第一話:理不尽な婚約解消
「花石凛! 今日限りでお前との婚約を破棄させてもらう!」
大勢の生徒が行き交う昼休みの渡り廊下に、朗々とした声が響き渡った。
声の主は、名門・覇土山家の跡取りであり、凛の婚約者——だったはずの覇土山聡。
凛より一つ年上の三年生だ。
「聡様……」
お久しぶりです、と言いかけて、そんな場合ではないと口をつぐむ。
霊符作りに追われて、登校したのが一週間ぶりの凛である。
私立・覇羅野学園は、陰陽師養成コースを擁する国内唯一の学校だ。
通っている生徒は陰陽師の家系の者ばかり。
自然と旧家の名門や華族の子女が多くなる。
花石家も陰陽師の中では高名なほうだが、覇土山家は名門中の名門で、学園の理事も代々務めている家柄だ。
聡は腕を組み、いかにも「正義の鉄槌を下してやった」と言いたげな慇懃な態度で凛を見下ろしている。
そしてその隣には——彩香がいた。
学園の制服に身を包んだ彩香は、柔らかそうな薄茶色の髪をなびかせ、大きな瞳を潤ませている。
一年生の茶色のリボンがその胸に揺れる。
改めて外で見ると、どこへ行っても人目をひく正統派の美少女である。
「聡様っ……! そんなっ、このような場所で大声を出されたりしたら、皆さまに聞かれてしまいますわ! お姉様が可哀想っ……!!」
「優しいな、彩香。だが、お前が気遣う必要はない! お前のように強力な炎の術を操る天才と違って、この女は我が学園きっての落ちこぼれ。我が覇土山家と婚姻を結ぶに相応しくない!」
彩香は「そんな……」と苦しげに胸に手を当てた。
その様子はいかにも儚げだ。
聡は良い所を見せようと、ますます尊大な表情を作った。
「ですが……これではあまりにも……」
「何を言うんだ! お前は、あの女に嫌がらせを受けているんだろう!?」
「それはっ……! でも私、お姉様にどんなに意地悪をされても、我慢できますわ! 先週も私が丹精込めて作った大切な霊符を破かれてしまいましたけれど。聡様に差し上げようと思っていたのですが……申し訳ありません……っ」
「なに……!? 彩香、お前そんなことまで耐えていたのか! どこまで健気なんだ……! おい、凛! 座学も、実技も、最下位の分際で! 隠れて彩香を虐めるとは、恥ずかしくないのか!?」
(何、この茶番……? 頭が痛くなってきたわ。彩香は修行が大嫌いな癖に。霊符なんて一枚も書いてないでしょう)
凛は溜息を押し殺しながら、はっきりと答えた。
「いいえ。そんなことは、しておりません」
正しくは、そんなことをしている暇はありません、である。
強力な霊力が込められた花石家の特級霊符は陰陽師界では非常に有名で、その制作を一手に引き受けて——いや、正確には「押し付けられて」いるのが凛なのだから。
(——霊符を破いた? 私がそんな勿体ないことするわけないじゃないの。和紙だって朱墨だって、タダじゃないのよ)
だが、凛はそれ以上何も言わなかった。
真実を訴えたところで、どうせ誰にも信じてもらえないと分かっている。
花石家の真の霊符師が凛だと知っているのは、彩香と継母の静江だけだ。
父は当主の仕事こそしているが、霊符師としては現役を退いて久しい。
今は制作にはまったく関わっていないばかりか、彩香こそが天才霊符師だと信じ切っている。
それもそのはず、彩香は学園一の美少女かつ才女。
成績は常に上位なのに決してひけらかさない、心優しい少女……と、いうことになっている。表向きは。
けれど、その口元に毒のような笑みが閃くのを、凛は見逃さなかった。
いつだって、凛にしか見えない角度で煽ってくるのだ。
「とにかく! お前とは今この場を持って縁を切る! いいな!」
聡の声に、渡り廊下に哀れみと好奇の視線が錯綜する。
凛に向けられる視線はどれも冷たかったけれど……俯く凛の胸の中は、全く別の感情で埋め尽くされていた。
(……え? 婚約破棄って、本当にいいの……????)
