第三話:実家からの追放
図書室を飛び出した凛は、結局午後の授業には出ずに早退した。
だが、家路につくと同時に疲労と虚無感が襲いかかってくる。
帰ったらまた、霊符書きに追われることになる。
その思いが自然と足取りを重くするのだった。
(今日も早退しちゃったし、中間試験も絶望的ね……)
周囲に言われている通り、凛の成績は学園最下位だ。
頭の出来が悪い訳ではない。
ただ、勉強する時間が物理的に与えられていないのだ。
まともに登校させてもらえず、離れに籠もって霊符を書き、暇さえあれば継母や彩香にどやされたり食事を抜かれたりする現状では、勉強なんて出来るはずもない。
(……嫌だけど、帰らないと。すぐに霊符を書き始めないと、またお義母様に打たれるわ)
不思議なことに、図書室で李鳳龍に手首を掴まれてからは、暴れそうになっていた体内の熱はピタリと収まっていた。
あの冷たい水脈に触れたような感覚が、まだ肌の奥に残っているかのようだ。
熱の心配がないのは幸いだったが、別の意味で凛の心臓は激しく波打っていた。
(それにしても……なんなのよ、あの人……)
手首を握られ、壁際に追い詰められた感覚を思い出すと、それだけで胸がざわつく。
顔が熱くなるのを誤魔化すように頭を振りながら歩いているうちに、いつの間にか家に着いてしまった。
見慣れた花石家の屋敷は、立派な長屋門を構える伝統的な和風建築だ。
だが、凛には牢獄にしか思えない。
門をくぐろうとした、その時だった。
「凛様。戻られたのですね。……申し訳ありませんが、こちらで暫しお待ちください」
通せんぼをするように使用人が道を塞ぐ。
さらにもう一人は「奥様! 凛様が戻られました!」とバタバタと屋敷内に駆け込んでいく。
やがて、継母の静江がやってきた。
使用人たちは気まずそうに下がっていく。
「——戻ったのね、凛」
金糸で細やかな刺繍が散りばめられた最高級の着物姿。
いかにも名家の奥方然としているが、その目には凛に対する隠しきれない蔑みが宿っている。
そして静江の足元には——雑に縛られた小さな風呂敷包みがひとつ、ぽつんと転がされていた。
「……お義母様? その包みは……?」
「見れば分かるでしょう。あなたの荷物よ」
静江は扇子で口元を覆いながら、くすくすと嫌らしく微笑んだ。
「ちょうど今、覇土山家から聡様とあなたの婚約破棄の連絡を受けたわ。わざわざ大勢の生徒の前で、惨めったらしく聡様に縋りついたそうね。どこまで意地汚い子なのかしら」
「違います。私はそんなこと——」
「言い訳は不要」
凛の言葉を遮ったのは、奥から出てきた実父・花石巌だった。
凛とは普段言葉を交わすことのない父親。
それが今日に限ってわざわざ外にまで出てきている。
だが、その顔は苦々しげで、凛を一瞥することすら不快だと言わんばかりだ。
「覇土山家からは、お前のような不肖の娘とは婚約を解消し、今後は彩香と正式に婚約を結び直すと通達があった。……恥を知れ、凛。我が花石家の面汚しめ」
「お父様……」
「お前が彩香の書いた霊符を横取りしていたのだそうだな!?」
「それは——」
「黙れ!!」
彩香は霊符作りを全て私に押し付けているんです——という言葉は出てこない。
それを言って、せっかく成立した婚約破棄を取り消されたら目も当てられないからだ。
けれど、言われのない濡れ衣を着せられて黙って耐えるのも、さすがに腹の虫が収まらない。
静江は意地の悪い笑みを浮かべながら凛が叱責されるのを眺めている。
「お前のような何の取り柄もない落ちこぼれを置いておくのは、花石家にとって汚点以外の何ものでもない。本日をもって、お前を花石家から追放する」
「…………」
(そう、とうとうこの日が来たのね)
意外と冷静に受け止めている自分に驚く。
心のどこかで、いつかこうなると思っていたのかもしれない。
だが、父の次の言葉に、凛は耳を疑った。
「そして、お前を花石家から除籍する」
