かに車が走り出した。
「あの、あなたも濡れたのでは……? このタオル、お返しします」
「俺の服などどうでもいい。……花石凛」
「えっ……どうして私の名前を……」
「調べた」
あっさりと言われてしまう。
「李家にとっては容易い。それより、その包みは何だ?」
鳳龍の視線が、凛の膝の上に置かれた風呂敷包みに注がれる。
凛は一瞬言葉に詰まり、フイと視線を逸らした。
「その……これは、ただの荷物です」
「ただの荷物?」
「はい、荷物です」
「何の?」
「いわゆる、引っ越し荷物です」
「…………」
変な押し問答に顔が赤くなる。
ほぼ初対面の鳳龍に「実はついさっき実家を追い出されちゃって」などと言うわけにもいかない。
他にどう答えていいかわからず、とにかく淡々と答える凛である。
だが、凛の濡れたまつ毛の奥で、ほんのわずかに瞳の端が赤くなっているのを、鳳龍は見逃さなかった。
「……泣いていたのか」
そっと指先で頬に触れられ、凛はビクッとして顔を上げた。
「何を……っ」
「……花石家か。式神の報せで駆けつけてみれば……」
凛の頬を静かに撫でながらも、鳳龍の声のトーンがすっと低くなる。
車内の空気が一瞬で凍りつくような、圧倒的な圧力が満ちる。
「何があった?」
「……あなたには、関係ないことです」
顔を背けようとするが、狭い車内で密着しているため上手くいかない。
「まさかとは思うが、家から追い出されたのか?」
「…………」
答えない凛の沈黙を肯定と受け取り、鳳龍は大きく溜息を吐いた。
「対の印を持つ者を、無下に追い出すとはな。……この国では話が違っているというのは本当だったのか」
「……え?」
「当面の間、君の身柄は俺が預かる」
「え!? ちょっと、待ってください! なんでそうなるんですか!?」
「安静啲(落ち着け)」
鳳龍は凛の反論を遮り、両頬をキュっと包み込むように冷たい手を添えた。
心地よい冷気が全身を駆け巡り、凛は一瞬で毒気を抜かれて声が出なくなってしまう。
「俺は、ずっと君を探していたんだ」
「……それは、どういう……?」
「これを見て」
そう言うと、鳳龍はそっと己の右腕のシャツを捲り上げた。
「え!? これって……!!」
そこにあったのは、凛の左腕にあるアザと全く同じ形をした刻印。
違うのは、その色だ。
凛のアザが血のように赤いのとは対照的に、鳳龍のそれは深い海の蒼だった。
「……後でゆっくり説明する。だが、これだけは覚えておいてほしい」
鳳龍は凛の頬に添えた手にふっと力を込め、その切れ長の黒曜石の瞳で凛をまっすぐ射抜いた。
「君は、俺にとって唯一無二の存在だ。二度と手放す気はない」
「えっ……、はっ……!?」
あまりにもストレートで強烈な言葉。
理由もわからないまま、その熱い眼差しと至近距離の男気に、凛の心臓が跳ね上がった。
(な、何なのこの人……っ! ほぼ初対面よね……!!? どう考えても距離感がバグっているわよ!)
赤くなる顔を隠すようにタオルを深くかぶり直す凛を横目に、鳳龍は満足そうに口元を緩めた。
「凛にやっと会えて、嬉しい。——さあ、俺の家へ行こう」
「……え!? い、いま何て……っ!?」
いつの間にか、車は都内の一等地に聳え立つ超高級タワーマンション群に近づいていた。
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