大歓喜である。
思わずその場で小踊りしそうになるのを、実のところ凛は必死で耐えていた。
聡は高校入学と同時に父が勝手に決めた婚約者だが、凛はこの男が心底大嫌いだった。
プライドが高くて横暴、しかも女好きであちこちの女生徒に手を出しているという噂が絶えない。
覇土山家は政界とも繋がりがある名門。
花石の当主である父・厳は、政略結婚によって覇土山家との縁を深め、家業を政界へまで推し進め、さらなる飛躍を遂げることを望んでいた。
対して覇土山家側の狙いは、花石家が誇る特級霊符の巨額な利権である。
そのため、凛と覇土山家の長男・聡との婚姻話が進められてきたのだ。
花石家を継ぐのは彩香であり、彼女は別に婿養子を取る予定になっている。
だからこそ、本来なら凛と聡を婚約させておくはずだったのだが……。
それなのに、聡は天才と名高い彩香へ乗り換えたがったということか。
(この流れだと、彩香が代わりに聡様と婚約して、花石家の継承問題も滅茶苦茶になりそうね……。でも好都合だわ。向こうから婚約破棄を言い渡してくれたんだから、このチャンスを逃す手はない)
目まぐるしくそこまで考えた凛である。
口元が緩みそうになるのを誤魔化すため、ぐっと下唇を噛み、悲しみに耐えるフリをした。
「……聡様。本気なのですか? その、覇土山家と花石家との婚姻は、親同士の取り決めでは……」
「フッ、それなら何の問題もない。お前のような愚図に代わり、彩香がこの俺の婚約者になるのだからな!! 父上もこの件には大賛成されている! 自分の至らなさをせいぜい噛み締めるんだな」
聡は鼻で笑うと、彩香の頭を優しく撫でた。
よく見ると彩香の指先には、覇土山家の家紋が刻まれた仰々しい指輪が光っている。
傍目に見ても、趣味が悪い。
周囲の生徒たちからは、パラパラと小さな囁き声が漏れ始めた。
「うわぁ……花石さんのところ、妹に婚約者取られたってマジ?」
「でも姉の方って、実技試験いつも0点の人でしょ……? 聡様が愛想尽かすのも分かるかも」
(嬉しすぎるわ。……それにしても、わざわざ渡り廊下で大騒ぎして、私を惨めな悪役に仕立て上げたかったわけね。まあいいわ、どうでも)
「……分かりました。聡様のお考え、謹んでお受けいたします」
深々と頭を下げる。
聡は「フン、己の分を弁えたか!」と満足そうに鼻を鳴らした。
凛も心の中で大きくガッツポーズを取った。
「ではな。これからは一切俺と彩香に関わるな」
聡は彩香の腰に手を回すと、堂々と歩き去っていく。
すれ違いざま、彩香は凛だけに聞こえるような小さな声で、甘く囁いた。
「——お姉様。ご自分の『凶印』をせいぜい恨むことですわね」
「…………」
周囲の哀れみと蔑みの視線を受けながら、凛は小さく息を吐き出した。
聡との婚約がなくなったこと自体は、心底万々歳だ。
だけど、ふと不安が胸をよぎる。
(——聡様との婚約破棄だけでは、済まないはずだわ。お義母様と彩香が、これで大人しく私を放っておいてくれるとは思えない)
薄々そう分かっていながらも、この解放感を手放したくはなかった。
ため息をついた瞬間——。
(……あっ、まずいわ……)
左腕が、急激に熱を帯び始めたのだ。
皮膚の裏側で蠢く熱を感じながら、凛は喧騒を離れて、静かな場所へと急いで足を向けた。
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