「除籍っ……!?」
婚約破棄はいい。
実家追放も、長い目で見ればこれで良いのかもと思える。
だが、除籍となると話は別だ。
陰陽師の家系においての除籍とは、陰陽界における『社会的抹消』と同義だ。
学園も自動的に退学処分となる。
(……信じられない。花石の霊符を作っているのは私なのに)
「ほほ、随分焦っているわね! 彩香の進言通り、あなたを除籍して正解だったのね。そんなに血相を変えて、みっともない」
凛が顔色を変えたのが余程面白かったのだろう。
静江は満足そうに嘲笑を浮かべた。
静江には、霊力の類は一切ない。
後妻として陰陽師の家に嫁いできたものの、彼女の興味は「名家の奥方」という肩書だけである。
(……お義母様は、本当に分かっていないのね。陰陽師の家がどういうものか、除籍が何を意味するのか)
「……本当に、よろしいのですか?」
「何を言っている?」
「私が花石の霊符を書かなくても良いのかと聞いているのです」
「ハッ、馬鹿馬鹿しい! 役立たずのお前の霊符などゴミ屑だ! 天才の彩香さえいればお前など不要だ!」
「……本当に、ご存知ないのですね。……分かりました。仰せのとおり、出ていきます」
「ふん、己の分を弁えたか」
巌はそれ以上何も言わず、屋敷の中へと入っていった。
凛は静江に向き直る。
「出ていくのは結構ですが、離れにある筆と硯だけは持っていかせてください」
亡きお祖母様が残してくれた、赤天尾の筆。
凛に霊符の書き方を教えてくれた大好きな祖母の、唯一の形見だ。
だが、静江は心底楽しそうに目を細めた。
「あら、あの古いガラクタのこと? もう、とっくに処分させましたわ」
「……え?」
「気味の悪い道具に執着して怖いと彩香が言うものだから。庭のゴミ捨て場で、綺麗に燃やして捨ててあげたわ。感謝しなさいな」
「そんな——」
頭の中で、何かがぶちんと切れる音がした。
(……燃やして、捨てた……? お祖母様が残してくれた、あの筆を……っ!)
胸の奥で、冷たい怒りが炎となって燃え上がる。
自分を理不尽に追い出すだけなら許せた。
だが、亡き祖母の思い出まで踏みにじられたことで、この家族に対する情は完全にゼロになった。
(……いいわ。もう、花石家なんてどうなったって知らない)
「さあ、さっさと出ていきなさい!」
叩きつけられた風呂敷包みを拾い上げ、凛はそのまま踵を返した。
屋敷の角を曲がり、完全に静江たちの視界から外れたところで、凛は制服のポケットから一枚の札を取り出した。
息を吹きかけると、紙はすうっと形を変え、小さな一羽の白文鳥へと姿を変える。
祖母に教わった陰陽師の技の一つ——紙式神だ。
「……お願い。庭のゴミ捨て場に行って、お祖母様の筆を探してきて」
「かしこまりました、凛様」
真っ白な鳥は羽ばたくと、黒い影となって敷地内へと滑り込んでいった。
数分後、戻ってきた式神の嘴には、黒焦げになった赤天尾の筆の軸が咥えられていた。
凛はその燃え残りをそっと両手で受け取った。
灰に汚れ、見る影もなくなった祖母の形見。
けれど、その奥にはまだかすかに祖母のぬくもりが残っている気がした。
(……絶対に、許さない。それに、私は絶対に諦めないんだから。きっと、自分の力で、私自身の居場所を見つけてみせる……!)
黒焦げの軸を愛おしそうに抱きしめ、凛は固い決意とともに、その場を歩み去った。
——その一部始終を、屋敷の塀の上から見つめる影があった。
うっすらと蒼白い光を羽の縁に纏った、一羽の黒烏。
凛の背中をしばらく見送ると、カラスは一声も鳴かずに翼を広げ、雨雲の垂れ込める空へと音もなく消えていった。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ぜひブクマしていただけると嬉しいです。
ページ下部の【★★★★★】でのご評価も執筆の励みになります ᕦ( ᐛ )ᕤ!!
どうぞよろしくお願いいたします。




