第二話:李鳳龍と冷たい手
「はぁ、っ……く……っ」
喧騒を離れ、凛は旧校舎にある第一図書室へと滑り込んだ。
ここは滅多に人が立ち入らない。
豊潤な資金を投入し完成した新校舎には、最新AV機器を完備した第二図書室があるからだ。
第一図書室にあるのは古い本——というより古文書が多く、読める者自体が少ないというのもある。
昼休みの第一図書室は静まり返っており、人の気配はない。
左腕のアザが暴走して熱を持ってしまうのは、これが初めてではなかった。
人気のないこの場所は、凛にとって唯一、この厄介な体質を誤魔化せる秘密の避難場所なのだ。
凛は一番奥の書架の陰へと身を寄せると、壁に背を預けてそのままズルズルと崩れ落ちた。
(熱い……! 体が、内側から焦げちゃいそう……!)
制服の袖を捲り上げると、左腕のアザが赤く発光し、ドクンドクンと激しく脈打っていた。
肌に触れる空気が歪むほどの高熱。
体内で生み出され続ける過剰な霊力が逃げ場を失い、爆発寸前になっているのだ。
(……昨日、あれだけ霊符に放出したのに……油断したわ。体内の熱を出し切れていなかったんだ……!)
ポケットから予備の霊符を取り出し、必死に精神を集中させる。
荒い息を整え、自身の霊力を少しずつ札へと逃がそうと試みる。
(あっ……駄目っ……!)
けれど、溢れ出る熱は止まらない。
霊符は霊力を吸い上げる前に、一瞬で黒く焦げて炭化してしまった。
視界が真っ赤にぼやけ、意識が遠のきかけた——その時だった。
「——おい。大丈夫か」
頭上から降ってきたのは、低く、どこか冷たさを帯びた声。
直後、凛の手首がガシッと強い力で掴まれた。
「ひっ……!?」
思わず息をのんだ凛だったが、次の瞬間に訪れた感覚に、大きく目を見開いた。
——冷たい……!
見知らぬ誰かの手が凛の肌に触れた途端、清涼な真水の中に飛び込んだかのような『冷気』が一気に流れ込んできたのだ。
凛の体内を吹き荒れていた凶暴な灼熱が、急速に鎮まっていく。
「は……あ……っ」
すうっと意識が鮮明になり、荒かった息が整っていく。
マグマの中に澄み切った巨大な氷塊が投げ込まれたような——溶けてしまうほどの心地よさに、凛は思わず「ふはぁ……」と安堵の吐息を漏らしてしまった。
(なに、これ……!? 熱が……引いていく……!?)
呆然としながら、ゆっくりと顔を上げる。
目の前にいたのは、凛の手首を掴んだまま、冷たい眼光でこちらを見下ろす一人の男子生徒だった。
肩までかかる艶やかな黒髪に、吸い込まれそうな深い黒曜石の瞳。
端正すぎる立ち姿と、誰も寄せ付けない気品。
(この人……!)
この私立覇羅野学園に、異例の扱いで転校してきた留学生——李鳳龍。 先月、凛と同じ二年に編入したばかりのはずだ。
海外の陰陽界を束ねる名門『李家』の御曹司であり、若くして特級術者の資格を持つ怪物。
学園では「氷の貴公子」と恐れられ、遠巻きにされている存在だ。
(どうして、こんな雲の上の人がここに……!?)
鳳龍は無言のままだ。
凛の手首を掴む力を緩める気配もない。
さらにその視線は、凛の捲り上がった制服の袖から覗く、赤く脈打つアザへと注がれている。
(あっ——しまった!)
「……お前、その腕の印は」
鳳龍の声音が、かすかに揺れた。
氷のように冷ややかだった瞳の奥に、恐ろしいほどの熱量が走るのを凛は見逃さなかった。
(アザを見られた……! や、やばいわ、誤魔化さないと……!)
凛に凶印があることを知っているのは、花石家のごく一部だけだ。
世間に知られたら面倒なことになるし、何よりこれ以上学園で爪弾きにされたくはない。
「あ、あの! これは何でもなくて……って言うか、手を離していただけますか!?」
焦って手を振りほどこうとするが、鳳龍の腕は石のようにびくともしない。
それどころか、鳳龍は手首を掴んだまま一歩踏み込み、凛を逃がさないように書架と己の身体で完全に壁を作った。
「……やっと見つけた」
耳元で落とされた低い囁きに、凛の背筋がびくっと跳ね上がる。
「え……?」
「ずっと、探していた。……俺の対となる存在を」
(……え??? 何??? どういうこと?? 私、探されるような覚えなんてこれっぽっちもないのだけれど……!?)
体内の熱は綺麗さっぱりどこかへ去ったものの、頭の上に大量のハテナを浮かべて固まる凛。
対照的に、鳳龍の黒曜石の瞳には確かな執着が宿っている。
「あ、あの……っ」
「お前の名は」
「えっ」
(……なんなの!? これって新手のナンパなの!? それとも新手の不審者!?)
「あのっ! もう、離してくださいっ!!」
自分でもびっくりするくらいの大声が出た。
はっと目を見開いた鳳龍も、わずかに息を呑んで凛を見つめ返し、「……すまない」と呟いてゆっくり手を離した。
「あ、あの、私……! 失礼します!!」
慌てて距離を取るが、ふと気がついてぺこりとお辞儀をした。
よく分からないけれど、この人が助けてくれたような気がする。
去り際に鳳龍の冷気がふっと体から離れ、じんわりとした体温が戻ってきた。
(……? また熱が……? ううん、これは違う……!)
苦しかった灼熱はどこかへ消えていた。
代わりに、なぜか頬だけがやけにポカポカと熱い。
(早くこの場を離れなきゃ……! こんな凄い人と関わったら絶対にろくなことにならないわ)
危機感を察知した凛は、後ろを一度も振り返ることなく、脱兎のごとく図書室を飛び出したのだった。
——彼女が去ったあとの図書室で。
「……見つけた、やっと」
鳳龍は、残された自分の手のひらをじっと見つめていた。
これほどまでに、心が波打ったのはいつ以来だろう。
——逃がすつもりは、ない。
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